覆水盆に返らず
婚約者・リード視点になります。
俺には婚約者がいる。
アリシア・ベルナー。
2つほど年下なことも関係あるのか、天真爛漫で、全身で俺が大事だと伝えてくれる子だった。
目が合わなくなった。
よく話題が尽きないものだと感心していた口は、一文字に閉じられたままだ。
本当の感情が窺えないポーカーフェイスな笑み。貴族として当たり前なソレを彼女が身に付けていたのだと初めて知った。
それくらい全面に感情が出ていた子だったから。
口下手だと自覚はしている。
次期侯爵ということで両親や家庭教師は妥協を許しはしなかった。望む成果が出るまで食事は取れなかったし、眠ることさえできなかった。手を上げられることも少なくはない。相手を逐一観察し、顔色を伺い、口に出す言葉にも気を遣った。あの頃は同世代の知り合いはおらず、思ったことを話せなくなってしまっていた。
だから彼女との出会いは俺の価値観がひっくり返るものだった。
彼女は感情を前面に出し、失敗を恐れない。必要なら何度でも言葉という手段で渡り合おうとする。
あのひどく厳しい両親へ意見を述べる者を俺は初めて見た。
棄却されても諦めず、しっかりとした態度でやり遂げる彼女は俺にとって眩しくもあり、仄暗い感情が蠢く元凶でもあった。
今になって考えると両親は、口下手の俺を心配して正反対の婚約者を選んでくれたのだと分かる。苦手な分野を補いながら、俺の負担を少しでも減らそうとしてくれたのだろう。両親の確かな愛情だった。
褒め言葉もすんなり出てきやしないし、愛想もない。
なぜ彼女に好かれたのかはよくわかっていなかった。
俺は別に自分のことが好きではなかったのだから。ひたすら居心地が悪かった。
詰まるところ俺は彼女の愛を疑っていたのだ。
だから、付け込まれたのはそこだった。
好きだと伝えてくれる彼女には悪いが、そこまでの気持ちは持ち合わせていない。
でも確かに愛着は持っていた、はずだった。
"あれ"に夢中になっていたのはあんまりよく覚えていない。
喩えるなら母親の胎にいるような、木漏れ日射す昼間に微睡んでいるような、柔らかい綿で優しく包まれているような、そんな感じだった。周囲からの期待からもプレッシャーからも視線からも解放されてひどく呼吸がしやすくなった。何も考えずにいられて楽だった。だから、夢から覚まそうとするものには容赦がなかった。無責任だと分かっている。だが、そのままでいたかった。
口から流れるような美辞麗句が漏れていたことは"知っている"。柔らかい笑みを浮かべていたのも"分かる"。それが俺のコンプレックスだから。
この立場から抜け出したい。こんな自分が嫌だ。そんなマイナスな面に引き寄せられたのだ。魅了が効きやすかった彼らも俺と同じなはず。
彼女は何度か魅了中の"俺"に会いに来た。素気無く対応する"俺"に笑顔で食らいつく。鬱陶しいと感じていたし、同様のことを言っただろう。揺らぐ眼差し、引きつっていく笑顔、握り締める拳、どれもあの時の"俺"には関係のないことだった。登下校もいつしか面倒になり、迎えに行くことをやめた。何度か訪ねてきたらしいが、居留守を使った。
それでも、彼女の涙は見なかった。
幼い頃から泣き虫だったはずなのに。
この辺りの記憶は更に曖昧になる。それでも彼女は挨拶は欠かさなかった。廊下ですれ違う際、声を掛けられる。"俺"はその時、返事をしていただろうか。彼女はどのような表情をしていただろうか。
魅了が終わり、現実に戻った。
面と向かって責められることはなかった。
仕方なかったと諫められるだけ。
後味の悪さだけが残る。
彼女はもう自分から俺に近寄ろうとはしなかった。だから迎えに行った。話をしたかったから。
驚いた彼女は、相変わらずそそっかしかった。
呆けたままの彼女をそのまま馬車に乗せた。
ありし日を思い出す。
その淡い気持ちから醒めたのはすぐだった。我に返った彼女は居心地悪そうに身を竦めた。彷徨わせた後目を伏せる。
あまりの違いに呆然として何も話すことが出来なかった。
キラキラと輝いていた目は、影を落とし薄暗く映る。窓を覗き黄昏た横顔は、ひどく大人びて見えた。
自業自得だと考え直して、話しかけようと腹を括った頃には彼女は目を瞑ってこの時間をやり過ごそうとしていた。
言葉に詰まる。いつもだったら彼女は何か言いたいことを察して上手く聞き出してくれていた。ああ。彼女に甘えていたのだと今更ながら実感した。目を瞑る。
「リード!!!」
屈託のない満面の笑みで抱きついて来る彼女が過ぎる。
ただひたすら眩しかった。