暗雲が立ち込める
翌日の朝は馬が嘶く音で目が覚めた。人の気配が増えている。これは何かあったに違いない。この別邸には万が一に備えて敵に対して何らかの対抗手段を持つものしか置いていない。だから自分で用意していかなければならない。勿論女性でも戦えるものはいるし、女性ならではの特性を生かして男と十分にやりあえるものだって少なくはない。ただ、情報を探るために全て出払ってしまっているのだ。
昨日と同様シンプルなシャツワンピースに着替える。コルセットを装着するなら人手は借りなければならないが、こういうのは楽なのよね。可愛いし、何より苦しくない! ウエストの所でキュッとベルトを締めて完了だ。髪の毛はいつものような手の込んだものは時間ないから、ハーフアップでいいかしらね。 ワンピースと同色のイヤリングを付ける。しっかり保湿した後に、ベースは簡単に済ませる。ワンポイント色を付けて出来上がり。ナチュラルっぽいけどこの洋服にがっつりメイクは浮いてしまう。色恋にはそこまで興味はないけど、お洒落は好きだ。特に有事の時こそ、しっかりと仮面を作る。それが女子の戦闘服だから。
外に出たとき、走り回っていたマリウスと目が合う。彼は駆け寄ってくるが、その時感じた匂い。全身に視線を滑らせても傷らしきものは見当たらない。つまりそういうことだろう。昨日は嵐の前の静けさだったってことか。
「おはようございます、お嬢様。」
「おはよう。怪我はないわね?」
「おかげさまで。時にお嬢様、嫌な報告と特大で嫌な報告。どちらをお聞きになりたいですか?」
「いい報告を頂戴。」
「ありません。」
♢♢♢
この糞忙しい時期に国家予算会議なんか出てられるか、とは思うがそういうわけにはいかない。領地以外に興味はないけれど、伯爵として、領地の代表を務めるものとして国で生きていくためには仕方のない義務だ。
馬車から眺める領地は昔から好きだった。黄金色に染まる田は夕日が照らしてとても美しい。収穫時期に忙しなく動き回る人を遠めに見る。この辺りは今年も問題ないな。無事収穫の終えた畑に安堵する。数年前は豪雨で流されて悲惨だった地域だ。
自領を過ぎると、今度は侯爵の領地を走ることとなる。ここが平地では1番の近道だし、この我が紋の付いている馬車はノンストップで入領出来るのだ。この街道も敷くためには一波乱も二波乱もあったけれど。
どうにか侯爵を頷かせることができたのは、実は私ではなく娘の力が大きい。娘がこちらの想像を超えてあの由緒正しいお堅い、言い方を変えれば融通の利かない侯爵夫婦を懐柔したおかげである。まさか、ここまで望まれるとは思わなかったなあ。
あの縁談が差し向けられた当初、おそらく向こうの意思ではなく、王家から打診されたものであるということは容易に想像がついた。力関係から察するに強制されたものではなく、紹介されたから恩を売っておこうといったレベルだと思うが。あの家は今更必死になって他所の家と縁組する必要なんてないだろうからな。
隣に面しているとはいえ行き来するには山を越えなければいけないため、あまり交流はなかった。向こうは国家の重鎮、こちらはただの1伯爵家だし。私たちは領地を守れればそれでいいのだ。余計な火種を寄こしてくれるなよ。うちの領の何が狙いなんだ?
広大な領地か? 肥沃な土地から得られる食糧か? 交通手段である馬か? それとも、うちの隠密か。
我が領地は建国当初から1ヘクタールも欠けることなく、保持してきた。勿論、増えることもなかったが。歴史だけは無駄にあるが、中央に出ることも出世することも興味なかったご先祖様はいくらけなされようと流してきた。しかし侵略だけは許さず、徹底的に排除した。それから侵略をされる前に周囲を探ろうと今の影の雛型ができたのだ。
どの当主の時代も阿呆は湧くわけで侵略、略取、など色々仕掛けられたが全部防いで、倍返しにしていた。そのうち影はどんどん有能になり、今では実際に仕掛けられる前に潰すことができている。
あれを率いるには特殊な“訓練”が必要になる。領主は適性がなければ継ぐことはできない。そのため嫡男が後継ぎから外れることも、女領主が出ることも普通にあったのだ。この国は女が領地を継ぐことも認められている。
娘と息子が生まれて、子供は可愛い盛りだし、嬉しいことに2人とも体は丈夫だった。自分も健康だし、いざとなれば隠居した父を引っ張ってくればいい。妻とはもう一人くらい子供がいてもいいねと話しているし、平和そのものだった。
少しずつ訓練していけばいいと暢気に考えていた頃、娘が誘拐された。妻も使用人も生まれたばかりの息子に気を取られており、庭で一人遊んでいたところをいきなり攫われたのだ。すぐさま全隠密を動かし、訓練中の私兵も使った。幸い娘は特に危害を加えられることもなく、取り返すことができた。
しかし何らかのショックから彼女は訓練で育まれる“音”が聞こえるようになっていた。それが発覚した時の衝撃は今でも忘れられない。当時彼女は片手にも満たない年だった。
早くて10くらいからある種のショック療法を用いて適性を見出す。この時点でやはり心が折れる者も出てくる。性格によっては学園の入学近くになって、訓練を始める者もいたくらいだ。あれは出来ることなら受けたくはないし、受けさせたくはない。もう2度とごめんだと私は思っている。
神経をとがらせて彼女を見守ったがこちらの予想に反して、その後はすくすく成長していった。逆にこちらが手を焼くくらいパワフルに。その時の安堵と嬉しさは言葉でも表しきれない。妻と腐れ縁のやつらと祝杯を毎晩あげていた。
弟のチャーリーの方は、そんな事態が起こらないよう警備の穴を念入りに塞いだ。適性を持ったアリシアにはきちんとした後継者教育を施す。チャーリーはどうしようかと検討していた時に、侯爵家の縁談が転がり込んできた。
断る一択だったそれは、アリシアの言葉で保留になった。そして、念のため施したチャーリーへの訓練で彼も適性を持つと出たとき、どちらが後継者になってもいいように、彼にも後継者教育を始めた。後継者の問題は解決し、縁談をどうするかと本腰を入れて考え始めた頃には既に彼女が侯爵夫妻を籠絡していたのだ。
やはり、アリシアのほうが領主に向いている。失礼な言い方になるが侯爵夫人で収まる器量ではないのだ。リーダーとして奮闘する方が合っているのではないか、そう考えるのも無理はなかった。
まあ身内の欲目かもしれないがね。
リードに関しても問題はないと判断している。少し気弱で相手を窺う面はあれど、仕事に関しては心配ない。苦手なところは娘が補えるし、逆に発揮できる場があった方が娘のためにもなるだろう。
あの1件で揺らいだ信頼も、婚約を撤回するほどではない。明らかにおかしい娘の様子ときな臭い王家の動きのほうがよっぽど問題だった。
学園の伝手で辺境伯に伺いを立てたのは娘のため2割、有事の際の提携8割だった。うまく顔見せはできたからこの縁が結ばれようと結ばれまいと正直どちらでもよかった。あちらの息子も調べによれば問題ない。女関係を当たっても特に失敗もないようだったしな。
事件が王家により急速に収束した時は、目立った行動を取りたくなくて娘に決断させた。それも別に彼女の意志を無視したというよりは、彼女がそれだけで諦めるわけがないという思い込みがあったからだった。私の“知っている”娘はそれくらい行動力があった。だから眉を下げながら頷くとは…正直こっちが逆に肩透かしを食らった気分だよ。それで学園にも影を派遣することに決めたわけだ。
学園で何らかの術の痕跡を見つけたはいいが、こんがらがっていてよく分からなかった。調査で判明したのは使われた術が1種類ではないということ。術者も複数だということ。貴族では閲覧不可の区画にあり、王族でぎりぎり閲覧できるレベルの禁術だということだった。それ以上調べる余地がない。そして、領の仕事も忙しくなり、この会議の招集の日を迎えてしまったのだ。
王宮で自分の部屋に通された時、王宮内がいつもより空気が騒がしい気がした。自分の直感は信頼している。特殊な訓練を積むと第六感がかなり鋭くなるのだ。視線をしきりに漂わせて、耳をそばだてる。しかし、集中してもよく分からなかった。出歩くのはよくないと直感し、大人しく部屋に入る。とりあえずは会食を待つしかないと判断した。
その日の会食でも何かが起きていることは分かったが、それ以上のことは掴めなかった。領地を離れるから、王宮に派遣していた影を領地に戻したのが悔やまれるな。連れている従者たちも影ではあるが、王宮に申請してしまった以上裏に送るわけにはいかない。少し残しておけばよかった。
翌朝は会議前なので、王宮での仕事はない。1日で部外秘ではない書類を仕上げ終わると、やることもなくなってしまう。会議の資料を読んで、詰めるところは詰めるけどそれでも暇は持てあます。王宮から出て王都を散策することにした。
やはり、どうにも騒がしい。隠密が周囲を行ったり来たりしている。誰かを探しているようだ。その中でウェステリア訛りの声が微かに聞こえた。嫌な予感が離れてはくれない。
とりあえず気を取り直して妻と娘と息子のお土産を買う。まあ女勢は喜ぶお菓子だけど、息子が喜ぶかはわからない。でもあいつはファミコンの類だから2人が幸せそうに食べていればそれだけで満足だろう。我ながら安上がりの息子だ。使用人には手軽に食べられる焼き菓子にしようか。少し気分を持ち直した。
そこでうちの者とすれ違う。女装をしているが、見抜けないなんてことはない。それは惣領失格だ。“彼女”は青年と共に無地の馬車に乗り込んだ。間違いなく、何かに巻き込まれたな。“彼女”から「後で」と送られた信号にため息を隠せなかった。厄介ごとはどうにも素通りはしてくれないらしい。
あの青年、化粧を施され髪色を変えて印象を随分変化させているが、体の輪郭からすると辺境伯令息ではなかろうか? そうすると関わっているのは娘の方だな。
お土産を持つ手が急に重く感じ始めた。
その夜忍び込んだ姿に深い息を吐きだす。暗い部屋に声だけが響く。
「あの子は一体何に巻きまれたんだ?」
「王宮内を探っていて深入りしすぎて消されそうになった辺境伯令息レオナルド様を別邸に匿っておいでです。」
想定内の内容にまだ安心する。
「追われていた彼を最初に救助したのはリード坊ちゃんの方ですが。」
「は?」
「お嬢様の呆気にとられた顔を見て放っておけなくなったようですよ?」
「あの子はすでに冷めているだろう?」
「ええ。でも思春期の男には見過ごせないところでもあったんではないですか?」
「なるほど。…若いっていいな。」
「そのレオナルド様が。」
「いや、ここでその名前は連呼しないほうがいいだろう。」
「ナル坊が。」
「お前の渾名は本当に独特だよな。」
「マリウスと同じこと言わないでください。」
「悪い、さすが兄弟だと。」
「あの悪ガキと似てると言われても。まあいいです。ナル坊は。」
くすくす笑うと視線で黙らされる。本当に上司だと思われていない。そんなところが気に入っているのだが。
「結構深く探っていたようで、宰相が他国と内通しているところまで掴んでおります。」
「っ!それは…なかなか見誤っていたようだな。」
「まあ、そこを見つかってしまうようではまだまだですが。」
「手厳しいな。…バレているのか?」
「いいえ。しかし、王宮内のほとんどの隠密が動いていることを鑑みれば時間の問題か、と。」
「そうか。」
「おそらく次は宰相家に出向くだろうな。」
「ドリー坊もいることですしね。」
「内通の証拠は手に入れられていたか?」
「いいえ。どこと内通しているのかは掴めておりますが、状況証拠だけでは弱いかと。」
「やはり忍び込ませるほかないな。」
「それでも証拠としては不十分では?」
「使いようはある。それにあのでくの坊なら本物でなくともハッタリが効く。」
「まあそうでしょうね。」
彼女たちが来るとして、流れを詰めておかなければ。通信機は、
その瞬間、手を抑えられる。
「通信機はおそらく傍受されています。我々を使うか、アナログな方法を使うべきかと。」
「ああ…あの面倒な有事の権限か。あの子たちにも。」
「いえ、お嬢様の勘で通信機器は一切使用しておりません」
「本当に…末恐ろしいな。誰に似たんだか。」
「悪い顔されておりますよ。旦那様。」
そこで2人とも静止する。窓の外の気配に集中すると、これは。
「噂をすればってやつか。」
頷く彼にアイコンタクトを送る。一瞬で姿が消えた。
カーテンを開く。縁談で交流を深めた姿に一瞬だけ眉を顰めたが、気付かれるほどではない。切羽詰まった彼の言葉をあらかた聞くと彼はすぐさま去っていった。巻き込まれるのは娘だけでは終われないらしい。やれやれ。明日の会議は荒れるだろうな。
書類に目を通すがどうも集中できない。仕方ない。明日に備えて早く休むことにした。
荒れるとは考えていたが、これはどうにも予想外だ。
こちらに視線が来る。侯爵の目を見つめながら思考は滑らかに巡っていた。
俺の付き人として来ていた影にはすぐさま領地に戻ってもらった。おそらく次は彼らの息子の捕縛命令が来る。あの2領の機能を止めてしまえば…。ここまで容易にたどり着くだろう。そして次は我が身だ。