dr-2
黒い狂気の塊を握る指に力が籠る。
何故かこの男には…いや、正確には『今』この男には言い知れない恐怖を感じる。まるで、このままだと取り返しがつかなくなるとでもいうような。先程からまるで自分自身のことすらも気にもとめないないような、ほとんど諦めたかのようなことをこの男は言っているが、それでもなぜかそう思った。内容なんぞほとんど耳に入っていない。だが、思うのだ。
このままこいつに話させてはいけない。
レチユは漠然とそう思い、早々に話を打ち切るべく自然と早口になる。
ダメもとで正体を訊いてみるが、結果は見えていた。
この男に聞きたいことが無いわけではないのだが、どういう訳か、このリュードと名乗った男には、話を聞く気にすらならなかった。
「残念だ」
大して残念そうにもみえない一言。それでレチユの不快感は頂点へと達した。
悪いな
思ってもない言葉が口をついてでる。
そして指を掛けた指に力が掛かり……
男は血を撒き散らして、前のめりに倒れ込んだ。重いものが倒れる鈍い湿った音に、血糊で濡れた地面にそれが叩きつけられる粘り気のある不快な音。
それは今まで、レチユが見まい、聞くまいとしていた音だった。
目眩がしてよろけそうになるのを踏ん張って耐え、レチユは部下を連れて、その部屋を離れた。
最早、その男は動かなかった。
ーー
社長室に戻ると、いつの間にやら疲れきっていたレチユは自分の椅子に、倒れるように深く座り込んだ。確か、社長として少しくらい部下と違うところがあった方が良いだろうと思い、少し高いこの椅子にしたのだった。今はその座り心地の良い椅子が、ただただありがたかった。
「大丈夫ですか?」
心配そうな声に振り返ると、一番付き合いが長いとも言える部下である、秘書のコアマストラ(姓)が他の部下達と共に立っていた。
とても大丈夫とは言い難かったが、ここで弱音を吐いたところで何にもならないのは理解していたので、無理にでも気持ちを奮い立たせ、重い体を駆動させる。
ああ、大丈夫だ。さて、次の仕事に取り掛からねばならないな
「顔色が優れませんよ、少し、休んだ方が宜しいのではないでしょうか?」
部下達は本心からコチラを気遣ってくれているのだろう。自分達も不安で精神的にまいっているだろうに。
そうしたいのはやまやまなんだがな、奴らが許してくれんだろ
この状況を作り出した張本人、あの忌々(いまいま)しい奴らはどこから来たというのだ。家族が無事なままでいるには協力しろと言われて、社員も含めた全員の家族写真、それもどこかで盗撮されたと思われる生々しい生活感のある写真を見せられた時は、気が狂うかと思った。
銃を作れだと?オマケに汚れ仕事は任せる?自分達は姿を晒すわけにはいかない?……すべて、すべて悪い夢のように思われた。しかし、これは紛れもない現実だ。自分は、自分達は人を殺した。それも一人や二人じゃない。なんの恨みも関係すらもない、罪もない人間を殺してきた。自分達の恨みがあればまだ気が楽だっただろう。しかし、自分達がやっているのはただの通り魔と何ら変わらない。世間から見ればただの狂った犯罪者だ。
テレビのニュースを見た、どうやら自分達は"押し込み強盗"とされているらしい。驚いた事にまだ、発覚してないものの方が多いらしい。警察は何をしているというのだろう。いっその事、自分達を止めてくれればいいのに……そうすれば、奴らは家族から手を引いてくれる。
そこまで考えて、レチユは笑うしかなくなった。
そんな訳が無いではないか。捕まったら用済みとして全員処分されるだけだ。
そしてレチユは気付くのだ。自分達が最早、やり切るしかないのだということに。
選択肢はない…か
「その通り、貴方がたには最早選択の余地などないのですよ」
自分は呟いていたのだろうか、それすらも分からない。
しかし、突如部屋の隅に現れた二人の男達。その内のオールバックの方の男の言葉から察するに、口に出してしまっていたのだろう。もう一人の男は相変わらず真っ黒な仮面を付けており、表情が読めない。
何か用か?
訊いてはみたものの、実際には分かっていた。
「何やら大変だったようだね、それはさておき、次のターゲットが決まったのだよ、諸君。喜び給え」
どっかの国の上流階級のような嫌味ったらしい口調で歩み寄ってくるこの男にうんざりしつつ、レチユは次の彼の言葉を待つ。部下達も皆、口を開く様子はない。
「ふむ、黙りかね。まあ、宜しい、次の標的を述べよう。次の標的はちょっとした有名人さ」
最初から嫌な予感しかしなかったが、最早それは嫌な予感というものを超えていた。嫌な事が起こるという確信だ。あの男の隣に立つ男がずっと無言なのもその姿と相まって不気味そのものだ。
それ以上聞きたくないと、耳を塞いでしまいたい。出来ることなら今、この手元にある拳銃でこの男の口を撃ち抜いてしまいたい。しかし、レチユにはそれは出来なかった、許されなかった。
「そうだな、この国の裏の支配者とでもいうか…」
男はそんなレチユの感情など、最初から眼中に無いかのように、無頓着に、もはや独白のように話している。
「……彼の者の名は『トリ・ルヤワ』」
勿体ぶって語られた名はしかし、レチユには心当たりがなかった。部下達からも一言も声が聞こえないところをみると、彼らも知らないようだ。
「……ふむ、知らないかね?そう…有名と言っても所詮チンピラ、知らない人の方が多いのか」
気取ったように顎を撫でる、自分と大して年の変わらない様に見えるこの男は、大して乱れもしていない髪の毛を手櫛で掻き上げる。
「まあ、いい。知らないということは、赤の他人だ。知り合いよりはやりやすいだろう?」
男は気だるげにそう言い捨て、レチユに背を向け、仮面の男の元へと歩いていく。目配せをして、何かを囁いたあと、男は再度レチユへと向き直る。
「…ん、ああ。情報は何時ものように端末に送信しておこう。」
沈黙を何と勘違いしたのか、この、さも今思い出したかのような口調での言葉は、まるでコチラの気持ちなど考えていないことがありありと分かる。
いっその事その情報とやらがコイツらを裁く組織に見つかってしまえばいいのに。捕まってしまえればどんなにいい事か。それは少なくとも、後悔は産まない。
確かにこの男が言うように、仲の良い人間より、赤の他人の方がやりやすいのは事実だ。だが、そんなもの、ただ平らな石の上で転ぶか、起伏だらけの石の上で転ぶか、それくらいの違いしかない。どちらも少なからず怪我はするのだ。
例えそれが正義のためだったとしても。
「…無言は了承と受け取っておこう。くれぐれも忘れないように…な」
その性格に見合った嫌な笑を残し、彼らは去っていった。気づいた時には、その場には黒い霞の様なものが漂っているだけだった。その霞すら瞬きの間に、消えてなくなった。
この部屋には自分と部下だけが取り残されていた。
失意の間に、甲高い音が鳴り響く、それはレチユの端末の着信音だった。