私が小説を書く理由
フォルダに保存されている一つのファイルを、私は何とはなしに開いた。プログラムは起動し、文書ファイルが立ち上がる。そこにある文章の羅列、小説を、私は読みふけった。
時も忘れて読んだ作品の感想は、「面白い」でも「つまらない」でもない。本当にこれは過去の自分が書いた作品なのだろうか、という疑問だった。
私は小説を書いてる。プロではなく、時間を見つけては趣味として取り組むアマチュア創作家。ネット上で細々と作品を公開している。人気もさほど無ければ知名度もない。けれどひたすら作品を書き続ける、おかしな奴である。件の小説も、私が産みだした作品の一つ。まだ小説の書き方もよくわかっていなかった頃に綴った、つたない文章だった。
その作品の作者を疑ってしまったのは、文章が下手くそだったからではない。今と作風が違う――のは理由の一つかもしれないが、決定打ではない。設定に始まり物語の流れ、言葉の使い回しなど、どうやって書いたのだろうと思ったのが一番の原因だった。思い返しても、真相は闇の彼方にあってつかめない。そのとき何を考えていたのか、どういう気持ちでこれを書いていたのか、さっぱり思い出せなかった。だから、これは別の人物が書いた作品だと言われてしまえば、素直に納得してしまうかもしれなかった。
もちろん、書いていた事実をすっぱり忘れていた訳ではない。こだわりを持って書いた部分も覚えている。それにかつて完結させた物語とはいえ、作品の登場人物は私の中で今も動いていた。だから、これが私以外の作品であるはずがないのだ。かつての自分の中にある世界と物語を、かつての自分が足りない語彙から表現をひねり出して創り上げた、私自身の作品で間違いない。理性が組み立てた論理は理解できる。が、私の心は納得していなかった。
どういうことかと、人は言うだろう。お前は自分でもわからない作品を人様に見せているのかと、嗤う人もいるかもしれない。確かに訳がわからないが、しかし存在する事実だった。自分がわかっていないのに他人に理解させるのは無理があるが、こうして話しておかないと心が落ち着かない。
たぶん、大半の人は共感なんてできないのだろう。創作をしたことがなければ感覚はないし、創作をしている人だって私と同じ感覚で作っている訳ではないはずだ。それくらいわかっていたが、それでも構わないと私は思っていた。
息をつき、文書ファイルを閉じる。背もたれに腰掛け、ぼんやりと狭い部屋の天井を仰いだ。
何もする気が起きない。お腹は少し減っていたが、何かを食べようという気にならない。お気に入りの本を読むのも、テレビを付けるのも、ネットのつぶやきを見るのさえも億劫だ。このまま寝てしまおうか。そうすれば起きたときに少しは気力が戻っているかもしれない。そう思って体を起こしたが、抑圧する気だるさの中にたった一つ、立ち上がる光があった。
書きたい。何でもいい、文章を、作品を、物語を書き留めたい。今回は何を書こうか。そういえば、最近あれの続きを書いていなかったな。読み返したら続きが浮かぶだろうか。そんな思いが一瞬で飛び交い、私は今度は書きかけのファイルを立ち上げた。
自作品が開くのを眺めながら、私は自嘲する。まただ。また、衝動に突き動かされている。誰かが乗り移って私にそうさせているのではないかと思うほど、突発的な行動だ。
実際、執筆がはかどっているときの自分は何かに取り憑かれているようだと、自分でも思っている。けれどそれを抑えることは難しくて、時間があれば私は書いてしまう。文字通り時間も寝食も忘れて、ただ黙々と文章を綴るのだ。大学に入って一人暮らしを始め、自由に使える時間が増えたのも、その手助けになっているのかもしれなかった。
書いているときの自分は、ただ執筆のみに集中する。他の意欲が抑圧されているときと、あふれる元気が全て執筆に向いているときで心持ちは若干違うが、どちらにせよ衝動に駆られて動いていることに変わりはない。心の中に描きたいものを思い浮かべて、当てはまる言葉の羅列を打ち込んでいく。しっくりくる言い回しが思いつかないときは苦労するが――今はどうでもいいか。書ければそれで満足だ。
キーボードを叩く私の手が止まる。描きたい物を書き終えたのだ。書き切ったという満足感と、素晴らしい作品ができたという自惚れ。誤字脱字だけ見直した後はいつ掲載しようか、なんてことを考える。
ふと我に返り、私は先ほどの自分を思い出した。今はこうして満足し、自分の作品であることに何の疑問も抱いていないが――いずれ時が経ち、書き上げた詳細を忘れる頃、私はまた自分で書き上げた事実を疑うのだろう。そこに賞賛の意味が込められるのか侮蔑の意味が込められるのか今の私にはわからないが、未来の私が困惑する姿だけは容易に予想ができた。
それでも、今は書き上げた余韻に浸りたい。例え未来の自分にさえも否定されようと、作品を消してしまおうという気持ちにはならなかった。そこにあるのはある種の自惚れ、ナルシシズムだ。褒められた感情ではないとわかりつつも、一番心地よい感覚。だから私は書いてしまうのだろう。他でもない、今の自分を満足させるために。そしてそれは、これから先も変わりそうになかった。