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中編

 ある日の放課後、隣の教室で机に伏せる桐宇治さんを見つけた。

 彼女の席は、教壇から見て右手の一番後ろにあった。腕を顎置きに唇をきゅっと尖らせて何やら考えごとをしているふうだったので、そのまま通り過ぎようと思ったのだけれど。

 ふと目が合って、さらにはひらひらと手なんて振られてしまったものだから、僕は他所のクラスの敷居を跨がざるを得なかった。教室には桐宇治さんの他に女子が三人前の方へ集まっていて、僕に一瞥くれたがまたすぐ会話に戻った。

 何してるんです──と僕が尋ねるより早く、桐宇治さんは手元のプリントを僕の方へと突き出して、

「これよこれ」

 と言いながら、左右に振って見せた。

 それは図書委員会の企画で配られたプリントで、自身の愛読書をレビューするという内容だった。つまり、そもそも愛読書なんてない人間は、まず読書を嗜むことからスタートしなければならないわけで。まさに読書強化週間の名に違わぬ企画といえよう。あくまで真っ当に取り組むのであればの話だけれど。

 ちなみに僕はというと、実写映画化、アニメ化、漫画化と幅広くメディア展開している国内ミステリー小説を選んだ。とどのつまり無難中の無難へ逃げたわけだが、事実好きな作家の作品ではあったため、全くの嘘偽りでもない。どれほど好きかというと、その作家が近日出身大学で予定しているサイン会の日時を把握しているほどだ。まあ、行きはしないのだけれど。県外だし。把握しているだけで、自分ファン頑張ってるじゃん的な自己肯定感が育まれるので。

「それ、今日提出じゃあないでしょ」

「じゃあないけどさぁ。明日明後日やるかーってものでもなくない? だから今やっちゃおうかなって」

 なるほど、殊勝な心がけだ。ただ、あいにくと桐宇治さんの手はペンを回すばかりで、プリントの空白は僅かばかりも埋まっていない。強いて言えば、本のタイトルを記入する欄だけが埋まっていた。

 ──『銀河鉄道の夜』。

 思わず、桐宇治さんの横顔を見た。

 好きなのか、宮沢賢治。

 徐に目線を机へと戻して、合点がいった。プリントの隣には、現代文の教科書が広げられていた。桐宇治さんには日頃本を読む習慣がない。されど、この企画のためだけに活字に触れるのは面倒臭い。だから、今授業でやっている『銀河鉄道の夜』なのか。そこまでして新たな知と出会う手間を省きたいか。斬新過ぎる目の付けどころである。

 座ってよと言って、桐宇治さんは隣の席の椅子を引いた。手ではなく、椅子の脚に自らの足首を引っかけて。彼女は短い紺色のソックスを履いていた。ああ、いつぞや派手なラインソックスを履いているに違いないなどと決めつけてごめんなさい。心の中でひっそり謝罪を述べておく。

 特に急ぎの用もなかったので、大人しく着席する。この流れだと私が頭を悩ませる様をただ黙って見ていろというわけでもないのだろう。僕は、プリントの内容が読める位置まで椅子を近付けた。

 教科書には、ところどころ蛍光ピンクによるマーカーが引かれている。暗記科目ならともかく現代文の教科書をこれほどマーカーで彩る必要性やこれ如何に。

「このマーカーって何で引いたんです?」

「何でって、綺麗な表現だったから」

 だから書こうと思って──と桐宇治さんは、プリントの空欄をペン先でつつく。

 ほう、と思わず声が漏れた。

 煽りでも何でもない、感嘆の声である。

『銀貨鉄道の夜』は、現在授業で読み進めている最中だ。つまり桐宇治さんは物語の顛末を知らない。いや、流石にざっとは目を通したかもしれないが、それでも。顛末を知っているからといって、じゃあすんなりレビューが書けるかというとそれはまた別の話。物語の要約、そして感想を言葉にするという所業は存外難しい。だから、気に入った比喩表現に着目したのか。

 ──そういう手間は惜しまないのか。

 桐宇治さんが、口元に手を添えて笑みを覗かせる。どうやらまた僕の挙動が、彼女のツボを刺激したらしい。

「ええっと、今度はどこが?」

「どこがって、だって『ほう』って。何? 次は『左様』とか言っちゃう?」

「じゃあ──左様」

「いやいや、別にリクエスト違うから」

 キヨモリ面白いわーと言って、桐宇治さんは遠慮なく笑う。

 僕は、小さく息を飲んだ。襟足の毛を人差し指と親指で挟んで、無意味にいじくる。そういえば、植木先輩と僕の共通点は、髪型がベリーショートであることくらいだ。何かがおかしかった。落ち着け。どうしてこのタイミングで先輩と自分を比べた。桐宇治さんは、間違いなく僕が距離を取るタイプの異性だというのに。

 僕は、女子グループをちらと見やった。

 止せ。考えるな。彼女たちの目に、僕と桐宇治さんはどう映っているのかなんて、絶対に考えるな。シロクマ効果恐るべし。止めろ、止めろ。

「桐宇治さんって真面目なんですね」

「でしょ。って言いたいけど、何? どしたのいきなり」

「いや、だってレビューですよ。『銀貨鉄道の夜』(これ)じゃなくたってネットでベストセラーとかで検索かけて、出てきたレビュー丸写しにすればそれでおしまいじゃないですか」

 プロのライターでない以上、コピペチェックツールに晒されるわけでもあるまいし。

 桐宇治さんのペン回しが止まった。目を大きく見開いて、僕の方を見た。

「天才じゃんキヨモリ。学問の神じゃん」

「それはミチザネでしょ。っていうかもうタイラノですらないし」

 そう言って、気付いてしまった。表情にこそ出さないように努めたけれど。

 ──呼び捨てになっている。

 所詮はあだ名だ。要らぬ勘繰りをするべきではない。そういうのが、親しくなってくると当たり前の女子(ひと)なのだ。

 桐宇治さんは頬杖をつくと、ペン回しを再開する。よく見ると、シャーペンはビビットなピンク色だった。そういうピンクが好きなのだろうか。

「ねぇ、キヨモリ」

「はい?」

「真面目な()の方が、モテるのかな?」

 桐宇治さんは、窓の外に顔を向けたまま、僕にそう訊いた。

 そう、僕に訊いたのだ──と思う。

 白い耳たぶが、髪の隙間から覗いていた。

 ピアス穴は、塞がりつつあるように見えた。

 そりゃあ不真面目よりかはいいでしょと僕は言った。

 自分でも少しだけ、声が擦れているのがわかった。


 案外真っ当に取り組んだレビューを提出して、なんとなく二人で下校する流れになって。

「僕も──訊いてもいいですか」

 誰もいない廊下。教室をちらと覗けば、いくらか居残りはいるようだけれど。

 相も変わらず、桐宇治さんの斜め後ろを歩きながら、僕は彼女にそう尋ねた。

「僕も?」

 桐宇治さんが眉根を寄せて、首を傾げる。

「訊いたじゃないですか。僕に──真面目な娘の方がってやつ」

「ああ、それ」

「はい。だから、僕からもいいです?」

 そこまで言って、早くも後悔する。どうして、僕が答えたんだから桐宇治さんも答えてくださいみたいな構図にしたんだ。これじゃあ、今から振る話がやたら大袈裟みたいじゃあないか。もっとフランクに、他愛ない話の合間にでもちょこっと挟めれば良かったのだろうが。あいにくと僕にそんな小気味よいトークスキルはなくて。

 桐宇治さんが、いーよと言った。言葉だけならいつもの彼女だったが、表情は気持ち硬めに見えた。身構えさせてしまったことを申し訳なく思いながら、僕は小さく息を呑んで、尋ねた。


「先輩の──どこが良かったんです?」


 言わずもがな、この間僕は目を伏せている。

 桐宇治さんの方を見てはいない。直視することなどできない。

「おーっとぉ?」

 零すような笑いの混じった桐宇治さんの声。何だか僕の方が追い詰められているような気がしてくる。否、別に彼女を追い詰めたくてこんなことを訊いたわけではないのだけれど。そうだなぁ──と桐宇治さんが言った。目線を徐に上げると、彼女は窓の外を向いていた。多分、綺麗に晴れた空を見ていた。

 正直──思っていたリアクションではなかった。

 もっと照れるとか、過剰に声を高くするとか。そんなんじゃないよって、その場凌ぎの否定をするとか。いつもみたくコロコロ笑って、何言ってんのキヨモリとうやむやにしてしまうとか。

 そんな反応を予想していた。

 決して──答えてくれないことを期待していたわけではない。

「生徒会の応援スピーチあったじゃん? キヨモリもやってたでしょ」

「まあ、そうですね」

「あのときかなー。何かイイなーって思った」

 ──何かイイなー。

 細かいことを言えは、僕がやったのは応援スピーチではない。生徒会所属に向けた決意表明の方であって、応援スピーチはしていない。でも、桐宇治さんにとって、あれはそういう位置づけなのだろう。彼女の心に深く残ったのは、多分植木先輩の姿と声だけだったのだから。

 せめて、バスケをしている姿であってほしかった。そう、思ってしまうのは何故だろう。スピーチだと自分にも可能性があるような錯覚に陥るから? せめて、縁のないスポーツという分野で気を引いてほしかった? そうしたら、綺麗さっぱり諦めがついた? 

 待ってくれ。諦めって何だ。

 ──何なんだ。

「あっ、でもさ。キヨモリもカッコよかったよ」

 思い出したように、正真正銘のおまけみたいに、桐宇治さんはそう言った。何かイイなーと呟くときに見え隠れしていた、一握りの照れみたいな感情は、まるで見えなかった。

 ありがとうございますとお礼を述べて、僕は足許を見る。

 桐宇治さんの斜め後ろ。それが、彼女と行動を共にする上での適切な立ち位置。

 僕の一番好きな景色が見える場所。

 これ以外の視点なんて、望んではいない。望みはしない。

 そう、自らに言い聞かせた。


 植木先輩がバスケをやっているところを初めて見た。

 先輩は点取り屋(スコアラー)というわけではなかった。チームメイトがどこにいるか、どう動くかを瞬時に判断して的確なパスを出す。シュートの本数自体はそう多くないが、打てる場面では迷わず打ち、着実に得点を重ねる。チームメイトのミスは励まし、得点を決めれば大きな声でエールを送る。

 まさしく先輩を(かなめ)にチームが機能していた。

 素人目にもわかる、絵に描いたようなエースだった。

 これは──好きになるのも仕方がない。

 途端に、恥ずかしくなった。何がドクター・フォックス効果だ。僕が生徒会に選ばれたのは、スピーチの内容が良かったからでも、態度が堂々としていたからでもない。単に僕を推薦した植木先輩の人徳だ。人望の厚さだ。

 チーム一丸となって活躍する姿も、笑顔でコートに立つ姿も、全てが僕には遠かった。

 手の届かない、別の世界を見ているようだった。

 試合終了のブザーが響く。両チームが横一列に並んで、力強い挨拶を交わす。

 チームメイトと軽口を叩き合いながら、コートの外に出た植木先輩が、

「キヨー!」

 こちらに気付いて、手を振った。

 僕は、軽く手を上げるに止めた。多分この試合を目にしていなかったら、僕はいつも通りの澄ました面で、先輩に小さく手を振り返していたのだろう。

 それを考えると、余計に恥ずかしくなった。


「悪いな。呼び出しちまって」

 僕と植木先輩は、体育館の非常口を出てすぐの短い階段に座っている。部員の様子を見る限り、まだ今日の練習は終わっていない。単なる休憩時間なのだろう。そうなると、先輩の相談というのは、長い話ではないのかもしれない。もっとも、中々切り出さないところを見るに、長くなるか短くなるかは先輩次第と言ったところか。

「正直意外でした。もっといかにも攻撃型ってタイプなのかと」

 植木先輩はきょとんとした顔で、僕を見る。三秒ほど間があって、ああと頷いた。

「バスケの話か」

「ええ。──褒めてますよ?」

 僕の場合、言葉が足りない以前にあまり表情(かお)に出ないので、一応補足しておく。

 植木先輩は、頬を掻きながら照れたように笑った。

「理想の先輩ってヤツか?」

「それは──違いますけど」

 違うんかいっと若手芸人顔負けのリアクションを見せてくれる先輩を尻目に、僕はちょっと真面目に答える。

「理想って自分がなりたい姿じゃないですか。だったら、僕にとって先輩は違うってだけの話です。バスケやってる姿見て、すごいなって思ったのは本当ですよ。理想じゃないけど、尊敬はしてます」

 植木先輩は──またしてもきょとんとした顔で僕を見ていた。

 そんなに、わかりづらかっただろうか。僕にしては、わりとまっすぐな言葉を選んだつもりだったのだけれど。

「キヨのそういうとこ、見習わないとな」

「どういうとこです?」

「絶対言わねー。そういうのって自覚したら、返ってしにくくなるだろ」

 そう言って、植木先輩は僕から顔を背けた。

 すっきりしないけれど、頷ける意見だった。

 仕方ない。気にならないといえば嘘になるが、もとより潤滑油になればと振った雑談だ。これ以上長引かせる必要はない。大人しく植木先輩が口を開くのを待つことにする。先輩も意図を察したのだろう。多分痒くもないだろう顎を掻きながら、ええっとだな──と切り出した。

「桐宇治って、その、何が好きなんだろうな」

「はあ」

「その、好きなもの──をキヨに訊くとか流石にないよな? わかってる。ナイナイ。じゃあ、好きな色。そう! 何色が好きとか、そこらへんならどうだ?」

 植木先輩からそう尋ねられたとき、僕の胸中は呆れ半分、安堵半分だった。前者はそんなもの本人に直接訊くか、もしくは本人と日々接する中で彼女が扱っている小物などから推測すればいいわけで。後者は何故かというと、僕に桐宇治さんの好きなものを尋ねるなんてありえない──と先輩が言い切ってくれたからで。

 そう、ありえてはいけない。貴方から彼女へ何をあげたら喜ぶのかなんて大事なことを、他人に訊いて解決しようとしてはいけない。それは、植木先輩が頭を悩ませるべき問題だ。僕に介入の余地などない。

 ──そういう意味で言ったんですよね?

 僕の頭を過ぎったのは、彼女が指先で踊らせていたシャープペンシルと、現代文の教科書を彩るマーカー。

「ピンク色じゃないです? 明るくてビビッドなやつ」

「そうなのか。まっ、女子って大体ピンク好きだもんな」

「勘じゃないですからね。文具とかで使ってるの割と見かけるんで」

 よく見てるなあキヨという他人事みたいな先輩の感想に、どういうわけか軽い苛立ちを覚える。どういうわけか──。それにしても、桐宇治さんの好きなものか。

 誕生日でも近いのだろうか。

 僕はそれを知らない。けれども、植木先輩はそれを知っている。

 だから──何だというのか。

「見てるというか、偶々憶えてただけです。むしろ先輩に訊かれて思い出したっていうか」

 謙遜なのかどうかもよくわからない言葉を並べる僕に対し、植木先輩はいつものように僕の両手を握って、熱い賛辞を浴びせたりは──しなかった。笑うというより、ただ頬を緩めて、

「いいや、よく他人(ひと)を見てるよ。キヨは」

 と言った。

 その優しげな瞳の奥を探って。

 探って、しまって──。

 僕は、慌てて立ち上がった。鼓動が乱れているのがわかった。

「キヨ?」

 どうかしたのかと尋ねてくる先輩に、先生に頼まれていた用事があるのでそろそろ──となるべく落ち着き払った口調で返答した(無論この〝落ち着き払った〟は僕の主観でしかない)。植木先輩の顔を直視できないまま、ぶっきらぼうな会釈だけ残して、足早にその場を去る。

 ああ、何てことだ。

 植木先輩は気付いている。

 僕の桐宇治さんに対する想いに。


 二人との接触を避けるのは、そんなに難しいことではなかった。

 桐宇治さんは別のクラスだし、思えば二人だけでまともに喋ったのは、あの日──植木先輩をどうして好きになったのか訊いたのが最後だった。

 先輩とは生徒会の仕事で会うが、何も二人きりで顔を突き合わせるわけでもない。そもそも、三年生は進路相談で生徒会に顔を出すこと自体が少なくなっており、業務は基本二年生が取り仕切っていた。


 秋口の頃、学生ボランティアとして市内のゴミ拾いに参加することになった。本来生徒会とは無縁のイベントだったのだが、どうやら市内の各校から一定数の参加者を募る形式だったらしく、一定数に満たなかったウチの高校からは、数合わせとして生徒会でも下っ端の僕が駆り出される運びとなった。ただ、驚いたのはその中に植木先輩もいたことだ。

「いいんですか。部活とか受験勉強とか」

 何気なく問いかける声が、妙に刺々しく聞こえて(いや)になる。

「息抜きだよ息抜き。それよりキヨ、こうやって話すのは久々なんだしさ」

「はい」

「近況報告会しないか?」

 植木先輩と喋りながら、市内を練り歩く。

 何もこんな時期にやらなくていいだろうと思ったが、夏なら夏で同じ感想を抱いていただろうなとも思い、結局頭の中で愚痴るのを止める。まあ、肌寒い方が清涼飲料水の暴飲代が浮くので良しとしよう。

 列の後ろ辺りにいると、前にいる人たちが先にゴミを拾ってしまうので、正直あまりやることがない。こんな頭数を揃える必要なんてあったのかと疑問に思った矢先、ローカルのテレビ局がカメラを回す姿が目に入って、なるほど合点がいった。

 植木先輩と話すのは、久しぶりだった。他ならぬ僕自身が植木先輩との交流を極力控えていたこともあったし、先輩は先輩で何かを感じ取っていたのか、用事もなしに絡んでくることは少なくなっていたから。ただ、思いのほか普通に会話ができたのは、自分でも意外だった。ゴミ拾いと外気の冷たさで良い具合に気が散っていたからだろうか。

 もっと好意的に解釈すれば、あの程度の食い違いで一言も口を利かなくなるほど、僕ら二人の関係は薄っぺらいものではなかったとも言える。そもそも、僕が一方的に食い違ったと決めつけて、勝手に落ち込んでいるだけなのだが。

 植木先輩はもうすぐ卒業する。なら、桐宇治さんとの関係はどうするつもりなのだろう。どう考えたって要らない世話だけれど、やはり遠距離恋愛として続ける気なのか。息を軽く口から吸って、それとなく尋ねてみようか悩んでいると、

「キヨは卒業したらどうするんだ? 何かやりたい勉強とかあるのか」

「え?」

 思わず、声が出た。まさか尋ねられる側になるとは、思ってもいなかった。

「心理学とかは興味ありますけど」

「ああ、キヨって話聴くの上手いもんな。イイんじゃないか? カウンセラー」

「別に聴くのが上手いからってカウンセラーになれるわけでは──」

 僕は、そこで言葉を切った。顎に手を添えて、つい考え込んでしまう。

「どーしたよ?」

「いえ、聴き上手だからってカウンセラーになれるわけじゃないですけど、まず間違いなく第一条件ではあるだろうなと思いまして」

 だろーと言って、植木先輩はちょっと得意げに笑う。先輩の白い歯を久々に見た気がした。こうなると、もしや先輩も卒業後の進路について質問してほしいということなのだろうか。それとも──単に訊いてみただけか。

 結局、気になっていることは訊けないまま、当たり障りのない近況報告をし合ううちに活動は終了。各参加者にペットボトルのお茶が配られ、現地解散となったとき、僕はようやく意を決した。

「植木先輩。一つだけ訊きたいんですけど」

「どうした?」

「──順調ですか」

 あえて主語は省いた。それだけで、植木先輩なら察しがつくと思ったから。嘘。気持ちを何とか奮い立たせて、ようやっと絞り出せた言葉が、それだけだった。

 植木先輩がペットボトルから口を離した。そして、あの日僕に向けた眼差しと寸分違わぬそれで僕を射抜いて、

「ありがとな色々」

 とだけ言った。すれ違いざま、ポンポンと二回僕の肩を叩いた。

 謝罪ではなく、感謝の言葉で良かったと思った。


 鈍いオレンジの夕陽に照らされる中、校門の柱を背にして立つ桐宇治さんを見かけた。自転車通学であれば、気付かなかったふりをして横を颯爽と通り抜けることもできたのだけれど。歩きじゃそうもいかない。だから、これは不可抗力だ。

 僕は、桐宇治さんに近付いた。頭の中をしばし自分から距離を置いていた同級生の異性に対して行うべき無難な挨拶ランキングトップ一〇がぐるぐる回っている。クソ、いつまで経っても一〇位が発表されやしない。

「やっほー。キヨモリ」

 結局、桐宇治さんから声をかけられた。ビビッドピンクのイヤホンを着けていた。多分──それがそうなのだろうと思った。いや、本当にそうなのか? バイト禁止で手持ちが少ないからって、誕生日ならもっと良いものを贈るのではないか。落ち着け。そもそも誕生日だったかどうかも確証がないぞ。どうかしてる。ああ、そうか。彼氏からの贈り物って、そういうものじゃないのか。付き合っている相手がくれるのであれば、それだけで嬉しいのか。

 たとえば──僕だったら。

「どしたの、キヨモリ? 急に耳つねって。自傷行為?」

「というより体罰ですかね」

 雑念を払いたくて。

 桐宇治さんは、全く理解不能とでも言いたげに眉をしかめた。それはそうだろう。立場が違えば、きっと僕だって似たような顔をする。

「忘れてください。すみません。ただ、善くない考えが浮かんだので、痛みで追いやっただけです」

「あー、何かわかるかも」

「──マジで言ってます?」

 つい、眉根を寄せてしまう。まさか同意を得られるとは思っていなかった。

 ちょっと引いてんじゃねーと言って、桐宇治さんは僕にローキックを当てるフリをする。

 追いやっただなんて──。

 嘘だった。

 本当は、まだ(おり)みたいに溜まって。ちっとも掃き切れていない。

「何か話すの久しぶりだねー。やっぱ忙しいんだ。生徒会」

「そうですね。思ってたよりは」

 意外と、これまで通り話せている。それはそうだ。別に何か嫌悪するようなことがあって距離を置いたわけではない。桐宇治さんからすれば、僕が生徒会で忙しいから最近姿を見せないのだろう、と。その程度の認識でしかなかったはずだ。

 会話が途切れがちになる。そろそろ、植木先輩がやって来るのではないだろうか。どちらか一人と顔を合わせる分にはいいが、三人はどうも重苦しいものがある。適当に言い訳して、さっさと帰路に着こう。そう思った矢先だった。

「もうすぐさ。三年生卒業だね」

 まさか、桐宇治さんからそれを切り出してくるとは思っていなかった。

 片や三年生で片や一年生。植木先輩は、桐宇治さんとの関係をどうするつもりなのだろう。どうするつもりで、交際を始めたのだろう。僕は、植木先輩が卒業したらどこに行くのかさえ知らない。桐宇治さんは知っているのだろうか。当然、知っているだろう。でなければ、それはおかしい。

 先輩とのことさ──と桐宇治さんは訥々(とつとつ)と語り始める。

「私は離れていても続けたいなって、付き合ってたいなって思ってる。先輩は──どうなのかな」

 ──付き合っていたい。

 いざ、桐宇治さんの口から聞くと、お腹の辺りに重くじわじわくるものがあった。まるでボディブローを喰らった気分だった。

「それは、僕に言ってもどうにもなりませんよ」

 突き放すつもりなんて微塵もない、これ以上ないくらいの本音だった。

 そういうのは、もっと親しい同性の友だちに言うべきだ。桐宇治さんなら、相談相手の一人や二人いるだろう。それとも、誰でもいいから聞いてほしいくらいに参ってしまっているのか。

「そういうのは、二人が相談して決めるものであって、僕は間には入れないので」

 俯いて、苦笑いを顔に貼りつけた僕の目に浮かぶのは。

 並んだ二人の背中。僕が好きだった景色だ。その立ち位置で、僕は満たされていたはずだ。

 徐に顔を上げて、僕の目に映った桐宇治さんは。

 目を、(みは)っていた。

 僕の言葉に傷付いたのだろうか。仕方がない。僕にはそうとしか答えようがない。

「知らないんだ」

 その一言は、驚くほど小さかった。もしかしたら、唇をその形に動かしただけではないかと疑うほどに。けれど、確かに僕の耳に届いて。確かに心のどこかを抉っていった。

 知らないって、何を?

「そっか。キヨモリもこっちなんだ。そーなんだ」

 ──こっち?

「ゴメン。またね、キヨモリ」

 桐宇治さんはイヤホンを乱暴に外すと、携帯ごとカバンに突っ込んだ。中でぐちゃぐちゃに絡まってしまうだろうなと僕は思った。誰か待ってたんじゃないんですかと冷静に引き止める言葉は、出てこなかった。

 どこで間違えたんだろう。いや、そもそも正解はあったのか。仮に正解があったとして、その選択肢は僕の手の中にあったのか。僕が手に取ることを許されていたのは、最初から誤った選択肢の方だけだったのではないか。

 僕は、ふとあの日のことを思い出す。

 ──ありがとな、色々と。

 植木先輩は、順調ですかという僕の問いかけにそう答えた。

 あれは、肯定だったのか。そもそも。

 二人の関係は今も順調に続いていると、そういう解釈で良かったのだろうか。

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