バラの花輪はなぜ広がったのか〜“美しくなる香水”は危険だと知っていたので、俺は扱いませんでした〜
「バラの花輪だ、手をつなごう」
不意に、そんな古い童謡が脳裏をよぎった。
理由は単純だ。
今のこの街には、あまりにも“バラ”が溢れすぎていたからだ。
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「見て! 私の方も咲いたわ!」
「なんて綺麗なの……
本当に、バラの花を纏っているみたい」
広場に面した一等地。
競合相手である大手の商会の店先には、
今日もむせ返るような甘い香りと、熱狂的な人だかりができていた。
彼らがこぞって買い求めているのは、最近大流行している新作香水。
それを肌に数滴垂らせば、数分後にはうっすらと赤い輪のような模様が浮かび上がる。
それが"美の象徴"として、今や街中の流行を支配していた。
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だが、その光景を遠巻きに眺める俺の背筋には、冷たいものが走っていた。
かつて、前世で聞いたことがある。
それは──
症状を「美しい」と誤認させる、死の流行だ。
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赤い発疹。
軽いかゆみ。
そして──
「ハックション!」
誰かのくしゃみが響く。
周囲の人間がどっと笑い声を上げる。
彼らにとっては、それすらも流行の一部を楽しむスパイスに過ぎないのだろう。
だが、俺には分かっていた。
あれは決して美しさなどではない。
強烈なアレルゲンが引き起こす、病の初期症状だ。
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「その商品、やめた方がいい」
俺は一度だけ、商会長の男に忠告した。
同じ商売人としての、最低限の情けだった。
だが──
男は鼻で笑った。
「……なんだ、嫉妬か?」
「警告だ。その模様は炎症で、くしゃみは重症化の兆候だ」
「黙れ。いいか──
“売れている”なら、それが“正しい”ということだ。
大衆が選んだものが、正義なんだよ」
周囲の客も、俺を嘲笑う。
流行に乗れない、時代遅れの商売敵だと。
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それで、終わりだった。
"理解されない"のではない。
"理解したくない"連中には、何を言っても無駄なのだ。
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俺は自店に戻り、あの香水を扱うことを禁じた。
代わりに並べたのは、刺激の少ない香料と、炎症を鎮める軟膏。
地味だ。
華やかさも、爆発的な売上もない。
だが、問題は起きない。
商売において最も重要なのは、一時の利益ではなく、継続できる安全性だ。
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数日後。
街中でくしゃみをする者が明らかに増えた。
さらに数日後。
“美しい”と持て囃されていた発疹は、無惨に広がり、熱を帯びた。
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それでも、香水は売られ続けた。
「これが美しさの証だ!」
その言葉を、人々は信じた。
──いや、信じたかったのだろう。
今さら、自分たちの選択が間違っていたとは認められないから。
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やがて、
街角で倒れる者が出始めた。
軽い症状では終わらない。
呼吸が乱れ、喉が塞がり、動けなくなる。
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「 We all fall down.(みんな転んだ)」
かつて世界を蝕んだ病を揶揄した、呪いの歌の終止符通りの結果を迎えた。
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そして今日、
香水を扱っていた商会の扉は、閉ざされた。
二度と開かない形で。
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原因は、最初からそこにあった。
彼らが売っていたのは、美しさではない。
ただの“毒”だ。
誰もが目を背け、見ようとしなかっただけの話だ。
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バラの花輪は、なぜ広がったのか。
美しく見えたから。
売れていたから。
そして、疑わずに流されるのが一番楽だったから。
“美しい”から“良い”。
“売れている”から“正しい”。
そんな心地よい盲信が、
彼ら自身の首を絞めた。
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俺は今日も、自分の店のカウンターに立っている。
一時の熱狂はすっかり冷え込み、代わりにうちの店を訪れる客は静かに増え続けていた。
彼らが求めているのは、確かな効能と、安全な品だ。
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流行という名の毒は、
甘い香りで人の思考をいとも簡単に奪い去る。
そして残るのは──
醜い傷跡と、消えない後悔だけだ。
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本当に必要なものは、
目を背けずに真実を見る者にしか手に入らない。




