70 話し合いはするが、取引には応じない
マーティの『無法』が加わった結界内では、体外に放出する類の魔法が使えない。さらに『魔拳』コンボを代表とする『無法』が適用された魔法攻撃を受ければ、体内の魔力が暴走してしまう。
魔力の暴走は魔力量が多ければ多いほど効果を発揮する。
以前これを受けたケーは爆発寸前まで追いやられた。全身が制御不能となり、触手が硬直し、内臓が露出した。
影響を受けなかった魔力袋を改造して新しい体を作り、これに意識を移して逃げるしかなかった。結界の外から遠隔操作で魔力暴走を止められなければ、守りたいものが宇宙ごと吹き飛んでいただろう。
事前に対策できればいいが、地球人の覚える能力は天使と精霊王の記憶に無いものばかり。『無法』もそのうちの一つだ。〖検索〗を使えば、大まかに能力の説明を知れる。しかし、効果の現れ方や弱点などは実際に見るまでわからない。
『無法』と〖結界士〗の合わせ技が強者をも圧倒する強力なコンボだからこそ、本質を見極めるためにマーティと付き合い続けたわけだ。
そして、ケーが攻撃に転じた。これが意味するのは、見極めが済んだということだ。
服越しに攻撃したら『無法』の効果を受けない。布一枚挟むだけで効果が無くなるのなら対策は簡単だ。服を着ればいい。
ケーは全身の触手から〖強い糸〗を分泌し、溶解液で丁寧に溶かした。ムラができないよう均等に塗りたくり、破壊された繊維に粘着液を混ぜて再構築。ぴっちりとしたタイツを作った。
目まで光器官の外皮で隠され、捻れた二本角(髪)と天を抱くスパルナの翼だけが露出している。
プラチナ色の全身タイツに、赤色の模様と差し色の金を入れたらスーツの完成だ。
「どうや。ヒーローみたいやろ?」
トンネルの壁に背中を預けてへたり込むマーティ。たったの一撃でグロッキー状態だ。ボディに受けたヒザ蹴りが内臓をイジメ続けている。
制御不能の痛み。思うように魔力が練れない。マーティの単純な脳みそでも理解できた。魔力暴走だ。打撃を受けた箇所から魔力が暴走している。力が跳ね返されたのだ。
「マーティ、まだやれる?」
「《もちろんだ》」
魔力暴走は鎮まらないが、ロミの肩を借りて立ち上がった。そして引きずられるように高速移動。マーティは拳を突き出したままで固定した。
これまで攻撃を避け続けたケーが棒立ちで構えている。その慢心につけ込む。ケーの背後に回り込み、マーティの拳を打ち込んだ。
ボキィァ!
骨が折れる音。ロミの高速移動による衝撃はマーティのタフネスを上回らない。限界到達者になってからは一度も自傷を経験しなかった。
それなのに拳の骨が折れた。反撃を貰ったからに他ならない。またしてもケーに跳ね返されたのだ。
「一回で気づかないのか? スーツを着た今、その力は効かない」
ケーの言動から察するに、肌が直接触れなければ『無法』は効かない。それどころか、今のように跳ね返される。
「《姉さん……ダメだ右手がやられた……》」
「もう一度! 次は翼を狙う!」
今度は無事な左手を突き出し、ロミが高速移動を開始する。マーティはただただ拳を固めて衝撃が来る瞬間を覚悟した。
ボキィァ!
骨が折れる音。ロミとマーティは吹っ飛ばされた。
もふもふで柔らかそうな翼はなんの影響も受けていない。その表面は金細工よりも遥かに固かった。しかも〖無法〗を跳ね返した。
「《うぐぁぁああああッッ!!》」
両手をボロボロにされ、腹部の魔力暴走もさらに加熱した。マーティは苦痛のあまり泣き叫んだ。
追い討ちをかけるようにケーが歩いてきた。ロミはマーティを降ろして距離を取る。爪をナイフのように変えてスーツを破る方向にシフトした。
「わざわざ弱点残しておくかよ。ちょっとは考えろ」
ケーはそう言って、うずくまるマーティをつま先で小突く。
路上で寝る友人を起こすように優しく、床のゴミを退けるようにゆっくりと、何度も何度もつま先で突く。その度にマーティの口から血反吐が飛んだ。
「ほれ、ほれ、どうだ痛いか?」
それをやめさせるようにナイフの斬撃を浴びせるが、スーツは全く痛まない。痛みに苦しみ、血を吐き続けるマーティを見ていられず、ロミは全身を光らせ、電光石火でマーティを攫った。そして介護するように横から抱きしめ、怒った目つきでケーを睨んだ。
「じわじわ痛ぶるような戦い方してッッ! なんのつもりでありますかッ!」
「俺は罰を与えに来たんだぜ」
ロミは息を呑む。ここまでなのかと。
ケーへの対抗策は非常に少ない。倒す手段はさらに少なく、マーティの『無法』だけが希望だった。
だがそれだけじゃ頼りない。出会わないことが一番の対策だ。マーティは最後の手段としてとっておき、追跡されないように痕跡を消した。いつでも逃げられるように情報網も張った。
それらの対策がことごとく突き破られ、ケーは目の前に立っている。自分達の無力さを思い知らされるようだ。
飛行機でも盗んで一刻も早く国外へ出るべきだった。適当な国に拠点を置いて、そこでユーキの洗脳を行えばよかった。どの国の軍隊を相手にするよりも、ケーを相手にするよりマシだ。日本の温室に甘え過ぎた。
「話し合いましょう」
もうそれしか手がない。今までのプランは全て破棄して新しいプランを組み立てる。ケーさえ関わらなければ、ロシアの国防力は強化されないため、ケーの意志を変えられたらチャンスがある。
あわよくば味方に引き込んでウクライナ奪還を現実のものにしたい。ただそれも、ケーが話し合いに付き合ってくれたらの話。
「話し合いには応じよう」
ロミは心の中でガッツポーズする。姿形が昔と違えど、ケーは昔と変わっていない。弱者の言葉に耳を傾けてくれる。昔と同じなら、罪を見逃してくれる性格ではないので、必ず罰を受けなければならないだろう。
しかし、刑を受けるまでの時期を延ばしてもらえるかもしれない。その間、ケーが監視してくれるのならば、一緒に行動する理由になる。うまくいけばそのままロシアへ攻め込める。
「昔、アタシの夢のためにケーちゃん殿も協力してくれましたよね」
「まあ待て」
話を遮ると、ケーは椅子に腰掛けた。それからテーブルにティーセットを置いた。苺の香りのティーバッグをティーポットにセットし、コードレス電気ポットからお湯を注いで、蓋を閉める。
「確かパルミエが好きだったよな。パイ菓子は紅茶に合うから持ってたはず」
ケーは小さな菓子棚を開けて探すと、引き出しからハートパイの袋を取り出した。皿に袋の中身をあけ、ロミの前に置く。
話をしたいならテーブルにつけと言わんばかりの対応だ。だがそれはロミの望むところ。苦しむマーティを横目に着席した。
ケーは皿にあけず、袋からハートパイを食べて紅茶をがぶ飲みする。それを見てロミもハートパイをひとつ手に取って齧った。緊張で味が全くしない。
「懐かしい。お母さんが好きだったな」
よく見ると母親の大好物だ。市販のものだが、故郷のお菓子と似た味がすると言っていた。ストックを切らさないように、毎回買い物カゴに入れていたのを覚えている。
「故郷を取り戻す夢はロミさんのものじゃなかったはずやろ。急に愛国心が芽生えたんか?」
「……そうね。でも、ずっと昔に種は植えられていたから。お母さんとあの人が生きていれば、もっと平和的に動けたと思うでありますが」
恨みを込めた目でケーを見る。ロミの脳裏にあるのは一人のロシア人男性。元ウクライナからロミの母親達と共に日本へ逃げてきたキエフ公国のリーダー。彼は現在行方不明だ。ケーが殺した。
「血を流さずに国を取り戻すなんて夢物語よ。ロミさんの行動は政治的に正しい。やり方は好かんがな」
「手段なんて選べない。逆の立場ならあなたもそうしたはず」
「それはどうかな。日本も領土問題を抱えとるが、俺は慎重に見とる。逆の立場なら侵略行為に怒って戦争を起こしたやろ?」
ロミは熱い紅茶をすすり、言い返された言葉を飲み込んだ。
「いや、そうでもないか。だってロミさんは日本人やもんな。母親の故郷と言ったって、長期休暇で遊びに行く程度にしか知らんやろ。日本の領土のほうが大事よな」
「それは比べられないであります。で、ありますが……」
ここは交渉のしどころだ。ロシアと日本の領土問題をウクライナと重ねて訴えかけたら、ケーが妥協してくれるかもしれない。実際、キエフ公国の支援者には日本人が多く、その最も大きい理由がロシアによる不法占拠への同情である。
「領土問題で協力し合える部分があるはず。ロシアの力を削れば、日本にとってプラスになるという考えはありませんか?」
「テロリストに心配されるほど我が国の防衛力は弱くない。それに、パトロン・ケーの譲渡をロシアと約束した俺に問うことじゃない」
「ケーちゃん殿は領土の返還を望まないと?」
「返されるなら断らん。だけども、今返して貰っても手に余る。国内がボロボロすぎて面倒見切れんのよ。その土地に関連する海外の思惑も厄介だしな」
領土問題に関心が薄いわけでもなさそうだが、同情を引き出せるほどの情熱は持っていないと感じた。
早くも挫けそうなロミ。ケーは金や女でなびく男じゃない。ケー個人を物で釣るのは不可能。
だが、無欲というわけでもない。手元に物を置かないだけで、誰よりも欲深い人間だとロミは知っている。
ケーは自分の幸せや安心を欲さず、他者の利益を求める。顔も知らない人の幸せのために自分を捨てることができる。自己を愛するために他者の平穏を餌とする究極のナルシスト。短冊に世界平和を書くとか、そんなレベルじゃない。一国の主に契約書を渡して世界平和を書かせようとする。
そんなヤバいやつだからこそ、国家元首になった今も汚れ仕事を請け負っているのだろう。弱者の暮らしぶりを良くしなければ喜べない人間なのだ。
「占領されたウクライナの解放はアタシたちの宿願。ホロドモールのようなジェノサイドを二度と繰り返さないために、ロシアとの完全なる決別を目指して結成されたのがキエフ公国です。単なる領土奪還とは目的が異なります。どうか力を貸してくれませんか」
「断る」
こんなナルシスト相手には熱意をぶつけても通じない。意気込みではなく、現実的な道筋を示さなければ聞き入れてくれない。
しかし説得材料がない。母親のさらにその前の代から積み上げてきた長期計画は、ロシア侵攻により大ダメージを受けた。日本に渡って育てた火種は核とケーによってかき消された。
残されたのは忠実な仲間と使命感のみ。世界各地には同胞達が決起の日を待ち望み、息を潜めて暮らしているが、直接手を貸してくれることはない。完全な独立を宣言するまでは、彼らが立ち上がる日も来ないだろう。
ロミたちがやらなければ誰もやらない。だから何者にも屈してはいけない。母親からそう言われて訓練を受けてきた。だがそんな母親も、ケーを前にすれば発言を撤回するはずだ。
「では取引しましょう。ロシアに渡すパトロン・ケーと如月ユーキを交換してください」
「話し合いはするが、取引には応じない」
「実は如月ユーキの座席に爆弾を設置しています。いつでも起爆できるであります」
「脅すのか? この俺を?」
「緊急時に我々の身を守るためであり、取引のために仕掛けた物ではございません。そこはわかって欲しいであります」
「利用してるなら同じことやろ。で、起爆スイッチは?」
取引相手が信用できないとわかった途端、ユーキを助けに動くだろう。爆弾の存在を明らかにし、その上で起爆方法を示さなければ、一か八かの博打に出る。それがケーという人間だ。
「マーティ、異変があればすぐに押しなさい」
芋虫のごとく身をよじるマーティは、折れた手を器用に使って胸元を開いた。その胸にあるものを見て、ケーは納得する。
「どうりで服を着ていたわけだ」
マーティの胸にはフレキシブル基板と心拍センサーが縫い付けられていた。そこからコードが服の機器につながっている。一目見て起爆スイッチだとわかった。
「不適切な手段で如月ユーキを座席から離した場合、マーティの脈が止まった場合、マーティが起爆スイッチを押しても爆発します。不用意に動かないでください」
「ケーキはいかが?」
人を殺せるほど長い包丁を取り出すと、ケーは平気な顔でイチゴのホールケーキを切り分けた。気の弱い人なら起爆スイッチを押しそうな動作を淡々と行う。
「はい、どうぞ」
目の前に出されたショートケーキをロミは無視することができず、添えられたフォークを取って突き立てる。しっとりとしたスポンジを割いていき、フォークの上に上手に乗せると口に運んだ。緊張で味が全くしない。
「すぐに決めてください。考える時間は与えられないであります」
マグカップに新しい紅茶を注ぐと、ケーが珍しく紅茶をすすった。そして、ケーキを箸で食べる。ケーキのスポンジを箸で掴んで、皿に付いたクリームを一滴残さず掬い取っていた。
「わかった。パトロン・ケーを渡そう。だが条件がある。俺がテロリストの要求を飲んだと世間に知られるわけにはいかない。渡すパトロン・ケーの見た目は大幅に変える」
ようやくケーから一本取れてロミは溜飲を下げる。如月ユーキひとりの命で絶体絶命のピンチが逆転のチャンスにひっくり返ったのだ。
しかし、調子に乗ってはいけない。調子に乗って条件を蹴るようなことはしてはいけない。ケーが条件を加えるならば、今度はロミの番だ。条件を取り除くのではなく、付け加える。日本に不利益を与えない条件ならば、妥協してくれるかもしれない。
「いいでしょう。しかし意外でありますなぁ。ケーちゃん殿が印象を気にするとは」
「最後まで聞け。条件は一つじゃない。ロシアにはパトロン・ケーを渡す。それからロミさんには死んでもらう。これで全部だ」
「《ふざけんじゃねぇ! そんなの飲めるわけねぇだろうが!》」
「それが嫌なら起爆しろ。ユーキちゃんの救出に失敗しても、おめぇらを潰せば面子は保てる。逆に、ユーキちゃんの救出に成功しても、ロシアに弱みを見せたらいかん。俺と接触した途端、おめぇらの力が増したと知ったら何か取引したと疑うやろ。だからキエフ公国は解体だ。そして、ロミさんの死体はロシアに送り届ける」
何ひとつ譲らないと言っているに等しい。手元にパトロン・ケーが増えるだけだ。キエフ公国の解体、ロミの死は絶対条件という姿勢を保ち続けている。だが逆に言えば、この条件に触れない限り妥協点は見つかるということ。日本の顔に泥を塗らない限り、ケーから得られる物がある。
「なら、こちらからも条件を追加させてもらうであります」
「《そいつの言葉なんか聞くことねぇよ!》」
砕けた拳を杖にしてマーティが立ち上がる。そしてファイティングポーズを取った。やる気だ。ロミの命を守るために力を振り絞っている。魔力暴走を気力でねじ伏せ、鋭い目でケーを見据えた。
「《立て! もう一回だ! 今度は一対一でやる!》」
再戦を望む声に、ケーは全く耳を貸さない。ケーの動きといえば、皿にバターピーナッツをジャラジャラとあけて、ティーセットを片付けたくらいだ。ピーナッツを一粒ずつ箸で摘んで口に運んでいる。席を立つ様子はない。
マーティに一瞥もくべず、ロミの追加条件を聞く姿勢になっていた。
そんなケーの態度に怒りを露わにし、ボロボロの拳でテーブルを叩いた。市販のテーブルが限界到達者の膂力に耐えられるわけもなく、無惨にも真っ二つに割れた。
ピーナッツが宙を舞う。割れたテーブルの破片が飛び散り、頬を掠めた。だがロミとケーは瞬きひとつせず互いに見つめ合ったままだ。マーティをまるでノケモノ扱い。
ますます憤り、ケーの胸ぐらを掴む。しかし薄いスーツは破れずに伸び、ツルツルと滑ってマーティの手をすり抜けた。
「おめぇが死んだら爆発するよな。だったら大人しくしとこうや」
「ここはアタシに任せてくれませんか?」
ケーを倒せば全て丸く収まるわけじゃないのはマーティもわかっている。ケーを倒したところでロシアに勝てるわけじゃない。
日本脱出、ユーキの洗脳という段階を経て、ロシアが所有するケーシリーズを倒すことが前提。その上で元ウクライナの土地を占領し、国際社会に認められるまで防衛しなければならない。
ロシアは占領した土地から天然資源や穀物の多くを他国に輸出しており、それがストップしたとなれば非難は避けられない。ロシアと同盟関係にある国からケーシリーズが攻めてくる可能性だってある。ユーキだけでそれら全てを捌けるかは一つの賭けであり、この問題は破棄となったスサノオ・ケー奪取計画でも懸念されていた。
しかも、今はパトロン・ケーがいる。国際会議場にてケーが行なった例の宣言以降、ケーシリーズは統治手法として格下げとなった。それに伴い、ウクライナを奪還する上で最高の手段はパトロン・ケーを得るという結論に至った。
しかし、国際会議場に乱入して人質を取ってもケーは取引に応じず、今のように強気な姿勢を取り続けた。人身取引という意味では今回も同じだが、前回よりも希望がある。前回、人質が殺されても微動だにしなかったケーから譲歩を引き出せたのは奇跡にも等しい。問題があるとすれば、ロミがパトロン・ケーのために死にかねないことだ。
「《姉さんまで失いたくねえんだよ!》」
折れた手で何度も何度もケーを殴る。殴る度にスーツに新しい血がついた。ケーは微動だにせずパンチを受け続け、あいも変わらずロミを見ていた。
「やめて! もういいから! お前じゃ勝てない!」
「《クソッ! クソッ!》」
悔し涙と鼻水を恥ずかしげもなく垂れ流し、世界一硬いサンドバッグを打ち続ける。
「ごめんなさい」
「気にするな。しょんべん飛ばされるよりマシだ」
ロミは謝ったがマーティは殴るのをやめない。スーツに新しいシミを増やし続けている。
「だけど、いいかげんうっとうしいな」
ケーの手がマーティの腹を貫いた。ヒジを曲げて肋骨の裏側から心臓を握る。
「《ごふぅッ》」
「マーティ!」
マーティは口から大量の血を吐き出し、そのダメージの深さを物語った。
「引っ込んでくれないなら取引は無しだ。俺がスイッチを押す。こいつのハートを引っこ抜いてな」
「言うことを聞いてマーティ」
「《ちくしょうッ……ちくしょうッ……俺は、俺はこんなにも無力なのかよッ……》」
「ケーちゃん殿。すみませんがマーティを治していただけますか」
「ちゃんとロミさんの言うこと聞くんだぜ?」
心臓を握られた状態で後ろに下がることはできない。だから、傷が治るまで俯いたまま待つしかなかった。
身勝手な行いをしておきながら何も成せず、情けなさで死にたくなるマーティだが、今死んでも迷惑になる。どうすることもできない自分の弱さに悔しさが込み上げた。
「マーティ、あなたはスイッチを押すことだけに集中しなさい」
「《……わかった》」
マーティがトンネルの壁に背中を預けるところを見届けてから取引が再開された。
「さて、続きといこうか。パトロン・ケーは誰が受け取る?」
「その前にこちらの追加条件を聞いてください。ケーちゃん殿が提示した条件は全て承諾するであります。その代わり、今後一切、ロシアとウクライナの領土に入らないでいただきたい」
「こちらも条件を追加する。ユーキちゃんの無事な返還を求める」
「いいでしょう。それから、我々の解散後ですがメンバーの逮捕はしないでいただきたい」
「それは俺の権限を越えている」
「であれば、ケーちゃん殿は元メンバー達に関わらないでいただきたい」
「いいだろう。こっちの条件は出尽くした」
「こちらからは訊きたいことがあります。パトロン・ケーの操作についてです。会議初日に見せられたデモンストレーションのパトロン・ケーと、エジプト大統領などが所有するパトロン・ケーとでは明らかに性能が違いました。それは何故ですか?」
「うーん……」
ケーは腕を組んで悩む仕草を見せた。その様子からしてパトロン・ケーの説明を省くつもりだったようだ。
「《質問に答えろ》」
胸ポケットに手を当てて起爆スイッチの存在をちらつかせた。
「パトロン・ケーを操作するには所有者の脳みそがいる。所有者の脳みそに俺の分身を寄生させ、パトロン・ケーとの通信が可能な媒体に改造する。同時にパトロン・ケーの脳みそを所有者と同じ形状に変形させることで、所有者以外の者が操作できなくなるって仕組みだ。デモンストレーションでは誰のものでもないパトロン・ケーを使用したため、事前に決められた動作しか行わなかった」
「所有者が死んだ場合、その後パトロン・ケーはどうなるでありますか?」
「さあな。そのときにはもう俺の手を離れている」
ロミは眉間を揉む。パトロン・ケーを受け取るに相応しいのは誰なのか。キエフ公国は解体。自分は死ぬ。そして強大な力を得る。それでも意志を継いでくれる人は誰か。やはりマーティかリンだろう。二人は忠実でロミと同じ使命を持っている。
しかし、二人とも学校に通えなかった過去があるため、指導者に必要な最低限の知識すら持っていない。マシな方を選ぶなら、地頭が良いリンとなる。ただひとつ問題があるとするならば、この場にリンが居ないということだ。定期連絡を受けるために離れたのち、ケーに見つかり、救援を申し込んできた。その後、連絡がつかなくなっている。
選択肢など元から無かった。
この辺りが引き際だ。ケーは仲間と来ている。取引が中断されないうちに取引を終わらせた方が得策だ。
「わかりました。ではパトロン・ケーの受け取り手は……」
マーティでお願いします。と、口にしようとした次の瞬間。ロミの耳に自動車の走行音が飛び込んできた。
音は来た道の反対側から聞こえてくる。このトンネルは片側二車線である。つまり逆走だ。その音に一条の光明を見出し、近づいてくるヘッドライトに祈りを捧げた。




