はしくれの花
今までの人生で片思いばかりだった40歳の女波子に訪れた出会いと仲良しだった友達との関係なども物語です。
それは小指の先ほどの大きさの小さな小さな花。
黄色い花びらが幾重にも重なり 一見するとバラにも似ている。
真ん中と細くひょろんと伸びている茎は緑色。
「薄い」とか「濃い」とか余計なものが一切つかない 本当の緑。
仕事帰りの家までの通りにあるアパートと歩道の間の 狭い土の辺りからいつも生えている。
雑草にしてはあまりにも繊細で かといって誰かがわざわざ植えたのかというと 決してそんな風ではない場所に生えているその名も知らない小さな花を 時折2~3本摘んで家に持ち帰るのが相田波子の習慣になっていた。
摘んだ黄色い花にちょっぴりウキウキしながら 波子は川の土手の上をゆっくり歩いた。
誰もいない真っ暗な部屋にすんなり帰りたくない気持ちがそうさせた。
オレンジと紫が混ざる空の中 土手の階段に腰掛け向こう岸の街の明かりを眺めた。
夜と共に風がひんやりと冷たくなるも 川沿いの遊歩道では走る人が数名と傍のサッカー場では学生がそろそろ練習を終えていた。
土手の上の遊歩道では 犬を散歩させる人が行き交い そのうちの数匹はしつけがなっていないのか 階段に座る波子に激しく吠え立てては飼い主に「これっ!」と叱られる場面が幾度かあった。
楽しそうに笑いながらも初々しさが滲み出ている中学生や高校生のカップルが何組か 河川敷をゆっくり並んで歩いたり 手をつないだりきゃっきゃしているのが目に入ってきた。
「…あ~あ…あたしなにやってんだろ…」
そう思いつつも波子は今の自分がさほど嫌いでもなかった。
40になっても 未だに独身。
それどころか男性と付き合ったことすらない自分が 世間的にはなんだかとてつもなく哀しくて惨めな存在のような気がしてならなかった。
かといって「死にたい」だのの後ろ向きな考えは微塵もなく ただ漠然と「いい相手がいるんなら…そりゃあ結婚したいかなぁ…一回ぐらいは…」と薄っすら思っている程度。
男性に興味がないわけでは決してないのだが 無理してパートナーを見つけたいという気力というのか それほどガツガツした欲求を持ち合わせてはいなかった。
それがどうにもいけないような風潮が自分の周りにそこはかとなくあるようで 独身の女=不幸の代名詞のような位置づけをされているのを 職場でも学生時代からのすでに結婚している友人達 それに親や兄弟にもじわじわと圧力のようなものを感じているのだった。
そんな波子も短大を卒業するあたりには 合コンのお誘いが頻繁にあった。
どうしても都合の悪い時を除いては なるべく参加するように心がけていた。
そして そういう集まりがとても楽しくもあった。
初めて出会う同じ年代の男性陣と仲の良い女性陣での食事や会話が本当に面白く 勤め始めた仕事のストレスもそんなのでかなり解消されていた。
ただ、その場が終わるとそのまま解散。
その場で知り合った男性と折角電話番号を交換してもそれっきり。
さほど「いいな。また会いたいな。」と思う男性にも巡り会わず だからこちらから連絡することもなかった。
今にして思うと そんな自分が選り好みが激しかったんじゃないか?
自分が追い求めている完璧な男性じゃないからといって 妥協しない嫌な女だったのではないだろうか?
男性を上から目線で選別して ちょっとしたつまらないちょっとしたことで「好き」にならずにいたんじゃなかろうか?
何様のつもりでいたんだろうか?と 出会った相手の良いところを少しも探そうともせず どちらかというとわずかな粗を探す作業ばかりに集中していた嫌な女の自分を今更悔やんだりもした。
そんな自分だってブスではないにしろ 美人という訳でもなく どこにでもいるようなごくごく普通で華があるタイプとは真逆の十人並みの容姿のくせに。
性格だって 自慢するほど明るくもないし かといって卑屈すぎたり 嫉妬深いわけでもなく やっぱりそれもごく普通。
取り柄と呼べるようなものもなく もっている資格もそろばん3級 英検3級 習字3級 水泳3級 スキー3級などなど…どれも「3級」の中途半端。
それが波子の全てを現している気もしていた。
そんな波子の初恋は小学生3年生の頃。
転校してきたばかりの波子は特に目立つ訳でも全くなかったのだが 何故かクラスの権力を持っていて 担任のお気に入りの強気な女子数名に早速いじめられていた。
「いじめ」と言っても 波子の机の周りを囲んであれこれ因縁めいた悪口を休み時間の間中言われ続けるといったもので 直接暴力を受けたり 持ち物を隠されたりなどの類ではなかった。
自習時間に一言も話していないのに 濡れ衣を着せられて 悪くないのに担任の年配男性教師に頭ごなしに酷く怒鳴られた時には さすがの波子もつい泣いてしまった。
新しい学校に来たばかりで まだ土地にもクラスにも馴染んでもいないたった9歳の波子にとって それは苦痛以外の何ものでもなかった。
それでも同じ「いじめられっこ仲間」の女の子が数名 波子とすぐに友達になってくれた。
それがその時の救いのひとつだった。
もう一つは席替えで何度も隣になる男子 吉原くんの存在だった。
彼は波子が強い女子軍団からいじめを受けているのを知ってはいるものの その最中は間に入って「やめろよ!」だの一度も言ってくれることはなかった。
ただ哀しそうな目で波子をじっと見つめているだけだった。
けれども授業中 波子に小声で「大丈夫?」と優しい言葉をかけてくれ さらには班活動や給食の時間なども一緒に面白い話をしたり 何かと親切にしてくれていた。
波子はそんな彼に惹かれていたと思う。
他の男子やいじめっこの女子達に「いちゃいちゃしてやらしい」だの 意地悪なからかわれかたをされてからお互い急に妙に意識をしてしまって そんな風に彼との間がおかしな塩梅でギクシャクしだしてほどなく2年間が過ぎ 5年生になりクラス替えで別々のクラスになってしまい それから廊下でたまにすれ違ったり 朝礼や学年行事で見かけても以前みたいな関係には戻ることなく クラスも違うので話なんかする機会もなくなってそのまま。
それが波子の記憶している恋というか 好きになった人第一号だと思うのだ。
5年生になると 波子は新しい友達がさらに増え もういじめられっこではなくなっていた。
波子をいじめていた女子達とも違うクラスになったので 平和で穏やかな日々が始まっていた。
そんな中 ふとしたことでたまたま知った一学年上 6年生の学校運営のサッカー少年団の男子の先輩のことが好きと言うのか 憧れの存在となっていた。
その上級生は色んな学年の女子に人気で 中学生にまでファンらしき女の子がいたほど。
当時大人気の男性アイドルに似ているというのも 人気の理由の一つだった。
波子は当然ながら そのアイドルが好きだった。
他の友達もみんな その男性アイドルを好きじゃないと嘘。好きじゃない女の子なんてこの世に存在するの?くらいの勢いの時代。
放課後に友達と廊下に面している3階の窓から グラウンドでサッカー少年団が練習するのをきゃあきゃあ言いながら眺めるのが楽しかった。
一度も話したこともなければ 「好きです」なんて告白するつもりもないけれど ただ「ファン」としての目線だけでボールを追う先輩を見るのが楽しかった。
それだけで十分幸せだった。
それから波子は色んな男性をちょろく好きになった。
時にはテレビや映画で活躍している俳優さんとアイドル そして同じクラスの卓球部のメガネで頭の良い男子と漫画に出てくるかっこいい宇宙戦士を同時に好きになった時期もあった。
だが そのどれも波子の一方的な片思い。
自分から告白なりのアプローチをすることも全くせず、2月になるときゃいきゃい騒ぐ友達とついついノリで綺麗なチョコレートを悩みに悩んで購入するも 結局その時手に届く場所にいる片思いの相手にすら渡すこともなく 自分の部屋で夜中にこっそり泣きながらかじるか 「おとうさんに」だの「お兄ちゃんに」だのあげて終わり。
それが波子の5年生から中学3年生までの毎年だった。
波子は心の中で「どうせ駄目だし…」と 行動を起こす前から一人先を勝手に読んで諦めていた。
それほど自分に自信がなかったのと 断られて傷つくのがとても怖かった。
友達みたいに「当たって砕けろ!」の精神は どうにも持ち合わせていなかった。
こっぴどく断られて泣きじゃくる自分を想像したくなかった。
自分が案外大好きで可愛くて…
そんな自分がどれほど臆病で情けなくても みんなのような大胆な行動に出る勇気はいつまで経っても沸いてこなかった。
ただ妄想や夢の中で その時好きな人との楽しいことを考えたり 時にはイラスト入りの日記を書くことで満足していた。
毎月定期購入していた少女漫画雑誌の中の他愛のない可愛い恋愛に激しく憧れたりもしたが それらはあくまでも2次元の作られた世界の出来事であって 実際の自分には絶対にそんなシチュエーションなど訪れるはずはないと 妙に現実的で冷静な面も持ち合わせていた。
それでも紙の中の綺麗な恋愛に 当然のごとく憧れた。
中学卒業まではそれで十分だった。
公立の共学校に落ち 高校と短大は女子ばかりのところに行った。
波子にとってそこは意外にも天国のような場所だった。
本当は素敵な男子がいたらどんなにいいのに。とも思ったのだが お年頃の波子はもういじめられる心配の全くない 自由に下品な会話もできちゃう女子高が自分に合っているとも思った。
先生達はみな「おじさん」や「おじいさん」ばかりだったので 波子の話す男性はその先生達とお父さんとお兄ちゃんくらい。
お盆やお正月などの帰省時に親戚のおじさんや従兄弟と当たり障りのないちょっとした話をする程度。
後は男性と 特に同年代の若い男子と話す機会なぞ ほとんどなかった。
ゆえに通学のバスで出くわす中学の同級生だった男子などに無防備の状態で突然声をかけられてしまうと 心臓が破裂しそうなほど驚き 異常なまでの汗と共に体の震えが止まらず 口から思うような言葉が出ないこともしばしばだった。
仲のいい友達にそのことを相談すると 意外にも彼女も自分と同じことがあるらしく 「…それってさぁ…男性恐怖症…じゃないかなぁ…」なんて真剣に答えられてしまったこともあった。
クラスの「いけてる」同級生は女の園に在籍していても どこで出会うのかちゃんと「彼氏」を作っていて 放課後の授業が終わる頃 学校の周りの道路に数台の「お迎え」のスポーツカーなんかが停まって それを教室の窓から眺めながら同じタイプの友達達と「いいねぇ…ああいうのってさぁ…」なんて羨ましがったりしていた。
そんな時代でも波子はちゃんと「片思い」していた。
友人から「買って!」とせがまれ時折買っていたライブのチケット。
高校生なりに精一杯おしゃれして友達2人と行ったそのライブで 当時すこぶるブレイクしていたバンドのコピーバンドでボーカルを務めていた「トウヤ君」に一目ぼれ。
同じ街の男子校に通う彼に 波子はキューピットにハートの矢を打ち抜かれた。
それから波子はほぼ毎週のように 彼の出演するライブに足を運んだ。
だが ただ彼の歌う姿を見るだけで胸がいっぱいで ステージに駆け寄りプレゼントや花束を渡したり ましてやライブチケットを売ってもらっていた彼と同じ中学だった友達に紹介してもらおうなど 考えもしなかったので当然そんな大胆な行動をしようとも思わなかったし できるはずもなかった。
そんな高校2年生の一年間 波子は「トウヤ君」に小さくて可愛らしい彼女がいることを知らされるまでは 彼に全力投球だった。
彼女がいると知ったショックで その日はご飯が喉を通らず 夜も眠ることができなかった。
でも波子はすぐに立ち直った。
今度はテレビで見るソップ型のハンサムな力士に惚れた。
けれども 今度の相手は空の上の人。
北海道に住んでいる波子にとって 好きになった人がいる東京まではとてもじゃないけど ひょいひょい見に行けるはずもなかった。
それでも一度だけ 夏休みに巡業で来ていたのを2つ上の兄に連れて行ってもらって 生の彼に会えた。
というよりも 遠目でやっとこ見つめた程度だった。
その日を最後に波子の力士の彼への思いは 燃焼しきってすっかり消えうせた。
その後 無事に高校を卒業し短大で洋裁を習った。
その間もちょいちょいコンビニの店員さんだの 宅配業者の人だの その一瞬だけでも「この人かっこいい~~~!!」なんてときめいたりしていた。
短大の卒業2ヶ月前は 丁度波子の成人式だった。
早速 随分前から母が予約してくれていた美容院ですっかり綺麗にピンク色の着物を着せてもらって 友達とニコニコわいわい出かけた会場で懐かしいかつての同級生達に多数出くわした。
「…久しぶりィ~~!!元気だったぁ?…」
「…な~つかしィ~~!…」など 当時はまだ誰も携帯電話など持っておらず 自宅の固定電話が主流だったこともあり 一緒に住んでいるそれぞれの家族に気兼ねして なかなか手軽に連絡を取り合うことが難しい時代だった。
一人暮らしをとっくに始めた友人にも 間が悪かったり 不在かもしれないなどの理由で やっぱりなかなか連絡が取れずにいた。
なので 学校が同じで頻繁に会える友人達を除いては 卒業後に疎遠になってしまった人も多かった。
ようやく行き会えた喜びと上がりまくるテンションから何となくお決まりの同窓会に発展した時 同じ部活だったある友人から聞かされた「…あのさぁ…田所っていたでしょ?覚えてるゥ?…あいつね…中学の時 ずっと波子のこと好きだったんだってぇ…知ってたぁ?…」には正直 驚きすぎて飲みかけていたレモンチューハイと噴き出しそうになったほどだ。
「…えっ!…田所くんって…あの田所くん?」
波子達の同級生の田所はじめは バスケット部のキャプテンで背が高く 頭も顔も良く女子からよくきゃあきゃあ騒がれていた。
ラブレターが毎日のように下駄箱に入っていたり バレンタインデーなどは彼に手作りチョコレートを渡す女子がいっぱいで 中学の3年間 毎年下校時に両手にデッカイ袋をさげているのを多々目撃していたことがある。
当時 当然ながら「学校にお菓子を持ってきてはいけません。」だったのだが 先生達は思春期の学生達の盛大なイベントに横槍を入れるほど野暮ではなく むしろ寛大に生徒達を見守ってくれていた。
だから 生徒達も生徒達で校則違反といいう罪悪感があったので 先生に見つかっちゃってはいるけれど もらっている本人達は見つからないように工夫して「校内では絶対に食べない!」と誓うことで 彼らなりの誠意というのか男らしさとしていた。
そんな素敵でモテる男子に 自分が好かれていた事実を今更聞かされた波子は 「なしてぇ~~~!!…そん時言ってよぉ~~~~!!」と激しくがっかりした思い出。
あれ以来 そんな嬉しい話もないまま 20代前半に頻繁に誘われていた合コンの数も 後半に入るとだんだんと少なくなり 30代に突入するとたまにしか誘われることもなくなり やっと誘われて参加してみるも男性陣も女性陣も「バツイチ」の人が混ざっていたり。
その頃 実家からもお見合いの話がちらほら。
波子は それまでして結婚をしなくちゃ駄目なのか?と イラつきながらも全く気の進まないお見合い話が来る度にそう思っていた。
仕事も中堅にかかり それなりの責任も伴ってきた。
そうして何より 仕事が楽しい訳ではないにしろ やりがいみたいなもの感じ始めていた。
それと同時に「もうあたし一生結婚しなくてもいいかも?今更 他人に合わせた生活なんてしたくもないし できもしない気がする。それでもいいか…子供もたいして好きじゃないし欲しくないし…」なんて考えが 脳内の大半を占め始めていた。
男性と一度も付き合ったことがなくたって…これからそういうことが起こらなくたって 全然平気。
自分は人が思っているような 淋しくて哀しい女じゃないのに…
波子は強がりでもなんでもなく ただ純粋にそう思っていた。
それなのに世間はどうしてこうも 自分を不幸の塊のように見るのだろうか?
それが疑問でもあった。
そして「そんなに…あたしって不幸そう?…一人暮らしも満喫してるんだけどなぁ…なんで?」とも思っていた。
若い頃のような顔が真っ赤になるほどの片思いは 最近していない。
テレビで見る俳優さんやアイドルとの甘い妄想の世界に浸ったりなど すっかりなくなってしまった。
そんな自分を客観視できるようになると 途端に呆れるほど恥ずかしい行為のように思えて 今度はそういうチャラチャラした感じを冷めた目で見る自分がそこにいた。
そして何となく無意識なのだろうけれど 恋愛系のドラマや映画などを若い頃よりも遥かによく観るようになっていた。
やっぱりたまに寄るコンビ二の若い男性や会社の近くでほぼ毎朝見かけるメガネでスーツのサラリーマンに 「…あっ…あの人素敵!」ぐらいはときめくのだった。
同期入社の山崎ゆかりのように「婚活」に命をかけほどの情熱は持ち合わせていなかった。
だが ゆかりは婚活イベントやお見合いパーティーなどに 波子をよく誘った。
「…ほらっ…波子もさぁ…頑張って彼氏作ろう!結婚しよう!…ねっ!…お互いさ…もういい歳なんだしさ…世間的にはとっくにおばさんなんだよ!あたし達ってさぁ…それって哀しくない?まだ男と付き合ったことすらないのにさぁ…」
ゆかりの言い分もよく理解できるけれど 波子は5度に一度程度付き合うその手の催しに積極的にはなれなかった。
そして何より ゆかりのようにガンガン婚活を進める傍ら 人気の不細工お笑い芸人が理想の旦那様なんて平気で言っておきながらも 未だに韓国のビジュアル系バンドの若いハンサムの追っかけをしていたりするのが どこか矛盾しているような気もして付き合うのがそろそろしんどくなっていた。
それでも何故か波子はゆかりとつるむことが多かった。
というよりも ゆかりぐらいしか友達と呼べる存在が哀しいかな いなくなってしまっていた。
他の学生時代や同じ会社の同僚だったの友人達はほとんど結婚したり とっくに離婚していたりなどで 子供と旦那さんの世話や親の介護などに追われ パートで働きに出ている者など 一緒に遊びたくてもなかなか連絡できないような人ばかりになってしまっていた。
なので 20年前と生活も感覚もほぼ変わっていない自由気ままな独身の波子は 時折メールなどで連絡を取り合うも彼女達とは話の次元が違い過ぎて お互いのことがなかなか理解しづらくて どんどん疎遠になっていった。
「…みんなはちゃんと現実を生きているんだよね…それなのに…あたしはいつまでもこんなまま…体ばっかり歳くっちゃってさ…ホントに何やってんだろ…何やってきたんだろ…」
波子は自分は不幸ではないと自覚し言い聞かせつつも その一方でどこか今までの自分に巣くう後悔のような念 自戒の念のようなものに囚われているのも薄っすら感じ取ってはいた。
ただ それを認めてしまうと 自分の歩んできた人生が全て無駄のような気がして 堪らなく哀しくなるのだった。
そしてそうなると自分があまりにも可哀想すぎて どうにも涙が勝手にこぼれたりしてしまうのだった。
結婚にそれほど憧れを抱かなくなった今なのに この先一生一人で生きていこうとはっきり決めた訳じゃないから 波子はまだまだこんなおばさんになっちゃった自分でも 好きになってくれる人がいつか現れるかもしれないという淡い期待を捨てきれずにいるのだった。
そろそろ薄暗くなった土手を後にしようと スカートの尻をほろいながら立ち上がった時 丁度その場を通りかかっていた男性の股間辺りに激しい勢いで頭をぶつけてしまった。
「いってぇ…」
「…あっ…いたたたた…あっ…ごっ…ごめんなさい…すみません…大丈夫ですか?…ほっ…ホントにごめんなさい…」
慌てた波子は相手に頭を当ててしまった箇所を 咄嗟にさすろうとした。
「…わっ!なっ!何っ!…どこ触ってんですかぁ?…」
男性は波子以上に慌てた様子で急いで両手でズボン越しの股間を隠した。
「…あっ…あのっ…ごっ…ごめんなさい!違うんですっ!…あのっ…ホントにごめんなさ~~~い!!許してくださ~~~~~~い!!」
波子はそう叫ぶと すぐさまその場から全速力で走って逃げた。
…どうしよう!どうしよう!怒ってるわよね!あたしも痛かったけど…あの人…もっと痛かったわよね…やだっ!あたしったら…痛いだろうって…あそこ…さすっちゃおうとしちゃって…やだっ!…恥ずかしい!どうしよう!怒って追いかけて来たら…怖~~い!どうしよう!…逃げなくっちゃ!逃げなくちゃ!…でも…足…痛くなって来ちゃった…もう走れない…息が苦しい…苦し…
波子は日ごろの運動不足と40歳という年齢も相まって 走り出してほどなくよろよろとその場にへたり込んでしまった。
現場からほんの15メートルほどの距離だった。
薄暗く肌寒い中 自分の鼓動と荒々しい息遣いしか聞こえず 全身に走る痛みが信じられないほどだった。
「…お~~い!ちょっとぉ~~~!…」
そんな掛け声が波子の背後から聞こえてきた。
「…さっきの人だ!どうしよう!…」
波子はもう動けなかったが 向かってくる相手への恐怖で今度は体がガタガタ震えだした。
「…はぁはぁはぁはぁ…大丈夫ですかぁ?…はぁはぁはぁ…俺も痛かったけど…あなたも結構痛かったんじゃないですかぁ?…はぁはぁはぁはぁ…」
追いついた男性の思いがけない台詞に 波子は腰が抜けるような感覚に陥った。
…よかった…怒って追いかけて来た訳じゃなかったみたい…ホントによかった…殺されるかと思っちゃった…大げさだけど…
波子はつい今しがた遭遇した男性に 少しばかり気を許していた。
顔はよく見えないけれど 漂う雰囲気と声の優しさにだいぶ安心した。
「…いえっ…いえ…こちらこそ…本当にすみませんでした…大丈夫ですか?…そのっ…あのっ…そこいら辺…は…」
波子はそう言いながらも 男性のぶつけた股間辺りを指差した。
「…あっ…ええ…大丈夫ですよ…これくらい…俺のは頑丈ですから…」
「…えっ?…えっ?…いやぁ~~~ん!!…」
波子は年甲斐もなく乙女のように恥じらい 真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。
だが薄暗さの中 追ってきた男性には波子の顔色が真っ赤に変わろうと 全くわからない様子だった。
「…ホントにすみませんでした…ごめんなさい…あたし…いい歳して周りよく見ないで立ち上がっちゃったから…ホントにごめんなさい…許して下さい…」
波子はヨロヨロと立ち上がり 深々とお辞儀して謝罪した。
「…いえぇ…ホントに大丈夫ですから…何もそこまで頭を下げられても…それより あなたの方こそ頭大丈夫ですか?…って…あのっ…そういう意味じゃなくてですねぇ…ぶつけて痛かったんじゃないかって方の意味ですからね…どうぞ勘違いしないで下さいね…」
男性は誠意を込めた感じだった。
その後 「ごめんなさい」だの 「大丈夫ですか?」だのが続いたが お互い名乗りもせず 当然のことながら連絡先の交換なぞまで発展することもなかった。
本当にただの事故として処理し その場で別れた。
波子は少し痛む頭のてっぺんをさすりながらも ゆっくりと家路に着いた。
真っ暗な部屋に到着し安堵すると 折角摘んだお気に入りの小さな黄色い花を落として来てしまっていたのに気がついた。
…あ~…逃げた時落としちゃったんだ、きっと…ごめんね…お花さん…勝手にもいで来ちゃったのに…途中で落としちゃって…家に連れて帰りたかったね…家の子になればよかったのにね…
波子は乙女チックに心で呟いた。
心から残念に思ったからだった。
波子の部屋は最寄の地下鉄駅に程近い 小さなアパート。
10畳の洋室と8畳の洋室。
8畳の方側に座布団2枚分くらいの玄関と一人暮らしに丁度良い大きさのキッチン それにトイレとお風呂が一緒のユニットバス。
玄関側の窓と奥の10畳の洋室のベランダに出られる大きな窓から日中 時間帯に合わせてそれぞれお日様が燦燦と降り注ぐ。
ベランダからは河川敷が見え 夏の花火大会の特等席にもなった。
波子はそのベランダに小さなミントの鉢植えを置いていた。
休みの日にはお昼ごろから日が当たるそこに布団を干した。
実家を出て一人暮らしもおおよそ20年ほどになっていた。
その間 何度か引越しを経験し 約3年前から今のアパートに移り住んでいる。
波子はさほど綺麗好きというほどではないにしろ それなりに部屋は整頓されていた。
「ザ・女の一人暮らし」というほどラブリーではないにしろ 休日や仕事帰りにふらりと立ち寄った可愛らしいナチュラル雑貨のお店で購入した素敵な小物や シンプルな家具にパッチワークのカバーをかけたり そんな自分が大好きな物たちに囲まれて暮らしている。
そこそこ女らしい生活だと自分では思うのだが 何せその手の情報はほとんどインテリア雑誌などで仕入れるばっかり。
ホントのところ 一体どういうのが「女性らしい暮らし」なのか 波子にはイマイチよくわからなかった。
趣味と呼べるほどではないけれど 時折ミシンでパッチワークのカバーをだだだだっと縫うことで 溜まったイライラを解消することもしばしば。
ベッドにかけたり 床に敷けるほどの大きなものから お風呂あがりの足拭きや稼動していない時の炊飯器にかけたりする小さなものまで 大小さまざまな大きさの作品を縫った。
初めのうちこそ わざわざ生地屋さんまで出向いて綺麗で可愛らしい布を購入して作っていたのだが だんだんそれもめんどくさくなり 気に入ってさんざん着倒したヨレヨレのTシャツなども用いるようになってきた。
「…どうせ…誰も来ないし…来てもどうせゆかりだし…」
ほとんど来客などある訳でもない部屋だという気持ちが そういうだらしなさを生んだ。
波子は自分の「もうどうでもいいんだぁ…」というある種の諦めにも似たものが どんどん男性との出会いなんかを遠ざけているのも 薄々感じ取っていた。
「…いつか良い人が現れる…」などと信じている気持ち それと裏腹に「…こんなおばさん…誰も相手になんかしないって…」という自虐の諦め。
相反する考え方が常に同居している波子は 自分自身なのに両極端な考えを持ち合わせていられる感覚が もう一方ではよくわからなかった。
だがそのどれも自分。
その時々の気分や目に触れた出来事 毎日のニュースやその日の天気 仕事など秒刻みでコロコロと自分の異性に対する考え方がドンドンと変わっていった。
「それで当然」だとも思った。
「…だって…生きてんだもん…仕方ないさね…」
波子はある種の「悟り」の境地に達しているような気も覚えた。
まだ痛む頭を気にしながらも 冷蔵庫から冷えたウーロン茶を出してごくごくと飲んだ。
それで胃が刺激されたらしく 思い出したかのように急にお腹が空いているという自覚に目覚めた。
ところが開けた冷蔵庫には ろくな物が入っていなかった。
使いかけの調味料ばかりとわずかな野菜 もらい物の高そうな一袋づつの小さな焼き菓子が2個。
炊飯器にはご飯も入っていなかった。
「…あ~~~~…お腹空いたぁ~…駄目だ…こりゃ…なんか買ってこようっと!…ちぇっ!さっき買ってくればよかったぁ…あたし…馬鹿だぁ…あ~~~~…」
激しい脱力感に襲われるも まだ出かけたままの格好だったこともあり 肩を落としつつも財布と携帯と鍵だけ持って波子は部屋を出た。
いつもなら一番近いスーパーまで出向き ちゃんと自炊の材料を買いそろえるところなのだが 今日はとてもそんな気分にならなかった。
ゆえにスーパーよりも更に近い馴染みのコンビニに売っているお弁当か惣菜パンなどで 夕食を済ませようと考えた。
とにかく腹が膨れればそれで良し。という思いだった。
明るい店内に足を踏み入れてすぐ 「そういえば…」とふいにジュースが飲みたい衝動にかられた。
奥の飲み物コーナーへ行く途中の雑誌コーナーで 男性が一人Hな雑誌を食い入るように立ち読みしているのが目に入った。
波子は一瞬「やだぁ~…」と見知らぬその男性を 不潔なものを見るように軽蔑の視線でチラッと見た。
通り過ぎるともうそんなことは頭から消え去り 飲みたいジュースに集中した。
新しく出たばかりの炭酸のグレープジュースに心惹かれるも 波子は年齢と共にその手のシュワシュワする飲み物が苦手になってきていた。
なので 薄くフルーツの風味がするフレーバーウォーターをかごに入れた。
そのまま今度はお弁当やパンのコーナーに向かった。
「…何食べよっかなっ…」
波子はお弁当にするか 麺類にするか はたまたサンドイッチなどのパンにしようか 節約でカップ麺にしようかなど あれこれ悩みに悩みまくった。
目にする食べ物がどれも全部ちょっとづつ食べたくて 案外長い時間といってもほんの何分の話だが その場で佇んで眉間にしわを寄せたままだった。
波子が難しい顔で迷っていると 横からさっきのH本を立ち読みしていたスーツ姿のサラリーマンがやってきた。
「邪魔しちゃいけないし 一個しかないやつ取られたら嫌だから…」と急いで 目をつけていた中の一つ「こってりミートソース」を取ろうとすると 同じタイミングでサラリーマンが手を出してきた。
よく漫画や映画 小説なんかに出て来がちなあのシチュエーションだった。
同じものを同時に手にとって 触れ合って そこから恋が始まっちゃう…
一瞬波子はドキッとした。
「…まさかっ…まさか…これが…」
そこまで思うも そのサラリーマンはさらっと「こってりミートソース」を掻っ攫ってレジに向かってしまった。
波子は激しくがちょ~んとなった。
へなへなと力が抜け その場にへたり込みそうになった。
すると今度横からやってきた違うサラリーマン風の男性が 真っ白になった波子をチラッと笑いながら見て 迷うことなくサラッと「カルビ丼」を手に取り まっすぐレジへ向かい通り過ぎて行った。
ほんの短い間の出来事だったが 波子は結構な衝撃を喰らっていた。
ようやく我に返ると 波子は急に腹立たしい気分が盛り上がり「大きなえび天丼」と「大盛りざる蕎麦」 それに「でっかいウインナーパン」と「徳用ピザパン」 さらに「生シュークリーム4個入り」と「5個入りよもぎ大福」をかごに入れていた。
「全部食べてやれ!」
波子は何故かいきり立っていた。
半ばやけくそのような勢いだった。
レジで会計を済ませ すっかり暗くなった外に出ると 息が白くなるほどひんやりとしていた。
波子はさっきのことを回想し 反省した。
ふとしたきっかけだったけれど うかつにも「そこから恋が始まるかも…」なんて 淡い期待を一瞬でもした自分が恥ずかしくて腹立たしかった。
「…もう恋とか諦めてるんじゃなかったっけ?あたし…馬鹿だよねぇ…あんなことでドキドキしちゃってさぁ…ホント…なんて馬鹿なんだろ…恥ずかしいったらありゃしない…あの人だって…こんな地味なおばさんなんかにドキッとするわけないのにさ…あ~~~…あたしホントに馬鹿だぁ~~~!!」
心の中でいいだけ叫びまくった。
本当は今すぐ海にでも行って 大きく叫びたいところだった。
こんな恥ずかしい出来事だったけれど 明日ゆかりに話そうと思った。
メールじゃ詳しく説明できないから。
そしてゆかりなら きっとこんなシチュエーションでの自分の気持ちを全部わかってくれると思ったから。
真っ暗い部屋に戻ると早速買ってきたもので遅い夕食にした。
さすがに買いすぎてしまったことに気づき 結局は「大盛りざる蕎麦」と「生シュークリーム」を2個食べるので精一杯だった。
なので 残りは明日にしようと冷蔵庫にしまい込んだ。
後はいつものようにお風呂はシャワーで済ませ ゆっくり寝るまでの時間を過ごすことにした。
髪を洗う際 先ほどぶつけた頭のてっぺんがちょっぴり痛かった。
パジャマのままで何気なくベランダに出て河川敷の方角を見た。
川の向こうに街の明かりがキラキラ。
波子は大して美しくもない夜景を見るのが 案外楽しみでもあった。
テレビは面白くないので かっこつけてFMラジオをかけてみた。
古い外国の恋愛映画の切ない主題歌が流れてくると うっすら歌詞がわかるので自然と口ずさんでしまっていた。
会社の帰りにカラオケに行くこともあるけれど その時はこんな綺麗な曲は絶対に歌わないし 歌う様な雰囲気でもない。
どちらかというと昔のアイドル系の歌謡曲や 最近の波子でも知ってるみんなで歌えるような当たり障りのない曲しか歌っていなかった。
ゆかりと二人で行く時は それらの他に何故か昔大ヒットした演歌なんかも混ざるようになってしまっていた。
若い頃は洋楽と好きなアイドルの曲 それとアニメソングばかり聴きまくっていた。
特に本気で好きになって涙まで流すほどだった 宇宙戦士の主題歌は今もたまにカラオケで泣きながら絶唱するほど。
ベランダでご近所の迷惑にならない程度の音量で歌っていると アパートの下の階から波子と同じ曲を歌っている男性の声が聞こえてきた。
「…あれっ?…この…声…どっかで…」
波子はその歌声に聞き覚えがあったが どこで聞いた誰の声なのかまでは思い出せず。
そのうち寒くなって部屋に入ってしまうと もうそんなことなんてすっかり忘れてしまっていた。
波子は若い頃よりも寝る時間がかなり早くなってきていた。
そして代わりに起床時間が早まることで 認めたくないけれどやはり「老い」を少し感じざるを得なかった。
「…あれっ?…いたたたた…なんで?…」
普段どおりに目が覚め起きると 何故かわからないが右肩が上がらなくなっていた。
「…えっ?何何?怖~い…なんで?…」
無理に上げようにも激しい痛みが襲い掛かり それ以上はとてもじゃないけれどできる気がしなかった。
昨日見知らぬ男性の股間にぶつけた頭もまだ少し痛かった。
が それ以上にどうにもならないほど右の肩の痛みが激しく 結局会社に電話を入れてお休みを取り 午前中近所の整形外科を受診する運びとなった。
波子にはその症状に覚えがあった。
まだ波子が高校生ぐらいの頃 同居していた父がやはり同じ症状で病院に行っていた記憶がある。
確かその時 父は40代後半で診断の結果「五十肩」とのことだった。
父はその時まだ40代だった為 「五十肩」の「五十」に引っかかりを感じ 「…俺…まだ40代なのにィ~~…」と嘆いていたのを覚えている。
母と兄と波子は 「えっ!そこ?…そこでがっかりしてんの?」と思ったのだった。
不意に勝手にフラッシュバックした記憶に波子は愕然となった。
「…あたし…まだ40なのに…もしかして…もしかして…五十肩?だったりする?…どうしよう…どうしよう…まだ若いつもりでいたのに…都合の悪い時だけ…おばさんってことでやり過ごしてたのに…ホントにホントに体はすっかりおばさんになっちゃったってことな訳?…やだやだやだやだ…だってまだ子供だって産んでないのに…って…その前にあたしまだ男と付き合ったことだってないのに…」
波子は心底落ち込んでしまっていた。
診察室に呼ばれると 出てきた医者が結構なハンサムだった。
50代前半と思われる 若干の白髪交じりの短髪にメガネの先生は レントゲン写真を見て波子の痛がる部分をあれこれ触診した結果 落ち着いたトーンで「四十肩…ですねぇ…」と言った。
「…やっぱり…」
波子はある程度予想していた通りの結果に それほどダメージを負ってはいないつもりだった。
本当は「ええ~~~っ!」なんて大げさなくらい驚いて その場で泣き叫びたい気分だった。
だけど 大人の女性を意識している為 そんな恥ずかしいリアクションをとるにとれず。
それがまた何となく哀しかった。
上がらない腕の痛みを緩和するのに 波子は生まれて初めて肩の関節に注射された。
その痛さが想像を絶するほどの痛みで ついに我慢しきれず涙をこぼしてしまった。
一人で病院を受診したのも波子にとっては相当な勇気だったけれど 注射の痛みに堪えられずに泣いてしまったのは 小学校低学年以来だった。
ダンディで素敵な先生は 泣いている波子に笑顔で「可愛いですね…」と呟いた。
今の今まで痛くて泣いていた波子は 初対面のハンサムに思いがけず「可愛い」などと言われると 一気に昇天しそうになった。
男性から「可愛い」などと言われたのは いつだったか思い出せないほど遥か昔過ぎて 波子はその言葉を牛の様に何度も何度も反芻しては 涙が残る顔のまま一人ニヤニヤが止まらなかった。
ちまたで流行っている「もしかすると…」とかいうフレーズの お笑いコンビの歌が脳内で自動的に再生された。
「…あたしが可愛い?…それって…それって…もしかすると…あたしに気があるんじゃないの?…まさか…そうなの?…そういうことなの?…ねぇ…教えて!先生!教えてぇ~~~~!!…」
待合室で会計を待つ間 波子の心はいつになくざわついていた。
折角いい気分でうかれていたけれど 自分が何故ここに、この病院に来たのかを思い出すと途端にハッとなって再び落ち込んでしまった。
「…そうよね…あたし…四十肩でここに来たのよね…な~にうかれてんだろ…あんな痛い注射されて泣かされたってのに…ホント…あたし馬鹿だぁ…いやんなっちゃう…あ~…やだやだ…」
波子は会計を済ませ 隣接する調剤薬局に向かう途中 落ち込みすぎて地面しか見ていなかった。
アスファルトに映る老けた自分の影だけしか目に入っていなかった。
どんっ!
誰かにぶつかってしまった。
波子は昨日に引き続き 今日もまた誰かにぶつかるなんてと思った。
そんな自分がどれほどまでに悪い運気を背負っているかのような気にもなった。
「…すっ…すいませ~ん…あのっ…大丈夫ですかっ?…ごめんなさ~い…ホントにごめんなさ~い…」
謝りながらも顔を上げ ぶつかった相手を見ると そこにはうっすら見覚えのある人が立っていた。
「…いえっ…こちらこそっ…すみませんでしたぁ~…って…あれっ?…あのぉ~…違ったらごめんなさいなんですけども…あのですねぇ…昨日ぉ~も会いませんでしたっけ?…ほらっ…夕方…河川敷で僕の股間にものすごい勢いで頭突きしてきた…あの人ですよねぇ…あははははは…奇遇ですねぇ…まっ…まさかっ…昨日ぶつけたところ…そんなに酷かったんですか?…」
男性は波子を心配そうに見つめていた。
「…あっ…ううん…違うんです…昨日のは全然大丈夫です…髪洗う時ちょっと痛いくらいで…病院に来たのは違うんですっ…今朝起きたら右腕が痛くって…上がらなくって…」
波子がそこまで言いかけると 「あっ!もしかして…四十肩ですかぁ?…僕もね、3年くらい前にやったことありますあります!…あれって突然来ますよねぇ…僕なんてね…その時まだ39だったのに…四十肩って診断されちゃって…まだ39なのにィ~ってショックでショックで…あははははは」
男性は無邪気に自身の経験をいとも簡単に よく知らない相手の波子に教えてくれた。
「…あはははは…そうなんですかぁ…そう…あっ…じゃあ…」
そう言って波子はそそくさとその場から立ち去ろうとすると 「…あっ!あのっ!…そのですねぇ…あの…良かったら…でいいんですが…あなたのお名前…教えてもらえますか?…えっと…えっと…僕は高橋ですっ!高橋たけし!…またどこかでお会いできたらいいですねぇ~!!」
男性はそれだけ笑顔で告げると 波子が出てきた整形外科に入っていった。
波子は呆然としていた。
昨日の夕方 あんな形で知り合った男性と今日こうして再び巡り会い 更には爽やかに自分だけ名乗ってさっと別れるなんて…
「…あの人…何なんだろ?…人に名前を聞いといて…」
調剤薬局の玄関前でぼんやりと立ち尽くしていると 今病院に入ったばかりの高橋たけしが慌てた様子で波子の元に戻ってきた。
「…はぁはぁはぁはぁ…すっ…すみませ~ん!…あのっ…あのっ…名前っ…あなたのお名前を聞くの…忘れてましたっ…ホントに失礼…しま…したっ…自分だけ名乗って…とっとと行っちゃうなんて…ごめんなさい…あの…くどいようですが…せめてお名前だけでも教えていただけませんか?…駄目ですかねぇ…」
「…はぁ…べっ…別にかまわないですよ…大丈夫です…高橋さん?ですよね…あたしは…相田です…相性の相に田んぼの田…で下は波子です…海の波に子供の子で波子…40歳!独身です…男性経験はありませんっ!…」
波子は勢いでついつい余計な情報まで発信してしまった。
波子の発信した情報を通りすがりのベビーカーを押した若い母親や 同じ整形外科から出てきたばかりの杖のおじいさんと付き添いの娘さんらしきでっぷりしたおばさん それに病院の外の喫煙所でタバコをふかしていた数人の入院患者さん達 配達の方にお迎えの介護タクシーの方など 肝心の高橋たけし以外の多数にもばっちり聞かれてしまっていた。
聞いた皆さんは当然ニヤニヤと波子達を見ていた。
波子は今すぐに穴があったら入りたい気分でいっぱいだった。
自分の発言を耳にした全員の記憶を消してしまいたかった。
それか波子自身が消えてなくなりたかった。
高橋たけしは波子の大胆な発言に 少しばかり感動していた。
波子は自分で言った自己紹介に激しく動揺し 立ちすくんだまま真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。
ハンサムなお医者さんにされた痛い注射のおかげで 波子の腕はそこまで上がるように回復していた。
「…そっ…そうですかぁ…波子さんとおっしゃるんですかぁ…40歳で独身…男性経験はないんですね…」
「…やっ…やだっ…やめてくださいっ!…自分でつい言っちゃったけど…何もわざわざ復唱することないじゃないですかぁ~~!!…ひどいっ!高橋さんっ!…会ったばっかりなのにィ~~~…」
波子はそこまで言うのが精一杯で 涙が自然とこぼれて 今すぐ調剤薬局に逃げ込みたかった。
「…あっ!ごっ…ごめんなさい…失礼極な…きなわ…きわなま…」
たけしが肝心なところで噛むので 波子は少し怒ったように「極まりない!…でしょ」と続けた。
「…すっ…すいません…そうでした…ホントにすいません…僕もですね…僕だって…42ですが…未だに女性経験がありませんっ!…どうですか?…これならどっこいひゃっこいでしょう?…」
波子はたけしの発言の最後の「どっこいひゃっこい」が引っかかった。
そうなるともう笑いが勝手に込み上げてきて 我慢できずにぷ~っと噴き出してしまった。
「…あのっ…相田さん?…あの…」
「…ごっ…ごめんなさい…高橋さん…高橋さん…どっこいひゃっこいって…それを言うならどっこいどっこいじゃないですかぁ?…あははははあはははは…高橋さん…って面白い方なんですねぇ…」
波子とたけしの一連のやりとりの目撃者たちは 皆一様に優しい笑顔でいっぱいだった。
そんな二人の和やかな空気の中 病院の中から問診の看護士さんがたけしを探しに外まで出てきてしまった。
「…高橋さん?…高橋たけしさん?…順番ですから…中に入ってお待ちくださいねぇ…あの…診察券だけ出して勝手に外に行っちゃわないでくださいねぇ…」
たけしは「すみませんでしたぁ~!」と膝まで頭をさげ 波子に笑顔で手を振って中に入っていった。
波子は「薬!薬!」と急に思い出し ちょっぴりニヤニヤしながら調剤薬局へ。
後から波子は高橋たけしと連絡先を交換すればよかった。と後悔したが 自分にはそれができる勇気がないことも同時に思い知った。
それでもなんだか心はウキウキしていた。
この歳になって こんなドラマチックな展開があるなんて…
波子はこれからたけしとロマンスに発展しなくても 別にかまわなかった。
それよりも初めてのこんな経験があまりにも嬉しくて堪らず それだけでお腹がいっぱいな気がした。
40歳の大人の女だけれど 中学生のような出会いがしばらく引きずるほど幸せに思えた。
波子の毎日にこのような経験は皆無だったので 心から尊くて大切な体験だったと感じた。
そして 波子の心の中に何となくいつも摘んで部屋に飾る あの小さな黄色い花がポッと咲いたような気がした。
家に戻るとまだお昼だった。
平日の真昼間に自宅にいるのが新鮮だった。
窓を開け放ち 綺麗な空気を部屋に取り込むと 波子は急にお腹が空いてきた。
前日の残りを電子レンジで温め テレビでニュースを見ながらほおばっていると ふいに携帯電話が鳴った。
相手は波子を心配してくれた 同僚のゆかりだった。
「…あっ…波子ぉ?…どしたぁ?…病院に行くって聞いてたけどぉ…」
波子は早速 前日からの出来事を包み隠さず 脚色なしに全部ゆかりに話した。
すると「…ふ~ん…そう…なんだぁ…そっかぁ…波子…よかったねぇ…素敵なことあってさぁ…」
ゆかりからの返答は 棒読みのようなそっけなさだった。
波子はそんなゆかりの態度が少々気に食わなかった。
…ゆかり…なんか怒ってるみたい?なんで?…どして?…
波子にはゆかりが自分をどういう風に思っているのか 実のところうっすら知っていた。
ゆかりは自分を「波子より上」だと思っているような節が多々あった。
ゆえに未だ男性と一度も付き合ったことが無い同士とはいえ 自分の方が一歩先を行っていると確信していた様子。
だから 追っかけている韓国のビジュアル系バンドのオフ会で「彼らと一緒に旅行しちゃったぁ!」なんて すっきり綺麗な顔の若い男に抱きついている写メをわざわざ波子に送りつけてきたり 「婚活パーティーで名刺もらっちゃったぁ!」なんてたった一枚だけの名刺を波子に見せびらかしたり。
そんな「報告」という名の自慢を 随分とされてきた経緯がある。
だが一緒に参加した婚活イベントやお見合いパーティーで 自分よりも先に波子が男性に話しかけられているのを目撃すると その後すぐに「…あの…波子に話しかけてた人さぁ…なんかさぁ…ダサいよねぇ…」だのと何かといちゃもんをつけてきたりするのだった。
波子はそんな時のゆかりに広がる悪意に満ちた表情に ゾッとしたことが何度もあった。
一緒に買い物をしていても 待ち行く綺麗な女を見ると その人が若かろうが自分よりも年齢が上だろうが すぐさま相手の欠点を見つけ出し悪口を言うのが常だった。
カップルや家族連れの悪口も 耳を塞ぎたくなるほど酷いものが多かった。
それゆえに波子の中では「ゆかりは怖い人。」という印象が強く刷り込まれ 本当はもう離れたいと思っていても 何故だか同じ職場ということも同期ということも 何より「彼氏いない歴が年齢分」という共通点で呪縛の様に一緒にいざるを得なかったところもある。
それでもゆかりは波子に案外優しかった。
それというのも 波子と付き合ってきた中で 彼女が一度も男性に関わる素敵な体験を耳にしていなかったから。
「波子なんかに一生そんな経験はない」と ゆかりなりにたかをくくっていたからだった。
ゆかりは女の中の女のような女だと思った。
嫉妬深く 自分よりも劣る者 不幸な者を手元に置いておきたくて それを眺めて安心しているような女。
自分よりも劣っている者が 自分の先を追い抜いていくことを絶対に認めたくないし 許さない女。
ゆかりは正直なところ 波子なんかよりもずっとずっと遥かに劣るブスだった。
ブスのくせに根拠の無いプライドが異常に高く パートナーとして選ぶ男性の理想も驚くほど高かった。
自分をどれほどまでの女だと思っているのか定かではないものの 婚活イベントなどで「…可哀想だから…」と仕方なく声をかけてくれる優しい男性に対しても 口汚い言葉でよく知りもしないのにやれ「顔が好みじゃない」だの 「顔はまあまあだけど声がちょっと…」だの 「見た目はそこそこいいんだけどさぁ…仕事がねぇ・・・」だの。
悪魔のような選別作業で折角のチャンスを自分で どんどん棒に振ってきたようなところも多い。
そんなゆかりの大げさなほどの態度は 自分がちょっとでもいいなと思った男性に他の女からケチをつけられたときの「保険」のようなところもあった。
そんな風なくせに好みの男性に対して 馬鹿みたいなほど照れて いい歳になってまでも激しいツンデれ。
つけられるだけのケチをつけては 自分からアタックする勇気もなく遠くから「何よ!あいつ!…」などと目で追い続けるのだった。
波子はゆかりと同じようなタイプの女だと思われるのが嫌で そういう場所ではなるべく離れているように心がけていた。
「…なにさ!ゆかり!腹立つゥ~~~!!自分にそういう素敵なことがないからってさ…何なの?あいつ?…自分だって…あたしに散々自慢してたくせに…ホントムカつく!…」
波子はゆかりに腹を立てるのと同時に 一緒に喜んでくれるもんだと信じていた友達に裏切られたような気持ちになった。
怒りながらも 波子は自然と涙を流していた。
「…ゆかりの馬鹿野郎~~~~!!…ブス~~~~!!…もう友達でも何でもないからぁ~~~~!!…何さ!大ッ嫌い!絶交!絶交!もう絶交!だもんねぇ~~!!ば~か!ば~か!…」
ゆかりへの悪口が後を絶たなかった。
波子は自分に訪れたほんのわずかなときめきを ちょっとばかし恨んだ。
「…あたしにだって…そのくらいの幸せがあったって…いいじゃない…今までそんな出会いなんて…全然なかったんだもん…整形のハンサムな先生に可愛いって言われたっていいじゃない?…ぶつかった男の人に名前を聞かれたっていいじゃない?…それくらいのこと…あたしにあったって…罰は当たらないわよね…あたしにだって…それぐらいの素敵な出来事があったって…そんなに駄目?…あたしにはそういうのがあると駄目なの?…ずっとこれからもそういう出会いとかあったら駄目なのかなぁ?…そんなの…そんなの…」
ベランダに出て風を浴びながら 波子はしんみりとなった。
次の日 「おはよう!」と元気にゆかりに声をかけるも 無愛想に「ああ…おはよう…」しか返してこず むしろ波子をあからさまに避けている様子が伺えた。
波子に起きたことがゆかりには悔しくて堪らないようだった。
悔しさと一緒に 淋しそうな表情にも見えた。
ゆかりは波子が自分を捨てて 新しい世界に一歩踏み出て行ってしまうような感覚が拭いきれなかった。
「仲間」だと思っていた波子に先を越された恐怖と 置いて行かれた側の一方的な哀しい気持ちでいっぱいだった。
波子はゆかりのそんな心情をすぐさま 敏感に感じ取っていた。
もしも立場が逆転していたらどうだっただろう?
心からゆかりを応援することができただろうか?
自分ももしかするとゆかりのようになっていたかもしれない。
そんな風になった女は惨めで醜い。
波子は想像すると 背筋に冷たいものが走った。
その日から波子も自然と何となくゆかりを避けるようになっていった。
そうしなければ ずっと恨めしそうな顔で恨み言を延々と言われ続けそうだった。
あれから多々じっとりとした視線を感じることがあり 波子が気づいてそちらを見ると フッとわざとらしく目線をはずすゆかりがそこにいた。
波子の脳内ではっきりとゆかりの声で 「…あんた…一人だけずるいじゃない…あたしを置いて自分だけ幸せになるんだぁ…ああ…いいわねぇ…ばばあのくせにちょっと男に声かけられたからって…いい気になってんじゃないわよっ!…何様のつもりよっ!あんた…卑怯者!裏切り者!…」というのが聞こえた。
波子はそんな戯言に負けたくはなかった。
だから脳内のゆかりに「…うっさいわね!こんのドブス!あんたなんか一生そのまんまだわよ!」などと 口汚く罵ることで 何とか正常な心を保っていた。
もう以前のようにゆかりとは付き合えないかと思うと ちょっぴり哀しい波子だった。
そして 今まで「本当の友達」だと思っていたのは もしかすると自分だけだったのでは?とも思い始めた。
ゆかりは同じような立場の自分を抜け駆けしないように監視していただけなのではないだろうか?
自分よりも下の立場と信じている波子をただ単に見張っていただけなのではないだろうか?
そうして今回のようなことになった途端 波子を「自分とは違う世界の者」として排除したいのではないだろうか?
疑惑がドンドンと膨らんでいくと 波子の心が夏の終わりの強い風のごとくゴワゴワと音を立てて揺れるのを感じた。
波子はあの日の出来事を何度も何度も反芻しては 妄想の世界で遊んだ。
ゆかりとのことはなるべく考えないように努めた。
あれっきり「高橋たけし」とは会う機会がなくなっていた。
そもそも名前を教えあっただけで 連絡先など一切わからない。
「多分…近所に住んでいるのだろうなぁ」くらいしか 波子にはわからなかった。
それでもあの短い出会いが波子には宝物のように 大切だった。
高橋たけしも波子のことをいつまでも反芻していた。
そして 連絡先やメルアドを交換しなかった自分の不甲斐なさに 激しく怒り心頭だった。
それと同時に自分の大胆な行動に再度驚きを隠せなかった。
「…あ~~~~…俺は馬鹿だぁ~~~~!!折角名前教えてもらったってのによぉ~~~…ああ…波子さん…なんかよかったなぁ…地味だったけど…なんかいい匂いだったし…感じよかったなぁ…ああ~…俺の馬鹿馬鹿馬鹿!!…また…あの病院で会えるだろうか?…俺みたいに通ってる訳じゃないみたいだから…やっぱ…無理かなぁ…」
たけしは波子との出会い方と病院前でのことを思い出し 一人ゲラゲラと笑った。
今まで何度も合コンやらお見合いを繰り返してきたけれど こちらが気に入った相手にはことごとく振られ続けてきた。
たけしは頭が少々薄くなってはきたものの 不細工の部類に入る男ではなかった。
どちらかといえば「ハンサム」…「ハンサム」の中でも中の下くらい。
年齢の割には若く見られることも多く いわゆる「おじさん」特有の不潔っぽさやいやらしさなど 微塵も感じられない爽やかさん。
同僚や上司にたまに綺麗なオネエチャンがいるお店に連れて行かれても その場で一緒になって騒ぐことなく お酒もあまり飲めない為にいつも冷静で早く家に帰りたがっていた。
その手のお店がすこぶる苦手だった。
女性に興味がない訳でもないのだが かといって他の男どものように精力ばっかり有り余っているような ガツガツしたタイプでは全く無かった。
たけしは今で言うところの「草食系男子」の部類に属している形。
是が非でも「お嫁さんが欲しい!」とは思っていなかった。
「いい人がいたら…」とか 「相手が結婚したいって言うんなら…」とか その程度の願望しか持ち合わせていなかった。
小中高大とずっと野球一筋だったし 中高大に至ってはエスカレーター式の男子校だった為 たけしはそれほど女性と出会うチャンスもなかった。
それでも全然平気だった。
合宿などで夜中みんなでこっそりHなビデオ鑑賞をしたり その手の漫画やグラビアを回し読みする程度で十分満足していた。
実際の女の人と付き合おうなんて考えが微塵もわかなかった。
婚活やお見合いも全然行く気にならなかった。
大学の卒業を機に始めた一人暮らしが案外不自由なく快適なのも 女性を求める必要がない理由のひとつでもあった。
このまま一生気ままな一人暮らしを満喫でも 全然かまわないとすら思い始めていた。
そんな矢先にあの出会い。
最初に股間に飛び込んできた衝撃。
漫画の様な出会い方がたけしには何か運命的なものを感じさせていた。
二度目は病院でこれまたぶつかって…
人生でそう何度も同じ女と漫画みたいな遭遇をする訳がないはずだ。
たけしは波子との出会い方の面白さが大そう気に入ってしまっていた。
そして 波子の容姿にも惹かれた。
いわゆる「一目惚れ」というやつだった。
たけしが今まで好きになった女性はさほど多くはないものの 好きになる基準がいつも曖昧だった。
ある時は目が気に入り またある時は大きな胸で好きになり またまたある時はさらさらな髪でファンになったり。
だから友人達から「たけしの好きになる女ってさ…ほんっとわっかんねぇ…」などとよく言われた。
自分でもよくわからないのが 正直なところだった。
だが 今回出くわした波子は 今までの女とはどこか違ったと思った。
上手く説明こそできないが 何故だかどうしても気になって仕方がなかった。
それでつい声をかけるなんて たけしにしては大胆な行動に出られたのだった。
同学年の友人達はとっくにお嫁さんをもらい 子供を授かって毎日家族の幸せの為に一生懸命働いている。
なのに 自分はどうだろう?
自由気ままな独身貴族と思われているだろうが 内実は単に「モテない」とかそういう類の男ってだけなんじゃないだろうか?
老後を考える時 ふと「茶のみ友達でもいたらなぁ」と思ったりするたけしだった。
数日後からゆかりは会社に出てこなくなっていた。
そんなゆかりを波子はやっぱり心配だった。
なんやかんや相手の嫌な面ばかりを見てしまっていたけれど ゆかりと馬鹿みたいに楽しかった時間だって沢山あったことを思い出していた。
それらが急に愛おしくて懐かしいような気もした。
「…ゆかり…どうしたんだろ?…なんか…あったのかなぁ?…」
波子は休みが続いているゆかりに思い切ってメールをしてみた。
本当は電話をかけて直に話した方がいいとはわかっているけれど あれ以来ゆかりと全く交流を絶っていた波子にはそんな勇気は出なかった。
送信したメールはあっさり「拒否」されてしまった。
波子はそこまで自分が避けられているのを知ると 急にゆかりという人間がどれほどまで「堕ちた女」かと思った。
それでもやはり長年の腐れ縁みたいなものが 波子の心をざわざわさせた。
仕事の帰りにゆかりの家に寄ってみた。
ピンポ~ン!
ドアののぞき穴から絶対にこちらを確認しているのがわかった。
だが数秒 何の動きもなかった。
中のゆかりはドアを開けようとはしないようだった。
けれども波子はドア越しにゆかりに話しかけた。
「…ねぇ!ゆかりっ!いるんでしょ?…どしたの?…どっか具合でも悪いの?…大丈夫?…ねぇ…ちょっと…返事ぐらいしたらどうなのっ?…」
「…」
中からはなんの応答もなかった。
今度はドアをドンドンと叩いて見るも やっぱり先ほどと同じ。
波子はゆかりのそんな態度にだんだん腹が立った。
「…ゆかりっ!…あんたさ…いい加減にしなさいよ!…何よ!全く…どこまでひねくれてブスなんだか…」
そこまで言いかけるとドアがゆっくり開いた。
「…何よ!…あんたこそ…ブスのくせにっ!…ちょっと男といいことあったからって…あんな…馬鹿みたいにニタニタ自慢なんかしちゃって…恥ずかしい!この恥知らず!…だいたい地味であたしよりもブスのくせに生意気なのよっ!…」
「…いいことって…いいことって…そんな大した話じゃないじゃないのさっ!…何よ!あんたの方がよっぽどドブスよっ!…何よ!人が折角心配して来てやってんのに…あんたってサイテ~~!…人間のくずね!…」
「…ああん?…何さ!…あんたの方がよっぽどくずよ!…自分だけ抜け駆けして…ずるいのよ!…あんたなんて大ッ嫌い!…最初っからあんたなんて友達なんかじゃなかったわよ!…あんたなんかあたしの下の下の女じゃない!…可哀想だから仕方なく付き合ってやってただけなのよ!…だいたいあんた程度の女があたしなんかと友達でいられる訳ないじゃない!…何よ!もう顔も見たくないから…とっとと帰ってよ!帰れ!帰れ!もう二度と来るなっ!!」
波子もゆかりもいいだけ相手を罵りながら お互い涙をダラダラと流していた。
波子はたった今聞いた台詞がゆかりの本当の気持ちだと悟った。
波子は悲しくて哀しくて 年甲斐もなく人目も全く気にすることなく 泣きながらとぼとぼと歩いた。
かけがえのない友達だと思っていた人と こんな形で別れたショックがとてつもなく大きく波子を飲み込んでいた。
「…ひどい…ひどいよ…ゆかり…なんで?なんでさ…ずっと…どっちかにそういう幸せが来たら…そん時はお互い心から祝福しようねって…約束してたのに…どうして?…それに…まだあたし…名前を聞かれただけで…全然そんな風な素敵なことに発展してないのに…全然…そんな段階じゃないのに…何にも始まってないのに…」
ふと気づくと波子はいつの間にか 高橋たけしと遭遇した現場に来てしまっていた。
無意識に足がそちらに向いていたようだった。
何故かどうしても今 ほぼ見ず知らずのたけしに会いたいと思った。
誰かに縋りたい気持ちでいっぱいだった。
今まではそんな時縋る相手はゆかりだった。
だが もう彼女に縋ることなんて絶対にできやしないし するつもりもなかった。
夕暮れが早くなってきた河川敷の土手の周りでは 相変わらずサッカーの練習の学生達やランニングの人 犬を散歩させている人たち 老夫婦に学生のカップルなど楽しそうな人たちで案外にぎわっていた。
その楽しそうな中に一人 真っ暗い気持ちの波子がいた。
土手の階段に腰掛け 波子は何となく歌を歌いだした。
以前FMラジオから流れてきて その時も口ずさんだ古い外国の恋愛映画の主題歌。
か細く頼りない小さな声で波子は歌い始めた。
歌いながらゆかりのことをぼんやりと考えていた。
自分では気づいていなかったのだが 波子の歌声はだんだんと大きくなってしまっていたようだった。
お気に入りのサビの辺りになるとつい立ち上がってしまうほど 波子は周りを全く気にすることなく気持ちが高ぶり 自己の世界に没頭し歌ってしまったのだった。
「…もしかしたら会えるかも…」
そんな淡い期待を持った高橋たけしが仕事帰りに偶然通りかかって 自分に気がついて黙って見つめているのに 波子は全然わからなかった。
ぱちぱちぱちぱち。
波子が歌い終わると そこら辺にいた全員が惜しみなく笑顔で拍手をしてくれた。
波子はハッと我に返ると急に恥ずかしくなり すぐさま家に帰らなくちゃ!と焦った。
「…なっ!波子さんっ!」
振り向くとそこに高橋たけしが満面の笑顔で立っていた。
「…あっ…たっ…高橋っ!…」
波子は今すぐにでも会いたかった高橋たけしの顔を見るなり 張り詰めていた糸が切れたようにへなへなとその場に座り込んでしまった。
「…波子さんっ!だっ…大丈夫ですかっ?…」
駆け寄って自分の体を支えてくれているたけしに 波子はドキドキが止まらなくなった。
「…波子さん…歌上手いんですねぇ…俺…感動しちゃいました…」
「…あっ…あのっ…あのっ…高橋っ…さんっ…高橋さん…高橋さん…高橋…さん…」
たけしの突然の出現に波子は言葉を覚えた九官鳥のように 馬鹿みたく何度もたけしの苗字を連呼した。
それしか言葉が思いつかなかった。
少し落ち着くと波子もたけしもお互いの体を咄嗟に放した。
だがぴったりと寄り添っていた僅かな時間がとても心地よかったことを 二人とも知ってしまった。
夕暮れから夜に入る頃 波子とたけしは少しだけ離れた場所に それぞれ腰掛けてお互いの話を始めた。
波子は知り合って間もないこの男に ゆかりとの間の出来事を思い切って全て話した。
それでドン引かれてもかまわないと思った。
とにかく誰かに話すことで 自分の中に溜め込んでいた汚いものを吐き出してすっきりしたかった。
それができれば 後はどうでもよかった。
「…そう…ですかぁ…そんなことが…そう…ですかぁ…」
たけしは必死に何かしらのアドバイスや自分なりの意見を言おうと脳をフル活用させるも それ以上の言葉はまるで出てこなかった。
波子はたけしから何か特別に素敵な言葉をもらいたかった訳ではなかったので まさかたけしがそれほどまで焦って「いい台詞」を探しているなどとはちっとも知らなかった。
ただこうして並んで腰掛けているだけで 随分と心が和んだ。
波子の真っ暗な沼の畔に あの小さな黄色い花が咲いたような気がした。
「…あっ…そうだ…波子さん…腹空きません?…夕食…まだじゃないですかぁ?…」
たけしがそう言うのとほぼ同じタイミングで 波子の腹がぐ~と鳴った。
「…やっ…恥ずかしい~~~…やだぁ~…あたしのお腹…やだぁ~…」
波子はたけしの前で腹が鳴ったことが恥ずかしくて堪らず また顔を両手で覆い隠した。
たけしは激しく照れる目の前の大人の女が 中学生くらいの乙女のように可愛らしく見えて ついフッと笑ってしまった。
「…じゃっ…行きましょうか…波子さん…何食いたいです?…」
先に立ち上がったたけしはさりげなく波子の手を取った。
たけしにとっても 波子にとってもそれがあまりにも自然な成り行きで お互いずっと昔から付き合っているようなおかしな感覚に囚われた。
「…あっ…あのっ…あたし…あたし…焼肉…焼肉が食べたいです…」
波子は言うとか~ッと激しく照れた。
生まれて初めて男の人と二人っきりで食事をするのに つい大好きな「焼肉が食べたい」なんて言ってしまう図々しさに 波子はやっぱり「あたし…おばさんだから…」と思ってしまった。
たけしにとっても 人生初「自分から女性を食事に誘う」をやってしまって 内心ドキドキが半端じゃなかった。
誘い方がいやらしくなかっただろうか?だの 下心が見え見えだっただろうか?だの考えると 汗が尋常じゃないほど流れ始めた。
さっきまでくっついていた手が突然思い出したかのように緊張し始めた波子は 離そうと試みた。
だがたけしは折角何十年ぶりかで繋いだ女性の手を みすみす離したくはなかったので がっちりと繋いだままでいた。
決して波子の方を見ずに 少し上向き加減に顔を上げ そのまま波子を連れて歩き始めた。
「…あっ…あのっ…」
波子はたけしの半ば強引な形に戸惑いながらも 心中は少女の頃の片思いのようにドキドキが強くなっていた。
そんなたけしの行動が全然嫌じゃなかった。
むしろ「頼もしい」とすら感じた。
歩き始めてほどなく たけしが急に立ち止まった。
「…あっ…あの…どうかしました?…」
波子は恐る恐るたけしに尋ねた。
「…あっ…あのっ…なっ…波子さんっ…あの…波子さん…」
「…はい…なんでしょう?…」
「あのですねぇ…波っ…子さん…波子さん?…」
「…はい…あたし…波子です…あのっ…高橋さん…どうしたんですか?…何か…気に障ること…しちゃったんなら…ごめんなさい…許してください…」
たけしと手を繋いだまま 波子は動揺しちょっぴり怖い気持ちになった。
「…波子さん…ちっ…違うんですっ…あのっ…あのですねぇ…僕達…そのっ…似た者同士じゃないですかぁ…」
「…えっ?…ええ…まぁ…そうです…かねぇ…そうでしょうねぇ…」
「…だからって訳じゃないんですけど…その…なんて言ったらいいのか…」
「…」
波子はたけしが何を言おうとしているのか うっすらわかってしまっていた。
だが 遮るように先走ってたけしの言いたいことを言わず ジッと黙って我慢した。
「…波子さんっ!」
「…はっ…はいっ!」
「…僕と…僕と付き合いませんか?…僕じゃ駄目でしょうか?…友達からでも全然かまいません!…あの…そういうのって駄目でしょうか?」
波子は予想通りの展開が嬉しかった。
40年間の人生で初めての告白。
すぐにでも返事をしようと思い口を開くと それよりも先に腹が再びぐ~と鳴った。
たけしはすかさず「…ぐ~って…ことですか?…」とちょっぴり笑いながら聞いてきた。
波子は恥ずかしくて恥ずかしくて何も言葉に出せず 繋いでいない方の手で「ぐ~」の親指を突き出したサインを出すのが精一杯だった。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
稚拙で至らぬ文章ですが どうぞ温かく見守ってくださいませ。
くどいようですが 本当にありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。