狐につままれる
バッタが跳ねた。茶砂が飛散。
海水温の上昇、冷夏、暖冬。
むむむむ。
試験が終わり、学園は夏季休暇に入った。しばらくは社交界が賑わう季節になる。学園は王都内にあるためタウンハウスから通っていたが、本邸に戻ってきている。
我が領にとって秋はとてもとてもとーっても忙しい季節だ。まずひたすら収穫に借り出される。お嬢様だからって?そんなの関係ない。猫の手さえ借りたい有様なのだ。
そうしてひと段落して、全て集計している。帳簿と睨めっこしていて気付いたことがあった。些細なことではあるが、見逃せない。
馬に飛び乗る。現地を訪れて話を聞き、思わず眉を顰めた。収穫量1.5%減。数字としては大したものではない。気になったのは備考欄であった。虫の発生。それも、いつもの虫とは少々異なるというのだ。気のせいか、いや、気になる。添付された絵を眺めた。
見覚えがある。
これは、砂漠化が進行中の隣国で見られる虫だったはずだけど。
なぜ知っているのかって?
余談ではあるが、昔凹んでいた婚約者を励ますために虫図鑑を隅々まで読み、なおかつ領地を駆け巡り虫を集めてプレゼントしたことがある。
婚約者は悲鳴を上げて泣き、私は両親に怒られたという可愛い?オチまで付いてくる。虫籠まで手作りしたのにその日のうちに捨てることになっちゃったのよね。自信作だったのになあ。
虫害の被害の恐ろしい所は、1年の問題ではないところにある。発生した虫は冬を越すために、卵を生む。それが孵化する翌年に被害が激増する。そのくらいの知識はあるけれど…詳しく調べなきゃ分からないわね。
それでも本当にその虫が隣国から来たのかしら?
今年は偏西風の流れが強いって天気番の人が言ってたわね。農業は天候に左右されるから我が領では天候の一切を記録する天気番を置いている。彼らが毎日記録しているから後でデータを拝借するとして…
農作物の上にしばしば茶砂(砂漠の砂)が載ったという報告からも偏西風の影響は否定できないはず。
(想定以上に隣国の砂漠化の進行が早いの?)
色んなデータをかき集めるように頼んで、お父様に報告しなければ。
あと、何だろう?虫を殺すなら殺虫剤?安直かなあ。
♢♢♢
「いらっしゃい。」
「出迎えありがとう。」
馬から降りた婚約者にタオルを手渡す。汗をかいているのにむさ苦しく見えないのが不思議だわ。街道の整備が進んだからとはいえ、まだ林道も多い。
婚約者の領地からは広い街道を通るよりも、山を駆け抜けた方がかなり早く着く。だから彼は大きくなってからは単騎で馬でやって来ていた。
「今頃は忙しいだろう?大丈夫なのか?」
「まあ毎年のことだからね。」
今回は王立図書館から私では手の出せない資料を借りてきてくれた。殺虫剤の件で彼の家の名前を使わせてもらったお礼も兼ねて今日は呼んだのだ。
資料は荷馬車で後で届くようなので目録をマリウスに渡す。確認させてる間にガーデンテラスでお茶をすることにした。
ティーカップを傾けながら、不思議に感じる。"今まで"と変わらないのんびりとした空気が流れていたのだから。この"今まで"とは学園に入学する前のことを指す。間違ってもあの騒動が起こる前後のことではない。
あれ?
彼に感じていた狂おしいほどの熱情も、他の女性に目を向けたことへの嫉妬もかけらもない。なくなったのではなく、"元から存在しなかった"かのように思える。
彼だけではない。領地に戻ってから辺境伯令息への想いも落ち着いている。彼のことは確かに好きではあるが、恋愛かと聞かれれば首を傾げてしまいたくなる。そんなに早く冷めるのだろうか?
(やっぱり、変じゃない?)
長期休暇に入り、学園からも婚約者からも物理的に離れたから落ち着いたのかと思っていた。好きな人も出来て、恋から醒めたのかと安心もしていた。
領内のことで忙しくなり、頭からもすっぽり抜けていたから、婚約者への想いが薄れたのかと思っていたのだ。
しかし、どうやら違うように思えて仕方ない。
「私ってあなたのこと好きだった?」
「は?嫌いではなかった、だろ?」
「そうよね。恋愛的な意味では?」
「いや、あり得ないだろ。お前恋愛感情まず分かるのか?」
呆れた顔で失礼なことを断言されて、少し釈然としないけどそれはそうかも。
「私あなたのこと好きだったけど、それは確かに"恋愛感情"ではなかった。」
「お兄ちゃんか友人と言った感じだったな。」
「そうよね。」
「あなたのことが好きで、あなたに愛しい人ができて切なくて胸を焦がしていた。」
「それ、本当にお前か?別人じゃないの?」
さすがに彼の口にクッキーを放り投げて黙らせる。しかし、彼の言うことはあながち間違っていない。
なんで私はあんなに乙女だったの?
「私あの案件の時、あなたのこと恋愛的な意味で狂ってるんじゃないかと思えるくらい愛していたの。変じゃない?」
「その問いかけはどうかと、思うが。まあ変だな。でも、変だといえば俺も同じだ。」
お互い神妙な顔つきに変わる。冗談ではないんだ。
「俺さ、君への劣等感や嫉妬を拗らせていた時期あっただろう?」
「ああ。両親に構われて気に入られてずるいって怒りながらギャン泣きした時のことよね。」
「そうなんだが、もう少しいい方を考えてくれないか?」
「ごめんなさい。」
懐かしい。今ならのほほんと思い出せるけど。あそこまで負の感情をぶつけられたことは初めてだったからかなり衝撃的だった。
あの頃は侯爵家の重圧に押しつぶされていたから、私のことが大っ嫌いだったらしい。
「話し合いして、和解しただろう?」
「…ちょっと待って、あれを話し合いと言うには些か優し過ぎない?」
「激しい決闘ののちに和解しただろう?」
「……まあいいか。」
「今でも思い出すだけで恥ずかしいんだよ。流してくれ。」
「嫌よ。あそこまで泣きながら怒る人も初めてみたんだもの。」
「…………だろうな。」
「ふふふ。」
「でも、そうなんだよ。今更君に呆れはしてもそんな感情を抱くはずがない。」
「ちょっとリードさん?」
「もし、百歩譲って抱いたとしても、また話し合いや喧嘩でどうにかなるはずなのに。」
「おいこら。」
「言葉遣い。」
「はーい。でもそうねえ、あの時のあなた昔と同じ顔していたわね。」
あの時は余裕がなくて、そんなところまで見ていられなかったけど…今考えてみれば昔の恨みがましい仄暗い表情だった。なぜ今更? おかしくない?
まるで、感情を操作されているような?
「あなたが彼女に抱いていたのは確かに恋情じゃないのよね?」
「ああ。"あれ"を好きだと感じたことはない。」
「それにしてはいつも側に侍っていたけど。」
「"あれ"のそばにいると安心して。ただただ身を委ねていたかったんだ。次期侯爵としては安直だとしか思えないけど。」
「あなた心構えは一丁前だものね。その重荷を投げ捨てることはしないって知ってるわ。」
「そう、だからおかしい。」
それくらい分かる。次期侯爵という立場は簡単には背負えない。全ての重圧に逃げずに、優雅に笑ってみせる矜持を、私は確かに知っている。
物心ついてからの5.6年はそこまで短くはないのだから。
「魅了や毒の耐性は付いてるはずよね。」
「それは絶対だと言い切れる。筆頭侯爵家の次期後継者に生半可な教育をするはずがない。」
「私だってそこらの耐性は付けられたのだからそれ以上と考えていいのよね。」
「ああ。たかが子爵令嬢の魅了くらい屁ではないはずだった。」
「しかし。」
「そうなんだ。」
「話を聞く限り、魅了とは全く別物。それどころか服従と言った方がしっくりくる…」
「まさか。でも、」
「ええ。」
「そこまでとなると、」
「……禁術、よね。」
「それも国王くらいしか知らないはずだぞ。」
「…彼女はただの令嬢じゃ、なかった?」
顔を見合わせる。混乱の色を隠せていなかった。
いや、でも。そうなると。
(彼女は一体何者なの…?)