後編
従兄と二人、緩やかな坂を下っていた。久しぶりに通る、小学生時代の通学路だった。友だちと一緒に自転車で駆け下りた憶えが何度もある。道の左右には見た憶えのない、全く同じ造りの建物が並んでいた。塗装を見るに建って間もない住宅なのだろうが。赤レンガ色の屋根に、同じく赤レンガ色の外壁。
これは、ちょっと素人から見ても──。
「だっさ。これ共営住宅ってヤツだろ? 移住生活が流行ってるからそれに便乗したいんだろうけど、だからってこれはナイわ」
これじゃあ出てった若いのも帰ってこないってと、従兄は知ったような口を叩く。
概ね同意だった。あと、多分公営住宅だと思うというツッコミは控えた。もしかしたら、僕が無知なだけでそういう住宅があるのかもしれない。
「訊きたいんだけどさ」
「おう、どうした?」
「僕、どこに連れて行かれようとしてるの?」
従兄は足を止めて、こいつ信じらんねえと言わんばかりの顔で僕を見た。
「あのなぁ。×××は俺に連れて行かれてるんじゃなくて、勝手について来てんだよ。ただの散歩に決まった行き先なんてあるか」
そう言って、また前を向いて歩き始める。確かに、思い返してみるとそうだった気がする。久しぶり、大きくなったねえ、私のこと憶えてる──と名前も続柄もわからない親戚たちからひたすら言われ続ける儀式に嫌気が差して、従兄と一緒に家を抜け出して来たのだった。
住宅地を抜けて、海沿いの道路を渡って、岩場まで下りる。足元が悪い場所を歩くのは、久しぶりだった。冷静になって記憶を遡れば、案外そんなことはないかもしれない。ただ、何というか、足の裏の感触に注意を向けることが久々だった。普段死んだようにひっそりとしている脳の部位に、ピリピリと電流が走るような感覚だった。足許には、石が敷き詰められている。
「石浜?」
「は? 何だって?」
「砂ばっかりなら砂浜じゃん? こういうところって何て呼ぶんだろって思って。石ばっかりだから石浜?」
従兄は苦笑しながら首を捻ると、
「──地磯じゃね?」
と言って、その場に屈んだ。何やら足元に転がる石を注視している。
「物知りだね」
「ほら。俺、釣りするから」
──釣り用語なのか。
従兄は石を一つ拾うと、軽く掲げて僕に見せた。綺麗に丸みを帯びた石だった。
「これが碁石になるんだってよ。知ってたか?」
僕は一八〇度地磯に視線を巡らせて、
「──これ全部?」
と尋ねた。
従兄は、ややのけ反りながら小刻みに頭を振った。
「いや、全部はならねーって。原石だって全部宝石にはならねーだろ。なれるのは優秀なヤツだけだって。多分だけど」
そう言って、従兄は持っていた石を放った。彼の手の中にあったとき、他より確かに小奇麗に見えたその石は、地面に落下すると途端に他の石と区別がつかなくなった。
「でも、優秀だからってなりたいもんかな」
「何だ? 碁石の続き?」
「そう。別に碁石になって人に使われることが石の幸せってわけじゃなくない? いや、自分で言ってて何だよ石の幸せってとか思うけどさ。原石だって似たようなもんじゃない? 宝石になって人の首やら指やら飾ったりすることがそんな幸せかってなったら、うーんって思わない?」
僕は、その場に片膝をついた。明後日の方向を見ながら、クジでも選ぶような気楽さで、一つ手に取ってみる。確認して、ぎょっとした。僕の記憶が確かなら、パワーストーンの店で似ているものを見かけたことがある。
艶やかで縞模様の入った褐色の石。これはメノウというヤツじゃないのか。
「どうしたお前。哲学じゃん」
従兄は、僕がそれを拾ったことに気付いていないようだった。哲学かなあと首を傾げながら、僕はそれを陽の光で透かして見て、際立つ流れるような模様にこれは他のやつと違うぞ確信して。ねえ──と従兄を呼ぼうとしたところで、口を噤んだ。メノウらしき石を手の中に握り込んだ。
「どーした?」
屈んだままの従兄が、肩越しに僕を見て尋ねる。
「いや、何でさ」
「おう」
「奴借家町から出ようって思ったのかなって」
従兄は露骨に怪訝な顔をした。当り前だ。だって、主語が足りていない。でも、この場合は咄嗟にわからなかったのだ。ふさわしい主語が。誰の名前を当てはめるべきなのか。
従兄は後頭部を掻きながら、
「あー、俺の話?」
と勝手に解釈してくれたようだった。
「そりゃ大学ないし。大学行かなかったところで仕事もねえし。×××はどーなん? 出たいって思ったことねーの?」
「僕は──ないかな。今のところ」
そう言って、僕はそっと持っていた石を地面に戻した。
生徒会室に居残り、故意にたらたらと議事録を打っている。桐宇治さんや植木先輩と疎遠になってから、何となく放課後を持て余している。集中すればきっかり一時間で終わるだろう作業を故意にたらたらと進めているのではそのためだ。
心の中で、大きな溜息をつく。議事録の作成に嫌気が差したわけじゃない。情報のやりとりから要点だけを拾ってまとめるこの作業は、むしろ好きな方だ。やりがいだって感じている。そういう意味では、こういう機会を与えてくれた植木先輩に、僕は感謝しなければならないだろう。
ただ、何というか。自分を騙そうとしていることに気付いてしまったので。
これは──きっと錯覚だ。
桐宇治さんと植木先輩は別にして、少なくとも僕ら三人の間柄はそこまで深いものではなかった。三人で一緒に帰った日だって、流石に具体的な日数を憶えてはいないけれど、多分僕の全身の指を使えばカウントするに事足りる。休日にわざわざ約束して、顔を合わせるだなんてマネもしたことがなかった。だから、あの二人と距離を置くようになってどうも最近ヒマだというのは、錯覚に過ぎない。つまるところ、これは僕のメンタル面に問題があるのであって。
噫、この感覚。
これに何という名前をつけたらいいのか、その答えに今行き着いてしまった。
これはまさしく〝胸にぽっかり穴が開いた〟ような──。
「何かお困りごとですか?」
思いのほか近い位置から、降ってきた副会長の声に我に返る。振り向けば、形の良い眉を幽かにひそめた副会長が、笑って良いものやら悪いやら、どうにも困った表情を浮かべて、僕の向かっているノートパソコンのディスプレイを指差した。
──硬派な議事録の中に突如現れる〝胸にぽっかり穴が開いた〟というポエティックな一文。
一文字一文字を丁寧に削除してから、僕は再び副会長の方を向いて、
「悩みごとはありません」
と言い切った。
そうですかという素っ気ない返事とは裏腹に、僕の傍へとパイプ椅子を運んで来て、腰を落ち着ける副会長。ええ、座ってしまうのか。
「私で良ければ相談に乗りますよ」
そう言って、副会長は十人中十人が微笑み返してしまいそうな、ある意味で生徒会の次期トップに相応しい、ヨソ行きレベルマックスのスマイルを見せてくれる。恐ろしいかな、語尾に疑問符は付属していなかった。
藤堂雅先輩。次期生徒会長と呼び声高い、絵に描いたような優等生。先輩はおろか同輩や後輩にも敬語を欠かさない、どこに出しても恥ずかしくない大和撫子。誰が呼んだか、美女を形容する言葉として有名な〝立てば芍薬〟の擬人化。僕だって、こんな見目の子どもが産まれたらそりゃあ「雅」とも名付けたくなる。──流石に、この喩えは気持ち悪かったな。素直に反省しよう。
さて、こうなっては逃れられまい。ひとまず当たり障りのない、ふわっとした悩みを投げかけて、それで納得してもらおう。
そう、当たり障りのない、どうとでもとれる悩みごと。
──付き合っていたい。
「藤堂先輩は、どういうときにこの人のこと好きだなぁって思いますか」
言いながら、何故か僕はノートパソコンを閉じてしまった。否、普通に開けたままで良かったろ。どうしてこう軽率に〝これから大事な話をするので真面目に聴いてくださいね〟的な空気を作ってしまうんだ。僕は。けど、字面だけならギリギリ単なる人間関係の悩み──ととれなくもないか。所謂恋バナとして受け取られさえしなければ、ワンチャン逃れようはある。
副会長は一瞬きょとんとしたあとで、少し照れたふうな笑みを零した。
「経験値不足の私が、こんなことを言うのもお恥ずかしいのですが──」
駄目だ。ガッツリ色恋の悩みだと解釈されてしまった。
「──少なくとも僕よりか多くを知っていると思います」
何だか知ったふうなことを言って、申し訳ない程度に話しやすい空気を作ってみる。
「思うに、相手のことを知りたいと感じたときではないでしょうか」
「ほう」
そう口走って、あっこのレスポンス口癖なんだという事実に気付く。ただし、桐宇治さんと違って目の前の芍薬は破顔したりしない。否、内心バカウケかもしれないけども。
「例えば相手が友だちなら、表情や声の変化から、あっこの先は踏み込んでほしくないんだなと察したとき、ブレーキがかかるじゃないですか。でも、好きだと思った相手にはそれが──ないときがある。ここから先は踏み込んでほしくない。お互いのためにならない。そう、訴えかけてきてくれているのに、知りたいという気持ちがときに勝ってしまう。理性のブレーキが効かなくなるんです」
「──成程」
字面だけだとどうにも信用に欠けるが、それは無難な相槌などではなかった。
心の底から、腑に落ちたことを意味する「成程」だった。
僕は、口元に拳を当てて考える。僕の桐宇治静さんに対する想いについて。
これまで理性のブレーキが効かなくなるほどに、彼女について知りたいと思ったことがあっただろうか。確かに僕は今となってなお、あの日の"正解"を。元々あり得たかどうかも解らない適切な選択肢を今なお探して、物思いに耽ることがあるけれど。これが、そうなのだろうか。副会長の言う好きの枠組みにこれは、当てはまっているのだろうか。
「自論です」
ぴしゃりとそう言われて、僕は口元から拳を離す。
目線を上げると、心配そうな瞳でこちらを見つめる副会長がいた。
「今のは、私の自論ですから。無理にご自身の気持ちを当てはめようとはしないでくださいね」
返す言葉も見つからぬまま、僕は頷く他ない。
真摯に答えてくれてありがたい反面、どこまでも見透かされていて、少し怖くなった。
だからだろうか、身勝手ながらこの話題を打ち切りたくなってしまったのは。
「ありがとうございます。その、すごく為になりました」
頭を下げて、副会長から視線を切って、ノートパソコンを開いた。議事録の中に他にもポエティックな異物が混入していないかを探して──。
「平野君」
別段強い語気ではなかった。まして副会長は僕の視界に無理矢理入ってきたわけでもない。それでも、その一言は僕を振り向かせるだけの力があった。まさしく力ある言霊だった。
「これから言うことは、実に余計なお世話です。私もそれは承知の上です」
「──はい」
副会長は居住まいを正した(そうする前から十二分に背筋は凛と伸びていた)。一方で、瞳は若干揺れていた。何かをためらっているように見えた。
「平野君は、植木先輩と桐宇治静さんの関係についてどこまでご存知ですか?」
それは──。
それは、僕が貴女に訊きたいくらいだ。
どうして二人のことを知ってるんです──そう、訊きそうになって、慌てて口を噤む。植木先輩と副会長は学年こそ違えど、生徒会役員として僕より長い時間を一緒に過ごした仲だ。方向性こそ別だが、カリスマ性のある者同士共感する部分も少なからずあっただろう。そう、冷静になって考えてみれば、人望の厚い植木先輩の〝善き相談相手〟が僕だけであるはずがないのだ。
僕たち三人の関係は、僕たち三人しか知り得ない。
それは──酷い思い上がりだった。
「上手く──いってないんです?」
口にして、当たり前だろと思う。でなきゃ、こんな訊き方はしてこない。これで上手くいってるんだというなら、それこそ悪趣味だ。
副会長が、目を伏せた。黒髪を耳にかけた。貝殻細工みたいな耳が露わになって、言わずもがなそこにピアスの痕はなかった。そして、私から言えることがあるとすれば──とどこか苦し気な声で、前置きした。
「植木先輩は、多分平野君が思っている以上に人気者だということです」
人気者である先輩の好意をぽっと出の一年が攫ってしまったら何が起こるのか。
周囲は、先輩の取り巻きはどう思うのか。
全ては──副会長の態度が物語っている気がした。
あの日と同じ鈍いオレンジ色の中、桐宇治さんの少し前を歩いている。前後が入れ替わることはあっても、肩を並べることは決してない。男性は女性に比べて、見分けられる色の種類が少ないという。実際、この夕焼けの色はあの日のそれとは違うのだろう。けれど、夕陽に染まった空も海も、僕には全くあの日と同じものにしか見えなかった。
全く、あの日と同じ。
──ループすると、すんごい落ち着く。
ブレザーのポケットに隠した拳をぎゅうと握りしめる。
漣が聞こえる。桐宇治さんの携帯から流れていたものとは違う、途中でループしていない、正真正銘の自然音。けれど、どこか遠くて、何だか耳鳴りみたいだった。いや、どこかも何も事実物理的に離れているのだから、それは当り前のことなのだけれど。
何故だか──腑に落ちない自分がいた。
まるで、駄々をこねている子どもみたいだ。
右手には海が広がっている。海面と空の境界には、山肌のむき出しになった島が横たわっている。何であんなことするんだろうねと、桐宇治さんが呟いた。視線の先から島のことを言っているのだとわかった。
「石を採取してるんですよ。一応この町の主要産業らしいですよ」
桐宇治さんは、ふぅんと聞いているともいないともとれる返事をする。
「何かさ。ああいう所にいるとさ。性格悪くなりそうじゃない?」
それは──。
「流石に偏見が過ぎるんじゃないかと」
違う違うと言って、桐宇治さんは顔の前で素早く手を振った。
「よくさ、洋画なんかであるでしょ。悪いヤツらが、悪そうな街で、悪そうなカッコで悪そうな葉っぱ吹かしてヨーメーンみたいな」
──やっぱり偏見が過ぎるんじゃないか?
あと、悪そうな葉っぱって何だ。まるで世間に良さそうな葉っぱがあるみたいじゃ──いや、あるな。それも溢れんばかりに。
「私ね、場所が人の性格を悪くすると思うんだ。海が近くて自然豊かなところに住んでたら、そこまで性格歪まないって思わない?」
ああ、だとするとさっきのは。
あんな空気の悪そうな場所にいたら──と言いたかったのか。
「言われてみるとそうですね」
別段安易にした同意ではなかった。僕だってスラム街の住民になったとしたら、自販機のゴミ箱に家庭ゴミを突っ込むくらいの悪事は働きそうなものだ。
しかし──。
僕は、辺りを見渡す。自然が豊かで、海が近い。けれど、美しいと思ったことはあまりなかった。修学旅行で行った、某有名観光地の美術館の方が余程美しいと思った。
その辺りは都会に幻想を抱く田舎者の性分なのか。これは滅多に見られないぞという希少性が、より良く見せただけなのかもしれない。
「だからさ」
桐宇治さんはちょっと言い淀んで、続ける。
「いけないのは場所の雰囲気っていうか、空気っていうか」
ああ、自分で言うのも何だけれど。
「誰かが悪いってワケじゃないっていうか」
こういうときの僕は、察しがいい。言いたいことがわかってしまう。相手の気持ちを本当に知りたい場面では、どうしようもなく鈍いくせに。
あの人は好きで変わったんじゃない。遠い街の悪い空気が、きっと植木先輩を。
そんな。それは、あまりにも──。
「ごめん。何言いたいんだろう。こんがらがっちゃった」
「いいんですよ。気にしなくて」
桐宇治さんはごめんと言って、誤魔化すように笑った。ちっとも誤魔化し切れてはいなかった。彼女の中を言葉でまとめ切れない何かが、駆けずり回っているのがわかった。当てどなく、身体をあちこちにぶつけながら。傷付きながら。
桐宇治さんは、どうせすぐに途切れる短い縁石の上を、ヤジロベエみたいな格好で歩く。下りては上り、下りては上りを繰り返して進む。
そんな彼女の足を飾るのは、良く言えば流行に左右されないデザインのスニーカー。去年の夏頃まで、桐宇治さんは学校指定のローファーを履いて登下校をしていた。それが、ある日突然スニーカーに替わった。靴替えしたんですねという僕の何気ない感想に、彼女は靴擦れ酷くってさーと苦笑混じりに言った。
そのときは僕も偶々似たような理由で転向した身だったので、わかりますよと特に違和感を抱くことはなかったのだが──。
その数日後、小耳に挟んだ噂は今も僕の脳裏を離れていない(学校の中庭にさ、ぱっと見沼にしか見えない噴水あるじゃん。あそこに女物のローファーが浮いてた。拾ったって? 拾うワケないだろ。だって関わり合いたくねーじゃん)。
植木先輩が卒業して以降、心なしか彼女の言動は幼くなった。もっとも、大抵は先輩と三人一緒だったので、僕と二人でいるときは、元よりこうだったかもしれない。
僕は、海に目を向けた。
鼻をかすめるこのにおいは、きっと磯のにおいだ。
昭和初期生まれの祖父が、子どもの頃はこの砂浜が沖まであったと教えてくれた。砂浜は年々後退しているという。だったら、今僕が歩いている歩道も、振り向けば見える住宅地や古い町並み、さらにはあのナンセンスな赤茶色い建築物さえも。
いつかは波に飲まれるのだろうか。海の底へと沈むのだろうか。
「──」
名前を呼ぶ声がして、酷く驚く。
タイミングに驚いたというより、正真正銘実名を呼ばれたことに、キヨモリではなかったことに絶句した。すぐさま身体ごと振り返って、さらに目を疑う。歩道と砂浜の境界線となる、僕の腰より僅かに高い石塀。その上にいつの間にか桐宇治さんが座っていて、さらには立ち上がろうとしていた。
「危ないですよ」
声が、幽かに震えているのがわかった。
危ないよと桐宇治さんは同意した。
どういうわけか、薄い笑みまで口元に湛えて。
石塀の向こうに広がる砂浜と今僕が立っている歩道の高さは、そう変わらない。だから、危ないと言えば危ないのだけれど、正直声を失うほどではない。
その上にいるのが、桐宇治さんでなければ。
手を後ろに組んで立つ桐宇治さんは、ひどく危うげに見える。
心臓がうるさいぐらいに鳴っている。漣はいよいよ聞こえなくなってしまった。噫、砂浜は侵食されて、海岸線が迫っているのではなかったのか。
桐宇治さんが胸を反らした。白い喉が露わになって。彼女の身体が、後ろへ、砂浜が、海が広がる方へ。傾いたように、見えた。
──しずかさん。
海風が吹いた。チョコレートみたいな色の髪が揺れて。
見えた、白い耳たぶには(ここでこの表現は正直どうかしている。だって、僕は今日この瞬間に至るまで何度もそれを見る機会があった。彼女のピアス穴がどうなっているのかをわかっていた。それなのに──この瞬間は、どうにも眼に焼き付いた)。
知らず、桐宇治さんの手を引っ張っていた。これほどまでに遠慮なく誰かの手を掴んで、引き寄せたことはなかった。細い身体を受け止めて、薄い両肩に手を置いて、大丈夫ですか──という一言さえ発する余裕はなかった。とりあえず、共倒れになった末、二人とも怪我をするという最悪の事態は免れた。そのことに、安堵するのでいっぱいいっぱいだった。
「す──」
口の中がカラカラで、すみませんの一文字目までしか出てこない。
桐宇治さんと距離をとろうとしたところで、ぐいと身体を引き寄せられた。首の後ろに両腕を回された。脳の処理がまるで追いつきやしない。彼女は、お互いの頬が触れ合うくらい僕に顔を近付けて、そっと耳打ちをした。
「ねえ、二人で追いかけよっか」
その言葉で、たったそれだけの文字数で。
──キヨモリもこっちなんだ。そーなんだ。
何となく、あの呟きの意味がわかってしまった。
僕は、桐宇治さんにとって植木先輩に置いていかれた者同士。
傷の舐め合いを繰り返す、地磯の石なのだ。
海に沈む夢を見た。
目が醒めてしまうと、まるで細部は憶えていなかった。僕自身が沈む夢だったのか、それともこの町ごと沈む夢だったのか、その違いさえ思い出せない。
ただ、夢の中で。
僕はもがいてはいなかった。そして、桐宇治さんと一緒だった。
「──」
ふと、植木先輩に連絡をとらなければという衝動に駆られた。どうしてかはわからない。時計を見ると、少なくとも僕の良識では電話をしてもぎりぎり無礼にならない時間帯だった。先輩が卒業して、この町を離れてからというもの、連絡は一度もとっていなかった。
携帯の電話帳から植木先輩の名前を選択する。コールが続く。心のどこかで出ないでくれと願う自分がいた。何か傷付けるようなことを口走ってしまいそうでならなかった。そして、通話は繋がった。
「──キヨ?」
携帯から漏れる他人の声と車の通る音から察するに、植木先輩はまだ外にいるようだった。今、出てるんですね。じゃあかけ直しますという言葉を寸でのところで飲み込む。
ここで切ってしまったら、きっともう二度目はない。
お久しぶりですと言葉を絞り出す。何だか僕の声ではないように感じられた。
ああ、そうだなと言う先輩の声は僅かな戸惑いを含んで聞こえる。けれど、冷たくはなかった。
「ホント久しぶりだ。元気してたか?」
「ええっと──」
つい、上を向いて考え込んでしまう。返事の中身に迷ったわけではない。このまま当たり障りのない話を続けるべきかどうかに迷ったのだ。それもいいんじゃないかと心のどこかにいる僕が言った。そうだ。いいじゃないか、それでも。何だったら電話帳を整理していたら偶々植木先輩の名前に触れてしまったと言い訳すればいい。自分に嘘をつくのは、僕の得意分野だ。
先輩の背後で車が風を切って、何台も走り抜けてゆく。何だかループしているみたいだった。錯覚だとわかっていても、そう考えるとすんごくではなかったが、落ち着いた。
でも──。
胸のへんは、ザワザワしっぱなしだ。
「どうして桐宇治さんと別れたんですか」
意を決した──というふうではなかった。
胸の奥につっかえていたものが、何かの弾みでとれた。そんな感じだった。
植木先輩が小さく息を飲んだ。それから、すげーなと幽かな苦笑を混じえて呟いた。
僕もそう思いますと心の中で同意する。
やや間があって、先輩はこう言った。
「キヨ、桐宇治のこと好きだったよな」
僕は、通話を切った。
かっと頭に血が上ったわけではない。自分でも驚くくらい冷めていた。携帯の液晶に映る、植木先輩の名前をじっと見つめる。恐らくあの一言で終わりではないだろう。きっと続きがあったはずだ。僕に気を遣っただけではなく、遠距離恋愛を続ける自信がなかったとか、そもそも卒業までしか付き合うつもりはなかったとか。
苛められている桐宇治さんを救うためには、それが考え得る限り最善策だったとか。
──苛めというのは、そう簡単になくなるものなのか。きっかけが消失したところで、あの手の集団の悪癖は、惰性で続くものじゃないのか。それは本当に桐宇治さんを守る、考え抜いた末の最適解だったのか。
どういう続きがあったにせよ──。
もう、これ以上話すことはないと思った。だから、通話を切った。
先輩から電話がこない以上、向こうも向こうで察するものがあったのだろう。
重力に身を預け、ベッドの上へ大の字になる。
そういえば、僕は二人が別れたタイミングを知らない。卒業前に別れたのか、ひとまず遠距離恋愛を続けるつもりだったが、色々すれ違いがあって別れるに至ったのか。
いずれにせよ、もう別れているのであれば誠実じゃないか。だらだらと変に長引かせず、浮気をしているわけでもない。まさに誠実そのもの。清い交際だったわけじゃないか。そりゃあ、僕みたいな第三者に今さら口を出されたら、ああも言いたくなる。
遠回しに、お前に気を遣ってやったんだとでも言いたくなる。
途端──自分が惨めに思えてきた。
ただ、胸のへんのザワザワはいくらか静まっていた。
植木先輩の名前を電話帳から削除しようとして、止めた。それは何だかあまりにドラマめいていたし、自分に酔っている気がしたから。それこそ次に連絡するときがあるとしたら、それは電話帳を整理していて偶々指が当たったときでいいだろう。
そう、考えることにした。
「なあ、ちょっとエグいこと訊いていいか?」
地磯にて、屈んだままヤドカリと戯れる従兄が、僕に背を向けたままそう言った。随分不吉な前置きだなと思いつつ、僕は律儀に首肯する。彼に見えていないことはわかっていたが、疑問符はどうせ飾りだろう。イエスと言おうがノーと言おうが、コイツなら訊いてくる。
「お前、今先輩の元カノと一緒に帰ってて、しかもぶっちゃけたハナシ好きなわけじゃん? それ、滅茶苦茶しんどくないか」
正直、たじろいだ。軽く目眩がする程度には。
あえて形を与えず、頭の中をふわふわと漂わせていたものを一切の容赦なく言語化されてしまった。もし俺がお前の立場だったら──と言って、従兄は喉仏のあたりで人差し指を真一文字に走らせた。べーっと舌まで出して。僕のメンタルは、あいにくそこまで軟弱ではない。
ただ──。
「そりゃあ、結構しんどいときもあるよ」
「だろ? いいのかそれで。お互いにさ」
×××はさ、ではなく、お互いにか。
中々どうして突いてほしくないところを突いてくる。
「僕は、あの人にとって砂時計みたいなものなんだよ」
言ってしまって、流石に恥ずかしくなった。あまりにも表現がポエティック過ぎだ。熱でもあるのかと訝しげな視線を寄こしてくる従兄に対し、僕は慌てて補足する。
「だから、何て言うか、見てて癒されるインテリアってこと。桐宇治さんにとって、僕はそういうものだから」
そう、桐宇治さんにとって僕は砂時計であり、ループする漣でもある。変わらないものの象徴。遠くへ行ってしまった好きな人の置き土産。彼女の胸のざわめきを少しでも落ち着かせることができるのなら、僕は。
従兄が吹き出した。唐突な笑い声で現実に引き戻される。腹を抱えて、肩を小刻みに上下させながらくつくつと笑うさまに、僕は植木先輩を重ねた。ちらりと覗いた歯がやけに白く見えたせいかもしれない。
「いやぁ、俺高校の頃初めてカノジョできて舞い上がったけどさぁ」
「何だよ。自慢か?」
「違くて。多分×××ほどじゃあなかったなって」
従兄の口元から、徐々に笑みが消える。あ──とか細い声が僕の口から漏れて、つい後退りをした。厭な予感がした。自分の心のどうしようもなく脆いところを触られる予感があった。真っ直ぐな眼差しが僕を捉える。
「カッコつけて第三者ヅラすんのもう止めろよ。ベタ惚れじゃん。おまえ」
口調こそいつもの従兄と同じ、年相応でぶっきらぼうだったけれど。大人が小さな子どもを諭すような声だった。ほんのひと摘みの呆れを含んだ、やさしい兄貴分の声だった。さすがに涙で前が滲んでいるなんてことはない。ただ──。
本当にちょっとだけ、泣くかもと思った。
僕は、すんと鼻をすすった。
何だか、感じたことのないにおいがした。
両の耳たぶを摘まれて、はっとする。桐宇治さんが、悪戯っぽい眼で僕を見ていた。
「冗談だよ。キヨモリすぐ本気にするじゃん」
桐宇治さんが、僕の耳から手を離した。微笑んで、立てた爪先を支点にくるりと背を向けた。一息ついて、歩き出す彼女の後ろ姿をのんびり追いかけながら、僕は考える。
どう、答えるべきだったのだろう。一緒に行きましょうと嘘でも同意すべきだったのか、一緒には行けないと、植木先輩とのことはもう思い出にしましょうと突き放すべきだったのか。それとも、桐宇治さんの言葉通り今のは冗談で、こんな思考はとっとと打ち切るべきなのか。
桐宇治さんが、不意に足を止めた。振り向いて、ねえキヨモリと僕を呼んだ。
「生徒会にさ。綺麗な女の人いるじゃん?」
「──藤堂先輩ですか?」
そうそう藤堂さんと言って、桐宇治さんは数回頷く。生徒会に女子は二人いるが、もう一人は明らかに可愛い系だろう。
「その人に偶然聞いたんだけどさ。ここの浜、養浜してるんだって」
──ヨウヒン?
僕は、ゆっくりと桐宇治さんの目線を追った。
砂浜と海。僕にとっての変わらない象徴。
けれど、改めて見ると妙な感じがした。空が薄らオレンジ色に染まっているのに対し、海はそこまで夕映えしていなかった。昼間見るのと大差ない青磁の肌みたいな色をして、山肌むき出しの島を浮かべた、良くも悪くも日本の海だった。
こんな──色だっただろうか。
空も海も、もっと鈍いオレンジ色ではなかっただろうか。
「前言ってたじゃん。この浜辺ちょっとずつ削れてきてるって」
「そりゃあ、言いましたけど」
「養浜って言って、砂浜を新しく造ってるんだよ。だからね」
そこまで言って、桐宇治さんは言葉を切った。僕の方に顔を向けて、屈託なく笑った。
「私ら沈んだりしないよ。まだ、もうしばらくはだいじょーぶだよ」
海風に桐宇治さんの髪がなびいて、耳がちらりと覗く。
ピアスの穴は塞がって、痕だけが残っている。
──ねぇ、キヨモリ。真面目な娘の方が、モテるのかな?
そこに、何か意図はあるのだろうか。植木先輩は未だ桐宇治さんにとって意中の人で、今なお彼女は〝真面目な娘〟を貫こうとしているのだろうか。それとも、単にピアスに飽きてしまっただけなのだろうか。それとも、それとも──。
最初から、関係なかったのだろうか。ピアスを着けなくなったことと植木先輩とのこと、元より全て僕の妄想に過ぎなかったのだろうか。そう考え出すと、途端にその説が濃厚に思えた。僕は余計な勘繰りで、自分の首を絞めつけていたのだろうか。
桐宇治さんが、前を歩いている。
どうして──あのとき、名前で呼んだのだろう。僕をキヨモリと呼ばなかったのだろう。
否、桐宇治さんのことばかり言えない。
僕だって、どうしてあのとき。
しずかさん、などと。
いつだって、本当に知りたい貴女の気持ちはわからなくて──。それでも。
まあ、いいか──と思う僕がいた。
これまで通り、桐宇治さんの斜め後ろを死守する僕がいた。
もうしばらくはだいじょーぶなのだから。
海に、沈んだりはしないのだから。
さて、今の僕を従兄が見たらどう思うだろう。意気地がねぇなぁと苦笑いの一つでも零すだろうか。けど、これでいい。彼女にとって、僕は変わらないものの象徴。見ていて癒される砂時計であり、終わらない漣なのだから。桐宇治さんの隣に立つことは──植木先輩の代わりになろうとする行いは、彼女の望むところではないのだから。
これまで通りの立ち位置で、これまで通りのキヨモリであり続ける。
それが、桐宇治静にベタ惚れしている僕にできる、精一杯の愛情の示し方。
「桐宇治さん!」
自分としては腹から声を出したつもりだったが──存外乏しい声量で密かに苦笑するほかない。大声を出す習慣があまりにもなさ過ぎる。まあ、桐宇治さんが振り向いてくれたので良しとするけども。
「これからも帰れるときは一緒に帰りましょう。僕──他に一緒に帰る人いないので」
いつか僕と桐宇治さんの関係は終わる。僕の立ち位置は、僕にしか担えない役目ではないからだ。
遠くない未来、僕よりずっと──ささやかな癒しに繋がる存在が見つかるかもしれないし、そもそもそんな存在など要らなくなるくらい、彼女の隣に立つにふさわしい素敵な男性が現れるかもしれない。
そうしたら僕は──嫉妬するだろうか。噫、やっぱりあのとき告白しておくんだったと月並みに後悔するだろうか。
──しそうだな。何だかんだで。でも、今はそのありえそうな未来もひっくるめて、この人といる時間が愛おしい。この年にして、この愛情の形はやっぱりどうかしているのだろうか。
桐宇治さんが目を瞠った。つかの間何かを堪えるような顔をした。それから、目尻の辺りをそっと擦ると、
「奇遇じゃん。私もいないんだ。一緒に帰る人」
と言って──笑った。
同じ時を刻む砂時計
終わらない漣であり続けよう
この役を貴女が必要としなくなるその日まで