3-1 ニート、やっぱり休まない
パトカーが祖母の敷地から出て行くのを見送ってから、ニートはお縁で着替え始めた。
昨日の体操着はまだ乾いておらず、予備のおさがりを代用する。従兄弟と兄弟のお下がりを含めるとまだまだ予備の体操着があるからどれだけ乱暴に使っても安心だ。
包帯が巻かれたニートの手を見て、祖母が呆れるようにため息を吐いた。
「やめなさぁい。今日は休みぃ。手を怪我したっち聞いたよ。手からバイ菌入ったらどうすっとかい」
ニートは手の包帯を解いてガーゼを剥ぎ取る。傷が塞がった小指球を見て、再生力の高さを不思議に思いつつ手のひらを祖母に見せつけた。
「大丈夫、大丈夫、ほらもう血ぃ止まっとるけん。もうね。体じゅうの血が滾って仕方がないんよ」
祖母は後輩に説明されていたよりもスケールが小さい傷跡を見て安心した。傷口を縫うことも考えて病院に連れて行くように勧められたが、見たところその必要はなさそうだ。警察官の大袈裟な診断と気づかいに祖母は感謝した。
「気をつけりーよ。何があるかわからんのだから。倒れたら大事ばい」
「うす」
ウエストポーチを覗いて袋入りの包丁を確認する。長靴を履き、分厚い園芸用ゴム手袋を装着し、備中鍬を装備する。これで準備完了。
ニートは祖母の了解を得てダンジョン探索を開始した。
大穴は暗くて通路の先がよく見えない。今日は懐中電灯を持ってきていないようだ。どうせダンジョンに入ったら巨大蛍が通路を照らすだろうと高を括っている。
昨日よりも準備不足で用心が足りない感は否めない。ただ彼の浅はかな考えどおり、暗い大穴を進んだ先で天井に巨大蛍が集まっていた。
集まっているどころじゃない。ダンジョンの天井を巨大蛍の大群が埋め尽くしている。
これだけ大量に蠢く虫たちを見たら集合体恐怖症が発症して逃げ帰るだろうと思いきや、全体像が見えなければ大丈夫とでも言うようにどんどん前進していた。
進めば進むほど昆虫モンスターとすれ違う。モンスターとはいえ隣を歩いただけでは襲ってこず、ニートからモンスターを襲うこともなかった。
下り坂を進むにつれて通路の幅は徐々に広くなり、天井が徐々に高くなった。あれだけ沢山巨大蛍がいても、地面に光が届かなくなってくる。
さすがに不用心なニートも状況の変化に対応しようと立ち止まった。このまま歩いていけば足元が疎かになる。
ニートが足元に気を配るとは珍しい。普段の生活基盤は両親に依存しすぎて足場を一切固めず、いつ割れるかもわからない氷の上に立っているというのに。
ニートは考えを巡らせる様子をみせると何かを閃いたのか、おもむろに背伸びをして上に手を伸ばす。刺激しないようにゆっくりと天井の巨大蛍を素手で剥がして服に引っかけた。
巨大蛍が服に爪を食い込ませて動かなくなる。ニートは名案が思い通りにいったことを確信した。
調子に乗った彼は次々と巨大蛍を服に引っ掛けていく。あっというまに等身大のイルミネーションが出来上がった。
皮膚に爪を食い込ませる巨大蛍が若干いるものの事故防止には替えられない。ダメージと引き換えに光源を手に入れた。
探索を再開してわずか数分、ひとつ重大な事に気づく。
巨大蛍はゲンジボタルに酷似している。だから装着している蛍もゲンジボタルと同じ生態であると思ったから、ニートは身につけた。ではそれがなぜ問題なのか。
それは蛍が主に肉食であるからだ。
幼虫の時には捕らえた獲物に牙を刺し、ドロドロに溶かしてから肉汁をすするような食べ方をする。
成虫になると食事は水分補給のみで何も食べない。だからニートは安心して巨大蛍を装着したのだ。ただし、外見がゲンジボタルに似ているからといって全ての蛍の食性が同じとは限らない。
蛍の中には成虫になっても肉食のホタルがいる。例えばアメリカのベルシカラーボタルのメスは11種類もの光の明滅パターンを真似て、別種のスケベなオスをおびき寄せてから捕食したりする。この中に同じ種が混じっていればニートのスケベ心ごと肉を食い破ってくれるだろう。
地球上にもえげつない生物がいるというのに、ましてやファンタジーなダンジョンの中だ。見た目がゲンジボタルに似ているとはいえ、生態まで同じとは決めつけられない。
ニートは天井から一匹の巨大蛍を捕獲した。しばしの間、にらめっこする。そして決断の時が来た。
蛍の牙をゴム手袋越しに指で触れる。
どうやら指を賭けてまで蛍の食性を調べる気のようだ。そこまでしてイルミネーションを続けたいのか。戻って懐中電灯を取ってくるかヘッドライトを買ってきたらいいのに。
自分から勝手にリスクとリターンが釣り合わないギャンブルを始めた。
ニートは親指と人差し指で蛍の牙を開閉する。開いてー、閉じて。開いてー、閉じて。
蛍側はなんの抵抗もせず、されるがままに遊ばれた。
蛍の口器が退化していると確信した。渡らなくていい危ない橋を渡り、偶然指を失わずに済んだ。まるでダンジョン探索の中で別の冒険をしているようだった。
賭けに使われた巨大蛍とにらみ合いをする。ニートはその身を預けたことで巨大蛍に対して謎の信頼を置いたようだ。
蛍を逆さにするとゆっくりとボウズ頭に装着した。ヘッドライトならぬヘッドホタル。
「だいぶ見えやすくなった。君ら結構やるやん。よし、先を急ごう」
お気に入りのヘッドホタルを撫でて歩き出す。先を急ぐもなにもニートに目的は無いし、今日のうちにどれだけ深く潜るかも決めていない。おそらく長く続く一本道が彼の危機感を鈍らせるのだろう。
かれこれ一時間は進んでいる。ニートの散歩時間に比べたら大した時間の経過ではない。まだまだ進むという意志が感じられる。
巨大蛍の鎧で多少の重みはあるものの、激しい動きも出来そうなくらいに体力的な余裕があった。
蛍の光が視界を確保し、硬い甲殻が身を守ってくれる。多様性ある天然のバイオアーマーだ。これなら戦闘になっても最高のパフォーマンスを出せる。
しかも装着した巨大蛍の中にメスがいたのか、飛んできたオスの蛍が背中に張り付いてくれた。これで背後からの不意打ちにも対応できる。
調子に乗ったニートは引き寄せられるようにどんどん奥の方へ降りていった。
ニートは気づいていないが、このダンジョンは迷路になっている。
しかも悪魔的に厄介な作りだ。一見すると曲がりくねった一本道だが、時折り振り返ると複数の分かれ道になっていることがわかる。奥に行けば行くほど分かれ道が増えて帰りづらくなる。
ニートは常に前しか見ないため、既にダンジョンの罠に嵌っていた。行きは良い良い帰りは怖い。正解のルートはひとつだけ。
先にいっておく。ニートが今日このダンジョンから出ることはない。