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1-7 逃亡の夜

 嵯峨嶋が攻撃される危険を冒してエレベータの上下スイッチを押したものの、それは間に合わず、エレベータは十四階、十三階と階を下っていった。

 「逃げられた」

 政陸が呟いた。その言葉は今夜の捕物が失敗したことを象徴していた。

 「まだやることはあるぞ」

 二人の背後にスコット教授が立っていた。

 「部屋を調べる。遺留品を確認することは捜査の基本だからね」

 スイートルームに三人で戻った。

 「先生、何があったのですか?」

 遺留品を探す前に、嵯峨嶋がスコット教授に対して問いかけた。政陸が照明を灯すために壁のスイッチを押した。周囲が明るくなり、部屋の全体が見えた。スコット教授がソファーに座った。嵯峨嶋は対面の椅子に腰かけた。その様子を見て、政陸もスコット教授が座ったものとは違うソファーに座った。三人を暗い雰囲気が包んでいた。

 「ああ、極めて簡単だ。どうやら、我々の襲撃を完全に察知されていたようでね。扉を開けて侵入を試みた瞬間に、閃光手投げ(スタングレネード)を投げられた。魔法による直接攻撃であれば、防ぐことができたのだが……」

 スコット教授が答えた。自らの任務失敗によって、少なからず、精神的な衝撃を受けているようだ。

 「先生、閃光手投げ(スタングレネード)の光は私達がいた非常階段付近にも届いていました。通常の閃光手投げ(スタングレネード)ではなかったのでは?」

 政陸が嵯峨嶋の代わりに尋ねた。

 「ああ、その通りだ。ショーン・アイルランドの魔法言語であるアイルランド語固有魔法の一つは爆弾の効果を高めるというものだ、ということは知っていたのだが、火薬に関する威力だけではなく、その他の効果を持つ爆弾についても有効だったとは思わなかった。あれは間違いなく魔法による効果増幅が行われたものだった」

 「アイルランド語固有魔法?」

 嵯峨嶋がスコットの発言中に現れた疑問を呟いた。その呟きに対して、政陸とスコット教授は眼を剥いた。

 「あなた、基礎的な魔法に関する知識がないと、後々、困るわよ。魔法学概論で固有魔法とは何かということについて勉強したじゃない」

 政陸が呆れながら言った。

 「言語ごとに使用可能である魔法の領域が異なることは知っているわよね?」

 嵯峨嶋は静かに頷いた。政陸がその様子を見て話を続ける。

 「各言語についてそれぞれ使用可能である魔法を確認していくと、特定の言語でのみ用いることができる魔法があることが判明したのよ。『魔法言語の性質はその魔法言語の基本的な語順に依存する』という理論があってね。つまり、どういうことかっていうと、簡単な日本語を話してみなさい」

 「私はあなたを愛しています」

 嵯峨嶋は最初に思いついた言葉を言った。この言葉は語順に関する単純な内容を説明する際によく使われる例なのであって、決して意味などない。しかし、政陸は顔を若干苦くした。

 「ちょっと恥ずかしいじゃない。でも、その例は適切ね。日本語とかインド・イラン語派の諸言語なんかは、主語(私)、目的語あなた、動詞(愛する)の順番で話すじゃない。こういう語順の言語をSOV型というの。一方で、英語で同じ言葉を言ってみて」

 「I love you」

 嵯峨嶋は素直に同じ意味の言葉を英語で言った。

 「はい、この時の語順は?」

 「主語、動詞、目的語?」

 「なんで疑問形なの? その通りよ。こういうタイプの言語をSVO型というの。この基本語順によって魔法効果が分類できるのよ。世界に存在する言語はこの二つのどちらかである場合が殆どなんだけど、勿論、例外はあるわ」

 政陸はそこで一息間を置いた。

 「SVO型でもSOV型でもない言語で魔法という観点から見て、最も有名なものがアイルランド語だ。アイルランド語はVSO型という語順を持っている」

 政陸の続きを受けて、スコット教授が話した。

 「紙に円を書いていくイメージだ。その紙をその語順の言語で扱うことが可能である魔法全てだと思ってほしい。そこに属している言語の数だけ円を書いていく、その時に他の円と重なっていない部分が固有魔法だ。そして、SVO型、SOV型に比べて言語の数が少ないアイルランド語はその紙の中に円が少ないために、固有魔法が非常に多いことが特徴だ。ましてや、今のところ、魔法使いの存在が認められているVSO型言語は、ヘブライ語とアイルランド語、アラビア語の三つだ。アラビア語は急速に欧州言語の影響を受けてSVO型言語化しているから純粋な意味ではヘブライ語とアイルランド語だけとも言える。しかも、アラビア語の魔法使いは宗教的上の対立からキリスト教会系の国家に所属している魔法使いの研究に対して排他的でね。アイルランド語の魔法使いがごく少数しか存在しない上に、研究に対して協力的でなかったために、実際に研究がなされている言語はヘブライ語だけと、SVO型、SOV型言語に比べて研究が非常に遅れている」

 任務失敗直後の不安定な精神状態が影響して饒舌になっていた三人は話題が終了すると一様に披露していた。帝国ホテルから走ってきた、という身体的な疲労、午前三時まで起きているという生理的な疲労、任務失敗という精神的な疲労が三人を襲っていた。

 「うんと苦くしたアールグレーが飲みたいわ。早くこの部屋でするべきことを終えて、帝国ホテルに戻りましょう」

 政陸が極めて尤もな提案をした。それに促されて嵯峨嶋がソファから立ち上がる。

 「先生、何をすればいいですか? とりあえず、部屋にある物の中からショーン・アイルランドの私物と考えられる物を集めればいいですか?」

 「ああ、そうしよう。このテーブルの上に集めてくれ」

 政陸と嵯峨嶋はそれぞれ広いスイートルーム内を探し始めた。クローゼットやベッドルームを探し回る。逃亡中の指名手配犯は、通常、その逃亡に費やしている年数を経るほどに荷物が増えていく。前回の目撃から六年が経過しているショーン・アイルランドの場合にはその逃亡年数相当の荷物が発見されることが期待された。そして、実際に、いくつかの遺留品が発見できた。テーブルの上にはボストンバック、紙袋、歯ブラシなどの私物が並べられた。

 「歯ブラシの獲得は大きな成果だ」

 スコット教授が歯ブラシを前にして喜んでいる。それまで固かった表情が少し柔らかくなった。唾液からDNAを採取できれば魔法使いの裁判ではない通常の裁判においてDNAは流行の証拠品となる。スコット教授はその他の荷物についても内容物を確認している。ボストンバックには衣類が十数点入っており、これについても、販路を確認すれば何らかの手がかりが得られる可能性がある。任務失敗の後にしては多すぎる成果物に政陸は少し精神の安定を取り戻していた。

 「透過魔法(ペネトレート)

 透過魔法(ペネトレート)はスコット教授が軍隊時代に習得した魔法である。通常、人間は可視光線を認識している。それを一時的にレントゲン線を認識するものに変更するという効果を持つ。簡単に言えば、自らの眼球をX線検査機の代替とする魔法である。ドイツの錬金術師ヴィルヘルム・レントゲンが十九世紀に開発した魔法である。父親の母語であるドイツ語ではなく、母親の母語であるオランダ語を用いているために、オランダ語と同一の語順を持ち、同じ印欧語族に属するフランス語や英語にもほどなくして応用された。その後、レントゲン線などいわゆる放射線に関する学問が世界的に飛躍的な発展を遂げたことは歴史を紐解けば瞭然である。

いくつかの荷物について、その包装された中身を現状保存に留意しながらスコット教授は見ている。

「ん? これは……」

 スコット教授の眉が少し動いた。彼は素早い動きで包装を除去し、内容物を確認した。

 「まずい、すぐに部屋から出ろ!」

 嵯峨嶋と政陸はその声を聞き、瞬間、動揺しながらもその指示に従って急いで部屋から出た。最後尾のスコット教授が扉を閉めた。スコット教授が嵯峨嶋と政陸を抱えて扉から一米(メートル)でも離れるために跳んだ。三人が体から着地した、と同時に、


 バダーン!


 黒煙と爆風、その二つがまるで協奏曲(コンチェルト)を奏でた。三人の周辺は黒一色に染まり、銅鑼を思い切り打ち鳴らしたような轟音が三人の聴覚を痺れさせた。ショーン・アイルランドの固有魔法は『爆弾の効果増幅』であれば、遺留品を全て爆破し、証拠を残さないために、また、自らを追跡する者を葬るために、爆弾を置いていくというのは、いわば、当然の策戦であろう。これは三人の油断が招いた危機であった。

 「逃げるぞ」

 最初に音の迷宮から抜け出したスコット教授が言った。

 「いいんですか? このまま放っておいて」

 嵯峨嶋が極めて良心的な当然の疑問を提示した。

 「どう説明する? 本当のことを話せば、魔法について言及せざるを得ない。その事態は国際条例にも魔法使いの慣習にも反している。我々魔法使いはその存在を秘匿しておかなければならない。」

 嵯峨嶋はそれに仕方なく納得し、逃亡を開始した。最初嵯峨嶋と政陸が護っていた非常階段から同じフロアにいる全ての他人に先駆けて階下に向かった。


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