薄明の女神
【薄明の女神】。カサンドラの呼び名だ。
明るいオスティンの瞳とは正反対の、蒼く翳った双眸。めったに日光にさらされない肌は透き通るように白く、ほっそりと儚げな様子はとても美しい。
そんな浮世離れした容姿を、誰かが「夜明けの空みたいだ」と言い始めたせいで、こんな呼び名がついたのだ。
その後ろに『女神』がつけられたのは、彼女が未来を読み取る力を持っているから。
人間がまだ生まれる以前の太古の時代、世界の国という国を支配していたのは複数の神だったそうだ。神々が持つ特別な力は『予言』という形で人間に受け継がれていき、時代が移ろうにしたがってその効果を薄めていった。――――未来を予知できる人間がいなくなっていったのだ。
だからこそ、その能力を持って生まれた人間は、神を崇拝するのと等しい扱いを受ける。カサンドラは、そうしたごくまれな人間の1人なのだ。
神々の力を持つ人間は、虹彩に蒼の色を宿すという。鮮やかであればあるほど、力は強いのだとされる。暗く、別の色も混じっているカサンドラの瞳は、なんでもかんでも未来を読み取ることができない。
とはいえ、検問所にかかわる大きな事件は必ずと言っていいほど予知する。今回の件がいい例だ。
チャロたちのほのぼのしたやり取りを、異様に研ぎ澄まされたオスティンの聴覚はひそかに盗み聞いていた。見ているものこそ通行証だが、顔つきは彼らの会話に向けた渋い色になっている。
オスティンとて、昨晩の手柄が自分のものでないことは分かり切っている。ただ、そう言い直せるほどの暇がなかっただけだ。
「やあフローレ長官! 今日もいい男で」
働く人数が減ったことで軽く苛立っていたオスティンは、絡んできた顔馴染みの商人を殴り飛ばしたくなった。ウォーデンが必死に止め、未遂で済んだが。
「貴様ケンカを売りにきたのか」
「!? 羊毛を売りにきただけなのに何その態度!?」
「あーわりぃ。今のちょーかんは虫の居所が悪いんで。俺が代わりに失礼するよ」
言い終わらないうちにウォーデンは小太りの商人が運んできた羊毛を点検する。劣悪品がないか、検問所で品定めをしておかなければならないのだ。
トゥルネイが掲げるうたい文句は『品質の保障』。中古屋でもない限り、悪い品質の商品が出回ってしまうと、商業都市としての名が廃る。もし劣悪品を見つけたら有無を言わせず没収し、罰金を払わせるのだ。
この羊毛商はウォーデンに目もくれず、好き放題させている。自分の売り物に自信があるらしい。通行証と身分証を提示してオスティンと世間話を始めた。
「昨日さ、面白い商売人を見かけたんだ。2人組なんだけどな、普通なら荷車で運ぶサイズの箱を重そうに担いでんだよ。荷車を買う金がなかったにしては、身なりがかなり上等だからおかしく思ってよ。なんか、怪しくね?」
「豪商の息子か何かだろう。そういう連中は自立したがるくせに、商売の知識がないもんだ」
「そうかもしれねえけどよ。でもあんなおっきいの、金持ちの息子が自分で運びたがると思うか? 使用人もいねぇんだぞ。ちょっと気になったんだよなー。だからさ、フローレ長官。もしそいつらが来たら、どんな商売をしてるかあとで俺に教えろ」
「自分で聞けばいい話だろうが」
オスティンは溜まりつつある訪問客を見やり、次いで勝手に休んだ部下たちを恨めしげに睨む。
トゥルネイ検問所の建物は3階建てで、1階部分は真ん中に壁を隔てて半分に分かれている。そのうち外の道に面する空間には鎧戸が取りつけられていた。鎧戸を外側へ押し開くようにして上げることで日除けにもなるし、人が見えた場合もすぐ応対に出られるのだ。
役人たちが『控えの間』と呼ぶこの開放された部屋には、奥の壁に沿って長椅子が備えつけられているので、いつでもそこで休める。現にテオとチャロは、長椅子に座って談笑していた。
いつの間にかカサンドラがいない。多分厨房に行ったのだろう。厨房は『控えの間』と壁を挟んだ奥、つまりもう半分の空間にある。厨房には階段があり、通行人の目に触れることなく2階の食堂へ上がることができる。
「長官!」
オスティンの頭上高くから、突如響いた声。ノエルのものだ。張りのある声だから、騒がしい中でもよく通る。
用が済んだ羊毛商を追い払い、オスティンも声を張り上げた。
「ノエル! 起きるのが遅いぞ。さっさと降りて手伝え!」
役人たちが寝起きする3階の窓から、黒髪の痩身が身を乗り出していた。長官の怒号にぴしゃりと窓を閉め、どたどたと階段を駆け降りる騒音が続く。
ノエルは寝坊の常習犯だ。彼が役人となってそろそろ3年経つ今でも、その悪癖は抜けない。これまで何度、オスティンが改善策を打ってきたか。そのことごとくを、ノエルの恐るべき睡眠欲は撥ね除けてきた。
今度こそ叩き起こしてやる………と八つ当たりに近い計画を練っていると、『控えの間』から人影が飛び出した。オスティンよりわずかに低い青年が頭を下げる。
「やっと来た」
「すみません」
どこから眺めても飽きの来ない、すっと通った顔立ち。さらさらと潤んだ艶をなびかせる長い髪は漆黒で、日焼けのない肌をよりいっそう鮮明に際立たせている。
18歳と成人の儀をとっくにすませた年の割には線も細く、体格にぴったり沿った今のような黒い服を着ると、それが明らかに浮き彫りになる。
けれど長く伸びた手足の骨格はがっしりしているのは、この生業の賜物だ。現に彼は検問所の用心棒として、ウォーデンとともに行き交う訪問客を見張っている。
そんな彼とオスティンが並ぶと、見目良い兄弟にも見える。たちまち女たちが彼らに集中し出した。周りを通行証で包囲される。
女に群がられて仕事どころじゃなくなった2人は、お互い悪態をついた。
「やっぱりお前、いらなかった」
「奇遇ですね。オレも外に出ないで寝グセ直しておきたかったです」