おはよう。
「いい加減起きろよ」
「えっ」
強く揺すられて目を開けた。
身を捩るとギジリと音が鳴る。硬く冷たい床で寝ていたせいか、身体があちこち痛い。
ここはどこだ?
「やっと起きた。世界は大変だっていうのに、呑気な奴だな」
辺りは暗かった。
まだ朝は来ていないのに、なんで起こされたんだ?
混乱しながら上を見上げると、そこには同じクラスで隣の席の伊藤がいた。
黒縁眼鏡の神経質そうな横顔、間違いない。ただ、格好が--。
「お前、どうしたの?その格好??」
「何が?」
「何がって、どうしてそんな--」
ビラビラした、あたかもファンタジーの世界から飛び出したかのような格好を……。
ご丁寧に、腰に剣まで差している。
「言っている事がよく分からないな、キミとあまり変わらない気がするけど」
「えっ、ぎゃっ!」
言われて見てみれば、俺もズルズルとやたら裾の長い魔法使いのような格好だ。
どうなってるんだ?これは、夢か?
「ほら、もうすぐ時間だ。仕事だよ。起きて」
そう言われ、手を引かれ身体を起こした。
夢の中の伊藤は、普段と違い随分積極的だ。キビキビと喋ってキビキビ動く。
「伊藤……」
「なんだい?随分懐かしい呼び方だな」
「伊藤なんだな」
「当たり前だろ。今更どうした」
「お前……」
喋れるんだな。
伊藤君は吃音という病気です、そうクラス全員を前にして、始業式の日に先生が言った。
だから、言葉がなかなか出なかったり、吃ってもからかったりしてはいけませんよ、と大声で先生が繰り返す。
隣の席を覗き見ると、伊藤は顔を真っ赤にして小さく小さく縮こまっていた。
俺はそれを、気の毒な奴だな、と思って見ていた。
その後、伊藤をからかう奴は現れなかった。別に先生の言いつけを守ったわけじゃない。
伊藤が喋らなかったからだ。
伊藤は先生に授業中に指される事も無い。よく分からないけど、伊藤の親がそういう事はやめてくれと、先生に言ったからだという噂だ。
だから、伊藤の声を誰も聞いたことが無い。
そして、そのことに誰も特別感心を持たず、世界がまわっている。
「これから、世界を変えようって奴が、何を呆けているんだ」
「世界を……変える?」
「そうだ、僕たちは世界を変える、勇者パーティーじゃないか」
「……勇者?」
夢だと思っていたが、ここはアレか?異世界転生的なやつなのか。
「俺が?」
「いや、僕が」
お前かい。
「キミは、大賢者だ」
賢者……言われてみれば、そんな格好をしている。
「世界の封印を解く、唯一の呪文。世界の理、世界の秘密、世界の闇、その法則を解き、スーパーミラクルハイパーエターナル魔法の呪文を使える者。それがキミだ」
「ダサっ。なんだその呪文」
形容詞がやたら壮大だ。
意味不明な事を次々と言われ、頭の整理が追いつかない。
「ほら、もう時間がない。夜が明けるぞ」
暗闇の世界に白い光が射しこむ。
柔らかな光が、窓から射し込み、黒板や机を白く照らした。
よく見ると、ここは学校の教室だった。
俺は机と机の間で寝ていたというわけだ。
そりゃ、あちこち痛いはずだ。なんで今まで気付かなかったんだろう。
「さあ、スーパーミラクルウルトラハイパー魔法の封印解除呪文を……」
「魔法の名前変わってねぇか?そんな事言われても、俺、呪文なんて分かんねぇよ」
「嘘だ。キミは知っているはずだ」
「でも、本当に分からないんだ」
「そう……」
明らかにガッカリした様子で、伊藤が後ろを向いた。
「キミが声を掛けてくれて、ここまで来たのに……残念だよ」
「え?俺が声を掛けたのか?」
「そうだよ、僕ら同じクラスだったじゃないか」
どういう事だ?なら、ここは未来なのだろうか。
俺から声を掛けたなんて--
びっくりしたが、どこかで合点もいった。
なぜなら、俺はいつだって伊藤に声を掛けたかったから。
隣の席の伊藤は、いつも神経質そうな横顔で、俺の好きな異世界転生ものの小説を読んでいる。面白くなさそうな顔をしているくせに、次から次へと物凄い早さで異なる本を読んでいるのだ。
俺は伊藤が読んでいる本の表紙を盗み見て、次の日、本屋で同じ本を買って読んでしまったりする。
俺が伊藤に声を掛けたとしたら、なんて声を掛けたんだろうか?
(この前の本、めちゃめちゃ面白かったな!)
(なんで面白いのに、そんな顔で読んでんの?)
(ってか、お前授業中に隠れてなんか書いてるの、アレ絶対小説だろ!見せろっ!見たいっ!)
それとも--
「なあ、伊藤。もし、俺が呪文を思い出せなかったら、世界はどうなるんだ?」
「そんなの……なにも変わらないよ。ただ、また同じ朝を迎えるだけ。でも………」
そこで伊藤はゆっくり振り向いた。
そこには、俺が見たことない、伊藤の笑顔があった。
「キミは絶対思い出せるよ。だって--」
ジリリリリッ
目覚ましが鳴って目が覚めた。
のそのそと起きて、朝の支度をする。
早くしろと、親にどやされながら朝ご飯を食べる。
BGMとしてつけてるテレビでは、いよいよ世界が終わるんじゃねぇかみたいなニュースばかり流れている。
いつも通りに自転車に乗って、いつも通りに学校に着いた。
いつも通りの教室で、そこには、いつも通り本を読んでる伊藤がいる。
まわりの煩い話し声なんてまるで聞こえてないみたいな顔して、とんでもなくつまらない本でも読んでるかのような顔して、伊藤は今日もそこにいる。
思わずギュッと拳を握ると、自分が引くほど手汗をかいているのに気付いた。
俺は、心の中で、スーパーミラクルウルトラハイパーエターナル魔法、封印解除!と大声で叫びながら、ぶっきらぼうに伊藤に言った。
「おはよう」