88 天国
「ここが……ここが本当の天国ですのね」
目の前に広がるのは優しい光で形作られた世界。まわりの木々や雑草、宙を漂う綿ぼこりまで、ほのかな光を放っている。
「まさか海底にこんな世界が広がっていただなんて信じられませんわ……」
そう。ここは表層の海にある島ではない。空の上にあるわけでもない。上昇志向のある者には決して辿り着けない心の深層にあるアルカディア。俺でなきゃ案内できない楽園だ。
楽園に到達できるのは試練を突破した極一部の魂だけだ。並の魂では楽園の存在に気づくことすらできない。
試練の合格条件は、自分の内にある雑念を手懐けること。消すのでも、抑えるのでもない。雑念を抱き締め、真に一体となることで合格となる。
楽園に生きる魂たちは、そのどれもが試練の合格者だ。試練を突破しなければ、マナガス神さえ楽園に入ることは叶わない。
具体的な突破法は、心を凪の状態に整えたまま水中を潜り続けること。俺以外の二人はそんな高等テクニックを身につけていないため、魂を半凍結状態にして引っ張ってきた。
「感動しとるところ悪いが、どの辺に魂の金庫があるのかわかんねーんだ。ぼさっとしてたら日が暮れちまう。ほら、俺が車になるからよ。二人とも乗ってくれや」
体をスーパーカーに変形させてドアと座席を作った。ホイールまわりの機構を作るのはめんどくさいんで、普通に手足で代用する。
「なんでもありですわね」
「当たり前よ。なんせ、ここは天国なんだぜ。どんな姿も魂のあり方次第ってわけよ。
魂の金庫も、あの若返りの実だってそうよ。見た目を変えるための手助けになるアイテムなんや。そこら辺に生えた木々や雑草も元は人間かもしんねーぜ」
「ハレンチですわ!」
真下に生えた雑草に気づき、ウヅキさんはスカートのひらひらを抑えた。
「あはははっ! そんな目的で雑草になる奴はここにゃあ来れねーって」
まぁ、やましい理由で雑草になったわけじゃなくとも、チャンスがあれば見るだろうけどな。楽園に行けるのはそういう奴だ。
「さっさと乗ってくんねーかな。ユーキちゃんのことも頼めるか」
「あっ、はい。ユーキさんですわね。ユーキさん、わたくしについてきてくださいまし」
ユーキちゃんは言葉に従うような精神状態ではない。声には反応しているようだが、その目は綿ぼこりの行方を追っていた。ウヅキさんはなんとも言えない表情になるが、文句も言わずにユーキちゃんの手を引いて俺に乗り込んだ。
「目的地までどのくらいかかるのですか?」
「んー。目印を見つけるまではわかんねぇな」
楽園の地表からは、何本もの光の柱が表層の海と繋がるように立っている。柱は全て観光スポット付近から伸びたものだ。道なき楽園にて迷わないように、柱はそれぞれ違う色の光を放っている。今のところ、魂の金庫付近にあるという光の柱は見当たらない。柱の近くに行けば町があるのでそこで情報を集めたい。
町まではすぐだ。表層と違い、楽園はそれほど広くない。楽園の大きさは月の約10分の1だ。湖はあっても、大地を分断するような海は無いため、時間さえあればどこにでも歩いて行ける。現在地が目的地の真反対でさえなければ今日中に着くことができるだろう。
今は二つの世界から魂がやってくるので狭すぎるようにも思えるが、ここに来れる魂の数を考えれば広すぎるくらいだ。
「こちらのお空には星がありますのね」
ウヅキさんは窓から首を出して空を見ていた。危なっかしいけど、楽しそうにしてるから注意しづらい。真似したユーキちゃんが身を乗り出そうとしてるから、シートベルトで椅子に縛り付けて屋根を開く。
「あれは星じゃないぜ。その辺の綿ぼこりが空に上がって煌いてんだ。あれらがそのうち海水に溶けて、現世の新しい命に混ざり込むってわけよ」
「ロマンチックですわ」
「そうやな。ロマンチックや。〜〜♪ 〜〜♪
ロマンチックあげ〜るよ〜ロマンティックあげ〜るよ〜♪」
「騒々しいのは苦手ですわ。せっかくの天国なのですから、もっとまわりの音を楽しみませんこと?」
うるさいって言われた。俺の歌はそんなに耳障りかよ。
ほのかに光る道なき道を走り続ける。その間、俺は沈黙を強いられた。当然、ここにはラジオも入らないので、聴こえてくるのは地を駆ける足音や風を切る音。あとはたまに聞こえてくる動物の鳴き声くらいだ。動物といっても、その全てが地球でみられない生き物だ。動物たちはみんな楽しそうなリズムで歌っていた。
通り過ぎていく愉快な魂たちを見て、ウヅキさんは楽しんでいるようだ。変わり映えしない景色が続いて、俺は少し退屈な気分だよ。
ようやく一番近い観光地に到着。町を守る大きな門にはヘンテコな門番がいる。ウーパールーパーの着ぐるみを100%粘膜でヌメヌメにしたようなゆるキャラが階段に座って本を読んでいた。
二人を降ろし、俺は元の姿に戻る。ついでにヒーロースーツを着込み、万全の状態で近づいた。
「よお、こんにちは」
「あ、どうも〜ぉ、こんにちは〜ぁ」
気の抜けた声で挨拶が返ってきた。良く言えば、楽園の雰囲気に溶け込むような温もりのある声だ。
「はじめまして先輩。俺は冥界神を目指している天道と申します。本日はその挨拶に参りました」
「ご丁寧に〜。あ、僕はショロポルカと申します〜ぅ。よろしくお願いしま〜ぁす」
〖冥界神ショロポルカ〗。俺が食ったトナカテムナーの息子だ。ヤマスカ神話の最高神ケツァルポルカの双子の弟でもある。
ショロポルカは温厚な性格で、地上では逃げてばかりの臆病者とされている。神話での活躍は少なく、めざましい実績もない影の薄いマナガス神だ。とはいえ、ショロポルカが特別劣っているわけではない。現世で活動しない冥界神はどれも神話ではそんな扱いばかりだ。冥界最強のボクちゃんだって神話ではそんなに目立たないポジションだった。神話から実力を測るのは早まった考えだ。
「他の先輩たちにも挨拶したいんすけど、どうせならパーティーを開いてパパーっとお披露目したいんすよね。参加してくれますか?」
「もちろんだ〜ぁよ。僕パーティーだぁい好き〜ぃ」
「よかった。そのパーティ会場なんすけど、みんなに集まって欲しいから楽園で一番偉い人の家でやろうと思うんすよね。誰が一番偉いと思います?」
「い、一番なんて、そんなの難しいよ〜ぉ。そんなの決めたらみんなケンカしちゃうよ〜ぉ」
「ほんじゃあ、一番強いやつは?」
「おんなじじゃないの〜ぉ? 無理だよ〜ぉ」
「頼みますよ先輩。言ってくれないとパーティできなくなっちゃいますよ」
「う〜ぅ。パーティしたいよ〜ぉ!」
ショロポルカは頭を抱え、過剰に困る仕草を見せた。のんびりとした暮らしに飽き飽きして楽園を去る冥界神も多いなか、ここに残る神々は些細な刺激を娯楽にして幸せ成分を補給する者たちばかりだ。パーティの予定が崩れることすら、彼らにとっては大きな機会損失となる。
まったく共感できないし、そんな思いをするくらいなら冥界神をやめて現世に戻ればいいと思うわけだが、楽園に居てくれたほうが好都合なため、あえて助言しない。
「お困りなら、魂の金庫付近にみんなを集めてもらえますか?」
冥界神のネットワークを使えば、冥界中の冥界神に用件を伝達できる。流石に新米の俺が呼びかけても集まらないので、ここはショロポルカにお任せしよう。
「わかったよ〜ぉ! 僕がんばって呼びかけるよぉ!」
張り切ってくれて何よりだ。断られたらこっちが困るからな。流石に全員集まるかわからないが、多ければ多いほど嬉しい。
「ほんじゃあ俺は先に行って準備してきます。夜までには終わらせときますんで」
ショロポルカに別れを告げて門をくぐる。俺の経歴を根掘り葉掘り聞かない門番で助かった。
町に入ったら地図を探す。町の外では見られなかった人型の魂も、建造物がある場所だと湧くように居た。とはいえ、地球人の姿はみられない。獣耳やエルフ耳の魂が多く、マナガス人で栄えていた。
彼らは異形の俺らを見ても軽く会釈するだけで、恐れたり排除しようとしたりしない。各々が好きなように心穏やかに生きている。楽園に行けるのはこういう強メンタルな奴らなのだろう。
マナガス由来の野菜や果物、肉や魚を調理したものを並べた商店に惹かれ、軽く寄り道しながら人通りの少ない道を歩く。
あれらの商品は全て『情報』だ。込められているのは味と思い出。どの店も代金を取ることはなく、彼らの人生で幸せだった瞬間をただただ分け与えようとしてきた。
店の商品は、美味しいものもあれば不味いものもあり、好みが分かれるであろう情報ばかり。しかし味など些細な感覚でしかない。摂取した瞬間に浮かぶ幸せな情景こそが、真に彼らの提供したいサービスなのである。
商店の中には情報を配る店だけでなく、楽園の素材を使った雑貨屋もある。欲しかった楽園のガイドブックもその雑貨屋で見つけた。
こういった本もそうだが、生前の技術を使って作成した商品には値段がついている。しかし楽園でお金は流通していない。対価としているのは情報だ。店主はガイドブックの代金に記憶を求めてきた。幸せな記憶ではなく、辛く苦い記憶を欲しているらしい。
よほど刺激に飢えているみたいなので、ロミさんの浮気現場を香水に込めて提供してやった。
さっそく店主は香水を手の甲に吹く。手の甲に鼻をすりつけ、舐めるように嗅いだ店主は、急に挙動不審になった。そして、ガイドブックを俺に渡したあと、股間を掻きながら奥の部屋に消えていった。今日は閉店するらしい。
店を出て、外で待っていた二人と合流する。二人はベンチに座り、木の実のクッキーで肉を挟んだクッキーサンドを食べていた。あまり美味しくないらしい。ユーキちゃんはクッキーをひと齧りしたあと、余ったクッキーを地面に捨てていた。
商店で貰える食べ物は情報でしかないため、時間が経てば消えてなくなる。もったいないと考えるだけ無駄かもしれないが、落ちたクッキーは全て平らげた。肉は臭みが強く、生地の木の実はアク抜きをしていないからかエグ味がすごい。ただ、その思い出に登場する獣人は、兄弟たちと笑い合いながらクッキーを食べていた。
楽園の住民たちにとって味はついでだ。本命は思い出の共有にある。輪廻転生の時に魂がバラバラに溶けても、新しい命に世界の美しさを伝えられるように、楽園でたっぷりと幸せ成分を溜め込むのだ。
「二人とも天国を楽しんでるねぇ」
「地図は手に入りましたの?」
「おう。目的地はー……」
ガイドブックを広げる。魂の金庫のページに付箋を貼って、ペンでしっかりマーキングした。
「ここね。ラッキー。ここからそれほど離れてないぜ」
「ずいぶんと浮かれていますわね」
「おう。そりゃあそうよ。人生しくじった奴にゃあ一生来れない観光地だぜ。ウヅキさんも二度とここにゃあ来れないんやから、いっぱい楽しもうや」
「まぁ! 無神経ですわねっ! それではわたくしが地獄に落ちるかのようではありませんか!」
「あっはっはっはー! そりゃあまぁそうよ。人生色々ってな。めちゃくちゃ恵まれてねーと天国にゃあ行けねーってわけよ。ウヅキさんの場合は、ちょっとだけ運が悪かったかもな」
人の頭に迷わず銃弾をぶち込めば、そりゃあ天国は無理だろう。
「残念ですわ……」
「まぁまぁ落ち込むなって。地獄もそんなに悪かねーぜ。ほんじゃあ、移動すっか。みんな俺に乗ってくれ」
ガイドブックを飲み込んで運転席のナビ画面に地図を表示する。話し相手が見えないとウヅキさんも寂しいだろうから、可愛い猫型の俺をナビゲーターに置いてやった。
「通り道にボクちゃん家があるじゃねえか。寄っていくか」
「寄り道はよくありませんわ。それに先ほどのアレはなんですの?」
「アレって?」
「パーティのことですわ。あまりに悠長ではありませんこと? なにをされるためにここへ来たのか、もう一度お聞かせくださいまし」
「そう焦らないの。ちゃんと今日中に終わらせっからさ」
ボクちゃん家に向かっているはずなのに、この辺りの景色が全然記憶にない。どんだけ引きこもりなんだよ。冥界を管理する役目を負ってんだから、せめて自宅周辺の地理くらいは覚えていて欲しかった。
ナビに従ってのんびりとした景色を進んでいく。すると、まるで地獄にあるかのような宮殿が急に現れた。
消えない炎が辺り一帯で燃え盛り、庭の木は黒焦げ。積もった灰の山から新しい緑の木が勢いよく生えると、その木を燃やそうと炎が地面を這っていく。
「ここだけ空気が違いませんこと?」
焼け焦げた庭園には、直立したヤギみたいな毛むくじゃらの生き物が一匹だけ放牧されている。そいつは門の柵に付着した灰を長い舌で舐めていた。
あのヤギは冥界神に作られた悪魔なのだが、地球のイメージと似通った風貌だ。地球の文化でいう悪魔は、神格化されたヤギを異教の邪神と仕立てることで生まれた悲劇の産物であるが、マナガスの悪魔は全く別の順序で作られた霊体だ。
あいつも悪魔という種族名の割には天国で飼われているわけだし、見た目以上に良いやつだ。主人の言うことをちゃんと聞く良い子だ。名前はなんだっけ。確か、ヴェレスだったっけな。
「ヴェレスちゃん! そこを退きなさい。門が開くよー」
「ヴェーェェェェッッ!!」
ヴェレスちゃんは汚い鳴き声で吠えた。
構わずタイヤの脚を伸ばし、門の錠前を蹴り壊して侵入する。そしたらヴェレスちゃんが唸り声を上げて、足首に噛み付いてきた。
「あいたたたー! 番犬かよ! 悪魔のくせに!」
ヴェレスちゃんの歯は草食獣らしく平たい形状で、草を噛み切るような勢いで顎を動かした。俺の足首が今にもすり潰されそうだ。
今は剥き出しの魂。ショロポルカに比べれば丈夫な魂ではあるが、元の無敵ボディほどの防御力はない。殺されはしないが、なかなか痛い。
「こら! ヴェレスちゃん! 人を噛んじゃダメっていつも言っとるでしょうが! めっ!」
「ヴェルルルゥゥゥゥ……」
全然離してくれない。
しょうがないから、引きずったまま宮殿に入ることにした。蠢く炎から二人を守るために車の窓を閉めて庭を進む。
ヴェレスちゃんは宮殿に入らないよう躾けられているので、扉を開けたら足首から離れて門を直しに走っていった。自分の管轄をしっかり理解しているみたいだ。臨機応変の対応は苦手なようだが、真面目で偉い。
二人を降ろしてスーパーカーモードを解除する。魔王城かのような厳つい外観とは裏腹に、内装は穏やかだ。
家から出ない引きこもりにとって、過ごしやすい環境づくりは必須。外に出たくならないよう、現世の文化を思わせるようなインテリアは極力排除されている。故に、家具も照明もボクちゃんの手作りであり、乙女チックでキュートな意匠が詰まっている。
「中は普通ですのね」
「普通と呼ぶには広すぎる気がするけどな。インテリアは最小限って感じだし。見ろ、清掃員だ」
掃除しているのは覆面の悪魔。羽根はたきで家具を叩き、ピンクのエプロンを灰で汚した。このだだっ広い宮殿を掃除するには悪魔一匹だけじゃ足りない。他にも同じエプロンの悪魔がエントランスの掃除に励んでいる。中には塵取りに溜まった灰をつまみ食いする手癖の悪い悪魔もいた。
「とても観光地には見えませんわね」
「ああ、ここは観光地じゃなくて人ん家やからな」
「まあ! なんてこと!」
「よかよか。許可は取ってあるからよ。好きに楽しんで」
「楽しめと言われましても……」
悪魔たちが敵意の込もった目をして近寄ってきた。怯えた様子のウヅキさんは、ユーキちゃんの手を引いて俺の背中に隠れる。
俺に敵意を向けるなんて大したもんだ。ショロポルカやボクちゃんもそうだったが、さっきの町の連中もそうだ。やはり楽園に来れるだけのメンタルを持った連中は俺を見ても怖がらないらしい。とても住み心地の良い場所だな全く。
「客人に失礼だぜ。地獄に送り返されたくなきゃあ、しっかりおもてなししなさい」
『冥府送り』を手に持って脅す。流石に強メンタルな悪魔たちも主人の槍を見たら敵意が引っ込んだ。
こいつらはボクちゃんが地獄から連れてきた悪魔だ。無理矢理連れてきたわけではなく、地獄に嫌気がさした者から選んで連れてきた。元々、天国の海に溺れさせたらどんな反応を示すか、実験的な意味合いで用意したモルモットである。多くの悪魔が海に溶けていき、楽園に到達できた悪魔だけがここで飼われた。
「聞け。ご主人様からの伝言だ。ここには二度と帰ってこない。だから、お前たちの任を解く。転生するなり、この家を使うなり好きにしろ、だそうだ。それと俺らの邪魔だけはするな。この槍が俺の手にある意味を深く考えろ」
服を着て掃除するくらいの知性があるのだからヴェレスちゃんのような行動は取らないと思うが、自由になった悪魔たちが何をするかまではわからないので、一応牽制だけ入れてその場を離れる。
「先ほどの方々はなんなんですの! 町の方々とはまるで異質ですわ!」
「悪魔や。天国にゃあ、天使の代わりに悪魔が住みついてるんだぜ」
「なんてこと……もう頭がパンクしてしまいそうですわ」
二人を連れて先に進む。この宮殿には、悪魔を解き放つために来たわけじゃない。ボクちゃんが地獄で貰ったとある箱を取りに来たのだ。箱の中身はわかっているのだが、ボクちゃんに箱を開ける気が無かったため、中身をコピーできなかった。
箱があるのは地下室だ。地下室への扉はボクちゃんの研究部屋にある。
「この先にある部屋はかなーりグロテスクだ。ニオイもキツい。入る前に鼻をつまんだほうがいいぜ」
ユーキちゃんの鼻には洗濯バサミを挟んでおく。だが、鼻をつままれるのが嫌だったみたいで叩き捨てられた。わがままな子だ。仕方がないから、チャイナドレスに挟んでおく。臭かったら自分で使うだろう。
扉を開ける。直後、封じられていた部屋のニオイが洪水のように溢れ出した。鼻を刺す刺激臭だけでなく、吐き気を催す腐臭や死臭に薬品の臭いまで混ざっている。淡路島研究所でもこれほどの香りは体験できない。
「お゛お゛っウッ……鼻を塞いでいますの゛に゛っ! 目から゛っ! 口から゛っ! 強烈にゃ! 入ってぐゆ゛っ!」
「呼吸を止めるんや。俺ら死んでんだからよ」
「はい゛っ! お゛ぅッ!」
ユーキちゃんの姿が無い。いつの間にか逃げ出したみたいだ。早く連れ戻さなければ。別行動して迷子になられたら大変だ。念のために触手を繋いでおいてよかった。
「に゛ゃあ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ッッッ! くぢゃぁぁあ゛あ゛ッッッッ!!」
触手を引っ張って連れ戻し、二度と逃げられないようにスパルナの翼で捕縛する。
研究室は巨大で、宮殿の大半を資料で埋めている。地下室となるともっと広い。ボクちゃんは勉強熱心なのだ。
「くちゃい……くちゃい……」
ユーキちゃんが気絶しかけている。さっさと奥に進もう。地下の保管庫ならここほど臭くない。
目的の物は厳重に保管するほどの代物ではなく、地下室に入って二つ目の部屋にある。その部屋は主に金物を保管していて、調理器具や農具などが数多く整頓されている。目的の物は掃除用具入れみたいな縦長の箱だ。
『凄まじきマッチョの気配がするね』
「なんですの?! 今、急にロッカーから声が聞こえましたわ!」
『そこにマッチョがいるのかい?』
「ほら! 中に誰か閉じ込められています!」
見つけたな。ウヅキさんが指差したロッカーこそ、俺が求めていた物だ。
『来た来た来たアッー! 筋肉の筋肉が痺れるゥ!』
「訳の分からないことをおっしゃっていますわ!」
「それよそれ。見つけてくれてサンキューな」
『わかるッわかるぞーッ! この筋肉の滾りがわかるかッ?』
このうるさいのが欲しかった。中身は出さずにロッカーごと亜空間に収納する。もちろん、インテリアにはしない。俺にこんなうるさい物を家に飾る趣味は無い。コレは俺自身のために使う。更に強くなるために必要な鍵だ。
「消えましたわ!」
「よし。家を出よう。ここにはもう用がない」
「ええっ?!!」
ウヅキさんは信じられないものを見る顔で俺の方に首を向けた。




