受取人のいない朝
受取人のいない朝
朝の少し前、郵便受けの音で目が覚めた。
金属が、軽く触れ合うような音だった。はっきりした投函音ではない。何かが入れられたというより、一度だけ、確かめるように蓋が持ち上がって、また静かに戻されたような気配だった。
私は布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。
この時間に郵便が来るはずはない。新聞も取っていないし、宅配便にしては控えめすぎる。夢の続きかもしれないと思ったが、耳の奥にはまだ、金属の冷たい響きが残っていた。
部屋は暗かった。けれど、夜の暗さではなかった。朝になることを知っている暗さだった。カーテンの向こうで、空がまだ色を決めかねているような、薄い保留の時間。
私は起き上がり、足音を立てないように廊下へ出た。
玄関の床は、夜を少しだけ残して冷えていた。ドアの横の郵便受けを内側から開ける。中には何も入っていない。
やっぱり気のせいだったのか、と思いかけたとき、指先に紙の感触が触れた。
底の奥に、薄いものが一枚だけ貼りついている。
引き出してみると、それは封筒ではなく、四つ折りの白い紙だった。切手も差出人もない。ただ丁寧に折られているだけで、誰に向けたものなのかも分からない。
私は玄関の明かりをつけなかった。
つけてしまうと、ただの紙になってしまう気がしたからだ。明るさには、時々、ものを現実へ引き戻しすぎるところがある。
そのまま台所へ持っていき、テーブルの前に座る。
時計は四時十二分を指していた。冷蔵庫の低い音だけが、部屋の輪郭を保っている。
紙を開く。
中には、一行だけ書かれていた。
「受け取らなかった朝は、まだ届いていません」
私はそれを何度か読み返した。
意味は分かるようで、分からなかった。言葉自体は簡単なのに、文の奥行きだけが妙に深い。足を踏み出せば落ちそうな、小さな井戸みたいな一文だった。
受け取らなかった朝。
そんなものがあるのだろうかと思う。
でも、思った瞬間に、ある、とどこかで分かってしまった。
私は今までに何度か、朝をちゃんと受け取らなかったことがある。
目は覚めたのに、起きなかった朝。 起きたのに、昨日の続きの顔のまま出ていった朝。 何かを決めるはずだったのに、決めないまま、ただ時間に押されて外へ出た朝。 言うべきことがあったのに、喉の奥に置いたまま歯を磨いて、靴を履いて、駅まで歩いてしまった朝。
そういう朝は、たしかにあった。
私はそれを過ぎ去ったものだと思っていた。受け取られなかったまま、どこかで自然に消えていくものだと。
けれど、この紙は、そうではないと言っているようだった。
まだ届いていません。
まるで、朝にも不在票があるみたいだった。
私は少しだけ可笑しくなって、それから、すぐに笑えなくなった。
笑えない理由は単純で、その言い方が妙に正しい気がしたからだ。過ぎたはずの日の一部が、実はまだ配達完了になっていない。私は何度かの朝を、表面だけ受け取って、中身を置いたまま出発してしまったのかもしれない。
テーブルの上に紙を置く。
白い紙は、ひどく薄いのに、部屋の空気を少しだけ変えていた。冷たい水を一滴だけ落としたときみたいに、静けさの表面に小さな張りが生まれる。
そのとき、窓のほうで音がした。
かすかな擦過音。カーテンがわずかに揺れている。窓は閉まっているのに、外の風ではなく、室内の何かが布の裾を通ったみたいな揺れ方だった。
私は振り向く。
カーテンの向こうが、わずかに明るい。
朝だ、と言うにはまだ早い。けれど、夜ではもういられない明るさが、布一枚の向こうで待っていた。
私は紙を持って窓辺へ行った。
カーテンを少しだけ開ける。外の空は、雨の前にも似た灰色で、どこにも焦点が合っていない。街はまだ始まっていなかった。向かいの建物の窓もほとんど暗い。誰の朝にも、まだなっていない時間。
受け取らなかった朝は、まだ届いていません。
私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。眠そうで、少し白くて、輪郭だけが先に起きているような顔だった。
「じゃあ、どうしたらいいの」
口に出すつもりはなかったのに、声になった。
返事はなかった。
ただ、手に持った紙の端が、わずかに温かくなった気がした。錯覚かもしれない。それでも、そのかすかな温度は、沈黙なりの返答に思えた。
受け取りに行けばいいのだ。
どこへ、とは分からない。
昔の家でも、駅でも、もう会わない誰かのところでもない。もっと小さな場所。たぶん、自分の中で、朝に置き去りにしたものがまだ座っている場所。
私はテーブルに戻り、ノートを開いた。
何かを書かなければならないと思ったわけではない。ただ、受け取りという行為には、少しだけ形が必要な気がした。言葉でも、名前でも、せめて空白の輪郭でも。
しばらく考えてから、一行だけ書く。
今朝は、まだ届いていない朝を迎えに行く。
書いたあとで、妙に静かになった。
冷蔵庫の音は変わらない。時計も同じ速さで進んでいる。けれど部屋の奥にあった見えない緊張だけが、少しほどけた気がした。
私は続けて書く。
急がなくてもいい。 受け取らなかったものは、 なくなったのではなく、 ただ保留のまま、 朝の入り口に置かれているだけなのかもしれない。
そこまで書いたところで、玄関のほうから、また金属の小さな音がした。
今度は確かだった。
私は立ち上がり、廊下へ出る。郵便受けを開ける。中には、もう何もなかった。白い紙も、気配も、誰かの訪れた痕跡もない。
でも、それで十分だった。
私は何かを受け取ったのだと思う。紙そのものではなく、もっと手前のものを。置いてきた朝が、まだ終わっていなかったという事実を。終わっていないなら、少しは戻れるのだという、細い猶予を。
台所へ戻ると、窓の向こうの空が、ほんの少しだけ白んでいた。
ようやく朝だった。
きっぱり始まる朝ではない。誰かの生活の隅で、静かに引き受けられていくような朝。受取人の名前がなくても、ちゃんと届こうとする朝。
私はテーブルの上のノートを閉じた。
白い紙は、もうそこになかった。
最初からなかったのかもしれない、と一瞬だけ思う。けれど、ノートの最初の一行が、それを否定していた。
今朝は、まだ届いていない朝を迎えに行く。
自分で書いた字なのに、少しだけ配達済みの印のように見えた。
私は湯を沸かし始める。
薬缶の底で、小さな気泡が生まれる音がする。朝の最初の音として、それは悪くなかった。
受け取らなかったものを、全部取り戻すことはできないだろう。
でも、全部でなくていいのだと思う。
ひとつの朝に、ひとつだけ戻ってくるものがある。それで十分、世界は少しだけ続きを始められる。
窓の外の灰色は、もう迷いではなくなっていた。
私は湯気の立ちのぼるのを見ながら、まだ新しいままの朝を、今度は少しだけ丁寧に受け取ろうと思った。




