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58-2 それよりも、救命ボートの話をしよう

「Game Overぁぁ……」

「っ!?!?!???」


 なんの前触れもなく突然にケーが現れた。

 声も出ないほど驚くトラジ。驚きすぎて膝を伸ばし、救命ボートの底を突き破ってしまった。


 開いた穴からじわじわと海水が入ってくる。両足を穴に突っ込んだまま焦る。だが少し冷静になると、ケーの前でそんなこと気にしてもしょうがないと諦めた。


 それにしたって見つかるのが早すぎる。まだ夕方のチャイムも鳴り終わっていない。近づかれたことにも気づけなかった。

 しかも猫の姿じゃない。元通りの異形だ。せっかくカンタが追い詰めたのに、ケーは完全に復活していた。


「あらら、穴が開いちゃって」


「失敗しました」

「見りゃあわかる」


 ケーは救命ボートに開いた穴を見つめるだけで塞ごうともしない。浸水する様子を眺めている。


「処刑しないんですか?」

「その問いかけは間違っとる。俺は今、刻一刻と死に近づく小畠くんを助けるか、それとも見殺しにするかで迷っているところなんだぜ」


 トラジは沈む船に乗っている。ケーが手を下さなくとも事故で開いた穴に殺される手前なのだ。


「助けてくれるんすか?」


「さて、どうすっかな。少しこの状況にまつわる怖い話をしようか。小畠くんは『救命ボートの倫理』という話を知っとるかな?」


「なんとなく……」


「『救命ボートの倫理』っちゅーのは、数十年前にアメリカの偉い生物学者が提案した資源分配方法についての例え話や。

 俺も完璧に覚えとるわけじゃないけど、地球上の豊かな陸地を海に浮かぶ救命ボートに例えた場合の考え方やね。

 そんで救命ボートには豊富な資源があって、ボートに乗れた乗船者は何不自由なく裕福に暮らせる。

 一方、海にはボートから溢れた人間がいて、泳ぎながら資源を集めて生き延びている。ただ、泳ぐ人間がどれだけ足掻こうとも、いつかは資源が尽きて溺れる。

 泳ぐ人間はもう一度ボートに乗りたいと願う。しかし救命ボートには定員があり、定員を超えるとボートが沈んでしまう。


 要するに『救命ボートの乗船者は泳ぐ人間をどう扱うべきか』という提案やな。


 この提案者は、泳ぐ人間を見捨てて、乗船者のみで救命ボートの資源を独占すべきと主張した。

 ところで、今まさに溺れかけている小畠くんはこの例え話をどう思う?」


「俺に選択肢が無いってことくらい、そんな話をしなくたってわかりますよ」


「そうやな。泳ぐ人間に選択肢は無い。小畠くんの乗船を認めるかは乗船者の特権だ。この話が面白いのは、乗船者達の間で意見が割れているところやな。

 定員ギリギリになるまで無差別に助けるとか、資源を分け与えるとか、泳ぎが上手い人間を乗船させるために格下の乗船者を海に突き落とすとか、いっそ全員乗せて沈没するとか、他にも色々な意見があったりする。意見の対立が行くところまでいくと、救命ボート内の特権を求めて乗船者同士の闘争が起きるわけだ」


「それで、あなたはどう思うんです?」


「俺の答えは既に行動で示した。小畠くんの意見が聞きたいぜ」


「は? いや、それじゃわかんないんすけど。行動ではなく言葉にしてくださいよ」


「え……?」


「大体その比喩は変ですもん。あえてその比喩を現実と重ねるなら、乗船者達は救命ボートの資源を武器にして他のボートを襲ったり、泳ぐ人間達を脅して搾取もしますよね。これじゃ救命ボートというより海賊船じゃないすか。

 あなたのような加害者が、被害者目線の比喩を持ち出してドヤ顔で『行動で示した』とか言われても、こっちはクエスチョンマークを浮かべるしか無いでしょ」


「結構キツい性格やな小畠くん」

「あなたほどじゃありませんよ」


「でもまぁ。小畠くんの言う通りなんよな。恵まれない人間の目線から見たら、不愉快極まりない暴論なんよな。

 ほんじゃあ、この救命ボートが沈没する前に俺の答えを教えようか」


「いやいいです。別に興味ないんで。そんな答えよりも執行猶予をください。俺はキエフ公国の情報を持ってます。生かす価値があると思います」


「いや、残念ながら、その情報を小畠くんの口から聞く必要がない。船の行方も、警察庁の情報を漏らしたことも、キエフ公国の支援者が黒田長官だったのも、全部知っている。山本くんと小畠くんの名前を知ったのと同じ方法でな」


「そんな……まさか……」

「資料には無かったろ。俺が人の記憶を読めるってこと。広まるとやべー能力は共有しないんよ。ロミさんは知ってたから、小畠くんを伝書鳩に使ったんやろうな。

 つーわけで、救命ボートの答え聞いとくか?」


「……なんなんすか。何がしたいんすか。だったら俺は用済みじゃないっすか」


「そんなこと言わんで、もうちょいおしゃべりしようや。俺の機嫌を良くしてくれたら、自殺した小畠ミツキを生き返らせてやってもいいんだぜ。死体は献体に出しとるから、まだ火葬されとらんのやろ?」


「悪魔……」


「悪魔かぁ。悪魔には会ったことが無いなぁ。どうやら地獄に悪魔が居るみたいなんよな。マナガスにある地獄の門を開けたら会えるんかな。なんてな。それよりも、救命ボートの話をしよう」


「マナガス……マナガスってなんですか。あなたはいったい何をしゃべってるんすか」


「俺は救命ボートから降りた人間だった」

「急に始まったよ」


「泳ぐ人間だからこそ海から見た景色を知っている。見下ろして嘲笑う乗船者達の顔を今も覚えている。

 別にそれを憎んでるわけじゃない。降りたのは俺の意思だから。ただ気づいて欲しかった。

 船に乗せなくていいから、俺に美味しいご飯をくれと」

「最低の考え方ですよ」


「飼い猫のように生きたいだけなのに、みんなが猫を働かせようとする。飼い猫の生き方を否定する。生きてるだけで偉いってことを肯定しようともしない。

 たしかに猫ほど可愛くないが、泳ぐ人間を眺めるだけで心が落ち着く人もいるはずだ。下を見ることで安心する人ばかりやろ。

 だったら世話しろと俺は言いたい」


 沈黙。その間も浸水は進んでいる。


「え、終わり? それが答えってコト?!」


「いや、続きがある。さっきのは俺が普段から思っとることやが、そうも言ってられん事態になっとる。

 最初に怖い話をするって言ったろ。ここまでは前振りで、こっからが本編ってことよ。

 数年前、全ての救命ボートに穴が開いた。皆さんご存知のダンジョンゲートだ。もうすぐ7周年だっけ」

「いや、半年以上先ですよ」


「そっか。そうやな。突然現れた新しい資源にみんなが喜んだ。でも喜んどるのは本当に地球の人間だけやろか?」

「早くしてくれますか。もう胸まで来てるんで」


 長々と話す間にも浸水は止まらず、救命ボートが湯風呂みたいになっていた。

 ケーもトラジも服を着ていないので、図らずも裸の付き合いだ。同じ湯船に浸かって対話することで心の距離が縮まると云うが、ケーはともかくトラジはリラックスできないようだ。


「ダンジョンで取れる資源は地球人類への先行投資みたいなもんだ。あるいは、滅びゆく地球人類に送る最後の施しか。あいつらも一枚岩やないから、目的を一つと断定するのは時期尚早か」

「だから、どういう意味なんですか。わかる言葉で話してくださいよ」


「物知りな小畠くんは日本語を話す小人の存在を覚えとるやろ」

「え? ええまぁ。博多ダンジョンのモンスターすよね」


「そう。そして、地球人が初めて接触した異世界の知的生命体でもある」

「異世界?」


「そう。ダンジョンゲートは異世界と繋がっとる。小人が住む一惑星の名はマナガスと呼ばれとる。これは極秘情報やが、マナガスには他にも種類の違う知的生命体が数多く生息する。ダンジョンモンスターではない在来種の知的生命体がな」

「ダンジョンモンスターではない……」


「俺は内密にダンジョンを調査するよう勅命を受け、一般開放に向けての安全調査を進めると同時に、広範囲に渡って知的生命体の生態を調査した。

 日本中のダンジョンを調べてわかったのは、マナガスと繋がるゲートが全国に5ヶ所あるということや。

 ほとんどのゲートはマナガス以外の惑星と繋がるゲートやった。それらの惑星には生態系がなく、ダンジョンモンスター以外の知的生命体が確認されなかった。それどころか、出入り口が一つしかなかった。

 これが何を意味するか、察しのいい小畠くんならわかるやろ?」


「マナガスには複数のダンジョンがあるものの、地球ほど沢山のダンジョンはないってこと……ですか?」


「流石賢い。その通りや。マナガスには地球と繋がるゲートしかない。他の惑星と同様にな。異世界の惑星同士で繋がるゲートは存在しなかった。

 つまり、地球を介して異世界の星々が繋がっとるわけ。

 俺たち地球人類の視点から見れば、地球の容量を遥かに超える資源が見つかったんだ。ラッキーって感じやろ。だけどマナガス側の視点に立てば、それがぬか喜びなのだとわかるやろ?」


「あなたを地球人の括りにいれるのはちょっと……」


「おいおい……仲間外れにすんなよな……。

 まぁよか。そんでさっき、マナガス以外の惑星にはゲートが一つしかないと言ったな。

 地球と繋がるゲートが複数あるのはマナガスだけだと小畠くんが推理した。

 では、不思議に思うはずや。

 なぜマナガスにだけ複数のゲートがあるのか。なぜ他の惑星はゲートがひとつなのか」

「なぜですか?」


「それはマナガスを特別扱いする者がいるからや。つまり高次元の存在。異世界の神よ。

 俺たちにとって神っちゅーのは、実在もわからん高みの存在やが、異世界の神はマナガス人に姿を見せて宇宙を統治している。

 俺はあいつらを神とも思っとらんが。神話に出てくる神と同レベルの力を持っとるから神と仮定し、地球の神と混同しないように『マナガス神』と言っておく。

 そんなマナガス神達は地球の資源を狙っとる。なんなら、地球を第二の故郷にしようとしとる。

 その思惑は人の力では阻止できない。地球人全員が限界到達者になろうとも、どんな科学兵器を使おうともマナガス神一人倒せない。

 だから地球人類の将来を考えて、マナガス神を皆殺しにしておくつもりやが、面倒なことにこいつらは消滅させても復活するらしい」


「信じられません。いきなり話が大きくなりすぎて訳がわからない。大体、なんでそんな話を俺にするんすか。その話をした理由はなんなんすか」


「小畠くんって童貞やろ」


「な、なんすか急に! 童貞じゃないですが?!」


「嘘つくなって。全部知ってんだぜ俺は。小畠くんがドルオタってことも、柔道大会の前に弟と自転車競争してずっこけて大怪我したことも、それが理由で大手術をしたことも、大会に出られず鬱になったことも、最近は推しの配信者に投げ銭しすぎて生活が苦しくなってることも全部知ってんだ」


「童貞ですが何か?」


「おめぇもモンスターにならないか?」

「嫌です」


「小畠くんの経歴は魔石適合の条件と非常にマッチしとる。うまくいけば俺と同じ領域まで到達するかもしれん。だからモンスターになろう小畠くん」

「嫌です」


「モンスターになれ」

「嫌です」


「なーれ」「嫌です」「なれや」「嫌だ」「なれ」「ヤダ」「なれ」「ヤダ」「なれ」「ヤダ」「なれ」「ヤダ」「なれなれなれなれ」「ヤダヤダヤダヤダ」……────。


「なれなれなれなれなれなれなれなれなれっ!」

「ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダッ!」


 叫び声による衝撃波で海面が荒れ、二人の波紋が衝突した。

 徐々に浸水の速度が上がり、トラジの喉元まで海水がきている。


「死んでしまうぞ小畠くん。そんなに意地を張るな。モンスターになれ。そしてマナガス神を倒せるくらい強くなれ」


「なんでそこまで倒すことにこだわるんすか!

 共存したらいいでしょう!」


「マナガス神は共存の道を捨てた。人類滅亡のカウントダウンは既に始まっているんだよ。いい加減、目を覚ませ」


「信じられない!」


「でもこれが真実だから。今年、全人類を恐怖で震撼させた事件が起きたよね。

 ドラゴンの大量発生。それこそが人類滅亡を急加速させた一番の要因だから。その後に起きたダンジョンスタンピードによる被害の方が大きいと云う人もいるけど、ドラゴンとダンジョンは密接に関わってくるからね。

 いーい? まずドラゴンがどのように発生するかについて説明するよ。

 ドラゴンの発生条件。それはダンジョンのクリア。

 ダンジョンをクリアした何者かが、ダンジョンの主として自分をダンジョンコアに登録したとき、地球上にあるどこかのダンジョンゲートが崩壊して、そこからドラゴンが出てくるんだよね。

 崩壊するダンジョンは一見無作為に思えるけど、実際にはマナガスから一番遠い惑星がドラゴンに変化するよう仕組まれているから。

 ここだけの話、そのときダンジョンにいた人間は異世界の宇宙に放り出されるからね。こわいよね。もうダンジョンに入りたいって思わなくなるでしょ。だから内緒だよ。みんながダンジョンに入らなくなると、それはそれで困ることになるからね。

 じゃあ、話を戻すよ。さっき惑星がドラゴンに変化すると言ったように、ドラゴンってのは本来、活動のために呼吸を必要としないわけ。よく調べればわかることだけど、あいつら生物じゃないから。息は吐いても吸ってないからね。

 大事なのはこっからだよ。

 いーい? よく聞いてね。

 ドラゴンの吐く息は大気の気質を変える。それはアメリカの環境保護庁が報告した空気質指数からも読み取れるよね」


 今年のドラゴン発生を受け、急遽アメリカではNASA、大気研究センター、アメリカ政府が共同で大気汚染物質の調査を行なった。

 調査後の報告では、既存の大気汚染物質の割合が低下し、二酸化炭素に次ぐ多さで未知のガスを観測したというデータが提出された。


「大気は確実に汚染されてるんだよ。その証拠に世界中で珍しい病気が増えたり、野菜の生育が悪くなったりしているでしょ。もちろん人体にも最悪の影響を与えるから」


「その胡散臭い話し方やめてくれません?」


「胡散臭いは無いやろ。まぁやめるけど。

 予言しよう。おそらく今年の出生率は0になる。日本だけじゃない。地球全土でな。そして、再来年くらいには健康な人間の急死が相次ぐ。

 急死は止まることなく起こり続け、世界総人口の99%近くがいなくなる。生き残るのは限界到達者のみ。その限界到達者も純粋な地球人の子孫を残せずに寿命で死ぬ。これはもう地上のドラゴンを殺し尽くしても止まらない流れだぜ」


「嘘だ……」


 海面から顔を出し、海水を吐き出しながらトラジが呟いた。


「死ぬな小畠くん。モンスターとなり、一緒に人類を救おう」


「信じられない。あなたを信用できない。どこで知ったかもわからない情報を話されても理解がおいつかない。

 大体、どうやって人類を救うつもりですか。話通りなら、ドラゴンを全滅させても人類は滅亡する流れなんですよね。だったら、俺がモンスターになっても救えなくないですか。話の中で矛盾している」


「矛盾したように聞こえるのは、俺の弟子が活躍する時期が今じゃないからや。

 大気汚染から人類を救う計画は既に進行中よ。さっきの予言は俺が途中で離脱した場合の未来ってこと。計画がうまく運べば、出生率は去年より低くなるものの0にはならないはずだぜ。大気汚染による急死もしない。

 弟子たちの出番は、人類が大気汚染による滅亡を回避したもっと先の未来や。およそ100年後くらいやな。復活したマナガス神を抹殺し、人類を救って欲しい」


「うっぷ……ぶーっ! 死ぬっ! ふぅー!」


 トラジは海水を口から噴き出し、体が沈む前に救命ボートの縁に腰かけた。


「救命ボートの倫理について、俺なりの答えを聞かせよう。俺はな。全てのボートが沈んでしまうその前に、全人類を救命ボートに改造することにした」


 トラジの顔が真っ青になった。決して溺れたショックじゃない。冷たい潮風のせいじゃない。

 精神の問題だ。はらわたに氷を詰めたような激痛があり、最大級の恐怖が背筋を伝った。


 そして苦悶の表情を浮かべる。すぐに頭に浮かんだのは黒ミミズだ。頭の中で蠢いた気がした。




◆▼▲▼◆▼▲▼◆▼▲▼◆▼▲▼◆



 二人は巨大な白い壁の前で立ち止まった。握り拳ひとつ分入りそうな穴に指を引っ掛けたケーが言う。


「ドア開けるから少し下がってろ」


 コ゛コ゛コ゛ッ……!

  コ゛コ゛ォ ゴゴォォ ゴゴォォォ……!


 脳を震わせる振動音。コンクリートを耳元で削られているようだ。トラジは耳を塞ぎ、スライドする金属の塊を見上げた。


「さぁどうぞ入って」


 死ぬ寸前まで粘ったが、結局トラジはモンスターになる道を選んだ。今では復讐を忘れ、ケーを倒すという使命感から同行している。


 ヒタヒタと音をさせ、窓も明かりも無い玄関に足を踏み入れた。

 トラジはパンツ一丁だ。ここには海から直で来た。濡れたパンツからは伊勢湾の香りがする。


 トラジの存在は公にできない。新たな指定モンスターの育成を禁じられたためだ。公式に育成を行うならば、法律の改正が必要となる。しかし法改正まで待つという考えがケーには無いらしい。せっかちだからという理由もあるが、最も大きな理由はトラジを死んだことにできる今の状況が好都合だからだ。

 そしてトラジの育成を秘密裏に行うため、行政も立ち入ることができないケーの自宅ダンジョンにやってきたのだった。


 コ゛コ゛コ゛ッ……!

  コ゛コ゛ォ ゴゴォォ ゴゴォォォ……!


 巨大なドアが閉められた。暗い部屋に照明が点き、家具ひとつ無い部屋が照らし出される。一人暮らしするには広すぎる部屋だ。


 トラジがぼんやりする間にも、ケーは部屋の奥へと歩いていった。

 ゆっくりでも歩幅が大きいケーをトラジは小走りで追う。床の間、キッチン、リビング、クローゼット。居住空間を突っ切って、2階へ続く階段を素通りして、まっすぐと続く廊下を進んだ。


 やや下り坂で先の見えない長い廊下だ。壁も、天井も、床まで白く、窓が無ければ飾りもない。

 進んでいくと、いきなり照明の質が悪くなった。ちょうど明暗の境目となる壁に看板が貼り付けてある。


『←いってらっしゃい(0km:適正戦闘力5000)

  おかえりなさい(111km)→』


 この家に入って初めて見た文字が不吉すぎる。


「ほんじゃあ、さっそく始めるぜ。まずはこれを食え」


 ケーが取り出したのは黄金のバケツだった。8リットルの水が入りそうなバケツを魔石で満たしている。


「待って……これ魔石じゃないすか!」

「初めは2〜3個食べて寝ろ」

「猛毒ですよ!」


「そうだよ。ちゃっちゃと食ってくれ。こっちには時間に厳しい妻がおるんよ。小畠くんにばかり構ってられんのよな」


「死にますよね」

「死ぬか心肺停止のどっちかや。心肺停止から回復すれば一生魔石を食い続けられる。魔石はいいぞ。栄養もあるし、喉も潤う」


 ピピピピッとケーのスマートフォンが鳴った。着信ではない。タイマーだ。スマートフォンを固定する触手が勝手に動いてタイマーをオフにした。


「あーもうダメだ。時間がない。いろいろ説明してやりたかったが、小畠くんは賢いからなんとかなるはずや。ほんじゃあ、そういうことなんで」


 そう言ってケーは片手をあげた。これから消えます、って感じだ。


「待ってくださいよ! ミツキは!」


「ああ、約束通り小畠ミツキは生き返らせる。ここに連れてくるわけには行かんので、その後が知りたかったら自分で探してくれ。生きてここから出られたならな」


 ケーは消えた。音もなく。大量の魔石を残して。


「もう悪役の台詞なんよそれは……」


「あ、言い忘れたことがあった」

「ウワアアアアアアアアアアアアアアッ!」


 ケーはトラジの背後から肩を叩き、耳元で囁いた。


「大切なことを少しだけ言っておく。先のほうへ行くと壁の両側に扉があるんやが、必ず看板を見てから扉を開けるように。自分の戦闘力が適正戦闘力未満なら絶対に入らないこと。

 それと、扉の先で巨大なミミズと遭遇したら全力で逃げろ。奴は適正戦闘力の範囲外からやってくる。ホラーゲームで言うところの無敵キャラに追いかけられるイベントやからな。この通路と似た部屋を各地に配置してある。部屋へ逃げ込めばそれ以上追ってこないから、イベントが発生したら部屋かこの通路を目指せ。

 最後にもうひとつ、魔石を食べたら先へ進まずに戻って寝ろ。この家の物は自由に使っていいぜ。ほんじゃ……」


「ちょっと待ってください!」

「なんや」

「いつ出られますか?」

「自力で出ろ。じゃあな」


 ケーは消えた。白い廊下に半裸のトラジと大量の魔石が残されている。

 どうやら、もう始まっているらしい。

 「自力で出ろ」ってことは、あの門を開けられるようになるまで出られないってことだ。もしくは、ケーのようなワープ能力を身につけるかだ。もしかしたら部屋のどこかに外へ出るためのワープ装置があるかもしれない。

 期待するだけ無駄だ。そんな好都合なものなどない。トラジは嵌められたことにやっと気づいた。

 蹴る。蹴る。蹴る。バケツに全ての怒りをぶつけた。


 パンツが重みでずり落ちた。トラジはついに全裸になった。


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