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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

13

塾からの帰り道、かじかむ手を擦りながら、寒さを紛らわすために、白くたゆたう雲を夜空に吐き出した。

それは一瞬で掻き消えてしまうので、私は何度も空中へ息を吐いた。

やがてその行為も飽きて、夜空を眺める。

冬の空は何度見ても感動させられ、その美しさに、夜空の絵画が無数にあるのも頷ける。

私が画家であれば、夜空の女王たる月や周りに輝く星々、それらを彩る深い藍色を、納得のいくレベルにまでもっていくには、大いに苦心しなければならないに違いない。

雪でも降りそうなほど寒い夜に、外を歩いている人は見当たらない。それが、深夜と呼ばれる時間帯であれば、なおさらだった。

女の子が一人で歩くのは、あまり褒められたことではない。

塾がある場所から家までは約30分。

普通であれば親が迎えに来てくれるのだろうが今日に限っては私は一人だった。

別に親が放任主義という訳ではなく、ただ受験勉強に疲れたために、気分転換もかねてちょっと歩きたかっただけだ。

親もその気持ちをくんでくれたのだろうと思う。

来る日も来る日も机に向かい、パブロフの犬のごとく問題を次々と解いていく。

将来のためとはいっても、具体的な夢とか絶対行きたい大学があるわけでもない。

ただ周りの受験モードに流され、今やらないと将来困るだろな、という軽い気持ちと、皆から置いていかれるのが怖い臆病者なだけだ。

そんな軽い理由で睡眠時間を削ってまで勉強するという行為は、確実に自虐行為だと思う。

頭はガンガンと痛いし、体に疲労が溜まっていくのがわかる。

最近では、縁のなかった肩凝りにも悩まされ、重たい気持ちに比例して、ため息も深くなる。

頑張ろうという気持ちはとっくに擦り切れ、自棄やけになりそうだ。

そんな時だった。

数ある建物の中から、一つの廃ビルが目に入ったのは。

見た目が不気味な建物に入ろうと思ったのはただ単純に、あのビルであれば月が綺麗に見えるだろうなという思いつきであり、駄目元で入口を探す。

施錠されているのは承知の上だった。

しかし、錆び付いた扉は金切り声をあげながら抵抗なく開かれた。

流石にエレベーターは電気が止まっているため、動いてはいない。

暗闇の中、かろうじて見つけた階段をゆっくりのぼる。

運動不足が原因で息が切れ、足が怠くなってきた時、階段の最後の段が見え、やっと屋上へ続くドアノブに手をかけた。

そして今更ながらに屋上は閉鎖されているだろうと思い立った。

ドアノブから手を離して後ろを振り向くと、のぼってきた階段が下へと続いている。

窓からほんの少しだけ入る明かりを頼りに、階数が書かれてある標示を読み取った。

――13階

突然目の前のドアが甲高い悲鳴を上げて、ひとりでに開いた。


「うっわ!!」


反射的に後ろに下がったせいで階段から落ちそうになり、咄嗟に手すりに捕まってなんとか踏ん張った。

後ろには飲み込まれるような暗闇。

心臓がバクバクと音を立てて耳もとで鳴り響く。

助けを求めるように前をむくと、ドアの隙間分だけ暗がりの空間から月明かりが漏れる。

そろそろと忍び足でドアを覗くと、月明かりを反射的して積雪が白く輝いていた。

パールのような輝きに感動を覚えて一歩足を踏み出すと、さくっとした音が聞こえ、足跡が残る。

深く息を吸い込むと冷たい空気が体の中に入ってきて、とてもすっきりして気持ちがいい。


夜景を見ようと視線をさ迷わせると、先ほど死角だった場所に2人の男女がいた。

壁に背を預けていた男性は一言でいうと黒かった。髪からコート、革靴。頭から足まで黒に統一されていた。

女は赤いカーディガンにベージュのタイトスカートというシンプルな服装に身を包み、背中まである茶髪を夜風に遊ばせ、フェンスの向こう側へ立っていた。

靴はフェンスの手前。


「…え?」


まさかと思って声を上げた瞬間女は前に倒れて視界から消え、ベシャッという嫌な音が耳に残った。

重たいものが固いものにたたきつけられて潰れた音。

呆然としている私に気付いた男がゆっくりと振り返り笑みを向けた。


「こんばんは」


先程起こったことなどなかったかのように平然と挨拶する男の視線を受けて、一気に鳥肌が駆け巡る。


逃げなければ逃げなければ逃げなければ。

どこへ?どこへ?

どこだっていい。


この男から、一刻も早く、逃げなければ。


本能で踵を返して走りだす。

勝手に震える体上手く動かなくてもどかしかったが、懸命に足を動かし、息が切れても立ち止まらずに一目散に逃げ出した。

後ろからは小さくサイレンの音が響いていた。


***


あんな不吉なことがあったのにも関わらず大学は奇跡的に受かった。

受験直前で受験校のランクを一つ上げるという暴挙は結果的にはよかったのかもしれない。

あの時はとにかく自分を追い込みたかった。

だからかもしれない。

いつもからは想像できないほど勉強にのめり込むことができた。

結局あの日の出来事は誰にも話をしていない。


念願叶った大学生活は思った以上には順風満帆だった。

早々に友達が出来て、バイトは幸運なことにそこそこ時給が高くて、苦もなくこなすことができる所だった。そこで初めての彼氏も出来た。


社会人の彼は塾の講師をしている。

最初、バイトの私にもまるで大切な生徒のような接し方をしてくれた。


こんな先生がいてくれたらよかったのに、という羨望から人として憧れを持つようになり、顔を合わせると心臓が忙しなく脈を立てるようになった。


色々な意味で彼は私に沢山の初めてをくれた人だった。

触れ合うことの嬉しさも、心を傾けてくれる嬉しさも、異性の体温の心地好さも。


そして裏切りの苦しみを。


「あんたなんか愛してない。ただの間に合わせだった」


言い合いの中で言われた一言が、私の心を深くえぐった。

目の前が真っ暗で何も見えない。


明日の生き方さえわからなくて、どういていいかわからなかった。


ふらふらとあてどなく歩いていくと、一つの廃ビルが目についた。

覚えがあるような、ないような…と思い返すとある記憶が蘇った。

強烈な出来事だったはずなのに今まですっかり忘れていた。


痛いほどの冷えきった空気、星の輝きの中君臨していた満月、パトカーの音、潰れる音、絶望、恐怖。


自殺した女性は私みたいなずたずたの心を抱えていたのかと思った。


そう思うと吸い込まれるように廃ビルの中へと足を向けた。


相変わらず不気味な雰囲気でよく取り壊しにならないものだ。


屋上には前に見た男性がいた。


前回抱いた恐怖はなりを潜めていた。私の中にあるのは恐怖ではなく、同族愛に似た奇妙な何かだった。


フェンスを越えてビルの縁へと移動すると、足が震えた。

下は怖くて見れなかった。

そのかわりに後ろを振り向くとその人は機嫌が良さそうに顔を緩めていた。


私はきっと縋るような目をしていたに違いない。けれどその人は私を助けてはくれなかった。


そのかわり、言葉を告げる。


「おいで」


誘うような甘い声音が耳元で聞こえた瞬間、体が傾く。


視界一面、満天の星空と輝く満月に支配された。


私が認識できた出来事はここまでで、あとは忘れられない浮遊感と肌を切るよう冷たい圧力があっという間に過ぎた。


そして瞬く間に私はいつの間にかその人の横に立っていた。

そして、その人は満足げに笑って柔らかく抱きしめた。

触れたところから感じるのは、前の冷たさではなく、肌の感触だけだった。

肩に頭を乗せて首筋に顔を近づけているのに、あんなに香った死の匂いは何もしなかった。

まるで、あの人が変わったのかと思ったのだが、それは間違いだろう。


私が、変わったのだ。


「ねぇ、あなたは…何?」


私の問いかけに抱きしめる力が強くなった。

間接が軋むほど強い力だった。

首元で笑った気配がした。


「君をこちら側へ誘惑した悪い悪魔だよ」



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