1-5 襲撃の夜
東京都内において最も静かな場所の一つである旧江戸城――つまり、皇居だ――の外周は都心にありながら、夜も更けると人の気配がなくなる。嵯峨嶋と政陸、スコット教授は帝国ホテル入り口から日本の中心部である官庁街を有する霞が関に隣接する日比谷公園を抜けて、祝電橋を渡り、内堀通りを北上していた。息が切れない程度の速度で走りながら嵯峨嶋は問う。
「どうして、魔法を使って走ってはいけないのです?」
スコット教授は闇に紛れるためか、存在を希薄にするダークな色合いのスーツを着込んでいる。さらに、その上から魔法使いらしく黒いマントを羽織った姿で闇夜を疾走していた。
「魔法を使うことがマイナスの効果を持つからだ」
簡易ではあるが魔法使いの正装をしているスコット教授に対して、嵯峨嶋は緩めのジーンズを履いての走行であり、スコット教授に比較して走りやすくはあったが、ダウンジャケットを着ているために、大凡、夏場の服装に比べれば今の時期に着ているような冬場の服装は走りにくく、若干の煩わしさを得ていた。
「先生の隠密系魔法を使えば、姿を消したり、気配を紛れさせたりできますよね? 僕は使えませんが、先生ならこの状況に相応しい魔法が使えるでしょう? 決してマイナスに働くことはないと思うのですが」
嵯峨嶋はその煩わしさに対して不平を吐く。
「我々が出発した帝国ホテルからショーン・アイルランドがいるとされているKKRホテル東京まで直線距離で約二キロメートルしかない。もちろん、相手が魔法使いではない場合には、目視による察知を避けるために魔法を使うという手段は有効だろうが、こと相手が魔法使いの場合には、魔法の行使を察知されることを避けるために魔法を使わずに接近するという方法をとる方が良い」
三人の左手に皇居前広場が見えている。昼日中の時間帯は天皇誕生日ということもあり、非常に込み合っていたこの場所も、夜が深まった今時分ともなれば、人通りは少ない。ゆえに三人の姿が人目につくこともない。堀を挟んだ反対側の馬場先門付近にはまだ人通りがあったが、右手に整立する軽い林がその視界を遮っていた。勿論、林が無くとも、暗い色合いの装束に身を固めた三人の姿を視認することは、距離が遠いこともあって困難だろう。
「常に警戒している状態でも無い限りは常に周囲を監視していることは不可能よ。私達や警察が潜伏先を察知していることをショーン・アイルランドは知らないわ。だから、少なくとも、常に周囲を見ているようなことは無いと思うわ。魔法使いと言っても、魔法を使わなければ、一般人と変わらない。東京では、大勢の一般人が毎日移動しているもの。普通、その一人一人を確認するなんてできないわ」
過度のホームシックにより学業に不安のある嵯峨嶋と異なり優等生である政陸が当たり前の説明を行った。
「まあ、そういうことだ。だから我々が行うべきは少しでも早くホテルに到着することだな」
都市の街灯が薄く道を照らしている。彼らは一定の速度を保ちながら、和田倉噴水公園を通過し、大手門前に至る。濠に囲まれ、謂わば、外界とは異なる場所にいたそれまでと異なり、右手にはビルディングが整立している。ゆえに若干の交通もある。彼らはその中を可能な限り静かに走った。初めての実際的な戦闘になる可能性に対し政陸が緊張に心を捉われている一方で、嵯峨嶋は、魔法使いというよりニンジャみたいだな、とおおよそ状況に相応しくないことを考えていた。KKRホテル東京まで残り五百米。襲撃まであと三分。
「捕縛の際には魔法を使っても構わないでしょうか?」
嵯峨嶋が確認を行う。
「構わない。どうあっても捕縛の際には戦闘を行う可能性は否定されない。戦闘となれば、敵対象も魔法を使用するだろうからね。但し、これだけは言っておく。可能な限り、戦闘は避けてくれ。君達二人では対象と対峙することは極めて難しい。防衛と逃亡につとめてほしい」
スコット教授の言葉に政陸が憤慨した。
「教授、私は戦えます。学校ではまだ戦闘に関する科目は受講できませんが、祖父の下で、経験を積んでいます」
優等生である政陸が教授の発言に反抗することは極めて珍しい。嵯峨嶋はそのような機会をこれまで得ていなかった。また、任務の困難を認識している政陸にしては誤った判断だとも言える。実際、ショーン・アイルランドは件のオマー爆弾事件だけでも二十九名を殺害している。また第一級の国際テロリストでもあり、およそ学生――それも一年生――が対抗できるような相手ではないのである。
「ユーコ、気持はわかるが、君に何かがあれば、私は顔向けできない。一つには、大学に対して、二つには、マサリク家に対してだ。自重してほしい。こういう任務は本来私のような軍部や警察の人間が行うべきなのだ。一人の大人として、君達を巻き込んでいることを遺憾に思っている」
「ですが……わかりました。その代わり、絶対に、捕えましょう」
政陸は不承不承という態度ではあったが、同意した。
「気持はわかるが、殺害は諦めてほしい」
三人は東京消防庁前に到達した。気象庁前の交差点は非常に交通量が多い。事実、これまでただの一人も彼らとすれ違わなかったが、この場所では、人影を視認することができる。しかし、もう残りの距離は百米未満。赤信号に阻まれ、一息に目的地であるKKRホテル東京に入ることはできない。その信号が変わる瞬間を待っていた。嵯峨嶋は困惑していた、何をしていいかわからなかった。政陸は決意に満ちていた、絶対にあの男を捕まえようと。しかし、スコット教授は流石元軍人、昔取った杵柄、捕縛や襲撃に慣れているからか、おおよそ緊張の類は見られなかった。
赤信号が変わり、青信号になる。ここからは目立つことを避けるために歩く。政陸が、おそらく無意識に、早足になるのに合わせて三人の歩調は速いものになっていた。