ゆきいろ
雪が街を包む。夕暮れが消え始めたころだったろうか、アスファルトに溶けていく雪は、喧騒に喚起を生んでいた。
「寒……」
イルミネーションが彩る駅への道には、クリスマスを楽しむカップルで溢れていた。こうして男ひとりでいる方が、珍しいだろう。いたとしても、夜道を楽しむ女子高生の群れとか、老人くらいしかいない。
ダウンジャケットに染み込んでくる冬の風は、少しずつ僕の体を冷やしていった。プレゼントの入った小箱を持つ手も、かじかんでいて、指先の感覚が薄い。
少し期待した人もいるかもしれないけど、今僕が持っているプレゼントは、彼女とかにあげるものではない。率直に言うのは気が引けるけれど――これは、妹へのプレゼントだったりする。誤解して欲しくはないけど、別に僕はシスコンという訳ではないし、進んでプレゼントを購入したわけではない。簡単に言えば、妹とクリスマスプレゼントの交換をするからだ。今月は金が無いから、本音を言えばこんなことは勘弁してもらいたいのだけど、まだ子供っぽいところが残っている妹との約束を破ると、後が怖い。
僕はプレゼントの中の、ベージュ色の手袋を一瞬だけ脳裏に浮かべた。家に帰れば、プレゼントを心待ちにする妹が飛び込んでくるだろう。でも――
本音では、プレゼントをあげたい相手は他にいた。でも、僕はプレゼントをあげる自信などないまま、こうしてイブを終えようとしていた。
僕に好きな人がいない、と言えばそれは嘘になる。小学校の頃からずっと同じクラスだけど、そこまで関わりが無かった子だ。それが、春日井だった。
春日井はいつも休み時間に読書に耽ったり、授業の予習をしているような目立たない存在で、クラスの受けも良いとは言えない。でも、端正な顔立ちや、垂れた瞳や、時々見る笑顔など、何もかもが僕にとってはたまらなく可愛かった。
「春日井さ、好きな人がいるらしいよ」
そのように慧から宣告されたのは、二ヶ月くらい前のことだ。文化祭が一段落して、時間的に余裕が出来たときに言われた言葉に、僕は戸惑いを隠せなかった。
「……好きな、人?」
と、声を振り絞るのが、その頃の僕には精一杯だった。
「まあ、俺も細井から聴いただけだけどさ。あいつ、情報通だしなァ」
と、慧は下品な笑い声を上げて、わざとらしくニヤニヤと笑っていた。誰を? と、あの時聴けば良かったのに、僕は聴くことすら出来なかったことを覚えている。
もちろん、その後、彼女に直接聴くことなどままならず、特にそのことを言及することも無かった。それどころか、僕が彼女をそれ以来一層意識するようになってしまって、彼女の方を向く度、そっぽを向かれるような、そんな態度を取られるようにもなった。
正直言えば落胆したし、彼女との距離が広がったとも思った。それ以降、春日井とその「好きな人」との間に何かがあったかどうかは、分からない。
「好きな人かぁ……」
しばらく歩くと、僕は駅前に辿り着いた。毎年、この時期になると、駅前には決まって巨大なクリスマスツリーが設けられる。駅前の時計台に匹敵する高さに加えて、ツリーを彩るイルミネーションの美麗さは、テレビ局を呼び寄せるほどだ。
雪の降る夜、駅前にはいつにも増してカップルの姿が多い。光の木の景観を楽しむ人もいれば、ツリーの影に隠れて、キスを交わしているカップルもいる。人事だけれど、正直ドキドキしてしまった。
僕も、いずれこうしてクリスマスを過ごすことが出来るのだろうか。
同時に、脳裏で春日井の微笑む表情が浮かぶ。
春日井に、気持ちを伝えられたら。春日井と、こうしてクリスマスツリーを見ることが出来たら。そう思う度、胸が締め付けられる。
ツリーに雪が綿のように積もり始めていた。ダウンジャケットが、雪解け水で光り始める。髪にかかる雪が、僕の全てを冷やしていくみたいだ。
「あ……」
そのとき、僕は小さな影を見た。ツリーに溶け込みそうな、弱々しい影だ。イルミネーションの輝きに負け、今にも消えそうな影を、僕は見落としはしなかった。
「春日井……?」
確かに、春日井だった。
白いニット帽を長い髪の上に乗せ、やけに薄いコートを羽織ってツリーを眺めている。春日井の周りには――人影は無い。ひとりで見上げているみたいだった。
最初は、なぜか足がすくんだ。本当に彼女に声をかけても良いのかとか、逃げられないかとか、どうでもいい理由が僕を足止めした。
「あれ?」
……でも、それより先に。
春日井は、僕の困惑したような表情に気づいたらしく、目を丸めて、素っ頓狂な声をあげた。彼女は瞳を少しだけ下げると、そのまま額を少しだけ前のめりにする。彼女の対応を見た僕の中で、何かがほぐれた。そのまま、ベルトコンベアに乗りながら歩くように、僕は彼女の方へ、一歩ずつ、足を踏み入れる。
「よ、よう」
「……こんばんは」
雪のきらめきに似た、彼女の声が、僕の心臓を高鳴らせる。
「……どうしたの? こんな遅くに」
震える声で、僕は彼女の顔色を伺いながら言った。
「……ツリー、見に来たの」彼女は苦笑した。「家に誰もいないから、退屈で」
何も言うことが出来なかった。クリスマスの夜なのに、家族すら近くにいない彼女が、ひどく弱々しく見えた。
「神原くんは?」
「僕?」
僕は手に持った、白いプレゼントの小箱に目を落とす。
「プレゼント、買いに来たんだよ。手袋なんだけど」
妹に急かされてさ、と続けると、彼女は「そうなんだ」と、聞き取れないほどの言葉を呟いた。
そこで、僕はうかつだった、と思った。家族が今春日井の周りにいないのに、軽々しく家族のことを口に出すべきではなかった。現に、彼女は眉を落として、イルミネーションの光を反射する雪解け水を見たまま、反応を見せない。
「あ、あのさ、春日井っ」
「……今夜は、寒いね」
彼女は、白い両手に吐息を当てた。よく見れば、彼女は手袋を付けていない。細い指先は微かに震えていて、霜焼けを起こしそうだった。
僕は、とっさに何かを言おうとしていた。
でも、フレーズが思いつかない。
それでも、僕の手と口は、意志に反して、春日井を呼び止めた。
「ねえ」
彼女は、僕の強張った表情を見て、首を傾げる。
「……良かったら、これ、使わない?」
僕は小箱を差し出す。
「……え」
予想外にも、彼女は反射的に言う。
「いらない」
ぐさり、と僕の胸を、鋭いものが射抜いた。
「……だって、それは妹さんのプレゼントなんでしょ? なのに、わたしが貰ったらプレゼントの意味なんてないし、妹さん悲しむよ? それに、わたしのためじゃないプレゼントなんて貰っても、嬉しくなんて……」
その時、彼女は小さな嗚咽を漏らした。僕は予想だにしなかった反応にびっくりして、彼女を見ることが出来なかった。
次第に彼女の嗚咽は強くなっていって、僕の胸を叩き始める。
「ばかぁ……」
僕は何も出来なかった。何が起こっているのかも、正確には分からずに、ただ立ち竦むことしか出来なかった。彼女の薄い背中を抱きしめることなんか、出来やしない。今にも――僕まで、泣きそうだった。
「……ごめん。言わない方が良かった」
僕は声を搾り取るように言う。
「……何にも、言わないで」
「けどさ、僕は」
「言わないでよ」
「ただ……」
「言わないでよ!」
「言わせろよ!」
知らぬ間に、僕は声を張り上げていた。
「確かにさ、僕は馬鹿で、春日井の気持ちなんかこれっぽっちも分かんないけどさ、ただ、言いたかっただけなんだよ! だってさ、目の前で好きな人が寒がってたら、男はそれに耐えかねないんだよ! プレゼントは確かに別人にあげるものでもさ、やっぱり好きな人に一番あげたいから!」
思考回路が充分に回らず、僕はただただ叫び続けた。その言葉が、彼女を傷つけても、言わずにはいられなかった。ただ、今は彼女を放っておけないから。小さな手のひらに、少しのぬくもりだけでも与えたいから。
やがて落ち着いた僕は、自分がめちゃくちゃ恥ずかしい言葉を言っていることに気が付いて、一層彼女の事を見ることが出来なかった。そのまま、僕は彼女に背を向けて、無言のまま去ろうとする。
「……神原くん」
彼女の小さな声が、僕を呼び止める。
「……ねえ」
「な、何」
「手、温めてよ」
え、と僕は振り向く。
「……プ、プレゼントはいらないけど」
振り向くと、彼女は頬を赤らめて、僕に手を差し出す。彼女は涙と頬の赤さを混濁させて、ぐしゃぐしゃな表情になっていた。
「……わたしのことが、好きなんでしょ? だから、温めてよ」
率直に言われて、僕は言葉を言う言葉すら言えず、無言のまま肯く。
「わ、わたしも、神原くんなら……」
僕はお互いに顔を真っ赤にしたまま、どうすればいいのか分からなくなる。
「僕、手冷たいよ?」「いいよ」「余計冷たくなるかも」「……いいから、早く」「でも」「あー、もう!」
僕が戸惑うのをよそに、彼女は僕の手を取り、その冷たい手が触れ合った。急に僕の頬から首筋を伝って、体の先まで熱が伝わっていく。心臓の鼓動も、高鳴ったまま、破裂しそうだった。
「……温かい」
彼女は小さく呟く。
「温かいよ。……うそつき」
いや、温かくなったのはあなたが原因です、と口にしようとしたけれど、僕は寸前でその言葉を飲み込む。
「……ねえ、もう夜遅いよ?」
僕は時計台の方を見る。そろそろ、九時を回るところだった。
「もう少しだけ」春日井は上目遣いで言う。「……温かいから」
「……うん」
その後は、彼女が僕に何をしたのかはあまりよく覚えていない。でも、イルミネーションに微かに積もった雪の色や、彼女の瑠璃色の瞳や、街に降り注ぐ雪が、僕らの聖夜を彩っていくことだけは、覚えている。
「ケーキ、買ってく?」
「……あ、そう言えばまだ食べてない」
「美味しい店、あるんだよね。まだやってるかなぁ」
「意外と、甘党なの? 神原くん」
「いや、そうじゃなくて」
小さなケーキひとつでも、今はただ、彼女にプレゼントを渡したかった。それだけが、ただ、この冷え切った心を、暖めていく。
「じゃあ、チョコプレート乗っけて」
「……良いけど。何て書くの?」
「え? えっとね……」
――わたしからも、メリークリスマス、って。
読了いただき、ありがとうございました。
クリスマスを扱った話は初めての経験な上、春日井の心情描写も上手く表現仕切れていなかったところはご了承ください(汗
僕からも、皆様にメリークリスマスを。