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奇人譚――狐――

作者: 橘颯

 不可思議な感触に右の掌を開くと眼球が埋まっていた。

 道理で視界が半欠けしている訳である。

 元々眼の在った箇所は目蓋の名残を残して塞がってしまった様だ。

 移ってしまった物は仕方が無い。

 どれ、と掌の目で外界を見たならば、其処此処に異形が蠢いていた。

 現は元より百鬼夜行らしい。

 掌の目がぎょろりと動いたので、釣られて其方を向く。

 蒼白い火の玉が揺々と漂っていた。

 道往く者には見えないらしい。

 何かに吸い寄せられるかの様に其れは一人の男の前へ回り込む。

 ふっと消えると同時、男が此方を振り返る。

 「御同類か」

 男の目元に開いた口が蒼い光を零して笑っていた。

 懐手で近付いて来た男は無遠慮に私の顔を覗き込む。

 間近に迫る口に、ぷうと蒼い息を吹き掛けられて仰け反ると、さも面白げに笑われた。

 失敬な奴だ。

 眉を顰めたが、次にはっとして男の片目、では無く哄笑する口を指差す。

 「往来でそんな物を晒していて良いのか」

 私の云いに男が又笑った。

 「誰にも見えやしねぇよ。いや、誰も見ちゃいねぇと言うべきかね。世の中の人間なんざ、皆明き盲さ。お前さんは見えるらしいがね。いや、あんたの手は見え過ぎるのか。でも、面白ぇだろう」

 立て板に水の勢いで言い募られた言葉に頷く。

 此の世為らざる物が見えると言うのは存外に面白い。

 私の態度に気を好くしたか、口目氏――と、称させて貰おう――は俄然早口になる。

 「天神様が口になった女給とか居りゃあ、面白いがね。未だ会った事はねェな。俺が他に知ってんのは、耳無し位なもんだ――会ってみるかい」

 着流しをはためかせて歩き出す背を一拍の逡巡の後、追う事にした。


 裏道のどん詰まりに其の店は在った。

 板塀に囲われた間口は狭く、其れと知らなければ行過ぎるだろう。

 排他的な構えを見せる其処に口目氏がづかづかと入って行くので、慌てて後に続く。

 来なければ良かったと思ったが、今更遅過ぎる。

 硝子戸の奥には何やら陰気そうな男が一人座っていた。


 硝子戸に刷られていた『ヨロズ古道具・古本商ヒ 浮雲堂』の文字通り、店内には物が雑然としている。

 堆い物達によって何処か翳りを帯びた室内に、其の男の姿は瞭然と浮き上がって見えた。

 右の耳が無い。

 すぱりと刃物で落とされた、と言うよりは元より存在しないかの様だ。

 私と同じく。

 「いらっしゃい等とは言わないよ。何しに来たんだい」

 浮雲堂の主は此方を一顧だにせず、我々が来た時より開いていた本を眺めながらそう言い放った。

 初め陰気そうに見えたのは俯向いているからで、間近だとそうでも無いと知れたが、そんな事はどうでも良い。

 及び腰の私を目口氏が遮った。

 「こいつは琵琶。耳無しだからな」

 ぐいと太い指が店主を指す。

 「んで、お前は比目だ。比目魚ったらカタメだろうに。俺ァ、そうだな、巵子でいいわ。分かり易いだろう」

 滔々と述べる口目氏の頭を、琵琶と呼ばれた店主が叩きの先で打つ。

 勝手を云うでないよ、との声は本の向こう側から届いた。

 見もせずに打ったのか。

 「時に、君は其処に居る物が見えるかい」

 唐突に突き出された指の先を追うと、何だか百足の様な物が宙を漂っているのが見えた。

 無数の足を持つ蟲が空気を掻いて居ると告げると、漸く琵琶氏の眼が書面より上げられる。

 「生憎と僕の目には細い何かとしてしか見えない」

 薄い口唇が弧を描いた。

 続いて、君は何か聞こえるかと問われる。

 この場合、普通の音では無いのだろう。

 素直に首を横に振ると、さもありなん。

 僕には聞こえると、懐から作り物の様な耳殻を出して見せる。

 「そいつは紙魚が餌らしく、紙魚よ来いと呼んでいるんだ」

 本も商っているのに良い迷惑だよ、と嘆息された。

 「取り合えずお前ェの話は置け」

 更に何か云いたげな琵琶氏だったが、巵子氏は其れを遮った。

 「だから、俺の目っつうか口で喰ってやるって按配でね。比目よゥ、其の百足はどの辺だ」

 問いに、掌目で蟲を見直す。

 明確な位置を示すと、言葉の通りに巵子氏は口をばかりと開いて百足を喰らった。

 「『目』が有ると分り易くていいさね」

 と、蟲を咀嚼する音の合間に巵子氏は言う。

 「此れも何かの縁だ。異形同士、三人で仲良くしようじゃないかィ」

 一括りに化物扱いをされた。

 琵琶氏も憤慨するのではと顔色を伺ったのだが、意に反して薄ら笑いを返される。

 其れは、底意地悪げな笑みだった。

 「『目』が欲しかったから丁度良い」

 本を閉じた手が、一枚の地図を引っ張り出す。

 「一寸、確かめたい事があってね。狐憑きなんだが」

 痩せた指がとん、と一つ箇所を指す。

 弁天社に程近い屋敷。

 「御膝元で狐憑きとは少々出来過ぎだけれども」

 琵琶氏は私が思っていた事を読んだかの様に言った。

 「なァに、膝元だからさね」

 おくびを一つ吐き出して、巵子氏。

 卓上より地図を取り上げると、ひらり振った。

 「早速行くかィ」

 誘い水に躊躇する私を置いて、琵琶氏は事も無げに立ち上がる。

 「季節外れの肝試し。怖気はしないだろうね」

 肩口へと食い込む指は、否やを許さない強さだった。


 男三人が連れ立ち、路を行く。

 むさ苦しい事この上ない。

 がごろはたりと響く跫を耳に、ひそり嘆息。

 何故に此の様な事態に在るのやら。

 繰言を言った所で詮無く、両脇を挟まれる格好で進むより他無い。

 だらり下げた手に路々を行過ぎる異形が写るも、街は何時も通りの賑わいだった。

 そんな私を気に留めるでも無く、巵子氏と琵琶氏は先を目指して歩む。

 時折煩げに琵琶氏が眉根を寄せるのは、街中に犇く異形の声を聞いてしまう為か。

 対し、巵子氏は見えも聞こえもせぬので気楽な物だ。

 稀に口へ飛び込む異形を咀嚼するばかりである。

 だが、其処ではたと気付いた。

 誰も、私達を注視していないのだ。

 異形に気付かぬのは無論の事、躰を欠いている男等が連れ立っていると云うのにも関わらずである。

 ――誰にも見えやしねェよ。

 巵子氏の言葉がふと甦る。本当に見得ないのだ。

 欠けた目も、口も、耳も。

 其れ等が別所に付いている事も。

 くらり、とした。

 何故、なのだろう。

 何故気付かない。

 態と掌を外界に晒してみれど、矢張り人目は私を素通りして行く。

 奇怪に首を捻ると、何でェと横合いから口が覗いた。

 巵子氏が此方を覗いている。

 「琵琶の与太に呆れてると思やぁ朦朧かい」

 与太。

 其の言葉に目を向ければ、何、と琵琶氏が笑った。

 「何と云う符合だろうと云うのだよ。鬼は、日月の眼だそうでね。左が日で右が月。我々が揃って右を損なっているのは、紛い物だった月が真月に置き換わったとでも云うのかねぇ」

 琵琶氏の声は柔らかである。

 「又、鬼は陰なる物だから」

 大通りより裏へ入りながら、不意に言葉を切った。

 「我等は既に半ば陰に飲まれてるのだろうよ」

 静か笑んで琵琶氏が紡ぐは、承服しかねる云いである。

 「陰に飲まれ、否、喰らわれて、其ンの代わり鬼の軆をば頂いたってェ、此の莫迦は云うんだよ。元々彼方のモンだから、彼方の『住人』が解るんだとサ」

 ――阿呆らしいや。

 巵子氏は唾棄する。

 其れを横目にしても、琵琶氏の面は変わらない。

 「一年神主は潰された目で常成らぬ世を見るとの話もある」

 そう云って、此度は私の面に目を遣った。

 「正に、貴方と同じく」

 巵子氏の鼻が鳴る。

 「ふん、そいつァ如何でも良いがね。見えりゃァ良いんだよ、見えりゃァ。其の為に連れてんだ」

 何と云う言い種だ。

 人を道具の様に。

 流石に一言なりとも云ってやろう。

 そう口を開き掛けた矢先、ひたりと琵琶氏が足を止めた。

 「嗚呼、此処だね」

 見遣るは、ぐるり黒板塀にて囲われた屋敷が一つ。

 右顧左眄している内に目的の場に辿り付いたようだ。

 表札は、無い。深閑としている。

 周囲に連なる家々も静かな物だ。

 子らが路で遊ぶ事も無い。

 ラヂオが何処かで鳴っているのが微かに聞こえるばかりである。

 「此処はそう云う場所だからさ」

 したり顔の巵子氏は、既にべたりと隻眼を板壁に押し付けていた。

 元より覘き見をする積りだったのか。

 琵琶氏も同様の姿である。

 「此奴ァシャンだ。手前ェも見てみろ」

 勧められて恐る恐る覗く。

 先ず見えたは、簡素な庭。

 そして緋色。

 だが、即座襟元を引かれた。

 「『そっち』じゃねェよ」

 ぐいと手首を取られ、掌を抉じ開けられる。

 「『こっち』で見なけりゃ意味がねェだろうよ」

 べたり。

 掌が板塀に張り付く。

 目玉が動いた。

 ぐりぐりと掌で蠢く目玉が、壁の向こうを捉える。

 庭が今一度脳裏に写った。

 そして、緋の着物を纏った女の姿。

 蒼白の面が縺れた髪の間より覗く。

 かくり。

 歩む都度、絡繰の如く揺れる首。

 上向いた顎先は細く、切れ上がった眦と云い、正気ならば確かに美しかろう。

 常態であるなら。

 けーん。

 婦が鳴く。

 矢張り狐憑きだ。

 虚ろな眼差しが宙を撫ぜる。

 一度、二度。

 又、白く燥いた口唇が戦慄く。

 鳴声が今一度。

『あれ』は婦が鳴いたのでは無い。

 口唇が動いた後に昇った。

 琵琶氏が呟く。

 嗚呼、宵闇より尚黒い何かが婦を取り巻いている。

 見えたのは、黒い、くちなわ。


 ざ、り。

 靴裏が砂を擦る。

 否。

 あれは蛇では無い。

 女の後背より伸びる、九重の蔓。

 うねり、撓み。

 痩せた四肢に這いずる黒は蛇に紛う。

 だが、決して蛇では無い。

 生えて、いるのだ。

 婦の躯に。

 奇怪なる寄生植物。

 頭頂を越えて伸びた茎の先、花芽めく膨らみが揺れる。

 狐、が嗤った。

 射干玉の花弁が内より捲れ上がり、紅が覗く。

 其れが開かれた獣の口だと気付いた瞬間、喉が蠕動した。

 声の限りに上げた筈の叫びは音を持たず、口腔が燥く。

 脳内に鳴り響く警鐘。

 ざくり。

 壁上の庭木が騒ぐ。

 其の音を辿るが如く、狐の首が動いた。

 焼け融けた炉色の目が壁を撫でる。

 梢の雑喚きが高まった。

 狐の双眸はつると滑り、鎌首擡げて樹上を見上げる。

 掌の目が私の意とは裏腹に後を追う。

 枝間の昏がりに、鞠の様な塊。

 恰も、小児の頭に、似た。

 婦が哭く。

 狐が嗤う。

 視界が、翳った。

 足下が泥濘み、飲まれて行く。

 消え行く意識の端、狐の聲が谺していた。



 膠漆の闇。

 粘着く黒に包まれた躯は緩々と沈んで行く。

 昏く淀む底。

 其れは何処か紅く生臭い。

 其れが獣の口腔だと知れた瞬間、視界が開けた。

 「漸く覚醒たかィ」

 声と共、間近い異相に仰け反る。

 視軸を彷徨わせば、見覚えのある品々が並ぶ屋内。

 どうやら浮雲堂に戻って来た様だった。

 「失神したお前ェを担いでやったんだから、精々感謝しろィ」

 不逞不逞しく笑い、巵子氏が顔を引く。

 「次は気ィ保てよ。さもねェと」

 肩口に置かれた手に力が篭もった。

 思わず顔を顰める。

 すると、余り脅すんじゃないとの声。

 其の優しげな口調に絆され掛けたが、元を辿れば同罪である。

 「其れで」

 身を起す私に手を貸しながら、琵琶氏がぽつり零す。

 其れで、とは何だ。

 訝しみと同等の恨心が顔に出たか、宥めるように肩口を軽く叩かれた。

 童であるまいし、誤魔化される物か。

 眇んだが、飄然と躱される。

 「何が見えたのか、だよ。気を失う程だ。『何か』が居たのだろう」

 其の言葉に、ぞくと背筋が震えた。

 堕ちる寸前、又目覚めの寸前。

 何方にも焼付く紅黒く滑る闇。

 蛇、否、狐、が。

 縺れる舌が意に反して音を綴る。

 嗤う狐が、居た。

 まるで婦を縛める様に。

 後背から生えて、居た。

 黒い、狐が。

 じわり、汗ばんだ掌を握り込む。

 目が怖じる様に震えた。

 厭に喉が渇く。

 其の癖、たらたらと汗が流れ落ちる。

 粘着く其れを袖で拭う私の様を眺めていた琵琶氏が、成る程と顎を撫ぜた。

 「薄朦朧とした靄が見えはしたが、僕には其れきりだ。矢張り良く『見える』目だねえ。『次』も頼むよ」

 ――僕達には其の目が必要だ。

 其の言葉に鼓動が跳ねた。

 「厭、だ」

 絞り出した言葉に、三つの眼が此方を向く。

 鼻腔に生臭さを覚え、口元を押さえる。

 あれは人が関わる物では無い。

 狐も、そして樹上に見えた首もそうだ。

 見えた所で何が出来よう。

 「お前ェはよ、助けたくは無ェのかい」

 俯向く頭に落ち掛かったは低い響き。

 巵子氏の声だった。

 「あの婦から狐とやらを剥がしゃァ、正気に戻るかも知れねェってもんだろう。唯の気狂れなら兎も角、余りにも哀れじゃねェか」

 滔々と押し寄せる言葉。

 鼻白みながらも口を挟む。

 如何やって剥がすと云うのだ。

 巵子氏がにたり笑む。

 「云ったろう。俺りゃア、あいつを『喰える』んだよ」

 薄い口唇を舌が嘗める。

 へたり、へたり。

 舌舐め擦りを擦る様に。

 てらり光る其処を掌で拭い、巵子氏は云う。

 「どうにも、此奴は化物を喰いたいらしくてよ。お陰で俺は何時でも腹ッ減らしだ。此方も哀れと思わねェか、ええ。手前ェにも情があるなら、手を貸す位造作もねェだろうよ」

 「まあ、貸して貰うのは目だけどね」

 横合いからの混ぜ返しに、茶化すなと巵子氏が袖を捲る。

 其の筋の浮いた腕を見、続いて己の貧相な手首を見た。

 更には彼の婦の細首を思い出し、拳を握る。

 乱髪の狭間、覗いていたは青白い花茎に似た喉。

 憑かれ故の衰えなのだろうか、あの繊さは。

 ――化物は未だ恐ろしい。

 くわと開かれた顎の幻影にすら身は竦む。

 ――だが、確かに哀れが過ぎった。

 無論、巵子氏に対してでは無く、婦にである。

 何故、あの様な災禍に見舞われているかは知れない。

 何かしらの業故かも知れぬが、あの儘化物に憑かれ続ければ、何れは――死ぬ、のか。

 鼓膜の奥、谺した声に背筋がびくと震えた。

 そう、あの婦は死ぬのやも知れない。

 軈ては生気を吸われて干乾びる。

 或いは頭より丸呑まれるか。

 推測は何れに転ぼうと惨禍より逃れ得ぬ。

 仮に死なぬとて。

 其れは彼の狐により生かされているに過ぎぬのではないだろうか。

 餌、として。

 唯、化物の餌として生かされる。

 其れは自我を無くした果てならば、最早恐れを抱く事も無い。

 否、怖れる事すら出来ぬやも知れない。

 白痴の無我が儘に死ぬは、病の果て臥所にて苦しむよりは安楽だろう。

 だがしかし。

 其れは。

 右の手を強く押さえる。

 『其処に至る迄』は如何なのだ。

 「本当に、喰えるのか」

 思わずと口を突いて出た声は、己の物と思われぬ程低い。

 然もありなん。

 私には一つの肚積りが出来た。

 「おうよ、馬だろうと呑んで見せらァ」

 威勢良く嘯いた巵子氏は次いで好色な笑みを浮かべる。

 「按排良く始末した暁にゃ、懇ろにだって成れるかも知れねェしよ」

 だが、今は其の云いとて癇に障らなかった。

 下がった血の気が再び頭を巡るにつれ、己の内で声が囁く。

 お前の背を押したは哀れみでも、義憤でもなかろう、と。

 如何にも。

 肯定は胸に収め、二人を見遣る。

 ならば、良いだろう。

 そう、矢場に意を翻した私に、満足げな笑みが返された。


 再訪を決めたは良い。

 だが、かと雖もである。

 先は覗いたばかりだったが、若し彼の狐を喰らうとあらば、行くは黒板塀の内。

 狐祓いに鳥渡、との云いでは官警も納得しないだろう。

 世間的に、婦は唯の自失状態である。

 其れを良い事に押し込んだ等と思われては事だ。

 不名誉甚だしい。

 「其れならば問題は無いよ」

 とは、琵琶氏。

 「内に入る伝手はある」

 そう飄然とのたまうのに、胡乱な目を向けるは致し方ない事だろう。

 ならば、覗きなどせずに済んだ筈である。

 じとりと粘性の眼差しにも動じず、彼は涼しげな顔で笑った。

 「そう睨まないでくれないか。理由があるのだよ」

 何事も段取りが必要でねと無い耳を撫で、琵琶氏は続ける。

 「彼の婦には狐が憑いております、よりは、彼の婦の背には此れ此れこう云う物が見えますると、仔細を申し上げた方が通じ易い。八卦見とて、初見から貴方の将来はこうなるでしょうなと説いたりしないだろう。話を通すには手順があるのさ」

 確かに、彼の云う通りではあった。

 「そう云う訳で此方から先方に話してみるよ。明日又来てくれないか」

 語調は柔らかい。

 だが、此方に有無を言わせぬ様にか、琵琶氏は言い切るなり瞭然と背を向けた。

 高説を垂れておき乍、余りにも冷淡な態である。

 「応、そうかい」

 すると巵子氏も仔細を聞かず、腰を上げるでは無いか。

 「鳥渡」

 一歩を踏み出し掛けた処で、蹈鞴を踏む。

 腕を押さえる掌が一つ。

 何事かを問うより先、巵子氏は私の腕を易々引いて外へ連れ出した。

 「心配は要らねェよ」

 後手にがしゃり、硝子戸を閉めて一言。

 「奴さん、この薄汚ェ舗とは別に糊口を凌ぐ術を持ってやがるのさ」

 と、首を竦めた。

 「口先の事なら琵琶に任せとけ。こっちにゃ仔細は要らねェ。嗚呼云った手前、何とかならァ」

 大層な信頼も有った物である。

 巵子氏は良いだろう。

 此方は行き先知れず、では無いが、泥舟に乗って向かう様な心持であると云うのに。

 肚の底、未だ凝る煩悶に眉を寄せると、手が外された。

 「何でも知らぬ方が倖いッてェもんさ。知れば得る不幸もあらァな。お前ェはもう身に染みてんだろ」

 くわと目口を開いての呵呵大笑を揺曳し、巵子氏は隘路を抜けて疾く姿を眩ました。

 結局の所、散々に振り回された挙句、煙に巻かれた様な物で。

 最早悄然と家路を辿るより他無かった。




 値踏みする様な目が此方に向けられていた。

 其れはお前は何者かとの懐疑を宿した物であり、此方の顔面を――正しくは、欠損を――訝しむ物では無い。

 其の事に落胆しつつ、一方では尤もだろうと思いもする。

 ――猜疑もするだろう。真っ当なら。

 呟きは朗々と語る琵琶氏の声に消された。

 何しろ、其方が祓屋か、だったのだ。

 此方へと依然無遠慮な目線をくれ続ける男が、開口一番に云ったのは。

 見返す事も苦痛となり、卓の板目をなぞりながら現状置かれている場の発端を思い返す。

 先ず浮雲堂を訪っていた筈だ、私は。

 だのに今はカフェーで見知らぬ男を前にしている。

 ああ。

 浮雲堂に着いた途端、待ち構えていた二人に因って其の儘カフェーへと連行されたのだったな。

 微か嘆息する。

 自分は斯くも流され易かったかと悩む暇すら有りはしない。

 あれよの間に舗に連れ込まれ、赤革のソファに掛けた男と対峙させられた訳だ。

 其処で、先刻の言葉である。

 祓屋。

 そんな物になった覚えは毛頭無い。

 動揺する私を置き去りに、琵琶氏と男の間で話は先へと進んで行く。

 此の話も、傍から聞けば眉唾物である。

 琵琶氏曰く、我々は此れまでに数多の怪異を人知れず祓っている専門家、だそうだ。

 此れを信じるのは、純真無垢な童くらいだろうに。

 更には巷に流れ、何時の間にやら消え失せた怪談の幾許か。

 暗闇坂にて立て続いた事故。

 柳町の首絞め柳。

 廃寺から響く鐘音と云ったちゃちな物迄、此度は巵子氏と口裏合わせて滔々と語り、私共が祓った物などと云う。

 噴飯物の作り話でしかない其れを、男は何故か神妙に聴いている。

 斯くして二人が空言を語る事、一頻。

 一息吐いた所で、男が漸く口を開いた。

 「其れで、彼奴には何が見えたのでしたかな」

 凝乎との視軸は変らず、抑揚少なき声音を乗せて此方に届く。

 神妙と見えたは誤りで、矢張り疑心を内にしながら黙していたらしい。

 竦む私を巵子氏が小突いた。

 「其れは先に申した通り此奴が視ておりますので」

 と、横合いから肘鉄一つ呉れておきながら澄まし顔で巵子氏が云う。

 勝手な事を。

 文句は喉で霧消した。

 男の眼光が一層身に突き刺さる。

 無言の促しに気圧されて俯向き乍らも

 「狐が婦を縛めておりました」

 と如何にか声を絞り出した。

 男から照射される圧力は未だ失せない。

 「詳細を」

 言葉少なに促され、唾を飲み込むと上目に前方を伺う。

 男の口辺が僅かに引き攣っている。

 嗤って、いるのだ。

 与太話を、と。

 「背より生えた黒狐が十重二十重に婦を締め上げておりました」

 苦く渇いた唇を湿らせ、言葉を吐き捨てた。

 腹の底が厭な風に熱を持つ。

 怒り、否、寧ろ羞恥の果てだろう。

 自身でも愚答と解っている。

 ところがだ。

 俄かに男の纏う気配が変った。

 「其れと」

 云って、軽く手を掲げる琵琶氏に男が首を向ける。

 「あの屋敷からは『赤子の聲』が」

 途端、男の顔色がすうと消え、蝋石が如く凝った。

 青い唇ばかりが微かに震え、真逆、だのと呟いた様に見える。

 鼻の頭に汗玉まで結び、先刻の横柄さに比べると余りの変り様だ。

 聲を掛けるか、掛けまいか。

 逡巡は一拍程。

 其の間に男はぐと洋杯の水を呷り、自ら落ち着きを取り戻した。

 表情は優れぬ儘だが、きつと此方を睨んで一言。

 ――云う心算、だったのだろう。

 しかし、其れに先んじて琵琶氏が口を開いた。

 「赤子を真似る狐も居るのです」

 半ば口を開いた儘の男を前に、なあと頷き合うと眉を寄せて見せる。

 乗じて、巵子氏もつらりと地方の狐憑き話等を諳んじた挙げ句。

 「余り宜しくない」

 陰鬱に首を振った。

 言葉の接ぎ穂を奪われて呆然と座す男に、琵琶氏が今一度向き合う。

 「過日申し上げた通り、此方の望みは彼の婦に面通し下さる事」

 此処で間を置く事暫し。

 十二分に勿体付けてから、聲を継ぐ。

 「其れだけ、ですが」

 上辺には真摯に見える面差しに、男が怯んだ。

 最早、呑まれている。

 其れを好機としてか、琵琶氏は身を乗り出す。

 にこり、と。

 浮かべるは一見、人好きのする笑み。

 「屋敷に上げてくれますね」

 畳み掛ける様な物言いに、反語は無かった。

 男の顔色は今や目まぐるしく移り変わり、懊悩を覗わせる。

 しかし終には、諾の一言を軋む様な声音で吐き捨てた。


 音高に席を立った男は、最早此方を返らずに舗を出て行く。

 其の遠ざかる背を窓越しに眺めて、詰めていた息を漸く吐き出した。

 全く、出任せ、出鱈目も良い所だ。

 非難を込めて隣方を見遣る。

 途端、だがね、と涼しい聲が返って来た。

 「僕も君も、全くの空言を云った訳では無いだろう」

 「お前ェは狐が『巻き付いていた』と云ったろィ。彼の婦には岐度、締め上げられた痕が膚に残ってるんだろうよ。じゃなきゃ、ああも顔色を変えねェ」

 口端を掻き乍、巵子氏。

 「君等には聞こえなかったかも知れないが、僕には赤子の『笑い声』が聞えていたのだよ」

 と、琵琶氏が続ける。

 「何れも、此れと思い当たる節が有るから狼狽えるのだ。元より清廉潔白とは云えぬ身であれば尚更にね」

 鼻先で笑って吐き出された言葉に、首を捻る。

 「して、あれは一体誰だったのだ」

 此れは当然の疑問だろう。

 だのに、何を今更と云わんばかりの目で見られて曰く。

 「あれは婦の旦那さ」

 「――良人[オット]、が居たのか」

 そう零すと、給仕を呼ぶ序でとばかりに頭を叩かれた。

 「違ェよ。情夫[イロ]に決まってんだろ」

 声を潜めもせず、いけしゃあしゃあと巵子氏は云ってのけた。

 「囲った婦があれだからと放り出しゃ、其れは其れで詮索されるだろィ。まあ藁にも縋らァ」

 大っぴらに語る事では無いだろうに。

 給仕が来ようと一向に頓着無い巵子氏に苦言を呈しようとした矢先、計った様に琵琶氏が口を出した。

 「さて、腹が減っては何とやら。取り敢えずは何か入れてから行こう」

 ……提案顔した断定である。

 溜息交じり、差し出された品書きを受け取った。



 黒板塀一枚。高が其れきりの境界を越えた所で、異臭が鼻を突いた。

 じとりと湿った庭先。釣瓶も落ちた井戸からも腐れた臭気が昇って来ている。

 だが、其れ以上に芬々と漂うは畜生臭。

 矢張り此処は狐の棲家なのだ。

 息を呑むと、薄昏がりに潜む影が身を起こす。

 婦の青い唇が嗤った。



 舗を出た後は一路しか無かった。

 三人して昨日訪ったばかりの家へと向かう。

 両脇を固められて居たのだ。

 横道に逸れる事も出来無い。

 連行されると云う言葉が似合う道往きの終着には、当然の如く黒板塀の家が佇んでいた。

 周囲は変らず閑静だが、単に息を潜めているのやも知れない。

 呼び鈴を押した所で応えは無い。

 電気が通じていないのか。

 はて又、呼び鈴に応じる事も出来ぬ昏迷に陥っているか。

 私の思案を他所に、御免下さいの聲も空々しく、二人は無遠慮に門の内へと踏み込んで行く。

 寸分の躊躇も無い。

 必然、独り取り残される形となり、慌てて後を追った。

 碌に鍵も掛かっていない戸を躊躇無しに引開け、二人は屋敷の内へと入り込む。

 其の間にも家人に呼び掛けてはいるが、依然として応えは無い。

 此方は納戸。此方は水屋だった。

 そう云い合い事も無げに検めて行く二人の背を追いながら、頸筋が粟立つのを抑えられなかった。

 婦は、未だ出て来ない。

 しかし、何処かからか粘着く様な空気が漂って来る。

 じつと此方を覗う気配。

 鼻腔に張り付く異臭。

 息苦しさに一度表に戻ろうと云い掛けた矢先。

 巵子氏が小気味良い音を立て、一つの襖を開いた。

 先ず見えたは微昏い庭と朽ち掛けた井戸。

 そして。

 ゆらりと。

 立ち上がるは幽鬼の影絵。

 着る、と云うよりも辛うじて巻き付けられ、ぞろりと引き摺る着物。

 揺れる蓬髪より覗く赤黒い眼球。

 引き伸ばされた青い唇は吊り上り、異界の笑みを模る。

 婦が、其処に居た。

 辛うじて差し込む光と影の狭間。

 残照の茜色を背負い、婦は笑う。

 白の着物を紅染めて。

 唯嗤う。

 聲も無く。

 狐の姿は未だ見えぬ。

 が、婦も又此岸の者には見えなかった。

 「嗚呼、此処に居ましたか」

 気安い琵琶氏の云いに、婦は応えない。

 最早正気や否やと云う次元では無い。

 境界を越えて彼岸に立つモノ。

 人の法など及ばぬ場に在る者に、何の言葉が届くというのだ。

 そして。

 婦の姿が消えた。

 否――跳んだ、のだ。

 薄汚れた足で褪せた畳を蹴り付け、宙に帯を靡かせながら。

 正しく獣の如き跳躍。

 琵琶氏目掛けて飛び掛る、鬼女の形相。

 くわ、と開かれ覗く口腔。

 捕食者の歪な笑みが横に流れる。

 「――済まないねェ、姐さんよ」

 軽薄な謝罪と共に、巵子氏が掲げた足を下ろした。

 「痛かったかィ」

 労りの言葉が空々しく室内に拡散した。

 「抱き付くにしろ、も少し色気を出しちゃァくれねェかィ」

 蹴り飛ばされて無様に畳に四肢付く婦を見下ろし、目口双方で笑みの弧を形作る。

 「御得意だろうに、なァ」

 詼りの聲に、白顔がふと凪ぎ。

 みちり、みちり。

 婦の背肉が軋む。

 婦が髪を振り乱すに併せ、着物が波打つ。

 襟をはだけ、顕現するは異形の花。

 うねり、くねり、のたうち。

 四つ這いの背より、狐の長く突き出た口吻が這い出、高々と首を擡げる。

 眼に灯る瞋恚の焔も赤々と。

 九重の黒尾を、鞭が如く打ち振りつつ。

 ――けぇーん。

 狐が、婦が、哭いた。

 今正に迫りし鬼哭啾々たる宵闇に、炯々と煌く四つの眼。

 忿怒の形相。

 其れを前にして尚巵子氏は、狐の御出座しィ、等と軽薄な口を止めない。

 がりがりと畳を掻く婦を嘲り乍ら一歩、踏み出し掛ける様に、はたと気付いた。

 視得ていない、のだ。

 そう、彼の狐が視得るは――私、のみ。

 咄嗟、だった。

 巵子氏の襟首を掴み、強く引く。

 ぐえと蛙を締め上げた様な呻きが聞こえたが、如何でも良い。

 次の刹那、敷いたきりであろう薄汚れた衾褥を蹴り飛ばし乍ら、婦が、狐が迫る。

 頚の在った箇所を横薙ぐ鋭い風切り音。

 黒白の残像は婦の白腕と狐尾か。

 背に、霜が降りた。

 追撃は颶風。

 襲い掛かって来る腕を、首を、半ば匐う様にして避ける。

 最早、巵子氏を庇ってなぞいられはしない。

 庭先を目指せば、衾褥に脚を取られた。

 傾いだ視界に迫る影が映る。

 次いで、喉にひやりとした感覚。

 何故と訊う暇も無く、添えられた白磁の両手が喉を締め付けてくる。

 凄まじい圧迫感に目が翳む。

 血の道が塞がれ、轟々と鼓膜の奥が唸る。

 焦点が合わず揺れる視界。

 其処に、ざあ、と茶褐色の霧が唐突に広がった。

 其の途端、喉を締め上げるのを止め、嗄れた悲鳴を零して婦が翻筋斗つ。

 哭き乍らのた打つ躰の傍より躄ると、琵琶氏に背が行き当たった。

 「嗚呼、効いて何より」

 呟きを耳に留めながら、顔に纏わり付く物を袖で拭う。

 布地に乗った其れは――枯草と獣毛、か。

 戸惑う私の頭上に聲が降る。

 「狐は烟草と狗を嫌うと云うからね。用意しておいて良かったよ」

 助けの手を伸べながら寛爾として笑う琵琶氏に、二の句が継げず固まる。

 何故最初から使わないのだ。

 脳裏に言葉が過ぎりこそすれ、喉元に残る感触に声は詰まる。

 呆然と見返す私。

 其の後頭に衝撃が爆けた。

 「ぼさっとしてんじゃねぇよ、比目よゥ」

 がしりと髪を掴まれ、首を捻られる。

 「狐の貌は何處だ。手前ェしか確と見えねェんだ。今の内に、押さえろや」

 更に手を捻じ向けられ、『目』に入れられたは跳ね回る狐。

 其の目に熾火の如き怒りが漲っているのを見、ぐりりと掌が蠢く。

 異形の目ですら怖じているのだ。

 其の眼光に。

 息を呑むと、耳元に囁きが落ちた。

 「彼の婦を『助け』たくはないのかィ」

 瘧の如く震える躰を巵子氏が強く叩く。

 背を押す力に、慣性として前にのめる躰。

 見開いた眼に写る、涙に濡れ、口角から涎を垂らす婦の顔。

 歪んだ面に、縋る様な色が微か揺れる。

 否、揺れた様な気がしただけ、だ。

 しかし。

 南無三ッ、と膝に力を込め、畳を蹴る。

 此處で此の婦が『助からない』のならば、意味が無いのだ。

 張り詰めた憎悪は未だ縛を解かれていない。

 余程に烟草と狗毛が効いたか。

 ささくれた藺草を叩く尾も緩慢に、狐首は婦の背に預けられている。

 怨々と唸りを上げる黒い口先。

 其れだけを一心に凝視し、腕を伸ばす。

 察したか、くわと広がる赭い虚ろ。

 封じる様に上下から押さえ込んだ。


 掌に触れる、滑りとした感触。

 びくりびくりと脈打つ獣の顎を躰ごと押さえ込む様にすると背面から何か撓る音が響き、心臟が跳ねる。

 そうだ。

 首を押さえたとて、尾が残っている。

『もう一つの目』は混濁しか映さず、焦躁に顔を擡げると、至極楽しげに破顔した巵子氏が傍に、居た。

 「嗚呼『其処』かィ。押し倒してる様にしか見えねェが」

 揶揄の言葉にも被さる風音に、顔から血が引いて行く。

 にも拘らず、巵子氏は気楽げに屈むと、『宙に浮く手元』を覗き込んだ。

 「捕まえちまえばァ、此方のもンよ。なあ」

 そう、にたりと片目が嗤った次の瞬間。

 奇怪な音が、した。


 ぞ、るん。

 空気が軋む。

 同時に拘えた物が大きく慄き、跳ね飛ばされた掌は見た。

 黒狐の突き出た口吻が、欠けている。

 否、呑まれているのだ。

 婦の背にぐうと近付けられた半顔、其処に在る『口』へと。

 ぞるぞるぞる。

 音を立てて。

 恰も気安く蕎麦を啜るかの如く。

 怪異が、喰われる。


 正に、異様。

 瞬く間にも狐の首は飲まれ、藻掻き宙を掻く肢もが、爪を立てる事すら叶わぬ儘に喰われて行く。

 頭を飲まれた為か。

 くねる尾の一つが躯に振り落とされたが然程の力は無く、只撫でる様にして落ちて行った。

 びくりびくり。

 戦慄く様は断末魔。

 横たわる婦の顔も又蒼白に。

 九重の尾が一つ減り、二つ減り。

 其の都度、婦の躯は跳ねる。

 苦鳴を上げるで無く、呆然と開いた双眸より零れ落ちるは球の雫。

 其れを傲然として応対い、巵子氏は婦の肩に手を掛けて畳に縫い止める。

 『食事』は残す所、尾一本。

 ぞぞと吸い上げ、此れで終いと、がちり、歯が鳴った。

 噛み合わされた歯元より欠片が一つ零れ落ちる。

 畳に跳ねたは、飲まれ切らなかった本当に僅かな尾の先一欠。

 「不可ねェ。喰い残したかィ」

 見えはせずとも口唇を掠めた感触で知ったか。

 巵子氏がぐるり隻眼を回す。

 其れは不可ないねと傍観を決め込んでいた琵琶氏が意味深に私を見た。

 「比目君、先刻の様に捕まえておくれよ」

 つらり、吐かれた聲は柔らかい懇願の態。

 「僕には見えないし、此方も此の儘ではねぇ」

 正体を失くした婦を如才なく抱き上げがてら、じつと琵琶氏は私を見る。

 巵子氏も同様だ。

 見る。

 見られる。

 視線の圧。

 「其れが又憑いたら」

 止めの言葉が来た。


 捕まえる、となれば触れねばならない。

 掌には未だ先刻の生暖かくも粘液めいた触感が残っている。

 躊躇していると、毛塊は突如として空恐ろしい勢いで庭の方角へ走った。

 咄嗟踏付けんとする足をも掻い潜り、一目散。

 縁側を飛び降り、井戸傍を抜けて樹上を目指し、幹を登って行く。

 遁走する毛玉が最下段の枝を這い登る。

 と、其れを待っていたかの如く樹間から青白い貌が覗いた。

 小さく無垢の顔。

 齢にして精々一つか二つの児か。

 福々と丸い指が差し伸べられると、狐の残骸が温和しくとぐろを巻く。

 そして、にこりと稚い笑みを残して、児は葉陰に沈んで行った。


 「逃がしたのかィ」

 横合いから不服げな聲が掛かるも、樹間より目が離せない。

 「到底、捕えられる速さでは無かった」

 ――我乍ら弁明じみた口調だが、事実である。

 其れよりも。

 「彼処に児が。児があれを捕らえたのだが」

 指差すは宵闇に黒塊と化した樹梢。

 私の云いに、琵琶氏が嘆息した。

 「君の目は本当に色々と見るのだね」

 呆れと、同等に好奇を交えた其の声色。

 又、餓鬼なんざ如何でも良いだろィ、と粗略な巵子氏。

 捕まえろと云っておき乍ら余りの態度に、かっと血が沸いた。

 「君、其れを如何する気だ」

 聲を投げ遣るも児は顔を見せぬ。

 葉が揺れる事も無い。

 ならば今一度。

 すると、徒労だよと遮られた。

 「巵子は見えたかい」

 琵琶氏の問いに、巵子氏はけんもほろろ。

 「見てねェ」

 と、短く言い捨てる。

 「君にしか見えぬ児ならば、大方此の婦の子だろう」

 敷き直した褥に横たわり細々と息を績ぐ婦をの襟元を正し乍ら、琵琶氏は尚もつらつらと。

 「狐、其れに蛇形。使い、其の物じゃぁないか。天神が子を哀れんで授けたのだろうかねえ」

 薄らとわらいの雑じる聲は耳朶を掠めて闇溶ける。

 ――あの様な物を神の使いと云うのか。

 口に出さず拳を握れば、此度は確かに『笑った』。

 「何、元来神は祟り障る物」

 だから祀って、祭って、鎮めるのだよ、と。

 ならば、私達のした事は。

 一体――何だったのだろうか。

 歯列の間から問いを押し出す。

 琵琶氏は一瞥を寄越して。

 「好奇を満たしたに過ぎないねえ」

 そう、当然の如くに言い放った。

 「巵子の方は当人が云った通り、喰う為だがね。僕はこうした怪異を書くのも又、商売の種にしているのだよ。云わなかったかい」

 余りな云い草。

 人の不幸を何とする。

 憤る私を、琵琶氏は軽く掌を翳して押し留めた。

 「書くなとは云われていない。書いた所で所詮は巷間の噂でしかないだろうに。此れは真実だと云っても正体が知れる程の仔細を書く訳で無し、鼻で笑われるよ」

 滾々とそう云い含める。

 「其れにね――」

 思わせ振りな間を置いて、真っ直ぐな視線が眼を射る。

 「此処への伝手は正に其の筋である好事家からなのだから、致し方無い。其れに君こそ思う所が有ってこその助力だろうに。純然たる好意とは云わせないよ」

 静かに琵琶氏が口端を吊り上げる物だから、目線を流した。

 巵子氏へと。

 そう。

 私は『飲んで』欲しかったのだ。

 此の『目』を。

 左様すれば――脳裏に浮く言葉。

 「飲めねェよ」

 だが、其れを読んだかの様に巵子氏は至極淡白に云ってのけた。

 「『そいつ』は、其処の婦みてェに憑かれてる訳じゃねェ」

 婦に眼を遣らぬ儘に顎だけ刳り、けふと玄い息を一つ吐く。

 「せんに琵琶が言ったろィ。お前ェのも俺のも『入れ替わった』だけだ。『喰った』所で戻る訳じゃねェ。そも、疾っくにやってらァ」

 渋面の巵子氏が指すは琵琶氏。

 目に写る『片耳』に、あ、と聲が漏れた。

 道理、である。

 やらぬ筈が無いだろうに。

 けけ、と化鳥の如く琵琶氏が笑う。

 「『喰って』みた所で吐き出しちまわァ。諦めな」

 足が萎え、膝付いた私の肩を、巵子氏は止めとばかりに叩いた。

 ならば、此の『目』と死ぬまで共に在れと云うのか。

 固く握った拳の内で『目』が蠢く。

 突き当たった爪先が目蓋を押した。

 鋭い痛みが右の半顔に走るも尚、力を込める。

 いっそ潰れてしまえとばかりに。

 だが、試みは半ばで阻まれた。

 酷く手首を握られ、指から力が抜け落ちる。

 「其れは未だ判らないのだから止し給え」

 私の手を取った儘に、琵琶氏は囁く。

 「何れ戻る手立てに行き当たるかも知れないからねえ。だからこそ、私達は巷説を蒐めているのだ。其れを見極める為にも君の『目』は必要なのだから、大事におしよ」

 今や緩い拳を丁重に押し広げ、冷たい指先が掌を撫でる。

 労る様に二度、三度。

 其の後に漸く私の手首を放した。

 「まあ、何にせよ此度の事は此れで終いだけれどもね」

 云い乍らざつと膝を払い、琵琶氏は立ち上がる。

 「赤子の聲も無い」

 懐から摘み上げた『耳』を掲げて、樹を見遣る。

 釣られて『眼』を向けたが、滲んで見えるは今や黒染まり、一塊と化した樹ばかりであった。

 凪の夜に葉すら揺れぬ。

 静寂には、遠くラヂオの音が流れる。

 まるで何事も無かったかの様に。

 塀を隔てて、日常が在った。

 「狐とて大半を喰われては然う然う直には憑けねェだろィ。何れ又憑くかも知れねェが、其の時には旦那が頼って来るだろうさ」

 最早興も失せたとばかり、巵子氏は庭に背を向ける。

 婦すら路傍の石が如く見向きもしない。

 傍を擦り抜け、其の儘に円背は廊下の暗がりへと消えて行った。

 「ああ、其の旨を含めて、顛末を知らせてやらねばならないね」

 と、同様に琵琶氏も後背を追って行く。

 後に残されるは未だ目を覚まさぬ婦と、私。

 黙した樹を前にして、二の足が動かない。

 未だ彼処に居る。

 居る筈。

 しかし。

 「――来ないのかい」

 遠く呼ばわる聲に、目を反けて駆けた。



 ――後日の事。

 私は黒板塀の前に居た。

 婦に会いに来た訳では無い。

 此所には最早誰も居らぬ。

 当然と云うべきか。

 あの一件の後、此の家は売りに出されたのだ。

 正気を取り戻した婦は郷里に戻ったとも聞くが、定かでは無い。

 其の真偽を辿る事も無かった。

 唯、確かめたかったのだ。

 嘗ての節穴に鼻を寄せようと、噎せ返る程だった獣臭は無い。

 庭先を覗こうとも、昼の白い陽光を受けて佇む枯れ井戸が見えるばかりである。

 次いで、変らず立つ樹を仰ぎ見る。

 しかし、枝間から覗く顔は無い。

 怪異は無いのだ、最早。

 『――付いて行っただろうよ』

 琵琶氏の聲が甦る。

『本尊は井戸かも知れんがね』

 浮雲堂にて筆を走らせ乍ら、彼はそう云ったのだ。

『婦が行くのなら、憑いて行くだろうよ』

 頭蓋に尚も谺す聲に一度瞑目し、塀より離れて歩き出す。

 母と子は、再び繰返すのだろうか。

 今一度振り返る。

 眼差しの先――樹上の影は矢張り見えなかった。


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