1-1 ニートとかけまして怪物と解く、その心は?
夢も信念も向上心もない男がいた。彼はひとり残されたリビングで唯一といっていい日課を今日も朝から取り組んでいる。
「ふっ! ふっ! すぅー!」
『ハムストリングスをしっかり意識してください! ペースは上げない落とさない! 常にあなたの全力で! 体にたまった体脂肪をどんどん出し切りましょう! 休憩中も気を抜かない! 股関節を軽く動かして次のラウンドに備えましょう!』
「ふっ! ふっ! すぅー」
スマートフォンの画面を見ながらパンツ一丁でエクササイズする男。
この男はニートである。天涯孤独というわけではないものの社会的には完全に孤立している。それなのに全くといっていいほど危機感を持っていない。
2匹と6人家族の長兄であるのにもかかわらず、家計を支える気が無いどころか奨学金という名の借金まで家族に払わせ続ける始末。いわゆる社会からの落伍者だ。彼自身、再起不可能と諦めている。
本名はあえて語るまい。なぜなら彼の名を呼ぶ者は身内を除いて他にいないからだ。
学生時代には友と呼べる者たちが大勢いたものの、人間関係をリセットした状態でニートの世界に入門してしまったため、連絡を取り合う友人はいなくなった。更新されないSNSの友達リストが彼の最後の繋がりである。
そんなニートはひとりでいる時間が多い。両親は共働きで朝早くに家を出ており、兄弟は世帯を変えて独立した。家族全員が揃うのはお盆や年末年始の時だけとなっている。
しかしニートは孤独を感じない。なぜなら彼のすぐそばには人生の師匠がいるからだ。
「にゃー」
師匠の登場だ。時間も場所もわきまえず物乞いしてくる気分屋さん。
「ちょ危ない……どうしたの。おやつ食べたいと? よーしよし。撫でちゃろうね。あー逃げる。なんやねん」
「にゃー」
「はいはい。チョロちゃん、おやつ食うね。おやつがいるね。よーしよし。あー逃げる。なんやねん」
「ヒメちゃーん! おやつ食べるー?」
ニートの呼び声に応える者はいない。棚からおやつを取り出すと、おやつ袋のこすれ合う音がした。すると2階からドタドタと足音を立てて、もう1匹の師匠が降りてきた。
猫にとってはニートの大きな声よりも、おやつ袋の小さな音のほうが魅力的に聞こえたようだ。
「にゃー」「にゃー」
「はいはい。そんな急かさなくてもおやつは逃げないから。おやつ食べたらお利口にしてね」
おやつを食べ終わったらなんのお礼もなく猫たちは離れていき、各々の場所を確保して毛づくろいを始める。用が終わればすぐに自分の世界へ戻るのが猫という生き物だ。
くだらない生き物だ。こんなに小さくて生産性のカケラもない存在が、まるで自分を中心に世界が回るといわんばかりにふてぶてしい態度を取る。
そんなわがままな生活を毎日継続する猫の精神に、ニートは最大の敬意を表した。
スマートフォンの画面をタッチすると、停止していたエクササイズ動画が再生される。
ヨガマットが汗でびちゃびちゃになるまで運動したら、床を濡らしながら風呂場へ直行し、水道光熱費なんて気にせず存分にシャワーを浴びた。
ニートは軽度の潔癖症である。日に二度も本格的に全身を洗うため、石鹸やシャンプーなどの消耗品の減りがはやい。体の洗いすぎは健康に悪影響を及ぼすと知っているにもかかわらず、健康でいるために体を洗うという矛盾を日々繰り返している。
風呂から上がって体重チェック。いつもどおりの体重だ。女子高生の平均体重とぴったり。
一連のルーティーンを終えると、しばらく自由時間が訪れる。そもそもニートは年がら年中自由時間のはずだが、彼の心にとってはゆとりのひと時なのだ。
そのゆとりの時間を使ってまとめサイトを見たり、匿名SNSで世間の声を収集する。主に政治カテゴリーの履歴を残しているようだ。働いておらず、法人や慈善団体など中間の繋がりがないニートにとって、身近な話題は政府の動向なのだ。
ニートが世間と繋がれるのはインターネットでボタンを押す瞬間だけなのだ。
インターネットこそがニートの居場所だ。彼は読書家だが文学は苦手なようでプロ小説家の本をほぼ読まず、読むにしてもネットのワーナビー作家の小説くらい。主に日本史や世界史を始め、政治や財政を記した評論、エッセイ本や哲学、生物学や科学史や量子力学の専門書など幅広い分野の書物を好んで読む。
行動しないニートにとってこれら全ては虚学であるが、ニュース関連の話題には若干ながら地の利がある。
記事の見出しや切り取りしか読めない人に対して優位に立てるくらいの知識があるため、コメント欄があるニュースサイトの閲覧は承認欲求を満たす絶好の場所である。
しかし、ニートが議論したりコメントを書き込むことはない。
なぜならニートは社交不安症に加えてオンライン恐怖症だからだ。[いいね]を押すのが精一杯のコミュニケーションなのだ。
もしもニートがオンライン恐怖症を克服したときを思うと恐ろしい。情勢に疎い社会人たちを相手取って、なんの社会貢献もしないニートがマウントを取り続けてしまうのだ。
そこらの青色申告者よりもファイナンシャルリテラシーがあるニートが、働き疲れた労働者たちを説教していくネット事情になるのは恐ろしい。
ゆとりの時間は終わり、窓の外から12時を告げるチャイムが聞こえてきた。この時間に投稿される動画を視聴するためにパソコンの電源スイッチが押される。
ティーパックを入れたマグカップにお湯を注ぎ、椅子代わりのバランスボールに座ってパソコンの立ち上がりを待った。
今日は畑に行くことを祖母と約束していたが、半日が過ぎてもこの余裕。なんなら行かない日もある。
ニートは約束を忘れたのではない。覚えたうえで行動しない。行かない理由は特にない。必ずしも約束が原動力になるとは限らないのだ。
デスクトップ画面が表示されるまでスマートフォンをいじる。紅茶が充分飲める熱さになる頃、パソコンのデスクトップ画面が表示された。
スタートアップに時間がかかるものの、これを待たずにブラウザをクリックして紅茶をすする。ティーパックは水面から引き上げない。紅茶が苦くなる前に飲み終えてしまうからだ。
スマートフォンでゲームアプリを操作しつつ、図書館で借りた古代日本史を読み、経済評論家の最新動画を視聴する。謎の高性能マルチタスク。生産性は皆無だ。
すると突然人が変わったようにスマートフォンを閉じ、本を閉じ、パソコンをシャットダウンして洗面所へ行く。固い歯ブラシで歯茎を血塗れにして、顔を洗ったらトイレに駆け込んで静かになった。
個室から水が流れる音が聞こえてニートが出てきた。やけに落ち着いている。一連の謎行動のあと、服を着替え、イヤホンをすると家を出た。
どうやら祖母の家へ向かうようだ。
かと思えば進行方向は祖母の家から外れており、その足は本屋に向いている。ニートは決まった曜日になると本屋で週刊少年誌を買い、青年週刊誌を立ち読みする習慣がある。今日がその日らしい。
膨らんだエコバックを片手に、ニートが本屋から出てきた。夏の直射日光に怯んでいる。最新のアニメソングを再生するとまた歩きだした。今度こそ祖母の家に向かっている。
本屋は片道20分。祖母の家まで5分。結局、自宅を出てから合計45分歩いて祖母の家に行くことになる。
それだけの時間なら平気で歩いてしまうのがこの暇人だ。
ニート生活をモニターしてから数時間、ようやく舞台に到着したようだ。広い前庭の向こうにある長い平家が祖母の家。
物語はここから始まる。
ここで明らかになるニートの特異性がある。一般論として親しき仲にも礼儀ありという論語を起源としたことわざがある。輸入されたことわざは日本文化に溶け込み、いつしか常識となって社会活動の中に浸透している。
人の家を訪ねれば相手がどれほど親しい間柄でもインターホンを押して来訪を知らせるのが常識的な作法だ。
しかし、ニートは正面の玄関に向かわない。広い前庭を回り込んで裏庭から無言で侵入した。
その理由は何か。ニートが説明するには、玄関を汚したくないことと効率が良いからだそうだ。
一方、祖母側からしてみれば裏の鍵を常に解錠しておかなければならないため防犯的にもやめて欲しいそうだ。だが夫が逝き、三人の娘たちとも複雑な事情で疎遠となっており、唯一不定期で訪れる孫にまで離れて欲しくないという思いから口に出せずにいた。
お縁の掃き出し窓を開け、ニートは買ってきた週刊誌と財布を置いた。この時間に祖母はおらず、買い物に出かけている。
家主の不在というのに躊躇いもなくカゴを漁り、農作業用の服に着替えた。
農作業用といっても本格的なものではない。中学校の体操着だ。それもお下がりだ。胸には従兄弟の苗字、ズボンの元の持ち主は妹だ。日々のエクササイズのおかげでガタイは良いもののニートは小柄であった。
ニートは裏庭にある倉庫から三又の備中鍬を取り出して畑へ向かう。
マルチシートの上から枯れた野菜の根っこにクワの刃を刺し、土を柔らかくしてから素手で一本ずつ取り除く作業を繰り返した。
作業が終わり、ゴミを一ヶ所にまとめると、枯れた野菜が胸の高さになるまで積まれていた。ニートはクワを支えにして、しばし休憩すると、畑に残されたマルチシートなども片付ける。
どうやら今日の畑仕事はこれで終わりらしい。ニートの1日は1ターンで終わる。
働き疲れと直射日光のダブルパンチを食らって立ちくらみを覚える。
膝から崩れ落ちそうな体を自慢の体幹で立て直した次の瞬間──。
地面が揺れた。
木々の葉が擦れ、そこらじゅうの建物が軋む音が聞こえてくる。
立ちくらみに加え、地震の揺れが襲ったせいでニートは倒れてしまった。
倒れるさなか、その顔面を突き刺してやろうと備中鍬が爪を立てて待ち構える。
農具の切れ味を舐めてはいけない。備中鍬は固い土をいとも簡単に掘り起こす道具だ。固い皮を持つカボチャを少ない力で割ってしまうくらいには危ない。
間一髪というところで両腕が間に合い、プッシュアップの体勢で難を逃れた。
「あっぶなぁ、死ぬとこじゃんか」
ニートは独り言が多い。家族がいるなかでもテレビに話しかけるくらいには独り言が多い。なんなら会話の最中でも独り言を言う。一人の時なら当然のように独り言は増える。
「はあ…… 今の震度いくつだろう。俺を転ばせるとか相当やぞ。震度10はあるんじゃないかと」
震度は5弱だった。見当違いも甚だしい。ニートは根拠のない自信をベースにして自己を肯定している。もはや他者の評価を受けられない身分なため仕方がないとも言える。
「ステ……タス……」
先ほどニートの命を刈り取ろうとした勇敢なクワを持ち、片付けるために倉庫へと戻った。
錆びた倉庫の扉を強引にこじ開ける。
倉庫の中を見てニートは絶句した。
「うそやん……」
倉庫の床に大穴が空いている。床に置いていたはずのじゃがいもや玉ねぎが大穴に転がっていた。大穴といっても傾斜の勾配はそれほど高くなく、バリアフリースロープ程度の下り坂だ。しかし、底は深く、奥の方までじゃがいもが転がっているようだった。
「はあ……こっちは疲れとるんやぞ。明日にするかー」
転がった野菜を放置して帰ろうする。だが彼の良心が大穴に引き戻した。
「たぶん婆ちゃんが取りに行くよなぁ。危ないよなぁ」
防犯意識が低く親不孝者ではあるものの、人一倍の優しさ持つ点が彼の良いところだ。
大雨で死にかけた猫を助けたり、兄弟を不良から守ったりなど、まるで物語の主人公のようなエピソードがある。
社交性を捨て去った現在の姿が全ての回想を台無しにするのだが、それはともかく優しさだけは捨てられなかった。
ニートは備中鍬を片付けると、懐中電灯とカゴを持って大穴に入った。大穴の中は暗い。色鮮やかな玉ねぎならまだしも、ライト無しではじゃがいもを見逃してしまう。
転がった野菜を拾いつつ、奥の方へどんどん進んで行く。すると、大穴の先が明るくなっていた。
「上に穴が空いてんのかな。つーか長すぎやろこの穴。人ん家の田んぼまで入ってねーか。雨降ったらやべーな」
ニートはすでに全ての野菜を拾い終わっていた。しかし足は止まらない。子どものような冒険心に押されて進んでいく。
進むにつれて大穴はだんだんと明るくなり、懐中電灯のスイッチを切った。
もうライト無しでも先が見える。光源を探して仰ぎ見ると天井には想像したような穴が空いておらず、強烈に発光する虫の集合体がウジャウジャと天井に張り付いていた。
「新種かあ? やばいだろこの熱量。虫が放っていいレベルじゃねーぞ」
ニートは試しに玉ねぎの葉を虫に差し出した。しかしなんの反応もなく、虫たちは動きもしない。
そんなとき横から思わぬものが玉ねぎに食らいついた。
そいつは壁から頭を出して玉ねぎの葉をムシャムシャかじり始めた。
「うわあああ!」
ニートの感想はでかすぎるの一言。人の太ももくらい大きな昆虫だった。
節足動物に見られる堅い殻、多足類にみられる沢山の歩脚、見た目はダンゴムシのようだがダンゴムシは玉ねぎのように刺激が強い野菜は食べない。
この大きさの昆虫が雑食だった場合、人間も食料になり得る。
逃げなきゃマズい。そう考えたらすぐに持ち物を捨てて走った。ゴム長靴の重さを感じさせないほど軽やかに駆け、来た道を戻った。
追ってくる者はいない。無事に倉庫へ戻れて安心したは良いものの、ニートは結局なにをしに行ったのか。
懐中電灯は落とし、拾った玉ねぎとじゃがいもは置いてきた。成果といえばファンタジーのような謎の生物の情報のみ。
失ったものが多すぎる。ダンゴムシの食欲は凄まじいものだった。あのままにしておけば、野菜が全滅してしまうかもしれない。
ニートは片付けたばかりの備中鍬を手に取った。
長靴の紐をギュッと締めて固く結ぶ。体操服のズボンの紐もしっかり結ぶ。
準備万端いざ出陣か。と、その前にニートは叫んだ。
「ステータス、オープン!」