前編
ある晩のことでした。
月の湖の周りに、何羽もの月うさぎが並んでおりました。みんなひざをついて頭を下げています。
「お月さま。準備が整いました」
「お月さま。もうすぐ真下に青い星がやってきます」
「お月さま。まもなくお見送りのお時間です」
お月さまの返事はありません。湖の真ん中から、まあるい水紋が広がりました。湖の底から水が湧いているのでした。お月さまの力です。
その透き通った水の中を、やはり水のように透き通ったまあるいものがふわふわと泳いでいます。
水はたぷたぷに満ちてきて、ついには湖からあふれました。
すると、月の光が帯のように青い星へとまっすぐに伸びていきました。
うさぎたちは湖から光の帯までずらりとならんで花道をつくります。
湖からあふれた水は、うさぎたちの花道を通り、光の帯を滑り落ちていきます。湖で泳いでいたまあるいものも水に乗って、青い星を目指して滑り落ちていきました。
見送りのうさぎたちはそろってお辞儀をしました。
「いってらっしゃいませ、王子さま」
「いやだー! 行きたくなーい!」
王子は流されながらまあるい体をぷるぷる震わせてさけびました。
「いやだー、いやだー、いやだってばー!」
さけび続ける王子の声はだんたんと遠のいて、やがて聞こえなくなりました。
〇
青い星の海の底では、ヒトデの子がずうっと上の方をながめていました。
「ヒトデくん、なにかおもしろいものでもあるのかい?」
ふしぎに思ったカニがヒトデのとなりにやってきて、いっしょに上を眺めます。夜なのでまっくらです。
「なにも見えないじゃないか」
「ちがうよ、カニくん。見えるんじゃなくて、聞こえるんだ」
「聞こえるって、なにがさ」
「ほら、耳をすましてごらんよ」
いつもと変わらない波の音が聞こえるだけです。
「なにも聞こえないよ」
カニが大きなはさみをふりながら、あきれたようにいったその時です。
叫び声が空から近づいてくるのがカニにも聞こえました。
「いやだ、いやだ、いやだー!」
そして叫び声の主は、どぼんと海に落ちました。
声の主は、ヒトデとカニに気づいていないようで、「うへぇ、しょっぱい!」とか「なんだよ、ここ」とかもんくばかりいっています。
「ねえ、きみ、きみ。だいじょうぶかい?」
心配したヒトデが声をかけても、もんくをいうのにいそがしくて聞こえていないようです。
「おい、どうしたんだよ」
カニも声をかけますが、こちらを見向きもしません。気づいてもらおうとして、カニはとじたはさみでやさしくつつきました。
水を固めたような体はふれるとたぷたぷしていました。
「うわっ、なんだよ、さわるなよ!」
急におこられました。
びっくりしたカニが横歩きで岩のそばまで離れると、岩の隙間からぬっとウツボのおばさんが出てきました。
「なんだい、うるさいね。おや、騒いでいたのはクラゲのぼうやかい」
ムッとしていいかえしました。
「ぼくはクラゲじゃないぞ! 月の王子だ!」
「えっ、王子さまだったの?」
もんくばかりいっていたたぷたぷの生き物が王子さまだと知って、ヒトデとカニはあわてておじぎをしました。
ところがウツボだけはフンッとばかにしたように鼻を鳴らすと、ヒトデとカニにいいました。
「そんなにかしこまることないよ。月の王子といったって、海にいればクラゲと同じさ」
「ただ浮かんでいるだけのあんなのと一緒にするな!」
「おや。もしかして、知らないのかい? おまえがばかにするクラゲはおまえの兄さんたちだよ」
「そ、そんなわけあるか」
「あるさ。だって、おまえは月の王になるための修行に来たのだろう?」
月は何年かに一度交代していて、次の月の王「お月さま」になるための修行と試験が行われるのです。月の王子たちは次々とこの海に送りこまれます。けれども帰ってきた王子はいません。
ウツボがいうように、兄さんたちがクラゲになったというのなら、修行がいやになって、そのままクラゲとして生きていくことになったのでしょう。
「クラゲの中には、月の王にもなれず、海の仲間ともなかよくできなくて、泡となって消えてしまう子もいたねぇ」
月から遠く離れた暗く冷たい海で泡となってしまうなんてぜったいにいやです。
「さあて、おまえはどっちだろうねぇ」
ウツボはにやりとわらいました。
「ぼくはどっちにもならない。月に帰るんだ」
「ほう。修行と試験をやりとげて月の王になるというのかい」
話を聞いていたヒトデとカニは、顔を見合わせて「すごいね」とうなずき合いました。いま目の前にいるのは、未来のお月さまなのかもしれないのです。しかも、なにをするのかわかりませんが、みんながあきらめてしまうほど大変な修行と試験をするというのですから。
ところが、月の王子はいやいやと体をふりました。やわらかい体がたぷたぷ揺れます。
「ぼくは修行も試験もしたくない。こんなところにだって来たくなかった。跡継ぎになんかなりたくない」
大好きな海を「こんなところ」といわれて、ヒトデとカニはうつむいてだまってしまいました。
すると、代わりに女の子の声がしました。
「あなた、したくないことばっかりね」
なにか明るいものがこちらへやってきます。
「お星さま!」
ヒトデがうれしそうによぶと、お星さまはまたたいてこたえました。
月の王子はお星さまをじろじろながめます。
「お星さまだって? なんだってこんな海の底に来ているんだい?」
「ともだちに会うためよ。ほら、ヒトデくんとわたし、おんなじ姿でしょう? なかよしなの」
そういって、空の星と海の星は手と手をあわせてあいさつをしました。
王子はばかにしたように体をたぷたぷゆらしました。
「空のものは空にいればいいのに。なんだってこんな暗くて冷たいところなんか」
「あら。わたしはわたしのしたいようにしているだけよ。空も悪くないけど、同じところをぐるぐる回っているだけより、海の底の方がずっと楽しいわ」
「こんなところに自分から来るなんてどうかしてるよ。ぼくは来たくて来たわけじゃない」
「あきれたわ。ほんとうに、あなたってもんくばっかりね。したくないことだけじゃなくて、したいことはないの?」
「したいこと……」
王子は急にだまりこんでしまいました。
なにがしたいかなんて考えたことがありませんでした。月の王子はやることが決められていて、今日はこれをしなさい、明日はあれをしなさい、とウサギたちに連れまわされるのです。いやだといっても逃げられません。
「なにかほかにやることがあるのですか?」
「いや、べつになにもないけど」
「では、次はあちらへ」
といった具合に。
今回こうやって海にやってきたのだってそうです。いやだといっているのに、ほかにやることがないのならといって、送られてしまいました。
ほかにやることもやりたいこともないけれど、いやなことならいっぱいあるのです。
次のお月さまになるための修行も試験もしたくありません。だいたい、跡継ぎになんてなりたくなかったのです。けれども気がついたら月の王の跡継ぎとして生まれていたのです。
「ほかになりたいものややりたいことがあるのなら、無理に月の王になることはないのだよ。王子はどうしたいかな?」
月の王である「お月さま」はそういってくれましたが、王子は修行をしたくありませんでした。
「なにもしたくないよ。でも、なにもしないのもしたくない」
「うむ。王子はもっといろいろなことを知らなければならないな。いろいろと知れば、やりたいこととやりたくないことが見えてくるだろう」
そうして、ためしに行ってみろと海に飛ばされてしまったのでした。