恋の調理法と隠し味
―――わたしは料理があんまり得意じゃない。
切った野菜はもれなく大きさバラバラで、まんべんなく混ぜているつもりの鍋の底はいつも焦げつき、調理法を叩き込んだハズの頭は調理台を前にして真っ白になる始末。
もちろん、隠し味なんて高度なワザをわたしが行使できる訳もなく。
結局わたしに出来る精一杯は、苦労して苦労して、家の鍋を2、3個ダメにした末にやっと作れるようになったカレーだったりする。
だけど極度のめんどくさがりで向上心のないわたしがここまでがんばれたのは、眉尻を下げてくしゃりと笑う、料理好きなセンパイに、少しでも近づきたかったから、なんですよ―――?
「ピヨ、それ持っていけ」
「もおっ、その呼び方いい加減やめてくださいよー」
ぞんざいに、今出来上がったばかりのきらきら輝くおいしそうな料理を顎で指したセンパイに文句を言う。
こんなやりとりを始めてもうすぐ1年が経とうとしているのだけれど、悲しいかな、あの呼称に普通に反応しはじめている自分がいたりするんだよね。
「なんで。ちっこくて、ちょこちょこ歩いて、ヒヨコみたいだろ、お前」
さすがにそこまで小さくないです!とは言っても無駄だと、さすがにもう悟ってる。
確かに、わたしは小さい。おまけに童顔。
センパイの妹さん、咲月ちゃんと並んでも、きっと年下、良くて同級生にしか見えないんだろうなぁ、という予想は自覚があるだけに余計むなしい。
―――こんなんでも、咲月ちゃんより3つお姉さんなのにっ!
との思考がすでに子供っぽいことも自覚済み。
カラダの成長とともにアタマの成長まで止まってしまったのかもしれないけど、わたしはこれでもれっきとした20歳。
現役女子大生なのである。
まったくそうは見えないけどなー、との言はただいま目の前で料理を注ぎ分けているセンパイからいただいたもの。ちっともうれしくないけど。
どうせなら、もっと別の言葉がほしいよ。
だって――――――、
「とりあえず、冷めないうちにそれとそれも頼む。……ひー、落とすなよ」
後半部分をわたしにしか聞こえないくらいのささやき声で呟いたセンパイに、わかってます!と返して身をひるがえす。
厨房と店内をつなぐ通路を歩きながら、頬が緩むのを抑えきれない。
センパイはずるい。
いつもイジワル言って、わたしを怒らせて困らせて遊ぶくせに、時々スルリと嬉しくなるようなことをすべり込ませてくる。
ひー、って、呼んでもらえた。
それだけで、わたしの心がぽかぽかとあたたかくなることをセンパイは知っているんだろうか。
こんなにうれしくなるのは、センパイだからなんだって、わかってるのかな。
センパイ――――――和臣センパイは、わたしがアルバイトさせてもらってるバー、『tempo di sogno』のシェフさんであり、わたしが現在通っている大学のOBでもある。
残念ながら同時期にキャンパスライフを送ることはできなかったけど、今でもセンパイと、このお店の名物バーテンダーである藤哉センパイのウワサは根強く残っていて。
群を抜いてカッコいいおふたりのファンクラブがあっただとか、在学中に200人はフッただとか、毎年学祭ではミスコンならぬミスターコンの1位を争っただとか、卒業前には教授から研究室で働かないかと直々にスカウトされるほど有能だった、とか、とかとか。
そういうのを聞くたびに、わたしは今の自分の立ち位置が不思議でたまらなくなる。
都合のいい夢なんじゃないかな、コレ。 と、何度思ったかしれない。
だって、何を隠そう和臣センパイの彼女というのが、日々ピヨだとかヒヨコだとかバカにされているわたし、なのだから。
いや、隠してるんだけどね。
「お待たせいたしました」
両手に持っていた料理をテーブルに置くと、わぁっとお客様が歓声をあげる。
そうですよね、とっても美味しそうですよね、センパイの料理。
見た目だけじゃなくて、味もしっかり美味しいんですよ。絶品ですよ。
目を輝かせて、ブログにでもあげるのかケータイで料理の写真を撮るお客様に心のなかで話しかける。
OLさんかなぁ。お化粧ばっちりで、スタイルがよくて服のセンスもいい、綺麗なお姉さまの二人組。
きっとモテモテなんだろうなぁ、と、その美しさを少し羨ましく眺めて、仕事に戻るべく一礼して背を向けようとした。…んだけど。
「あっ。あの、すみません」
「はい、何でしょうか」
ハニーブラウンのつやつや髪が美しいお姉さまに話しかけられた。
なんだろ。ご注文の追加かな?
「ここですっごくカッコイイシェフが働いてるって聞いてきたんですけど、どうやったら会えますか?」
「…ぁ、えっと、」
すっごくカッコイイシェフ……って、センパイのことだよね。
このひとたち、センパイを見に来たんだ。
うちの店の名物バーテンダーと名物シェフの噂は、この辺りでは結構有名。
センパイたちが大学生だった時よりは落ち着いたらしいけど、それでもセンパイや藤哉センパイ目当ての女性客が来店することはしょっちゅう。
店長は売上が上がってるから嬉しいみたいだけど。
だからまあ、こういうことは実は割とよくあることで。
慣れてるといえば、慣れてる。
けど、こんな時にやっぱり強く思うんだ。
センパイが選んだ女の子、可愛い子も綺麗な子もよりどりみどりだったハズなのに、どうしてわたしなんだろうって。
小さくて童顔で性格は子供っぽくて料理もヘタ。
特に良いところなんて何もないわたし。
なのに。ねぇセンパイ。どうして、わたしを選んでくれたんですか―――――?
◆ ◆ ◆
「…で?その二人組、上手くあしらったんだろうな」
「あしらうって…」
ちょっとひどくないかなぁ、そのいい方。
閉店後にお店の前で待ち伏せされたり、ひどいときはストーカー一歩手前の付き纏い方をされたセンパイからしてみれば仕方ないのかもしれないけど。
「とりあえず、お店の前で待ち伏せ、みたいなことにはなってないと思いますよ。今日のお姉さま方は割と軽いノリだったみたいだし」
「ふーん。……ん。パルメザンチーズ、いるか?」
「あ、ほしーです」
閉店後の薄暗い店内で、センパイお手製の出来立てパスタを受け取る。
今日もとっても美味しそう。
どうやったらこんなふうに料理ができるのかなって考えるけど、料理音痴なわたしがいくら考えたって上手くならないことはわかりきってますよぅ。
「はやくカレーからレベルアップしたいなぁ…」
「なにがレベルアップだって?」
「へっ?え、ええと…その、」
「なんだよはっきりしねぇな」
センパイが持ってきてくれたパルメザンチーズを受け取りながら、思わず苦笑いする。
ひとりごとのつもりだったのに、少し聞こえてたみたい。
料理上手なセンパイに料理音痴だなんて知られるのは恥ずかしいから、もっと練習してせめて人並みに作れるようになりたいの。
なかなか道は険しそうだけど、ね…。
「え、と。どうやったら料理上手になれるのかなって…」
我ながらすっごいギリギリな発言だなぁ…。
「料理上手、ねぇ…。別にそんなに上手くなくてもいいんじゃねーか?それで食ってくって場合以外は」
「う、うー…でも、下手より上手な方がいいと思いませんか?」
「上手下手よりも、気持ちが入っていれば美味いと思うけどな。俺は」
淡く微笑みながら色気たっぷりな流し目、というダブルパンチをくらったわたしはいつも以上にドキドキとうるさくなった心臓をなだめるのに必死になる。
突然そんな表情するなんて、ずるいですよ…センパイ。
でも、気持ちが入っていれば…かぁ。
「ん?どうした、ぼんやりして」
「あっ、いえ、なんでもないです!パスタ食べましょうセンパイっ」
いつもってわけではないんだけど、週に2、3回は閉店後にセンパイがご飯を作ってくれて、一緒に食べるの。
お店使っていいのかなって毎回思うんだけど、店長の許可はおりてるらしい。センパイすごい。
それよりも、ふたりっきりでこんなことしてるなんて、センパイ目当てで来店されるお客様に知れたら確実に殺される。後ろからグサリですよ!
だからセンパイと付き合ってることも、こんなふうに一緒に過ごしてることも、幸せで幸せで誰かに自慢したくなるけど我慢してるのです。
「センパイっ。パスタすっごくおいしーですっ」
「…そ」
付き合い始めた頃は、こういう素っ気ない態度に不安になって「わたしのこと、本当は好きじゃないのかなぁ」なんておばかなことを考えたりもしたんだけど、最近はわかってきたんだ。
センパイ、きっと照れてるだけなの。
その証拠に、ちょっと嬉しそうな笑顔でこっちを見てる。
いつものわたしを馬鹿にして遊ぶときの意地悪な笑顔じゃなくて、優しい、とても安心する笑顔。
でもわたしがセンパイの方を向いたらまたいつもの顔に戻っちゃうだろうから、わたしは気付いてないフリをするんだ。
「…あ、そうだ。ピヨ、ちょっと待ってろ」
「え?あ、はい…」
早々にパスタを食べ終えたセンパイが、何かを思い出したかのように奥に消えていった。
どうしたんだろう?
それにしても。
いつも思うけど、パスタ美味しいんだから、もうちょっと味わって食べてもいいと思うんですよ。
いくら自分が作ったからって言ったって、ねぇ?
はっ!ていうかまたピヨって呼ばれた…!
むむぅ…気づかなかったなんて…。悔しいなぁ、もう。
何度やめてくださいって言っても全然聞いてくれないし。
これはもう、わたしも対抗してセンパイのあだ名を作るしか………!
―――――コツッ
「あたっ」
「なーにしてんだ。百面相」
いたい……。頭部に衝撃が……。
なにって、センパイのあだ名を………って、
「ど、どうしたんですか?シェイカーとグラス持って…」
「最近作ってなかったからな。お前で試そうと思って」
ちょうどいい実験台がいてよかったなぁ、意地悪なニヤニヤ付き、……なんて、
「ひ、ひどいですっ」
「別にいいじゃねぇか。変なもの作ったりしねーよ」
確かに、センパイは間違っても変なものなんて作らないだろうけど…。
あ、でも。
「お酒、飲んじゃダメって言ってたじゃないですか」
「俺以外のやつの前では、な」
なんて理不尽。
でも嫌だなんて思わないんだ。
そういう小さな束縛も、嬉しいと思ってしまうの。
程なくしてカウンターに置かれた綺麗な色の液体をちびちびと口に含む。
センパイは腕鈍ってんなーなんて呟いてたけど、全然そんなことないと思う。
「おいしい、よ?」
「……敬語抜けたな。お前、酔ってるだろ」
なんでー。酔ってないよぅ。
ぼんやりした視界でセンパイを見上げてむぅと膨れると、何故か目をそらされた。顔ごと。
「なんでこっち見てくれないのー」
「お前な……。わかったよ。ったく」
じぃっと高いところにあるセンパイの顔を見つめて訴える。
そんなわたしをちらりと見て大きなため息をついたセンパイは、カウンターをまわってきてわたしを抱き上げると、横抱きにしてスツールに腰掛けた。
「反則だろ…」って、なにが?
「ひー」
「う……?」
なあに、センパイ。
大好きなセンパイにくっついていられるのが嬉しくてぎゅーっと抱きついていたわたしは、センパイに呼ばれて顔を上げた。
どうしたの?眉間のしわ、とれなくなっちゃうよ?
「お前絶対に他の男の前で酒飲むんじゃねぇぞ」
「……?うん」
なんでそんなことを言うのかよくわからなかったけど、こくりとうなづくと、ふっと息をつくように笑って「いいこだ」と頭を撫でられた。
わたしが大好きな、優しい笑顔。ほっとする笑顔。
もっと、もっとその笑顔を見ていたくて、センパイのそばにいたくて、ぎゅうっとセンパイの服を握って、じっと見上げる。
「だからその目、反則だっつうの……」
「かずおみセンパイ…? んぅ…」
何かをぼそりと呟いたセンパイに首をかしげると、強く抱きしめられて、唇に柔らかいものが当たった。
デザート代わりに食べられているんじゃないかと思うようなキスをたくさんされて。
センパイにたくさんたくさん愛される、幸せな夢をみた―――――――。
◆ ◆ ◆
「え?うちのお店で?今日?」
「そ。今日バイトは休みだって言ってたよね?みんなと遊ぶの久しぶりでしょ?行こうよー!」
バイトがお休みで、帰ったら暇だなぁなんて思っていたある日のこと。
高校からの友達で、わたしの姉みたいな存在のなるちゃんにお誘いを受けたのです。
なんでも、みんなで集まって『tempo di sogno』に行くことになっているらしい。
大人数なら普通の居酒屋さんのほうがいいと思うんだけどなぁ…。
「だぁって!イケメンのバーテンダーさんとか美人のスタッフさんが多いじゃない!」
「あ、そういうこと…」
目をキラキラさせているなるちゃんに、申し訳ないけれど若干呆れた目を向けてしまう。
確かにうちのお店にはイケメンのバーテンダーさんや綺麗な女性スタッフさんがいっぱいいるけど…。
「ね、テーブル席もあるんでしょ?だから大丈夫だよー。行こうよ!」
「う、うん…、わかった。行くよ」
『tempo di sogno』の店内は、1階は主にカウンター席と、2、3人用の小さなテーブル席、2階は席数は少ないけど小さなカウンター席と、4人以上用の大きなテーブル席、という配置になっている。だから行けないことはないんだけど、あんまり多いと迷惑にならないかなぁ。
一瞬うーんと悩んだものの、あまりにグイグイ迫ってくるなるちゃんに逃げられなさそうだと判断したわたしはまぁいいか、とOKした。
ちょっとだけ、センパイに会えないかなぁと期待して―――――。
そしてその2時間後。
わたしは来てしまったことを激しく後悔していた。
「えー、いいじゃんちょっとくらい。これ美味しいからさ、飲んでみなよー」
「いえ、わたしお酒はちょっと…その、」
「三浦君飲ませてやってよっ。この子飲めないって言って本当に全然飲まないのよー!少しは耐性をつけるべきだわ」
「な、なるちゃん…!」
「ほらなー。大丈夫だって。ちょっとだけだからさー」
両隣を男性に固められて、かろうじてなるちゃんが前に座っていてくれるけど助けてくれる気配はなく、わたしにやたらお酒を勧めてくる三浦君と一緒にお酒を勧めてくる始末。
ほかの人はそれぞれに楽しんでいて全くこっちの状況に気づいてくれないしっ。
センパイに飲むなって言われてるし、自分でも弱いのはわかってるから絶対に飲まないつもりなのに。
いいかげん諦めてくれないかなぁ。
「あの、だから…」
「強情だなぁ。ほら、ちょっとでいいって言ってんじゃん。飲みなよ」
「ちょっ…!」
あまりに断り続けるわたしに逆ギレしたらしい三浦君が、わたしの頭を固定して口元にグラスを近づけてくる。
どうしよう、力じゃ絶対叶わないし、顔を背けようにも頭が動かせないんじゃ無理だし…うそうそ、やだぁっ。
横目で周りを見渡したけど、相変わらず誰もこちらの状況に気付いていないらしく、誰かに助けてもらえる可能性は絶望的みたいで。
せめてもの抵抗、と目と口にぎゅうっと力を込めたとき。
「お客様、おやめください」
ふ、と突然体が自由になって、聞きなれた声がした。
反射的に声が聞こえた方を振り向くと、そこにいたのは…
「と、藤哉先輩…」
「大丈夫?危ないところだったね」
いつもどおり、にこりと優しく微笑む藤哉先輩だった。
あぁ、でもあの笑顔…怒ってるな、たぶん。
めちゃくちゃ笑顔なのに、目が笑ってないというか。三浦君の手をすっごい握り締めてるし。
「ちょ、いってぇ!手ェ離せよっ!」
掴まれていた手を振り払った三浦君が、顔をしかめて手をさすってる。痛そう…。
「お客様。アルコールハラスメント行為はおやめください。目に余るような行為を発見した場合、こちらも相応の対応をさせていただくことになるのですが…」
「あーもう、わかったよ!もうしねぇ!これでいいだろ!」
にっこりと黒いものを背負った綺麗な笑顔で注意を促す藤哉先輩。さすがだなぁ…。
でも今のことは見逃してくれるってこと…だよね?まぁ未遂だしね。よかった…。
なんとか事態が収まりつつあることにほっと息をつく。
「あの、藤哉先輩。もう大丈夫そうですし、カウンターに戻ってください。お騒がせして申し訳ありませんでした」
ぺこりと頭を下げてそう言うと、ぽんぽんと頭を撫でられた。
相変わらず優しいなぁ。
「いや、いいよ。もしもまた何かあったら遠慮なく呼んでね。……一応、和臣先輩に報告しておこうか?」
「あ、いえ、いいです。もうこういうことはないでしょうし、大丈夫ですよ」
努めてにこりと笑って、藤哉先輩に戻ってもらう。
忙しいのに申し訳なかったなぁ。
和臣センパイも、今回のことは未遂だったんだし、変に心配かけるより知らない方がいいと思う。
だからこれでいいよね。
ふぅ、と息をついて、一連の騒動のせいで喉がカラカラになっていることに気がついた。
アルコールはダメだから、と頼んで用意してもらっていたノンアルコールカクテルをくぴり、と飲んで……
「~~~っ!?」
思わず口元をぎゅうっとおさえる。
これ、お酒!?
さっきまではただのジュースだったのに…なんで!?
それより…普通のジュースだと思って結構飲んじゃったよっ。
「どうしよう…」
さぁっと血の気が引いていくのが自分でもわかる。
本当に、どうしよう。
センパイの言いつけ破っちゃったよぅ…。
お酒飲むなって言われてたのに。
どうしよう、怒られちゃうかな………って、そうじゃなくてっ。
えっと、とりあえず、ミネラルウォーターでももらってこよう。
これ以上お酒を飲むわけにもいかないし。
うん、そうしようっ。
次第にぼんやりしてまとまらなくなっていく思考をなんとかまとめて、水をもらいに行くべく立ち上がった。
うぅ…なんかふらふらする…。
顔も熱くなってる気がするし、お手洗いに寄って冷やしていこうかなぁ。
とぼんやり考えていると。
「あれ。フラフラしてるけど大丈夫?どこか行くの?」
「あ。なるちゃん…ちょっとお手洗いに…」
お手洗いだけじゃないけど。嘘はついてないからいいよね。
「あ、俺も行く。トイレの場所わかんないからさ、一緒に行っていいよな?」
「み、みうらくん……」
一緒に行くの?三浦君と?
さっきあんなことがあったばかりだから少し怖いんだけど、…大丈夫、だよね?
思わずじぃっと見つめると、三浦君はふいと顔をそらしてしまった。
ん?…あ、失礼だった、かなぁ。
「と、とにかく、行こうか。なっ」
「あ、はい…」
なんとなく焦った感じの三浦君を不思議に思いつつ、一緒に個室を出てお手洗いに向かう。
ここのお手洗いの場所ってそんなにわかりにくいかなぁ、とぼんやり疑問に思ったけど、思考が上手く働かなくてよくわからない。
なんだか無性にセンパイに会いたくなってきたなぁ。
ぎゅーって抱きついて、甘えさせてもらいたい。
会いたい。会いたいよ……センパイ。
「………、……ちゃん!大丈夫?」
「あっ、すみません、わたし…」
「ぼーっとしてた?壁にぶつかるところだったよ、危なかったね」
ぼうっとした視界で前を見ると、確かに目の前に壁がある。
一瞬、どうして自分がこんなところに立っているのかがわからなくて混乱した。
ううぅ…だめだぁ。ぜんぜん頭がはたらかない。
「すみません…。あ、三浦君、男性のお手洗いはそこです。この角を曲がったところ」
「あぁ、あそこだね。ありがとう。…………ところでさぁ、」
と、言葉を切った三浦君に強く腕を引かれて、気がついたら―――――
「………え?」
「この状況。どういうことかわかってる?」
ええと。どういう状況?
いつの間にか背中が壁についてる。
背中打ったのかなぁ。なんだか痛い…。
さっきつかまれた腕も痛いし…。
ってそうじゃなくて。
なかなか働かない頭をなんとか使って状況把握に勤しむ。
背後には壁。正面には三浦君。
それからわたしの頭の両横に、三浦君の腕が伸びてて…。
……つまり、壁と三浦君に囲まれてる?
「……なんで?」
「なんでって…こういう体制になってるってことの意味、わかんない?」
「え……と…?」
だめ。わかんない。
もうそろそろ何にも考えられなくなっちゃいそうだよ。
ふわふわする。
三浦君は、なにがしたいの?
「俺さ?今日ずっと君のことを狙ってたんだよ。気づかなかった?」
「ねらってた…?」
「そ。ずっと可愛いなって思ってたんだ。手っ取り早く酒飲ませてお持ち帰りしようと思ってたんだけど、君なかなか飲まなかったからさぁ」
え?どういうこと?
頭がついていかない。
このひとが、わたしを狙ってた?って、どういう、こと?
「理解できないって顔だね。ふーん。そういうのもイイね。もう少し待って連れ出そうと思ってたけど、正直さぁ…さっきのうるんだ上目遣いはヤバかったよ」
「やばい…?」
「うん。だからさ……?」
だから…?
なんだろう、と思っていると、ふと影がさした。
ぼんやり眺めるさきでは、ニヤリと顔を歪めた三浦君が近づいてくる。
距離が、近くなる。
センパイがキスしてくれるときみたいな――――――
ちがう。
センパイじゃ、ない。
「………っ!いや!!」
キスされる直前でハッと気づいたわたしは、思いっきり顔を背けた。
チッと三浦君が舌打ちをする音が聞こえる。
うそ。わたし、キスされそうだったの?
ていうか、今も…?
ようやくことの異常さに気がついて、危険信号が頭のなかでチカチカと光る。
逃げなきゃ。ここから逃げなくちゃ!
じたばたと暴れだしたわたしを苛立たしそうに見下ろして、三浦君が再び舌打ちをした。
「逃げんじゃねーよ!おとなしく言いなりになっとけよ!おもしろくねぇなぁ!」
「や…っ!いやぁっ!!」
じたばたと三浦君の囲いの中から逃げ出そうともがいたけど、力づくで押さえ込まれて、お酒を飲まされそうになったときのように頭を固定される。
「やだっ!おねがい離して!やだぁ!!」
「うるせーよ!おとなしくしろ!」
「いっ……」
ギリ、と頭を掴んでいる手に力を込められて、痛みに表情が歪んだ。
抵抗らしい抵抗もできないままに体の自由を奪われて、絶望が胸を侵食し始める。
じわりと涙が目の表面いっぱいに溜まった。
やだよ…センパイ以外のひととキスなんて。
叫ぶのをやめたわたしに気をよくしたのか、再びニヤリと笑って顔を近づけてくる三浦君。
「すぐに気持ちよくしてやるからさ。おとなしくしてろよ…」
唇が触れるまで、あと少し。
あと―――――
「…ぃ…や、ぁ…!」
いや!やだやだやだ!!
誰か助けて!
誰か……
和臣センパイ――――!!!
「――――――――日和!!!」
ビクリ、と体が震えた気がする。
だけど、そのあとのことはあまりにも一瞬で、よくわからなかった。
なにが、起こったの……?
「日和!!大丈夫か!?」
気がついたら、わたしはあたたかい腕のなかにいて。
床には三浦君がうずくまっていた。
わたし、助かった…の?
キス、されなかったの?
センパイの声が聞こえた気がした。
「日和」って、普段は絶対に呼ばれないファーストネームで呼ばれた気がしたの。
夢じゃ、なくて。今わたしの目の前にいるひとは、夢じゃなくて、本物の、
「和臣、センパイ…?」
「ああ。もう大丈夫だからな。日和、もう大丈夫だ」
センパイだ。本物の、和臣センパイだ…。
震える両手でセンパイのシャツを握り込むと、ぎゅっと抱きしめてくれる。
きつく抱きしめられて、背中をぽんぽんと優しく叩かれたら、瞳に溜まっていた涙がぼろぼろとこぼれて止まらなくなった。
「センパイ…。かずおみ、せんぱ……どうして…?」
「藤哉にアルハラのことを聞いて、気になったから探してたんだよ。間に合ってよかった…」
ぎゅうっと、さらに力を込めて抱きしめられる。
藤哉先輩…。報告しなくていいって言っちゃったのに、ちゃんと伝えてくれたんだ。
「日和。何をされた?……キス、されたのか?」
ううん、されてない。センパイが助けてくれたから、キスされてないよ。
そう伝えたいのに、涙が溢れて止まらなくて、声が出なくて、わたしは必死で頭を横に振った。
センパイ。
和臣センパイ。
助けに来てくれて、ありがとう―――――
そのあとわたしは様子を見に来た藤哉先輩に三浦君が連行されていっても泣き止まず、泣き疲れとアルコールのせいで深い眠りにつくまでずっとセンパイにくっついていた。
◆ ◆ ◆
そして数日後、PM18:30―――――開店30分前。
「ピヨ、カウンター拭いてこい。あとコレ持ってってくれ」
「もおっ!またピヨって呼んでるー!いい加減やめてくださいよー」
いつものやりとり。いつもの光景。
数日前優しくしてくれたのは本当は夢だったのかもしれないと思うくらいに、素っ気無さも、いじめっこ気質も変わらなくて。
でも。
「日和。落とすなよ」
「わ、わかってますっ!」
「…いってこい」
名前を読んでくれる、とか。
ふ、と微かに笑って送り出してくれる、とか。
ちょっとだけ、甘さが増した気がするんだ。
小さなことかもしれないけど、ぽかぽかと心があたたかくなって、つい笑みがこぼれる。
にこにこしたまま開店前の準備を終え店内から戻ってくると。
「ああ、そういえば」
「はい?」
「お前、俺の言いつけ破っただろ」
「えっ!?あ、あれは不可抗力じゃ…」
言いつけって、他の人の前でお酒を飲まない…って、あれのことだよね。
あれは、いつのまにかすり替わってたんだもんっ。
不可抗力ですよ!
「お仕置きだな」
「えぇっ!?」
嘘でしょ!?どう考えてもあれはわたしのせいじゃないのに!
「何をしてやろうかな」って……。センパイ、普段は滅多に笑わないくせになんで今はそんなに笑顔なのー!……に、逃げたいよぅ。
センパイのドSーっ!いじめっこー!
なんて、もっとセンパイを煽りそうで怖くて、言えるわけがない。
「セセセセンパイっ、彼女に…お、お仕置きなんて……」
「お前、確かカレーは作れるみたいなこと言ってたよな?」
どうなんですか? と言おうとしたわたしの口は途中で音を発することをやめざるを得なくなった。
えっ?うそ。な、なんで?
その口調だとわたしがカレー以外作れないことを知ってる、みたいな……
ていうかそれよりも!
「わ、わたしそんなこと言いましたっけ…」
センパイに言った覚えはないはずなんだけど!
と思いつつも体は素直みたいで、そろそろとセンパイから距離をとりはじめる。
「んー?この前、カレーからレベルアップしたい、とか言ってただろ」
ビシリ、と体が固まったのが自分でもわかった。
「センパイ、あれ聞こえてたんですか…?」
「ああ。聞こえてたけど?」
しれっと答えたセンパイの言葉に、空いた口が塞がらない。
と同時に、背中にものすごい量の冷や汗をかいてる気がする。
マズイ。この展開はひじょーにマズイ。
もういっそ回れ右をして逃げ出してしまおうか、なんて思考を読み取られたかのようなタイミングで、センパイがガッチリとわたしの腕を掴んだ。
ビクゥッと大げさなほど反応したわたしを見てセンパイがニヤリと悪そうな笑みを浮かべる。
そ、その笑み…とてつもなくイヤな予感がするんですけど……。
「お前、今度の休みにカレー作って俺に食わせろ」
やっぱりーっ!!
そうくるだろうなって思ってましたよ。わかってましたよ!だけど!
「む、ムリですっ!!」
「あぁ?作れるんじゃなかったのかよ」
「つ、作れないこともない…です、けど……。で、でもっ!センパイにお出しできるような出来じゃないんです!!本当に!!」
「別に出来なんか気にしねぇし。作れっつってるんだから作れよ。お仕置きだからな、拒否権はねぇぞ」
「そ、そんなぁ……」
お、鬼だ…悪魔だ…。
思わず涙目でキッと睨みつけると、センパイの笑みがさらに深くなった。
あ、やばい。
「そんなに嫌なのか?だったら…」
「…っ、ひゃぁっ!」
危険を察知したわたしが腕を振りほどいて逃げようとするよりも一瞬早く動いたセンパイが、掴んでいた腕を引いてわたしを抱き寄せ耳元に唇を寄せる。
ふ、と吐息を吹き込まれてビクリと体を固くすると、クッと喉を鳴らして低く笑われた。それにすら反応してしまう自分が恥ずかしい。
だってだって、和臣センパイってば色気ありすぎです…。顔熱いよー…。
逃げ出すこともできずにプルプル震えながら耐えているわたしの耳をペロリと舐めて、吐息を混ぜた低い声でセンパイはわたしに爆弾を落とした。
「いつもお前が恥ずかしがって拒否するアレやソレを、全部やってもらおうか。もちろんお前んちでな?」
「~~~~~っ!?」
も、もはや声にならない…。
パクパクと鯉のようになっているであろうわたしの顔を見てセンパイは相変わらず人の悪い笑みを浮かべていらっしゃる。ほんとドSだよ…この人…。
何を言ってるかわかってるよな?って顔で覗き込まれたけど、はい、そりゃさすがにね…。
いくら周囲に鈍感だと言われまくってるわたしでも、そこまで色気過多にささやかれれば嫌でもわかります!
顔だけじゃなくて全身まで熱くなってきた。わたし今絶対に真っ赤だよね…。
ムリです!本当に、それは無理ですよセンパイ!そんなことしたら恥ずかしさで死ねるよ…。うぅ…。
「カレー……作らせていただきます……」
「ふーん…」
そっちかよ、みたいな目で見ないでください。こっちをとりますよ。当たり前じゃないですかっ。
でも本当に、センパイにご馳走できるような代物じゃないんだけどな…。
超料理音痴なわたしのカレーを超料理上手なセンパイにふるまうってどんな罰ゲームよ…いや、お仕置きなんだけど。
だって和臣センパイはちまたで有名な1日10食限定の『幻のカレーライス』を作ってる人だよ?容赦ない
にもほどがあるよ…。
ハァ…とそれはもう大きなため息をつく。
今度のお休みまでに練習して少しでも上手くならなくちゃ。センパイに美味しい、とまでは言ってもらえなくてもせめて不味いとは思われたくないし。
あ、そうだ、だったら。
「あの、センパイっ」
「ん?」
「カレーに隠し味として何を入れたらいいと思いますかっ?」
「は?隠し味?」
怪訝そうなセンパイにコクコク頷いてみせる。
「別に、隠し味なんて入れなくていいんじゃねーの?普通に作ればいいだろ」
「で、でも…」
少しでもマシになれれば…。
「美味いかどうかなんて気にしねぇよ。お前が作ったカレーが食べたいだけだ。だから…あんま気にすんな」
ぽんぽん、とセンパイの大きな手のひらで頭を撫でられる。
その感触から、声音から、センパイの優しさが感じられて胸がきゅうっとなる。
何を、とは言わなかったけど、センパイ気付いてたんだ。わたしが、料理が下手だって悩んでたこと。
普段は意地悪なくせに。ドSなくせに。
それなのに、時々今みたいにすごく優しい表情をするから、どうしても嫌いになんてなれないんだ。
センパイの優しさに触れるたびに何度でも恋に落ちてるみたい。
未だに、なんでわたしを彼女に選んでくれたのかはわからないけど、それでも、センパイは意地悪だけど、ドSだけど、それ以上に優しくてあたたかくて素敵な人だから。
追いつきたいんだ。今より少しでもあなたにつりあうように。
『上手下手よりも、気持ちが入っていれば美味いと思うけどな』
ふいに、以前センパイが言ってたことを思い出した。
「あ…」
ああ、そっか。そうなんだ。
わたしはお料理の腕はお世辞にも上手いとは言えないけれど。
でも、食べてもらう人への―――和臣センパイへの気持ちだけは、たくさんたくさん入れられるから。
だから―――
「日和?どうした?」
顔を覗き込んできたセンパイに、にこっと笑ってみせる。
「和臣センパイ。隠し味…わかりました」
◆ ◆ ◆
―――ピンポーン
チャイムの音に、わたしは鍋を混ぜていた手を止め、パッと玄関を振り返った。
一人暮らしの小さなアパートの部屋中に空腹を誘うカレーの匂いが漂っている。
相変わらず、切った野菜の大きさはバラバラだし、まんべんなく混ぜているつもりだったけど鍋の底は焦げついているらしく、ちいさな焦げがところどころに混じっている。
調理法を叩き込んだハズの頭はやっぱり調理台を前にして真っ白になり、目線は何度も本とキッチンを行き来した。
―――それでも。
誰かを想う気持ち。誰かに幸せになってもらいたいと思う心。
上手い下手も気にしてしまう。だけど、きっとその想いが一番大事だと思うから。
あなたを想って一生懸命作ったカレーはやっぱり不格好だけど、きっと「美味しい」って笑ってくれますよね?
ね、和臣センパイ。
大好きな和臣センパイを迎え入れるため、わたしはとびっきりの笑顔でドアを開けた。
*END*
読了お疲れ様でした!
前作、『バーテンダーの彼』よりは少しは糖度高めになっていたかなーと思うのですが、どうだったでしょうか…。
まだまだヌルイですかね。『バーテンダーの彼Ⅱ』はもう少し糖度高めで頑張ってみたいです。
そして…ああぁ…orz
今作のタイトルは『恋の調理法と隠し味』なのですが(あ、調理法はレシピと読んでください)、はたしてどこに「恋の」レシピと隠し味があったのやら…。完全にタイトルと物語がちぐはぐになってしまっています…でも他のタイトルが思いつかなかったんだよぅ…ああぁ……orz
もしも『恋の調理法と隠し味Ⅱ』を執筆する気になったら「恋の」レシピと隠し味要素を入れたいです……ガンバル…。あと今回回収しきれなかったフラグとか、藤咲カップルと和日カップルの絡みとかも書いてみたいですね。
でも書き上がるのはいつになるやら……まぁ気ままにやろうと思います。
今作も少しでもキュンとしたり楽しんでいただけていたら、とても嬉しいです。
こんな長文のあとがきの最後の最後まで読んでくださってありがとうございました!
ではでは。