青いセーター②
康臣と聡美は同じ小学校の同級生だった。二人は遠い姻戚関係にある。ある日、夕食の食卓で母の香澄から康臣のことを聞かれた聡美は、「あの子、臭いから嫌い」と答えた。
「臭い? 何で康臣君が臭いの」
「知らない。お風呂に入らないからじゃないの」
「まあ、あなた、ちょっと様子を見に行った方が良いんじゃなくて?」
香澄は食卓を囲んでいた夫の隆正に言った。
隆正は香澄の言葉に顔をしかめた。遠い親戚とは言え、一族が近隣に寄せ集まるようにして住んでいる田舎のことだ。梨奈の身持ちの悪さは隆正も当然、知っていた。大体、梨奈に遠藤家との縁組を世話したのは隆正だったし、梨奈が浮気をして遠藤家を放り出されてから、隆正は遠藤家から、「とんでもない嫁を世話した」と憎まれ口を言われ、閉口した。
梨奈のことだ。康臣が育児放棄に遭っているであろうことくらい、容易に想像がついた。梨奈にはもう二度と係りたくないという思いが強かった。
だが、隆正は一族の長だ。知った以上、捨て置くことはできない。このまま放っておくと、一族の長としての威厳に傷がついてしまう。
隆正は梨奈の家に乗り込むと、有無を言わさず康臣を取り上げ、自宅に連れ戻った。梨奈は抵抗しなかった。むしろ育児から解放されて喜んでいる様に見えた。
――あきれ果てた奴だ。
隆正は吐き捨てるように言った。
「いいか、お前が一人で生きて行けるようになるまで家に置いてやる。そうだな、高校生になるまで置いてやる。高校生になれば、後は一人で生きて行けるだろう」隆正は幼い康臣にそう言って聞かせた。
こうして康臣は聡美の家にやって来た。
康臣が飢えずに、人並に生きて行くことができるのは、聡美の告げ口のお陰だった。厄介者だったが、康臣にとって、聡美の家での生活は快適だった。食事の心配をすることがなく、誰からも殴られることがなかった。毎日、安らかに眠ることができた。味わったことのない平穏な生活だった。
聡美の下に和美という妹がいた。最初、子供たちは何事にも雑な男の子がいることに戸惑っていた。だが、女の子ばかりの家に男の子がやって来たのだ。香澄は喜んだ。康臣に優しかった。
「ねえ、クラスの高橋君が私のこと虐めるの。懲らしめてやって頂戴」
ある時、聡美にそう言われた。
康臣は聡美と同級生だがクラスは違っていた。聡美のクラスの高橋という生徒から嫌がらせを受けていると言う。高橋は野球クラブに所属する活発で運動神経の良い男の子だ。小学生のことだ。好きな子の関心を引きたくて、虐めていただけのことだろう。
康臣は勉強も運動も苦手で、高橋に敵うところなど何一つ無かった。だが、聡美の命令とあっては仕方がない。康臣は校庭に高橋を呼び出すと、聡美への嫌がらせを責めた。
「聡美ちゃんを虐めたら僕が許さない!」
高橋は顔を真っ赤にして康臣の叱責に耐えていたが、この一言で堪忍袋の緒が切れた。これではまるで高橋が弱いもの虐めをしている悪者のようだ。高橋は聡美のことが気になってからかっていただけで、虐めたつもりなどなかった。
「ふざけるな!僕は聡美ちゃんを虐めてなんかいない――‼」
高橋は康臣の胸倉を突いた。
意外に力強い一撃に、康臣は尻もちを着いた。敵わぬと知りながら、康臣は高橋に組み付いた。
こうして、したくもない喧嘩をさせられた。
それでも康臣は人の役に立てることに喜びを感じた。聡美の為に戦っていることが、無性に誇らしかった。康臣は聡美の陣内になることができたと思った。
聡美の家ですくすくと成長し、康臣は高校生となった。
隆正は康臣が高校に入学すると直ぐに、梨奈のもとに戻したがった。だが、梨奈は相変わらずの荒れた生活を送っている。梨奈のもとに戻すことが躊躇われた。それに香澄が康臣を手放したがらなかった。
ずるずると康臣を手元に置いていた。
「康臣には康臣の人生がある。これ以上、あいつをこの家に置いておけん!」
康臣が高校二年生になると、隆正は宣言するように言った。
「学費くらいは援助しても構わないが、康臣は梨奈の家に戻す」
聡美も和美も年頃となり、既に子供とは言えない年齢になっていた。声変わりして少年から青年へと変貌を遂げようとしている康臣を、これ以上、若い娘たちのいる家に置いておくことは出来なかった。そのことを香澄も感じていた。
香澄は隆正の言葉に従った。
康臣は梨奈のもとに送り返された。康臣に断る権利などなかった。ただ黙って、隆正と香澄に、「長い間お世話になりました」と頭を下げることしかできなかった。
康臣の戦いの日々が始まった。
梨奈のもとに戻ってからは、正体不明の男たちとの諍いが絶えなかった。康臣はもう無抵抗な子供ではない。大人の理不尽な暴力に対抗するだけの膂力を備えていた。康臣は梨奈が家に引き込んだ男たちと戦い、家から追い出し続けた。
康臣は身も心もぼろぼろになった。折角、入学した高校も休みがちになり、悪い仲間と付き合うようになった。
そんなある日、康臣のもとに聡美から電話があった。
学校に出てこない康臣を心配して、時折、聡美は康臣に電話をかけて来る。香澄の指示だということは直ぐに分かった。聡美の説教が鬱陶しくて、最近は、「折り返し電話を頂戴」という留守番メッセージが残っていても、無視していた。
ところがこの日のメッセージは違っていた。
「お母さんが亡くなったのよ。渡したいものがあるから家に来て」聡美は涙声でそう言っていた。
康臣は聡美の家に飛んで行った。
「何で今まで連絡して来なかったのよ!」
玄関先で、顔を見るなり、聡美は康臣を怒鳴りつけた。そして、康臣の前でわんわん泣いた。
癌だった。病院に入院してからはあっという間の出来事だったと言う。
「これ、お母さんがあんたにって――」
康臣は応接間に通され、聡美から毛糸の青いセーターを渡された。
病院に入院してから、暇だと香澄は編み物を始めたそうだ。今まで編み物なんかしたことがなかったので、随分、苦労して編んだようだ。聡美や和美のではなく康臣のセーターを最初に編んだ。
冬の空のように澄み渡った空を思わせる青色のセーターだった。
「あの子、きっと寒がっていると思う」
香澄は病室のベッドの上で康臣のセーターを編みながら言った。
お世辞にも良く編めたセーターとは言えなかった。それでも香澄の愛情の重みをずっしりと感じることが出来た。康臣にとっての母親は、産みの母ではなく、何時も優しかった香澄だった。
遠藤康臣は香澄が編んでくれたセーターを胸に掻き抱くと、蹲って、吠えるように泣いた。康臣の咆哮はまるで聡美の家を倒壊させてしまうかのように激しかった。




