寝耳に水
追手を撒き、侯爵令息と伯爵令嬢として宝石店やブティックを敢えて物色し、家に帰った。要はアリバイ作りだ。その後、軽装に着替えて領の端にある別邸に向かった。馬に乗って。
その間、会話といった会話はない。
怪我の確認を終えた。あれだけの敵に囲まれていくつかの打撲痕と擦り傷だけとは。本当に化け物かよ。口が悪くなるのも許してほしい。いくら強いことは知っていても心配になるのに。まあ? あの時私がいたところで何ができたか問われれば何もできなかったかもしれないけれど。報連相は基本じゃない。
「どうする?」
「何が?」
「…怒ってるのか?」
は? この期に及んでそんなこと聞くわけ、この男。罵りたくはなったが、そんなことに使っている時間はない。それでも冷静に返事を返すのは癪で無視をした。
「影が手を出せないなら…俺が行くしかなかっただろう。」
ぽつりとつぶやいた言葉はいつもより無機質な気がした。違和感を抱き、無視していたことも忘れて彼の顔を覗き込む。不貞腐れた表情に首を傾げた。何その顔。私に見られてばつが悪そうな反応を返される。うん?
「お前の大切なやつなんだろう?」
「…へ? やっぱ知ってたの?」
隠したつもりはない。が、こんな顔されるのもちょっと気まずい。昔の話と返すべきか。肯定するべきか。否定するべきか。悩んだ私に苦笑した。
「言葉はいらない。元は俺が原因だしな。」
そういえばしっかり冷静になってこの話に向き合うのはなんだかんだ言って初めてかもしれない。前回はマリア様の異質さに触れただけだったし。
「…あんまり心配させないで。」
「悪かった。けど、よくわかったな。」
「音と路地裏の構造的に絞り込んだの。」
「さすが。…助かったよ。あの回し蹴りの威力は相変わらずだな。」
「あなたの剣の訓練に参加するために、頑張ったからね。」
「頑張る方向性が、斜め上なんだよなあ。」
呆れたように笑うその顔は嫌いではなかった。親しいものにしか見せない柔らかな表情。こんな風に笑えるようになったのはいつ頃だっただろう? 少し遠き記憶に思いを馳せようとして、止まった。真面目モードに突入するらしい。彼は、から始まる言葉に少し憂鬱になった。
「おそらく今回の騒動を調べていたんだと思う。」
「今回の、ということはマリア様の一件?」
「ああ、どうにもきな臭い動きがあるのは知っているだろう。」
「ええ。探っていたのね。王家を。」
「多分どこまで探っていたのかはわからないけど、藪蛇だろうな。…それに、俺のところにも内偵らしきものが来た。」
「え…?」
“それにおそらくこの婚約自体も疑問に思っているのだろう。”
そう言われて息を呑んだ。考えたことがないわけではない。
なぜ王家の信頼も厚い侯爵家から広い領地を持つとはいえそこまで利益の少ない伯爵家へ婚約打診の話が来たのか。お父様も最初は困惑していた。
私が乗り気じゃなかったら彼に会うこともなくお断りを入れていただろう。上の家からの話を断れるのはうちがそれだけ周辺領にも王家にも依存してないからだ。何も関わり合いがない。
だから断ったとしても、それによりたとえ圧力をかけられても困らない。うちにとってもかの家にとってもこの婚約はメリットもなければデメリットもない。
まあ安泰の侯爵家からすれば必死に縁組したい家がないから、貴族間の火種を作るよりも、毒にも薬にもならない家の娘を娶ろうとしたのかもしれないけど。
釈然とはしない。現侯爵はやり手だと知っている。お茶会に参加することはあれど、まだ夜会デビューもしていない小娘に注目するとは思えないのだった。
私は新しいお友達ができる! わーい!! くらいしか考えていなかった。あの当時のリードに会って喜怒哀楽のない平坦な子供に衝撃を受けなければ、きっとこの縁は繋がらなかった。私たちが…
「アリシアには感謝している。」
「ど、どうしたのいきなり…?」
真面目くさった顔で感謝の意を示されて、困惑する。
「本当のことだ。ずっと思ってきた。君がいなければ今の僕はいない。」
「そう言われて悪い気はしないけど。…本当にどうしたの? 悪いものでも食べた?」
ふわりと笑った。落ち着かない気持ちがこみあげてくる。なんだろう。この感覚。嫌な感じがする。
「だから、もし君が、彼のことを好ましく思っているなら僕は身を引いてもかまわない。」
(は?)
「ちょ、ちょっと待って。婚約は家同士の契約でしょ。私たちが決められることじゃ。」
「わかってる。」
「わかってないわ!!」
「…最近思い出すんだ。アレの術に掛かっていた時の、君の顔を。」
(私の顔…?)
遠い目をしている。あの時の私に思いを馳せているのだろう。それでも。そんなこと言われても…どんな顔をしているかわからない。今も当時も。
「君が大切だ。この言葉に嘘はない。」
「だから待ってって言ってるでしょう??」
混乱する私に言葉を続ける婚約者に苛立つ。彼が何を言いたいのかよくわからなかった。小さい頃はツーカーだったのに。彼が何を考えているか聞かなくてもわかっていたのに今の彼は全く分からない。声を荒げようとして、影から伝達が来た。我に返る。(そうか。)
「アリシア」
「彼は夜更けに着くわ。ちょっと休戦しましょう。疲れたわ。」
彼の顔を見ることもなく踵を返す。侍女に彼の部屋の案内を頼んで出て行った。
今更、じゃない? これがあの事件の直後だったら嬉しかったかもしれない。恋に嘆き恋に浮かれていたあの時の私なら喜んでレオ様のところに駆け込んだかもしれない。でも、お断りしたのは私だ。断りの連絡を入れてから数か月は経っている。いくら当時両思いだったと仮定しても気持ちは移ろうものだ。
ああ、わからない。いつもそうだ。恋愛小説を読んでも、友人の恋バナを聞いても理解ができない。だから、政略結婚でよかった。先ほどの苦しそうな顔の意味が分からない。
人間に失敗は付き物だ。問題は失敗をどう繰り返さないようにするか。こちらが被害者であることを利用して周囲を味方につけてしまえばいい。相手の罪悪感を利用して自分の居場所を確かなものにしてしまえばいい。“万が一”のことを考えて弁護士を通して念書でも書かせて、置けばいい。そのほうが楽なのだ。
同じようなことを起こしたら、親権も財産も手に入れて即座に離婚が成立するように手を回せばいいのに。我が国の民法では不可能ではない。
本心から信じることは難しいけど、“信じている”と見せかけることはそれほど難しくはないだろうに。まだ見たこともない土地で、一から人間関係を築き上げていくよりも労力が少ない。
そう考えてしまうから、いけないのだろう。ロマンのかけらもない。
でも、ロマンでは生きていけないのだ。
学園の時の胸の高鳴りを思い出す。今振り返ると不思議でしょうがない。なぜあんなに刹那的に生きられるのか。貴族の子女として政略結婚は当たり前だった。家のため、領民のため、国のため。女は嫁ぐことになる。それが常識であり、生き方だ。疑問に思ったことはないし、悲観したこともない。それは私が婚約者に恵まれていたおかげかもしれないけれど。
しかし、あの学園では違った。異性の多さに影響されたのか、ほかの考えに感化されるのか、それとも“何らかの力”が働いているのか。もし力が働いていたとしたらその狙いは何なのか。
頭を振る。
レオ様がくればおそらく、頭をフル回転させなければならなくなる。今のうちに休ませておかなければ。ベッドに横になる。着替えてもいないからお行儀が悪いがそんなこと言ってられない。疲れていた。
風が窓をたたく音がする。酷く騒がしい。まるで私の憂鬱を増幅させるかのようだった。
最後までやっと細かく決まりましたので、後は駆け抜けるだけになりそうです。
本日から社会人になりました。同時並行できるように頑張ります。