表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編集

絶対球体

作者: 雪原たかし

 高槻佑貴は元永優希に電話をかけた。

「久しぶり」

『久しぶりって……まあそうやけどさぁ。で、なんなん?』

 高槻にとっては電話をかけること自体が数年ぶりだった。まして元永を相手に電話をかけたのは、彼の記憶の限りで初めてのことだ。

「いや、こんど帰省するから、いちおう伝えておこうと思って」

『帰省でわざわざ連絡するって、もうそっちで就職せえへんの?』

 間を空けてしまいそうになるのをなんとか抑える。

「まあ、そんなとこ」

『そっか。で、いつ帰ってくんの?』

「勤労感謝の日の次の日」

『じゃあその日に顔見せてな』

「えっ?」

『そうやなぁ……七時に図書館でどう?』

 慌ててメモとペンを手元まで引き寄せる。顔を見せろと言われることは予想していたが、帰省当日を提案するとは考えていなかった。

「図書館って……ふつう自分の職場を集合場所にする?」

『ええやん分かりやすいし。じゃ、そういうわけやから』

「いや、こっちの都合は?」

『どうせ帰省当日とか予定ないやろ?』

 事実を指摘されて――――間が空いてしまった。

『そういうわけやから、よろしくぅ』

「あっ、ちょっ、待って――――」

 呼び止めは届かず、電話は切られた――――――――




 電話の数日後。秋分の日。

 鉄道を利用して、高槻は地元――――兵庫県の姫路市は広畑へと帰省を果たした。

「ほんと……変わってないんだなぁ」

 高槻にとっては、実に六年ぶりの地元だ。大学進学を機に離れて以来、一度も帰省していなかった。駅の改札を抜けて見える景色は、高槻の記憶と変わらず鮮やかさに乏しい。向こうのほうなら栄えていたりするかもしれない、と高槻は考えてみたものの、そのような変化がある土地ではないということもまた理解している。

 くたびれた腕時計を見やる。まだ三時になったばかりだ。線路の向こうには図書館の入っている建物が見えている――――――――




 市営の複合施設。ガラス製の立方体を組み合わせたような外観で、南側の出入口から入れば、四階層を貫く吹き抜けと、二階の図書館へと続く幅広な階段が利用者を出迎える。

 そして、高槻は今、その階段を登っている。

 行くあてが無かったことを、高槻はこの行動の理由にしたかった。自分が昔に通いつめていた場所で働く元永の姿を見たいというのを理由にしたくなかった。

 階段を登れば、左手に図書館のカウンターが見える。吹き抜けに面する壁はすべて透明のガラスで、カウンターのほうを向きながら階段を登っていた高槻は、そこで業務をしている元永の姿を階段の途中で発見して――――足を止めた。

「貸出カードはお持ちですか? はい、ではこちら二週間後が返却期限です」

 ちょうど、元永が貸出の手続きをしているところだった。

 本当に、ただそれだけだった。

 だが、高槻は階段を降りていった――――――――




 高槻は階段の登降をひたすら繰り返している。階段といっても、施設の南側の吹き抜けにあった明るい階段ではない。施設の北側で全階を貫いている、暗くて静かな階段のほうだ。

 足音が響き抜け、上下方向の空間感覚が狂いそうになる。各階や踊り場にさしかかる度に階層表示のプレートを確認しているのは、放っておくと限りないようにさえ思えてしまう上下には限りがあるということを思い出すためだ。

 上下の限りを思い出させてくれるものはプレートだけではない。その役割ならば地上階と最上階のほうがもっと適している。まさに限りなのだから。

 最上階にはあまり使用されることのないホールがある。階段からロビーへと出るにはベルトポールをまたぎ越す必要がある。高槻は引き返すだけで踏み入らない。

 地上階まで降りれば、また最上階へと登る。そんなことをいくら繰り返したところで、なにかいいことがあるわけではない。それは高槻とて分かっているが、どうにも他にすることを思いつけない。 考え事をするのならば、たとえば読書室や地上階のエントランスホールにあるソファなどのほうが環境は整っているというのも理解しているが、それでも高槻は無意味を繰り返している。

 考え事といっても、高槻が考えていることはずっと変わらない。

 働く元永と、出戻った高槻。その、埋めがたい差。

 幾度目かの最上階。ロビーにはもう斜光しか色源がない。時計を確認せずとも約束の時間に近づいていると分かる。

「……まだか」

 時計を見やると、六時の一〇分前を指していた。

 昇降運動を数時間繰り返していたのだとは思えないほど、高槻の息は乱れないままだ。走っていたわけではないとはいえ、いくらか疲れているはずであることを自分で分かっていながら、高槻は疲労を顕さない自身の身体に甘え、無意味を再開しようとして――――


 高槻の視界は唐突に遠のき始めた。


「うぁ……っ……」

 二四年あまりの人生において、高槻は立ちくらみやめまいなどと縁が無かった。こと健康に関しては、自分も、他人も、ほぼ絶対と言えるほどの信頼を置いていた。

 だが、その遮断はそんな信頼を踏み越えてきた。無意味な反復の代償として。

(こんなところで……っ……)

 空間を捉えられない。どこにも確かな底面が無いように見える。下段へ踏み出そうとした左足を戻すことも下ろすこともできない。右足でかろうじて最上階の空間に体勢を留める。

 だが、それもやがて――――崩れた。

 一瞬にして重力の餌食。

 相応の衝撃と損傷、さらには絶命まで想像できるくらいの時間が、階下へ墜ちゆく高槻に与えられた。

(また余計なことをして……)

 散り消える視界の欠片に、迫り来る踊り場の灰色が映る。記憶に後悔を煽られながら、高槻は思考を締めくくった――――――――




 基準を失ったいくらかの時間を経て、高槻は再び目を開けた。

 高槻は――――宙に浮いていた。

(……えっ?)

 先ほどまでの重く縛られるような感覚が名残さえも残さずに消え失せている。周囲を水平に見回してもまばらな雲とまばゆい夕陽が見えるばかりだ。上方には深青の空。下方を見れば図書館の建物がはるか真下にある。

「……ん?」

 ふと、高槻は視界を縦横に走っている薄い線に気づいた。それが伸びる先を追ってゆくと、いくつもの円を描き――――

(球……?)

 まるで地球儀の中にいるように、高槻はその薄い線が描く曲面に囲まれていた。

 人間が自力で浮くことはない。得体の知れない球体の中に高槻が自ら入るわけもない。階段からの墜落を除くと、現状の超常に関係しうる事象は無い。高槻は超常であるとは信じようとせずに、昏睡状態下で見る夢か、あるいは死後の幻想だろうと考えた。

(浮くにしても、こんなに高くなくてもいいのに……)

 だからこそ、まるで危機感の無い考えが浮かんだのだが――――

「うわっ」

 一瞬にして高度は下がり、図書館の屋上が球体の輪郭らしき曲面すれすれにまで近づいていた。

 屋上に円形の影が濃くはっきりと映っている。内部からは透明に近い球体が、外部からはそれよりもはるかに不透明であることを、高槻は推定した。

 一連の現象は、現状が夢である可能性を増大させるものとなった。夢では自分の意思が及ばないということを、高槻は過去に経験したことがある。

(せめて人のいないところとかにしてくれたらいいのになぁ……)

 叶わないはずの願望として、そう思い浮かべたはずだった。

 だが、次の瞬間には――――

「わっ」

 球体は海上にいた。

「えっ、あれ……」

 少し遠くに製鉄所が見え、反対側には輪郭の曖昧な島影が見える。どちらも見覚えのあるものだ。

 というのも――――

「播磨灘……」

 広畑から行ける海。その沿岸部は中規模の工業地域で、広畑には以前から大手の製鉄所が立地している。沖合には家島諸島がある。高槻にとっては、どちらも幼い頃から持っている知識だ。

 高さを嫌うと高度を下げ、人の目を嫌うと無人の海洋へと移った。まるで意思に沿っているかのように思え、夢であるという可能性が揺らぐ。

 “夢だったら”

 そんな願望じみた仮定を思考に映しながら、高槻はとある場所を思い浮かべた――――

「やっぱりか……」

 姫路城の城郭が大きく構えているのを見やり、無感動に呟く。

(夢だけど、違うんだな……)

 観光客だろうか、眼下で人々が城内へ流れてゆく様子が見える。ややあって上空の球体に気づき始めたようで、次第に見上げる目が増えてゆく。

(そんな細かい反応まで再現するんだ……)

 誰も高槻を見ているようで見ていない。視線も焦点も、不規則に逸れてはほんの一瞬だけ高槻の身体を通過する。

 気分が悪くなった。酔ったわけではなく、高所に怯えたわけでもなかった。

(やっぱり人のいないところのほうがいいな)

 そして――――視界は海中に変わった。

 思いどおりであることを、高槻はもはや疑っていなかった。

 浮力のように背中を支える感覚を期待して仰向けになってみたが、感覚は先ほどまでと変わらない。見上げる彼方の水面からは陽光がわずかにしか差していない。

 播磨灘の海中であると、高槻は直感した。

(嫌いなのにな……)

 高槻は姫路という土地を嫌ってきた。

 中身が無いというのに粋がる人が多いと感じていた。

 都会と呼ぶには程遠く、田舎と呼ぶのもしっくりこない。

 中途半端であることを嫌ったからこそ、進学先には都会を選んだ。

 だが、高槻は今、姫路にいる。証明されてしまったような気分になっている。

「なんであのまま生きられなかったんだ……」

 視界の澱みに地元の姿を重ねる。拒みようもなく、自分もそこに重なった。目を覆う代わりに、まぶたが下りた――――――――




 まぶたを開けると、陽の落ちた暗い館内にいた。

「……えっ」

 館内での最後の記憶は墜落だった。だが、高槻の身体は無傷で、しかも館の最上階にあるホールの真ん中に立っている。

 状況だけを見れば、墜ちてすらいないことになっている。

(まだ夢の中?)

 墜落が幻覚だったとは思えなかった。どう考えてみても今こそが幻覚なのだという結論に到る。ところが、その結論がうまく確信に変わらない。

「……そうだ、あれだ」

 そして、高槻は唐突に思い出した。少年時代に読んだ本で知った、現実と夢とを判別する方法を――――――――




 トイレの鏡の前。高槻自身が映っている。

 当然のことだ。高槻は最上階にあるトイレへ駆け込み、鏡の前に立ったのだから。

 だが、今の高槻にとって、それは何事よりも重い意味を持つ結果だった。

(現実だ……)

 “夢で自身の姿を見ることはない”

 それが、高槻の知る“現実と夢とを判別する方法”だった。

 確かめてしまった事実が、高槻を混乱に陥れる。夢だったならば無視できたはずの矛盾が避けようもなく立ちはだかり、のしかかる。

「あ……え……っあ……」

 “思いどおりになる夢”よりもはるかに大きな矛盾に思考が飲み込まれてしまう、その寸前に――――高槻は時計を見た。

 それは、都会暮らしで染み付いた習慣だった。

 七時五分。

 約束が連想された。

 高槻は駆け出した――――――――




 階段を数段飛ばしで駆け降りる。次第に飛ばす段は増えてゆき、着地の衝撃も大きくなってゆく。地上階に着く頃には、飛ばす段が二桁になりそうなほどだったが、高槻はじんわりとした脚の感覚に構うことなく駆け続け、館の北側にある通用口から館外へと出た。

 そして――――

「えっ、なんでそっから出て来とん?」

 高槻はその声をはっきりと覚えていて、振り向く前から誰なのか分かっていた。

 髪色よりも明るいブラウンのコートを着て、白いマフラーを巻く、ひとりの女。容貌は高槻の記憶にあるものとほとんど変わらない。

「もっ……元永……」

 高槻は確信を持って、しかし呼吸は揺らしながら、名前を呼んだ。

「あれ? なんで『ゆっけ』って呼ばへんの? もしかしてなんか久しぶりやからって緊張……じゃなくてよ!」

 数年ぶりに再会して早々に、元永優希は幼なじみに声を荒らげた。

「なんでこんな時間にそっから出て来たんやって訊いとんねん!」

「ちょっ……待てって元永!」

 元永の表情がさらに険しくなる。

「……ゆっけって呼んでよ」

「えっ?」

「ユウにゆっけって呼ばれへんとか、やりづらあてしゃあないわ」

「えぇ……」

 高槻に呆気が舞い降りる。高槻の視線が元永の顔から逸れる。

「一旦止まって……ゆっけ」

「もう止まっとるやん」

 高槻が視線を戻すと、元永が白い歯を覗かせながら笑っていた。

「おい……」

「はいはい、もうごめんて。まあそれは置いといてな――――」

 元永の顔に険しさが戻る。高槻はとっさに足元の黒青色の道路へ視線を落とした。

「なんで職員しかおらへんはずの時間に館内から登場したんやって話やったんやけど、どう説明すんの?」

 腕組みをする元永の顔を、高槻はまともに見ることができない。道路の礫粒が高槻の視界で膨張し、焦点を占める。

「もしかして……」

 元永がなにかを言おうとしたその一瞬、自分がなぜ元永を相手に緊張しているのかを、高槻は疑問に思った。

 超常の夢を見て、現実が超常になった。確かめたばかりのことを自分が隠したいと思っているのだと、高槻は気づいた。高槻自身になんらかの非があるようなものではないということも、高槻は理解していた。

 理解できないのは、隠したいと思ってしまう理由だけで――――

「あのでっかい球にびびったん?」

 聴覚はその言葉を鋭く捉えた。

「……球?」

 それは、墜落の消滅のせいで半ば忘れかけていた、もうひとつの超常へと繋がる単語。

「あれ? 知らん? ここの真上に出たってニュースになっとったやろ? そういやなんか変に暗くなった時間帯があったかなぁって思ったんやけど……大丈夫?」

 元永に顔を窺われ、高槻は自分が思考停止に陥ってしまっていたことに気づかされた。

「その球っていつ出た?」

「えっ、ああ……たぶん夕方頃やったと思うけど……はっきりとは覚えてへんから自分で調べてみいよ。写真もようけあがっとったで」

 言われるが早いか、高槻はすぐに携帯端末を取り出した。目的の記事と写真はすぐに、そしていくつも見つかった。それらは一様に謎の巨大な黒球の出現を報じ、提供された写真や証言を基に、出現場所と時刻とを地図上に示していた。

 そして、そのすべてが高槻の見た夢と重なっていた。

「めちゃくちゃでかいやろ? こんなん外におったら絶対に見えるよな」

 元永が画面に表示されている黒球を指す。

「えっ、ああ……確かに」

「そういやユウは今までなにしとったん?」

「えっ」

「これ見てへんってことは近くにおらんかったんやろ?」

「あ、えっと……」

 とっさに言葉を濁そうとしてしまい、高槻は自分に苛立った。

「館内におったんやろ。あたしの働く姿を冷やかしたろかな、とか思ったけど気が引けたとか、そんな感じで」

「……やっぱりか」

 元永が帰省当日に会おうと言ったり、待ち合わせに自分の職場を選んだりしたことに、高槻は元永の意図を曖昧ながらも感じ取っていたが、その意図は今やほとんどはっきりとしている。

「んー?」

 元永が口角を緩く上げて、高槻の顔を斜に見上げる。

「なんでもないよ」

 元永の調子に乗せられまいとして、高槻は努めて無感情に返事をした。だが、元永が急に面を替えたように真剣な表情になり、その急変に高槻は動揺を抑えそこねた。

「なんにせよ遅刻やで。言うことあるやろ」

「……ごめん」

 高槻の思考が動揺から誠意へと変わるのと入れ替わるようにして、元永の表情は緩んだ。

「はいよろしい。さっ、行こ行こ」

 元永が歩き始める。後手が続いて焦りと混乱とを覚えながらも、高槻は訊いた。

「行くってどこに?」

 元永が立ち止まり、半身で高槻のほうへと振り返る。

「『神戸屋』の予約しとるから。てか早う行こうよ。ええかげん寒なってきたわ」

 二、三十歩先に見えている店構えを指してから、元永はまた歩き始めた。ややあって、呆気から抜け出した高槻が追いかける。

「てかさぁ、なんでさっきあたしのこと『元永』って呼んだん?」

 背中を丸めずに歩く元永の姿が、高槻の記憶にぴったり重なる。

「んん……なんだかこう、距離というかさ、あるでしょ?」

「無いとは言わへんけどさぁ、だからって苗字ってなぁ……」

 高槻がどう返すか考えかねているうちに、二人は神戸屋に着いた。

 神戸屋は高槻が広畑に住んでいた頃に元永とよく訪れた洋食屋だ。程よく威厳のある外観は高槻の記憶のままだが、ランチの時間帯にしか来たことが無く、それとはまったく異なるディナーの雰囲気に、高槻は緊張した――――が、それは元永の変わらない態度ですぐに解かれた。

「今さら苗字呼びとか逆に気持ち悪いわ」

「『気持ち悪い』って……そんなに?」

「うん、そんくらいやでほんまに」

 重い木扉を引きながら、元永がなおも文句を続ける。苗字呼びをしたことに腹を立てているというのは高槻も理解していたが、腹を立てている理由となると、どうしても理解が及ばない。

 二人は右手奥にある楕円のテーブルの席に座った。いつも使っていた席だ。

 客は高槻たちの他に二組。高槻は未だに機嫌を損ねている元永の声が他の客の雰囲気を壊さないか心配になったが、元永の声は低めだったということを思い出し、多少の詰りはうるさいと思われないだろうと考え直した。元永が常識の範囲を心得ているということを、高槻は知っている。

「呼び名は慣れが戻らないと……」

「まあ、成人式の時も誰かさんは顔も見せへんかったから、確かにかなり久しぶりやな」

「さすがに成人式はこっちに帰ってたけど?」

「それは知っとるって。『あいつ来とったで』って聞かされてな!」

 隣の椅子にボンッと叩きつけられた元永のカバンに、高槻は心の中で謝っておいた。

「失礼いたします」

 初老の給仕が水とおしぼりを置く。高槻の知らない人だ。

「あっはい、ありがとうございます」

 先ほどまでの態度を消し去って礼を述べた元永に高槻は苦笑いをしながらも、元永を見習って「ありがとうございます」と続いた。給仕は盆を脇に抱え、「いえいえ」とにこやかに会釈をした。

「元永様のご注文はご予約の際に伺っておりますが――――」

「そのままでお願いします」

「承りました。お連れ様はいかがなさいますか?」

「あっ、えっと……」

 “お連れ様”という呼ばれ方に、高槻はひっかかりを覚えた。

 元永が口角を緩く上げているのを視界の端に捉え、高槻は決めた。

「彼女と同じものをお願いします」

「承りました」

 給仕は伝票にペンを走らせ、再び一礼をしてから厨房のほうへと去っていった。

「そうするやろなって思っとったけどさぁ、ほんまにええんやな?」

「なにが?」

 口角を戻さないまま、元永はテーブル脇のメニューを指した。

「なんでメニュー見いひんかったん?」

「……同じものを頼むんだから、別に見なくていいでしょ」

 元永が手で口元を覆う。高槻は今さらにやつきを隠しても手遅れだと思ったが――――

「ここのディナーは桁がランチとひとつ違うって忘れてへん?」

「あっ……」

 高槻は元永の手を読み違えていたのだった――――――――




「いやぁ、ディナーの神戸屋って初めてやったんやけど、また全然違うんやなぁ」

「そうだね」

「なんか本気を見せられた感じやわ。昼も本気やろうけどさ」

「そうだね」

 カツレツのディナーコース。ランチで提供されるものとは確かに味も出され方も違っていたのだが、高槻はそれらを感じ取る余裕に乏しかった。

「なんよ、せっかくこんなおいしいもん食べたのに冴えへん顔やな」

「味の良さに比例するもの、なーんだ」

「なんやろなぁ」

「……分かってるんだよね?」

 高槻はいつも所持金を一万円ほどに留めている。そして、今日の帰省では交通費でかなりの額を使っており、今はディナーの代金をぎりぎり払えるかどうかという額しか残っていない。もしも元永に借りることになったらと考え、高槻はひどく暗い気分になった。

 そんな高槻の様子を見つつ、元永が口元で手を合わせ、頭を軽く横に傾ける。

「ふーん」

「『ふーん』って……」

 元永が手を口元から少し離す。

「そうそう、今日のお勘定はわたしが持つからな」

「……なっ、いやおかしいよそれは」

「別にええやん、大人しくおごられえな。もう大人なんやから」

「大人なのは関係ないって――――」

「ユウより二年も長く社会人生活しとんやでこっちは。後輩クンは先輩におごられとかなかわいくないで」

 高槻の中で、自尊心と名のつくすべてが砕けた。

「ああそういや、こっちに帰ってきたってことは、おっちゃんの店継ぐってこと?」

「……うん、一応そうなる可能性が高いかな」

「そうならへん場合ってどんなん?」

「分かんないけど、父さんには春まで猶予もらってる」

「へぇ。じゃあ春まで遊び呆けられるんやな」

「仕事を探すんだよ」

「まあ、院まで行ったんやったら、工務店より向いとる仕事があるかもやしな」

「そう……だね」

 この土地でそれが見つかる可能性など無いに等しいということを、高槻は分かっていた。

 仕事のことを考えたくなかった。将来は考えなくても変わらない。そういう境地に来てしまったのだと、高槻は思った。

 なにより今は今のことを、そして今だけは、つい先ほどのことを考えていたかった。体験した超常に理解を行き渡らせたかった。

 だが、元永に再会してから、高槻は元永の行動に流されている。かつての高槻はそれをずっと拒み続けていたはずで――――

「なあユウ……」

 見やるだけ――――にするはずが、高槻は目を釘付けにされた。

 貫こうとするかのような、上目の視線。テーブルを挟んだ距離が遠さを失い、幻想の深みを得た元永の瞳が、高槻の視線を捕まえて逃さない。

「あっちはさあ……ええとこやったん?」

 目だけを見ていた高槻にとって、その声は始点を持たない響音のように聞こえた。

 ただ、高槻の中でその問いに対する答えは決まっている。

 あっち。都会。高槻が望んで移り、暮らした土地。望んだ理由を思えば――――

「こっちよりはまあ……」

 消え入った言葉は、高槻の思考を反映しなかった。

「そっかぁ……」

 元永の目は上目を解いてゆき、ややあってまぶたを閉じた。

「けど、修士様が就職浪人ってよっぽどやろ」

「……ゆっけはなにも知らないでしょ」

「ユウがほんまは理系に進みたくなかったこととか?」

「なっ……んで……」

 その無様を、高槻は誰にも明かしたことが無いはずだった。

「あのなぁ……ユウは自分で思っとるほど変わってないからな? 高校の頃から……いや、もっと前からずっとやな」

「…………」

「ユウのそのどうしようもない面倒な性格が伝染ってしまうほどの長い付き合いやで? 嫌でも分かってまうわ」

「…………」

「なあユウ、こっちに帰ってきたんは諦めたからなん?」

「…………」

「……出よっか」

 元永が席を立つ。高槻は元永が『ごめん』と言わなかったことに気づいた。懐かしさと虚しさとを感じながら、高槻は元永のあとを追った――――――――




「送ってくわ。実家やろ?」

 店先で元永が提案する。

(最初からそうするつもりだったか……)

 元永がアルコール類を摂っていなかったことに、高槻は気づいた。

「うん、頼むよ」

「はーい」

 図書館の駐車場に戻ると、赤い小型車が停めてあった。

「かわいいやろ」

「暗くてよく見えない」

「相変わらずかわいげないなぁ……」

 開錠音がヂャッと鳴り、高槻と元永は車に乗り込んだ。

「ハァ……」

 すぐにシートベルトを締めた高槻と違い、元永はやや倒し気味の背もたれに背を深く預け、ため息をついた。

 沈黙。慣れない香気。高槻は背もたれから背を離している。

「……疲れたの?」

「うん、疲れた。ほんっまに疲れた」

「えっと、お疲れ様」

「ほんまやで……ハァ……」

 元永は右手の甲を目元に当てた。だが、しばらくして手をずらし、少しだけ身体を起こした。

「そうそう、言い忘れとったけど……」

 高槻のほうへと顔を向ける。


「おかえり、ユウ」


 ざわめきが高槻の身体を駆け上る。ここ数年言われたことのない言葉だった。

「た……ただいま」

 微笑む元永の顔をかなり長く見つめてしまっていることに気づき、高槻は慌ててフロントガラスへと視線を逸らした。だが、そこにも元永が映っていて、今度はサイドミラーへと視線を移した。

「そんじゃま、帰りますかぁ」

 軽い振動と、始動音。

 元永はシートベルトを締め、車を発進させた――――――――




 実家に帰るなり、高槻は父になにも言わずに、玄関からかつての自分の部屋へと直行した。

 電灯を点ける。ものの見事になにも無い。

 クローゼットを開けると、客人用として使っていた寝具が入っていた。それを素早く敷いて、高槻はそこへ倒れ込んだ。

 ポスッとささやかな音が立ち、わずかに砂っぽい香りが漂う。

 ふと、夕暮れの出来事を思い出す。

 あれは超常だったという確信がある。だが、その確信を得てからほとんど間を置かずに、高槻は約束の履行を選んだ。

 自身の損失、それどころか死の可能性さえもが考えられた。だが、厄介と思っていたはずの約束のほうを選んだ。その理由を、高槻は思いつくことができずにいる。

 ただ、思いつきたくないという考えもあった。

 せっかく取り戻した現実の感覚。それを捨ててまで、あの超常に再び触れたくないような気がしている。だが、現実の感覚を高槻に与えたのは元永で、高槻はどうしてもそれを受け入れられなかった。なにがあっても守り続けられるものと思っていた自己規範が崩れてしまっていたことを、どうしても認めたくなかった。

 無様が重なる。気づいていても、止まらない。止められない。

(もうなんか……面倒だな)

 まぶたが下りたが、すぐに電灯の消し忘れに気づいた。スイッチまで手を伸ばして電灯を消し、また布団に倒れ、目を閉じる。

 夜に考え事をしても、発想から狭くなってしまうだけだ。それが高槻の持論であり、だからこそ高槻は早く眠ってしまいたかった。そして、都合の良いことに、高槻の身体は疲労を溜め込んでいて、眠りはすぐにやって来た――――――――




 高槻が目を覚ましたのは、まだ陽も昇らないような早朝だった。

 頭が冴えてくるにつれて、大気の冷たさと先送っていた懸案とが高槻の頭にやってくる。

 一夜を経れば、重大な懸案であってもいくらか晴れやかな気分で向き合うことができる。高槻の考え方だ。実際に、気分はいくらか晴れやかではある。ただ、空腹でもあった。

 洗面所に向かい、腰を大きく屈めて顔を洗う。蛇口にさえも手が届かなかった幼い頃を思い出し、高槻は今までしたことのなかった“懐かしむ”という行為の感覚に思わず笑った。

 顔を拭こうと思い、洗面台の脇に掛かるタオルを掴むと――――

 手に湿り気が伝わった。

 ひと呼吸の、静止。

 高槻は掴んでいたタオルを洗濯カゴに投げ入れ、新しいタオルを出して顔を拭いた。

 居間に入ると、机の上に丸皿が置かれ、その上にはかつて好んで食べていた菓子パン、さらにその上には小さなメモが置かれていた。メモには『声をかけるくらいはしなさい』と書かれてある。高槻はその文言に同意こそしたものの、次に帰宅して父がいればきちんと声をかけよう、とは思えなかった。

 高槻はメモを握りこんで、ポケットの中に深く突っ込んだ。

 菓子パンを手に取って、ひと口ほおばる。

「甘い……」

 今や数口で食べきれるようになった菓子パン。朝食で甘いものを摂るのは数年ぶりだが、かつてのように菓子パンが出てうれしいと感じることはなかった――――――――




 十一月の朝。薄青の空に朝陽の朱が広がろうとし、まばらな雲が非力にも抗っている。

 色彩が空で緩やかに繰り広げている戦いを見上げながら、高槻は四車線道路の脇にある歩道を南進している。

 向かう先は、開館前の図書館。歩きながら、思考を巡らす。

(“あれ”と図書館は、なにかに関係があるのかな?)

 球体から見下ろした図書館の記憶を呼び起こす。一夜を経ても、像は明瞭なままだ。

 向かいからやって来る自転車はライトを点けている。空は明るくなりつつあるが、道はまだかなり暗い。

(あそこじゃないと起きないとしたら、なかなか面倒だなぁ……)

 自転車がベルを鳴らす。高槻が顔を向けると、自転車を運転しているのは、道交法の改正には興味が無さそうな老人だった。高槻は少し腹を立てたが、相手が老人だということを理由に気を静めた。車道に車両の通行が無いことを確認し、狭い歩道から下りて車道に出ようとする。

(もう少し楽にできたらいいのに……)

 そう思いながら自転車とすれ違った瞬間――――落下感が走った。

「なっ……」

 高槻の声はその場に残らなかった。

 老人は高槻の消失に気づかなかった――――――――




 歩道から車道までにあるのは、わずかな段差だけのはずだった。ところが、数秒の落下を経て――――気づけば高槻は空で朝焼けを臨んでいた。

 はるか眼下には図書館が見えている。朝陽の境界が西へと移ってゆくのも見える。先ほどまで自分がいたはずの場所も、すれ違ったはずの老人と自転車も、かろうじて見える。

(なんかもう……めちゃくちゃだ)

 最後の抵抗に、高槻は思いつくままにポケットに入れていた小型ミラーを取り出して――――自分の顔を見た。そして、この超常を現実に加えなければならないのだと、高槻はやるせなくも理解した。

 高槻は生きている。意識を保っている。今は確かに現実であり、視界に映るすべても現実だ。

 なんの意味を持つのかが定かではない球体と、繋がっている。

 また人目につくのは避けたかった。海中を思い浮かべた。海中に移動した。

「同じか……」

 きのうと同じ。そうなると、もはや確かめるべきことがほとんど残っていない。

 球体が遠ざけている濁水を目がけて、高槻はすっと手を伸ばした。球体の巨大な領域は、高槻の腕になんの抗力も加えなかった。濁水まで手が届くはずもなかった。

(なんでこんなに遠いんだろ……)

 気づかない間に徐々に深度を増していたようで、もはやほとんど光は失せている。球体の輪郭は濁水と区別がつかなくなり、球体の存在は高槻の身体に伝わる感覚だけで証されている。

(そもそも、僕はなんのためにここにいるんだ……?)

 ひどく遅れた疑問が浮かび、高槻は目を閉じた――――――――




 開館前の図書館。最上階のホール。きのうと似たような色彩だが、陽光は東から差している。きのうは閉館から時間が経っておらず、ホールにはぬくもりが残っていたが、今はとても寒い。

「んん……」

 思わず手をさする。球体内では適温だったということに、高槻は気づいた。

 高槻は海中に行こうと思った。高槻は海中に沈む球体内に現れた。

 高槻は球体を出て実家に戻ろうと思った。高槻はホールに現れた。

 球体の内部で“実家へ帰りたい”と思えばどうなるのだろうかと高槻は考えたが、球体が実家の近くに移動するだけで、出ることはできないだろうと考えた。球体が実家を潰してしまうかもしれないと考え、確かめることはしなかった。

 ただ、球体の内部へは自身の意思次第で即座に転移できるということを、高槻は転移を繰り返して確かめた。

「面倒だなぁ……」

 何度目かの転移から帰還した高槻は、朱が白に変わったホールで、心からそう呟いた。

 どこへでも行けはする。地球圏内であれば、高度や深度に制限は無いらしい。地中はさすがに無理だった。宇宙空間は試さなかった。恐怖があり、意味を見出せなかったからだった。

 地球上の様々な場所へと瞬時に移動できる。感覚は変わらない。それは、人によっては素晴らしいことだと思えるはずだ。

 ところが、高槻にはそう思えなかった。外へ出ることができないというのが理由のひとつ。高槻が呟いたのはもうひとつの理由だ。

 球体は目立つ。きのうは多くの者に目撃された。たとえ外からは高槻が見えていないとしても、自身が内部に存在し、まるで領域を主張しているかのような球体はもはや自分の代理なのだと、高槻は思うようになっている。

 人目を気にせず、ただ純粋に地球の秘境へと赴くことができる。そのような人間にこそ、この球体はふさわしいのではないか。そう思ったからこそ、高槻は自身が体験した超常を、手に入れた球体を、望んでいないのだった――――――――




 高槻が寝ぼけた守衛の目を盗んで館外へ出た瞬間――――

「うっ……あっ」

「いっ……えっ」

 高槻と元永が衝突した。

 間抜けな声が二人の口を衝いて出る。中途半端な体勢で通用口の数歩前に立ち止まる高槻。

「なんっ、これ……どういうことなん?」

 元永が目と眉を鋭くして高槻を問い質す。

「あ、えと、その……」

 開館前に出入りする部外者など、ただの不審者でしかない。開館まで待てばよかったと、高槻は後悔した。

「きのうは流したけどさぁ……ええ加減、なにしとったんか教えてくれてもええんとちゃうか?」

「それは……」

 高槻は静かな絶対で言葉を絶った。

「だって閉館しとってもお構いなしにすることなんやろ? それか、閉館せなでけへんこととか?」

 否定すればよく、そもそも隠さなければ済む話のはずで――――

「かといってなんか悪いことしよるようには見えへんしなぁ」

 それでも、高槻は意味の無い我慢をして――――

「でもユウはたまにやらかすからなぁ」

 保とうとして――――


「黙れ!」


 狭い道路を挟む建物が声を返し、道路方向と上空だけが声を解放する。

「あ……いや違っ……えと……」

 どうして声に出したのか、高槻は自分が理解できなくなった。

 たとえ踏み込まれたとしても、いつも心の中だけで否定してきた。ただ離れたかった。ただ離したかった。自分からも距離を置いて、遠い話にしていた。

 そんな自己規範は、きのうも、そして今日も崩された。そして、高槻はその崩壊を引き起こした相手と向き合っている。高槻のほうから向き合ってはいなくとも。

「ごめ……あの――――」

「ユウ」

 短くとも、高槻の弱い言葉を制するのには十分すぎるほどの強さ。

「人様に顔向けでけへんようなことしてんの?」

「それは……してない」

 それは正直に答えられるのかと、高槻は自分のことながら意外に思った。

「してへんけど、隠しておきたいん?」

「……うん」

 ふっと強さを収め、ぐっと戻す。

「……ほんまに悪いことはしてへんのやな?」

 悪いこと。その単語が高槻の思考で殊に浮き上がる。

 高槻は球体を厄介だと思いはしたが、悪質だとは思わなかった。球体の出現は確かに騒ぎを引き起こしたが、制御が利くと分かってからは騒動を起こさないように配慮したつもりで、そもそも最初の騒ぎが誰かに重大な損失を与えたようには思えなかった。

 ならば、なぜ元永に超常のことを隠しているのか。そんな自問が浮かぶ。

 その理由を、高槻はすでに知っていた。それでも、無駄に時間をかけた。認めたくなかったから、時間という絶対の距離を使った。

「してないよ。でも、ゆっけには言いたくない」

 かなりの時間をかけた答え。元永の表情はさらに怪訝さを増した。

「それって、わたしにだけ知られたあないってこと?」

「いや、誰にも。ただ、ゆっけには絶対に言いたくない……ような気がしてる」

「……それっていじめてんの?」

「そうじゃなくて……よく分かんないんだよ、自分でも」

「えぇ……」

 理の通らない願望。隠さない不明さ。無様にまみれても隠す真実。

 そんな高槻の愚かな狡猾に、元永は――――

「じゃあ、今はこれ以上追及せんけど、代わりに条件出すわ」

 高槻の胸元へと、元永の人差し指がまっすぐに向けられ――――

「いつか絶対に教えて。自分で言おうと思えるようになってからでええから。ただし、不履行は許さへん。はぁ……これでどない?」

「……言うのは確定?」

「はあ!?」

 不意に言葉となった甘えのような尋ねごとは、元永の鋭さを弾けさせた。

「当ったり前やろ! けっこうな我慢やのにさぁ!」

 元永は呆れた。だが、高槻には元永の条件を拒む気は無かった。偽りの呆れであると高槻は分かっていた。元永も隠していなかった。

 互いが“いつもどおり”へ戻り、圧がゆるやかに解けてゆく気配。

「……分かった、その条件で――――」

「あっ、ついでにひとつ追加してええ?」

 一歩も動いていないというのに、高槻の体勢が軽く崩れる。

「えぇ……まあ拒めた身分じゃないけど……」

「じゃあ――――」

 冗談めいた本音を言うときに見せる妖しい笑み。

「『またいつか、ユウがわたしにごちそうする』」

 元永がその表情を見せるのは、いつもほんの一瞬。だからこそ、強烈で、忘れられない。高槻の記憶へ、抗いようなく、また深々と鮮やかに加えられる。

「あ、もちろんちゃんと手に職つけてからでええからな?」

 一瞬が過ぎれば、もはやただのいたずらめいた笑顔でしかない。成人になり、社会人になった人間のものとしては、ひどく幼すぎる表情。

「……それは追加にならないよ」

「たまには素直に返してくれへんかなぁ……」

 別れは無言で察する。それは、かつての二人が築いた関係だった。

 そして今、蘇る。

「約束やからな」

「うん」

 互いを見やりもせず、踏み出した歩みを少しも緩めず、すれ違い、離れてゆく。それが自分と元永との間にある関係なのだと、高槻は思った――――――――




 求人誌を携え、高槻はあてもなく移動した。

 仕事は探さないと決めていた。高槻は無いと分かっているものを探すほど楽観的な人間ではない。昨晩の高槻は嘘をついたのだった。その理由は考えないことに決めていた。

 歩き、電車やバスを乗り継ぎ、歩く。途中で貯金を引き出した。

 春はとても遠い。父がなぜ半年もの猶予を与えたのか、高槻には分からなかった。本人に訊けば分かるものを、高槻はそうしない。訊くという行為を避けようとするのは高槻の性格だが、それが親を相手にしても同様であるということは異常なのだと理解している。

 高槻は親が嫌いなわけではない。親に非を見出したこともない。間違えるのはいつも自分だったのだと、高槻は信じてきた。そして、それは相手を親に限った話ではなかった――――――――




 高槻が家に帰ったのは深夜だった。

 自分の部屋に行ってしまおうとしたが、玄関で足が止まった。

 短い廊下の先にある居間のドアのスリットの明るさが、父の存在を示している。

 ポケットに手が伸びる。指が小型ミラーに触れる。今朝のメモがその裏に隠れていた。

「ただいま」

 高槻は玄関から気持ちばかり大きめに声を出した。

「おかえり」

 父の返事だけがドア越しに高槻まで届く。

(これでもいいのか……)

 高槻は靴を脱ぎ、居間に入らず、部屋へと向かった。

 帰る前に銭湯を利用したのは正しかったのだと、高槻は思った。湯冷めは分厚い着衣が防いだ。そもそも高槻には湯冷めがどういうものなのかという感覚知が無いのだが。

 部屋着に着替え、電灯を消そうとスイッチに手を伸ばす。その時、引き払った部屋の荷物の配送指定日が明日だということを、高槻は唐突に思い出した。時間指定は午前中だ。確か九時からだったか、などと考えつつ、敷いたままだった布団に寝転んで――――

(慣れてる、のか……)

 借り物を自分の物にしようとする、強欲な人間。来客用の布団に包まる自分も、一度は自分のものではなくなった部屋で眠る自分も、出戻ったうえに実家で落ち着こうとしている自分も、そんな人間と同じようなものだと、高槻は思った。

 感じていたはずの違和感が早くも消えようとして――――いや、自分がそれを“消そうとしている”ということが、高槻にはひどく醜悪なもののように思えている。そうしてゆくうちに、そう遠くはない未来には、まるでこの土地に戻るべくして戻った人間として、それどころか、まるでずっとこの土地で生きてきた人間として振る舞い、暮らし、生きるようになる。そんな予感が、身体を覆う掛け布団の中で、籠り始めた熱に溶け込んでゆく。

 まさに狭くなっている思考。高槻もそれは分かっている。だから眠ってしまいたかった。だが、何度も移動し、外の空気や雰囲気に晒され、身体も精神も疲れているはずだというのに、眠気は遠く、思考が居座って暗みへと深まってゆく。

 そして、そうなればどうしても到ってしまう、現状の原因。

 今も抱いている憧れ。

 眠れはしないと分かっていながら、高槻はまぶたを閉じた。だが、視界を絶っても思考は止まらない。そして、意識と感覚とを保ったままで――――布団の感触が消えた。

「あぁ……こうきたのか……」

 高槻は――――球体の中にいた。

 戻った視界に捉えるのは、首都が面する湾の上空。

 今までになかった位置で夜景を臨む。高度はそれほど無い。

(こんなところはダメだ。目立ちすぎる)

 拒んだはずだった。だが、球体は移動しない。

(なんでこんなところに現れるんだ……)

 それは、高槻が望んだからに他ならない。

(こんな……ところ……)

 姫路にいた頃に、ずっと希望を映し続けていた場所。中途半端や醜さとは無縁な理想郷を夢見た場所。大学生活を経て夢は覚めたが、高槻は未だに地元よりもはるかに理想に近い場所だと思っている。

「あぁ……」

 目は夜景を一心に捉えてしまう。きらめきの中には様々な秩序を見出すことができる。それらをきれいなままに感じられる距離で、球体は静止している。高槻の思考は遊泳し、定義も検証もされない美しさをただ感じ、感覚に身体をただ預ける。

(やっぱり、やっぱりだなぁ……)

 眠っても来てしまうだろう。眠ったからこそ来てしまったのかもしれない。起きているということこそが夢や幻覚なのかもしれない。高槻はそう考えつつ、ほとんど残っていない思考で、自身と球体の関係に新たな項目を加えた。

(僕はきっと、ここへ来るのを止められない……)

 せめてただ眺めているだけにしよう。高槻は思考が果てる寸前にそう決めた――――――――




 十二月二四日。日没から数時間後。姫路駅前――――地元で最も都会に近い場所を、高槻は歩いている。

 ビルのディスプレイが映すニュースでは、謎の球体が首都湾上に出現するようになって一ヶ月が経ったことを報じ、政府が球体への対策をほとんど講じていないことを景気よく非難している。高槻はひとしきりニュースを眺めてから、また歩き出した。

 球体があの場所に現れてしまうのは避けられないと分かってから、せめて動かさないようにしようと、高槻は決めていた。いつか球体からの眺めに飽きるまで――――飽きはしないだろうという予感があったが――――球体で静寂に包まれながら、膝を抱え、俯瞰し、眺めていよう。そう高槻は決めていた。

 通知音が鳴る。今時では珍しい電話だ。その相手は――――

「もしもし?」

「あっはぁ、ももしきぃ」

「うわ……」

 電話の掛け手――――元永の声は明らかに酔っていた。

 高槻は近くの路地に入ってから立ち止まった。

「ちょっと大丈夫? 吐き気はない?」

「こんなロマンチックな日に訊くのがそれかよぉ」

「そんな日に泥酔してるゆっけが悪いよ」

 ドンッ、と大きな音が立った。

「あぁー怒りました、怒りましたよぉ。罰としてうちに来なさぁい」

「えっ」

「ケーキが余っててぇ。ほら、『代打、高槻』だぁ! カントクのご指名だぞぉ……うへぇ気持ち悪い……」

「えぇ……」

 高槻は困った声になったが、足は帰路へと向かっていた。

「住所はメッセで送るから、すぐ来るんやでぇ。来んかったら承知せえへんでぇ……」

「……分かったからそれ以上呑まないでよ?」

「はぁーい」

 電話が切れる寸前にもドタンバタンと音がした。

 バスと鉄道のどちらがより早く帰れるかを調べようとした高槻は、ふと思い至った。

「実家……あれ?」

 高槻は元永の実家の住所をすでに知っている。実家を移したのかとも考えながら、高槻は元永がまもなく送ってきた住所を確認した。

 その住所は、高槻の予感を悪いほうに証した――――――――




 高槻は元永の家――――ハイツの二階にある角部屋――――へとたどり着いた。

 そこまでの道程で、高槻はできるだけ無心になるように努めた。車窓の景色を眺め、普段は見ない車内広告をじっくりと読み込んだ。扉の前に立つことから逃げないために。

 インターホンを押そうとすると――――ドタバタッ、と音が扉を突き抜けた。

(んん……)

 高槻は意を決してインターホンを押した。

 ドンッ、ガタンッと音を立てつつ、しばらくして玄関が開いた。

「呑んでへんからなぁ」

 元永はやはり見事に酔いきっていた。

「顔見るなりそれって……」

「ああそっかぁ、いらっしゃあい」

 招き入れるために下がる一歩さえもが危うい。

 玄関は荒れている。ただ、ゴミがあるわけではないというのが、この状況の突発性を物語っている。

(これは……)

 確実に浅くない。高槻はそう確信した。確信するしかなかった。

 足取りのおぼつかない元永の後に続いて短い廊下を渡ると、その先には八畳ほどの居間があった。半開きの扉の向こうに別の部屋が見え、高槻は部屋の間取りを1DKと推定した。

「ケーキの代打とかなんやそれって感じやわ、はぁー」

「それ、僕のセリフだと思うんだけど」

 部屋の中央には座卓と二個のクッション、座椅子が一脚置かれ、座卓の上には、大きなオードブルと、開封済みの赤ワインが数本、そして底がほのかに赤いグラスが置いてある。

「でもなぁ、ホールやで? しかもめっちゃ大きいやつ」

 そう言って、冷蔵庫のほうへ向かおうとした元永――――の膝がガクッと折れた。

「あ……」

「ぐっ……!」

 とっさに高槻が元永を支える。玄関で元永の様子を見た時から、高槻はこうなることを予期していた。

「とりあえず座りなよ。なにか薬は飲んだの?」

 高槻が座椅子に元永をゆっくりと座らせる。

「え、あ、ううん……」

「食器棚ってこれ?」

「うん……」

 高槻は元永の部屋に着く直前に思い立って薬を買い、ポケットにしまっていた。食器棚からコップを取り出して水を入れ、薬の箱と並べて座卓の上に置く。

「はい」

「ありがと……」

「冷蔵庫、僕が中を見ても大丈夫?」

「あ、うん。でもなんで?」

 元永が薬を飲み込んで訊き返す。

「ケーキ。忘れそうだから」

「……なんか作ってくれるんかと思った」

「そのオードブルは飾り?」

「だからぁ、もう……はぁ……」

 元永は座卓に突っ伏した――――――――




 高槻は冷めたオードブルと大きいケーキとを半分ずつ取り分けて食べた。その間ずっと、元永は伏せっていた。

 寝てしまったのかと思い、オードブルとケーキにラップをかけて冷蔵庫にしまってから、高槻は自分のジャケットを元永にかけようとして――――

「起きとるよ」

 元永は伏せたままそう言った。

「なんだ、そうだったの」

「……かけてよ」

「ん?」

「それ」

 頭だけわずかに揺らす。ややあって、ジャケットのことだと理解でき、高槻は宙で留めていた手をそのまま下ろし――――

「ユウにはやっぱ、絶対に越えへん距離があるよな」

 高槻は動きを止めた。元永が顔を少し上げ、目だけを覗かせる。

「ごめんな。責めてるわけちゃうねん。ユウはそういうやつやってちゃんと分かったうえで呼んだんやから。ユウやったら、潰れへんように聞いてくれるから……」

 自分の予感がことごとく当たっていることを、高槻はうれしいと思えなかった。元永の言葉は、“距離”に踏み入る宣言でもあった。

「もともとはな、大学の友だちで集まってクリスマスパーティやるつもりやったんよ。でも、そんな気分になれんようになったから、断ってもた」

 いつもの高槻ならば「どうして?」と言うところだ。

 だが、言葉が出ず――――

「身体、触られたんよ。上司の野郎に」

 高槻は言葉をもう出せなくなった。

「本人的にはあれで口説いとるつもりやったんちゃうかな。でも、ほんまに……ほんまに気持ち悪かった」

 ぬくもりの届かない場所から湧く寒さに、元永の肩が震えている。

「どついて、蹴倒して、張っ倒して、ぶっ殺してやりたかったのに、身体が動かへんかったんよ。やっと突き飛ばした時には、向こうは勝手に満足しとってな……」

 元永が再び顔を伏せる。高槻は踏み越えさせようとする不可視の力に抗っている。

「断りの連絡を入れる時さぁ、事情とか話す気にもならんかった。それで“友だち”とか、ほんま……なぁ……っ」

 声が涙色になる。それでも、高槻は手を伸ばさない。

 元永は自分の背にかかる高槻のジャケットをきつく掴んだ。

 距離を保ち続けていなければ、いつか必ず、途方もない苛酷に襲われる日が来る。だが、今や高槻は自分との距離も保てなくなってしまいそうで、それが嫌で、怖かった。

 カチッという音とともに、時計の針がまっすぐ上を向いて揃う。

「いつもなら寝とる時間?」

「……うん」

 元永がジャケットを掴む手を緩める。その声のわずかな変化に、高槻は気づかない。

「わたしな、この時間はいつもやとまだ起きとんのよ」

「……そう」

「うん。でな、わたしの考えどおりやったらな、いつもこの時間にあったもんが、今は無いはずなんよ」

 元永の手元が動き始める。携帯端末を操作しているのだと高槻が気づくと同時に、元永はそれを座卓の上に置き――――

「ユウみたいにな、わたしも“自分と距離を置く”ってのができるようになったんよ。冷静に動けるようになるよな。今だってさぁ、怖かったんもつらかったんもぜんぜん嘘ちゃうのに、どっかちゃうとこに置いとけてさぁ……」

 高槻は自分が元永の言葉を聞き取れているのかさえも分からなくなっていた。なぜなら――――

「今が一番いいタイミングやって思ったわ。絶対にユウを離さへんような状況は、きっと今だけなんやって。やっと、ほんまにユウに近づけるんやって」

 携帯端末の画面に映っていたのは――――

「なあユウ、これとどういう関係があんの?」

 球体のない首都湾上空を撮影するライブカメラの映像だった。

「見せてないだけで他にも証拠はあるんやで。決定的じゃないってだけで――――」

 そして――――高槻の身体に落下感が走った。

「えっ……」

 耳が捉える自分の驚きの声と、閉じゆく視界が捉える元永の口の動きとが重なる。高槻は元永に手を伸ばし――――

(手が……なんで……)

「優希っ!」

 思考の惑いを打ち消すかのように、高槻は呼んだ。

 元永も手を伸ばしていた。高槻にもそれは一瞬だけ見えた。だが、元永の声も、手も、高槻には届かなかった――――――――




 届く先を失い、宙に浮かぶ手。そして、身体。

 夜景も、球体も、今となってはもはや異質で、不明で、望んでもいなかった。

「なんで……っあ……な……んで……」

 悪事が露見したわけではないのだから、今度こそ降参して正直に話せばよかった。

 とっさに逃げ出したくなってしまったのは仕方の無いことだったと割り切れば、もはや帰ろうと思えば済む話だ。ホールへと戻り、元永の部屋まで駆け戻ればいい。

 自分はそう考えているのだと、高槻は信じたかった。

 だが、高槻は未だに球体内に留まっている。

 球体の原理は変わっていない。上空の月に高槻が魅了されているわけでもない。

「なんにも……っ……分かんない……」

 どこにも移動しない球体。それが示すのは、高槻の思考と精神の深奥。そして――――

『ユウってなんか……遠くなったよな』

 高槻は不意にそんな言葉を思い出した――――――――




 その日は高校最初の冬休みの前日で、高槻は元永と帰路についた。

 同じクラスの幼なじみでも一緒に帰るのは久しぶりだったせいか、会話はあまり続かなかった。そして、広畑の東端を流れる夢前川を渡ろうとした時、二人はどちらからともなく河川敷へと降りてゆき、堤防の階段に並んで座った。

 それからしばらく、橋を渡る車両の走行音を聴きながら、二人は黙って川面を眺めていたが――――

「やっぱさぁ、ユウってなんか……遠くなったよな」

「えっ」

 高槻は思わず元永のほうを向いたが、とっさに目線は少し外した。元永が夕焼けと同じ方向に座っているのが好都合だった。

「『遠くなった』? 僕が?」

「うん。なんかな、ユウってほんまはどっか遠いところで静かに見とるような気がするんよ。でも別にいつものユウが上の空やったりするわけやなくて……えっと……あれ?」

「そこ詰まるんだね」

「だってしゃあないやんか。そんなん初めてやし」

 川面のほうへと向き戻った元永の顔が、ふっと翳る。

「なんでやろなぁ……」

「高校生にもなって中二病?」

「どっちかってゆうとユウやろそれは」

「僕のはラノベチックなのとは違ってたし、もう終わったよ」

「あっそ」

 再びの沈黙。川面の波を眺める時間に戻るのかと、高槻は思った。

 だが――――

「なあ」

「ん?」

「わたしな、ほんのちょっと昔のユウのこと、好きやったで」

「…………」

「……なんよ?」

「いや……」

 高槻はやはり川面の波を眺めることにした。

「まあでも、それも今はちょっと違うんよ」

 過去の話だということに、高槻は気づいていた。

「今のユウはな、きっとわたしがなにかしてあげたいって思って、それを言葉にして、もしそれができる力を持っててもさぁ、絶対にわたしの手……取らへんやろ?」

「…………」

「なんかなぁ、むかついてきたんよな。好きになったもん負けってこのことかよって」

「…………」

「だからな、ユウ、わたしとケンカしよか」

「……えっ?」

 高槻の視線は川面を離れ――――戻れなくなった。

「わたしな、ユウが嫌がってもその距離だけは絶対に詰める」

 怒りだった。高槻の知らない怒りだった。

「ユウの家のこと、クラスのゴタゴタ、部活のイザコザ、わたしもなんぼかは知っとる。ひとつひとつがほんまに軽いもんやないし、しかもこんだけ重なることはそうそうないってのも分かる。それでこんなふうになるんも……まあ分かる。分かるから……むかつく」

 言葉の不可解さと重さとが、高槻を圧倒する。

「わたしがそんなに……そんなに弱ぁ見えるんか!」

 言葉の強さと弱さとに、高槻は呆然とした。

 元永はいつも笑顔だった。真顔になるだけでみんな笑ってしまうほどに、誰もが、高槻も、元永の表情とは笑顔なのだと思っていた。

 今までは怒りさえも笑顔だった。だが、今は違う。まさに怒りで、どこまでも怒りで、そして、純粋で、無垢で、無知な怒り。

「……いや、わたしは弱いんやって知りたあなかっただけやろな。だから、ケンカになってもしゃあない。ケンカになるんやったら、とことんやったる」

 ぎこちなく握った拳を、震えながら曖昧に開き、また握り込む。

「なんか良さげに見えてまうからあかんねん。そのせいで、わたしまでユウみたいになってまいよる。やから……やりかえしたんねん」

「いや、待って――――」

「いやや! 絶対待たへん!」

 元永が高槻の手を捕まえる。

 だが――――

「っ!」

「あっ……」

 高槻はとっさに――――最後は自分の意志で――――元永の手を振り払った。

 後悔の念はすぐに湧いたが、高槻の心はそれに染まらなかった。

「…………」

「…………」

 高槻だけが目を逸らしている。視線は川面へ。思考は彼方へ。

 川面の波を見つめていれば時間は過ぎ、否応無く距離が作られる。

 逃げだった。高槻に打てるのは、もはやその一手だけだった。

「ケンカやからな……痛いのは……当然やしな……」

 元永が呟く。その波は穏やかでありながら、確かに高槻まで届き、いつまでも衰えない。

「けどな……ユウはそんなやつやない……そんなやつになってええわけないんやから……」

 ありえないはずの反響。波が増幅してゆく。高槻はまた逃げて、行き場を失った視界は元永を避けそこねてしまい――――

「やから……絶対にやめたげへんからな」

 高槻を睨みつける元永。その頬には、ふた筋の涙の跡が残されていた――――――――




 どんな高槻も逃げられなくなっていた。

「やめて……よ……嫌だって……言って……」

 いくつもの言葉が、高槻の記憶から思考へとなだれ込む。

 音が色を引き連れ、感覚までもが満たされてゆく。


『佑貴がいつも私たちの間に立とうとしてんのやで――――』

『ごめんな佑貴、姉ちゃんと一緒にしてやれなくて――――』

『気持ち悪いやろ、そんな分かられたら――――』

『なんであんたが弟なんよ――――』

『お前が怪我させたんやろが――――』

『なんでずっと見てあげへんかったんよ――――』

『お前が見捨てへんかったら――――』

『他人のせいにすんなや――――』

『余計なこと教えやがって――――』

『誰のことでも分かるつもりやった? なんもせんくせに――――』


 球体がより黒く、厚く、大きくなってゆく。高槻はもはやそのことに気づけない。だが、もし世界が遠くなってゆくことに気づいたとしても、高槻はそれを拒まない。

「いつも……間違えるから……みんな……みんなっ……」

 また壊してしまうことが、どこまでも、どこまでも、途方もなく怖いから――――――――


『その距離だけは絶対に詰めるからな』


「っ……!」

 再びその言葉がよみがえった瞬間――――球体が肥大をやめた。

 そして、球体は現実に夢を満たし始めた。

『“あんたの幼なじみが無愛想すぎて怖い“ってまた聞かされたわ。ラノベのタイトルかっての』

 球体が、縮み始める。幾重もの層を剥ぎ落としながら。

『わたしはユウよりうまいこと渡り歩いとるけど、ユウはまあ酷い言われようやな。でも、わたしには酷いようには思えんわ。だって考えが近いんやもん』

『なんか幼なじみ感が強すぎてめっちゃ近い存在やって思われとるみたいやからさ、今度からわたしのことを“ゆっけ”って呼んだらええと思うんよ。ほら、わたしのあだ名な。“呼ばされてる感”を出したら、たぶんええ感じになるやろ』

 またひとまわり縮む。まだ外縁は遠い。

『何回でも言ったるけど、望んでこないしとんのやからな? 自業自得っちゅうか、因果応報っちゅうか、まあそんな感じやわ』

『外当たりだけはマシになってきたんとちゃう? まあ、中までは余計に遠くなっとる気もするけどな。もうほんまどないせえと……』

『“高槻くん、変わったな。前よりええ感じになったわ”やってさ。ふはっ、なあ、笑ってもええ? いやもう笑ってもたけど。ははっ』

 またひとまわり。まだ届きそうにない。

『ユウいつの間にそんなに勉強しとったん? あぁもう、そんなん間に合わへんやんか。にしても、首都かぁ……』

『やっぱわたしは関西圏までやってさ。おとんとおかんに言われてもたわ。頑張って抵抗はしたんやけど、それでも全部捨てる覚悟がわたしにはなかったんやなぁって……』

 またひとまわり。外縁はもう濃く見えるほどに近づいている。

 球体を満たしていた夢が、静かに消えてゆく。

『おめでとう。お互い現役で決まってよかったな。引越しはいつになったん? うわっ、早いなぁ。そんな急がんでええのに』

『じゃあ……また。気いつけて行くんやで。たまには帰ってきて顔見せぇよな……って、なんやおかんみたいなこと言っとるなわたし。あはは……』

『絶対、諦めたらへんからな……』

 そして、最後に残った夢は――――


『おかえり、ユウ』


 球体は、高槻の身体とほとんど同じ大きさになった。

 高槻の頬を、涙が止めどなく流れる。そのことに、高槻は気づくことができた。

 そして――――不明が明かされてゆく。

 もう距離を保てないということを、高槻は悟った。少しの策と、短くて長い時間とが、今この瞬間を叶えたのだと思い知らされた。

 なぜ元永に帰省することを伝えたのか。その要因となったものを、高槻はずっと忘れていた。思い出してしまえば、当然だったと思うしかなかった。

 球体が消えるという予感がした。それでいい。高槻は心からそう思った。

 いつでも現れ、どこへでも行け、絶対の距離を保つ球体。そこに留まれなくなるのは、高槻が帰りたいと思ったからだ。心のどこか深く、誰も気づかないところで。

 そして今は、心の全てがそう望んでいた。

「帰ろう」

 言葉にすることも、ついにできた。

 時と空間の終わりが確定する。その最後の因子は、近くて確かな未来にある。

 嫌悪さえした地へ。そこでともに過ごし、誰よりも長いケンカをしていた人のもとへ。

 今、会いたいと、近づきたいと、高槻は願った。

 白み始める空から、球体は姿を消した――――――――















 目を開けると、高槻は図書館の最上階のホールにいた。そして、走り出そうとした高槻の前には――――高槻のジャケットを羽織る元永が立っていた。


「そこにおるんやろ」


「っ……」

 元永の言葉で、高槻は外縁の曲面をなす薄い線の存在に気づいた。それは、高槻がまだ球体から出ていないということを示していたが、それを恐れる必要は無いということを、高槻は理解していた。

 正中から腕までの長さほどの距離。それさえも今や遠いと感じてしまう。

「今がいちばん近いなぁ……」

 そんなに優しい顔になれるのかと、高槻は元永に言ってやりたくなった。

「やっとや……やっとここまで来てくれたんやな……」

 元永がゆっくりと手を伸ばす。球体に触れようとしているのだと、高槻は理解していた。

 だが、もう拒まない。

 互いが、ようやく互いを求めるようになった。

 そして、高槻も手を伸ばした――――――――




 求め合う手にその外縁を挟まれた瞬間、球体は球体であることをやめた。絶対を捨て、中心を失う代わりに高槻の身体をぴったりと包み、すうっと身体に溶け込んでいった。

 その喪失は不幸でも悲しみでもなかった。高槻の心は晴れやかで、軽やかだった。

 高槻はゆったりとため息をつき、二人は――――抱き締めあった。

 距離が、ゼロになる。

「ただいま……優希……」

 高槻の言葉に、元永は息を鋭く吸った。

「まだ誰にでもってわけにはいかないけど、優希にはもう、しない。約束するよ」

 高槻の背中に、元永の手のぬくもりが伝わる。

「……名前呼びはあかんて。びっくりしてもたやんか」

「でも、僕にとっては優希って呼ぶほうが自然なんだよ」

「おんなじ名前やのに……」

「それでもいい」

 ホールに朝陽が射す。

「……なあ」

「ん?」

「ここでわたしがユウのこと嫌いって言ったらどうする?」

「……すごく悲しくて、たぶん泣く」

「心から?」

「心から」

「そっか……」

 高槻が先に腕を解く。元永は高槻の服の袖を掴んだまま少しだけ離れてから、高槻を見上げた。

「わたし、ユウのことずっと好きやった。でも……今はもっと好き。今まででいちばん、大好きになったよ」

 どこまでも優しい笑顔だった。そして、元永は高槻を促した。

「僕は、優希のことが好きなんだってことをずっと忘れてたんだ。でも……思い出せた」

 元永は目を丸くして、それから視線をふいと高槻から逸らした。

「じゃあ、もう忘れんといてよ?」

「うん。絶対に忘れない」

 高槻がそう答えた瞬間、距離は再びゼロとなった。触れた瞬間に、二人は永遠に離れないことを誓った――――――――
















『球体が消失してから一週間が経とうとしています。ご覧のように未だ警戒態勢は続いており、今後もしばらくは警戒態勢が敷かれるものと思われます――――』

 十二月三一日。夕食の頃合い。

 元永はテレビのニュース番組から目を離して、キッチンのほうを向いた。

「この警備しと人らさぁ、大晦日やってのにご苦労さんやなぁ」

 キッチンでは高槻が年越し蕎麦を作っていたが、その手を止めて頭を下げた。

「ごめん……」

「謝る相手はわたしやないやろ。まあ、どうやって謝んのって話になるけど」

 高槻は座卓の上に蕎麦の丼を二つ置き、元永は座椅子の背もたれから身体を起こした。

「もうあれは出えへんようになったん? いただきまーす」

 高槻が座るなり、元永は蕎麦を食べ始めた。

「うん。試してみたけど、もう行けないのは確かだろうね」

「そっか。まあ、もう要らんもんな」

「そうだね」

 高槻も蕎麦をすすり――――

「なあ」

「ふぁい?」

「家はどこに建てよっか」

 蕎麦を喉に引っ掛け、高槻は思わずむせてしまった。

「ちょっ、大丈夫?」

「きっ……ゲホッ……気が早すぎ……ゲホゲホッ……」

「ええやん。考えるだけやったらお金要らんし」

「そりゃそうだけど……ケホッ、んん……」

「で、どこがいい?」

 高槻が箸を置いて考え込む。

「そうだなぁ……近くにあんまり人がいないところ。家は小さくていいから」

「ふふっ」

「えっ、なに?」

「いや、わたしとおんなじやなぁって」

 不意を衝かれてしまった高槻は素早く箸を取り、蕎麦をすすった。元永はしばらくその様子を微笑みながら眺めて、また蕎麦をすすり始めた――――――――




 誰に対しても絶対の距離を置かないようにできるとは、高槻にはまだ思えない。だが、いつかできるようになるのかもしれないとは思えるようになった。

 絶対は存在しうる。だが、いつか必ず絶対である意味を失って、消え去る時が訪れる。

 距離の絶対を捨てた高槻と、絶対である意味を失わせた元永は、互いに寄り添う未来を、いつまでも、いつまでも、叶え続けてゆく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 読了しましたので感想を。 SF的な要素もありますが、これは青春小説ですね。 少年から青年へと成長する、あるいは学生から社会人になる過渡期に、誰もが経験する心の機微を、球体という仕掛けで表…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ