助けざるを得ない人物
俺は集中していた。
もう一銭たりとも無駄には出来ない。
どんな境遇のどんな人物が話かけてきても無視しようと心に決めていた。
地面だけをみて、話しかけるなオーラを発しながら、いよいよ近づいてきたバスターミナルを見た。
「あと少し、あと少し」
俺は上機嫌でつぶやくと、足早にバスターミナルへ向かった。
その時、ベンチに持たれかかり、苦しそうにしている女性を見つけた。
いやいや、今回は仕方ない、とりあえずチケットを買うのが先だ。
「あの、そこの人」
まずい、話しかけられた。
無視しよう。そう心に決めてスルーしようとした。
しかし、その女性をみてある事に気づいてしまった。
なんと、妊婦さんなのだ。
これは、無視できない。
母子共に命に関わる状況かもしれない。
俺の中の天使が助けろという。
しかし、賽銭泥棒をした俺の中の悪魔は、無視しろという。
人間とは助け合う生き物だ。
そんな言葉がよぎった時、俺はもう妊婦さんの前で立ち止まっていた。
「どうしましたか」
天使の勝利。俺の中の悪魔は打ち砕かれた。
しかし、俺が賽銭泥棒だという事実は変わらない訳だが。
「すいません。陣痛が来てしまって。タクシーを拾ってくれませんか。そしたら、1人で病院に行きますので」
1人で歩くと言っている女性は、どう考えでもその場から動けそうに無かった。
通行人を探したが、このタイミングに限って、ご老人や子供がほとんどだった。
「分かりました。タクシーですね」
俺はバスターミナルの前に止まっていたタクシーを呼び、このままチケットを買ってしまおうと思う気持ちを抑えながら、元の場所に戻った。
「呼びましたよ。もし良ければ、付き添います」
「ありがとうございます。お願いします」
その女性を支えながら、タクシーに乗り込み、1番近い病院に急いでもらった。
タクシーの運転手は俺の事を旦那だと勘違いしていたが、仕方ない。
病院に付き、できるだけ入口に近い場所に下ろして貰うと、すぐに受付に走り、看護師を2,3人呼んだ。
その後、女性はすぐに処置室に運ばれたが。俺は当時の様子をだいぶ細かく話さないといけなかった。
「そろそろいいっすかね、用事があるんで」
「はい。ありがとうございました」
若い看護師に言われ、俺は出口を目指して歩き出した。
すると、バッチリスーツを着た精悍な男性が現れた。
「あなたが、久保川さんですか」
「ええ、そうですが」
「いやー、ほんとにありがとうございます。うちの妻が助かりました」
おやおや、さっきの女性の旦那さんが登場したのだ。
「私、貞本と言います。今日は非番ですが、刑事です」
心臓の音が聞こえた。ほんとにドキッっと鳴った。
まさか、助けた相手の旦那が刑事だとは、逃げよう。
そう思った。
「あー、旦那でしたか。間に合って良かったですよ。俺はこの後用事なんで、帰らせてもらいます」
連絡先でも聞かれるとまずいと思ったので、逃げるようにタクシーに乗り込んだ。
「バスターミナルまで、急ぎでお願いします」
バスターミナルに戻ると、残金は32645円になっていた。辺りは暗く、なっていたが深夜バスの出発にはまだ時間があった。