Encounter
もはや"聞きなれた"と言うよりも、"聞き飽きた"目覚ましの音でルドは布団から起き上がる。
別に目覚ましなど使わなくても決まった時間に目が覚めるのだから、必要ないと言えばそうなのだが、一応の用心のためである。遅刻なんてした日にゃ目も当てられない…日の時もある。
叩きつけるように鳴り響くアラームを止め、カーテンを開ける。ここが海底だという事を一瞬でも忘れてしまうような、朝の柔らかな日差しが、広く開けた窓から差し込んでくる。
時間は朝の六時。
外を通るのは健康志向の老人くらいだ。
蹴伸びをしてから、窓から目を外す。
そろそろ朝食を作り始めないと間に合わない。朝の気怠さを感じながらも、朝食を用意するために寝室を後にする。
洗面所で顔を流してから、服を寝間着から着替えて、脱いだ寝間着を洗面所の脇にある洗濯機に突っ込む。
台所は、階下にある為、ボリボリと頭を掻きながら階段を下る。
因みに、今時の台所には、"材料を自動で分類収納、及び望む時に取り出してくれる"そんな冷蔵庫が備え付けられていたり、"火加減を自動で調整してくれるグリルやコンロ"なんかがついていて、非常に便利である。
献立を何にするかを少し考え、魚を焼くことに決める。あんまり悩んでいても仕方がない。
早速、冷蔵庫に選んだ魚を"2尾"取り出すように指定する。
排出されたのは、赤い身が目立ち、この国では『スァケ』と呼ばれている魚で、塩焼きにすると米との相性が抜群な魚だ。
グリルに魚を入れていつでも火をかけられるようにしてから、スープを作るために小さ目の鍋を棚から取り出す。
それを浄水器の水で満たしてから、コンロの上にその鍋を置いて、そのまま冷蔵庫から材料を取り出す。
豆を発酵させた『メイソ』、『ダーコン』『ニージン』『ターネギー』等の根菜類、そして、これは戸棚から取り出した、簡易"オダシ"(海藻類などの旨味成分が入っている)。
食べやすい大きさに切り刻んで、それらを煮込んでいる間、家の呼び鈴が鳴らされる。
時計を見ると、時間はもう六時半を回っている。
「もうそんな時間か…」
呟いて、軽く手を流して布巾で手を拭う。
そして、コンロに火を入れてから台所を出て玄関へと向かう。こんな時間に訪ねてくるのは、一人しかいない。
玄関を開けると、いつものように一人の女性が微笑みながら立っている。笑顔が眩しく若々しい女性は、『アリサ・ソヨヤユ』。彼女はある出来事を期に、こうして毎日朝食を食べに来ている、仕事場の同僚だ。
ボブスタイルの茶髪をした美人さんである。
一見するとスタイルの良さといい、モデルのようにも見えるこの女性は、こう見えて優秀な数学教師だったりする。
年齢は…二十代中盤んから後半くらいだっただろうか。
今日は白いブラウスに紺色で長めのスカートという出で立ちだ。
「おはようございます。アリサ先生」
「おはようございます。今日もいい天気ですね」
「そう…ですね、そうかもしれません。どうぞ、あがって」
少々言い淀みながらも、いつも通りの挨拶を交わして彼女を家に迎え入れる。
(世間的に言えば)いい天気には相違ないのだろうし、嫌いではないのだが、どうもルドは晴れが"いい天気"とは思えない。
そもそも、この国は晴れじゃない日の方が珍しい。彼女の今の文句は、挨拶の一部のようなものだ。
「あー、あと少しでできるので、テレビでも見てくつろいでてください」
「はい、了解です」
食卓についたアリサに一声かけてから、台所へと戻る。
菜箸を鍋の中身に突き刺して柔らかさを確認してから、オタマに『メイソ』を掬って、汁に浸して溶かしていく。
溶かし終わったところで『スァケ』が焼きあがったので、それぞれ皿にのせて、その二皿をトレイにのせる。
炊き上がった米をボール状の器に盛り、『メイソスープ』も同じような容器によそう。
これらもまた、箸と共にトレイにのせて、そのまま食卓へと持っていく。
食卓につくと、アリサはテレビニュースを見つめていた。
『押し込み強盗、凶器は銃か』
というテロップの下、専門家達が何やら討論している。
『被害にあった女性は……』
本当に物騒な事である。そして、ルドにとっては期待すべき出来事でもある。
「あ、ごめんなさい。何も手伝わないで…」
「いえ、次いでですし、それに料理を教える約束したのに、いつまでも果たせない自分が悪い訳ですからね。逆に申し訳ないですよ」
ルドに気づくや直ぐに謝るアリサに、話題をさりげなくすり替えて、逆に謝りつつ、配膳を進める。
「はいどうぞ」
「いや、そんなーーー、あっと、ありがとうございます。先生のご飯は美味しくて、本当に助かってますし、むしろ先生さえよろしければこのまま、ずっとご馳走になりたいくらいです」
ルドに手渡された箸を受取りつつ、彼女はコロコロ笑って、他人がいれば誤解されかねないことを言う。
勿論アリサもそんな気は無いだろうし、ルドもそんな勘違いをするほど初ではないが。
「恐縮ですね。まあ、大して苦にはなりませんし、俺は構いませんよ。代わりに…という訳でもないでしょうけど、送ってもらっているわけですしね」
「それこそ、次いでですよ。感謝されるようなことでもありませんって、同じ職場なんですから」
「まあ、そうですね」
談笑しながらも、配膳を終えてルドもアリサの向かいの席に着く。
それを見て、彼女は少しだけ居住いを正す。
「…さて、いただきますか」
「そうですね」
「「いただきます」」
しばらく無言で食事をしていたが、不意にアリサが口を開く。
「そういえば、さっきニュースでやってましたけど…」
「……押し込み強盗ですか?」
口の中に残っていた米を咀嚼してから、相槌代わりに質問で返す。
「はい、それです。銃って言ってましたけど、どこで手に入れたんでしょうね?」
それを聞いて、ルドは苦笑しかける。
昨日の上司にも同じような事を聞かれたからだ。
ーーー
研究所の一室、透明な壁から階下の様子を監視できる。謂わば監視塔といった場所。
だが、実際はこの場所は客室として使われている。
電波を遮断し、防音性にも優れたこの部屋は、大きな声では話せないようなことも、大声で話すことができる場所だ。
研究所の中にも午後のマッタリとした空気が流れる中、何故かこの部屋の中だけは少しだけピリピリとした空気を醸し出していた。
「……押し込み強盗を…ですか……?」
今までの話を統合して、本題を出す前の牽制としてオウム返しに質問する。
「えぇ、先程も言いましたが、貴方にはこれを捕らえて欲しいのですよ」
そしてそれに、答えたのは、初老と言った感じの白髪の混じった黒髪の男。
見るからに教養深そうなこの男こそが、ルドの上司の『マフニ・エルタゴ』である。
「いや、それはシゴトですからいいんですが……」
「何か問題でも?」
「……わざわざ捕らえるんですか?正直、メリットが無いような気がするんですが…捕らえるだけなら警察を動かせばいい。それに昨日の夜中の出来事なのでしょう?もう捕まっているのでは?警察だって無能じゃあない」
すると、上司は苦笑を浮かべ、口を開く。
結局出てきたのは回答ではなく、ルドへの質問であったが。
「……ルドくんは、その、どう見ますか?」
「押し込み強盗をですか?」
奇しくも一番最初の質問と同じ言葉で今度は確認の意味を込めて訊き返す。
上司は無言で頷く。
「……この国では法律上持つ事は出来ない、というよりもまず、手に入れることなんてできないはずなんです。輸出入が完全に管理統制されたこの国では手に入れるなんていうのはそれこそ不可能に近いですからね。それなのに今回使われた凶器は…」
「"銃"ですか。…それは確かなんですか?」
「傷痕からまず間違いないようですね。左胸を一発、『ズドン』と」
マフニは嘆息して首を横に振る。
「因みにその情報は?」
「警察からですよ」
当然のことのように言ってくれるが、普通はあくまでも一般人である彼がここまでの情報を知っているのは普通ではない。どうやらこの人は警察にも太いパイプがあるようで、こういった事件の時、知るはずもない情報を持っていることがある。
「…もしかして、貴方が警察が動くの止めてます?」
何となくそんな気がしてルドは嘆息を交えて質問を投げかける。
「よく分かりましたね、その通りですよ」
「はぁ、まあ、そうですね…押し込み強盗……。押し入った場所から察するに………」
ーー
「……先生?」
気づかぬうちに意識を思考の海原へと、呑気に出航していたようで、アリサは急に黙り込んだルドを不思議そうに見ていた。
我に返り、慌てて返事をする。
「……あ、いえ。すみません。考え込んでしまいました。本当に何処から手に入れたんでしょうね?」
すると、アリサは嬉しそうに笑って言った。
「先生でも知らないことあるんですね」
「そりゃありますよ」
思わず苦笑して、箸で魚をほぐす作業に移る。赤みのかかった身は簡単にほぐれ、口に運ぶのに丁度いい大きさになった。
「……私もそれなりに知識量はあると自負していたんですけど…なんて言うか、先生が言うことっていつも深いじゃないですか」
今日はやけに持ち上げられる。別に悪い気はしないが、本当に自分は全知全能とは程遠い。
「世界は広いんです。1人や2人おかしいのが居たっていいでしょう?俺のは深いんじゃありません、変なんです」
「え、何ですか〜?それ?」
本来なら怒られても仕方が無いであろうルドの適当な返事に、クスクスと笑ってくれるアリサの心の広さに感謝しつつ、残った米をメイソスープで流し込んで立ち上がる。
壁に掛けられた時計を仰ぎみると、もう出発しなければならない時間になっていた。
「アヌモラマヨ(ごちそうさま)。さあ、そろそろ時間ですよ、先生」
「あ、本当!」
それを聞いて慌ただしく、尚且つそれでも丁寧に食べるアリサを尻目に、掛けておいたスーツを羽織る。
腕を通し終えたところでアリサが食べ終わった。ルドは皿をまたトレイにのせて台所の食洗機にトレイごと突っ込む、ちゃんと動いていることを確認して、食卓へ戻る。
「用意できてます?」
「大丈夫です。さ、行きましょう」
アリサに促され、手鞄だけ持って玄関へ向かう。外へ出ると"爽やか"以外の何ものでもない天気が空いっぱいに広がっていて、本当にこの国は天気がいい、と思うと少しゲンナリとしてくる。
それでも暖かい光を浴びて、その心地良さに思わず蹴伸びをする。血が全身に廻るのを体感してから、先を歩くアリサに続く。
ルドは学校への出勤の際、いつもアリサに車で送ってもらっている。以前は公共交通機関を使っていたが、一年程前に、アリサが同じ職場である事や隣のマンションに住んでいることが分かり、こういう形に落ち着いた。
こうなったのにも経緯があるのだが、それはまた別の話である。
駐車場を登ると、見慣れたアリサの車が目に入った。
全体的に丸みを帯びたフォルムで、タイヤが無い。
アリサが遠隔操作で鍵を開けると、最早それが普通なのだが、触っただけでドアがスライドしていく。
「それじゃあ、お邪魔します」
「いえいえ」
いつもの掛け合いを終え、助手席に腰掛ける。車の中は少し甘い香りがする。
アリサが運転席に座り、キーをエンジンに差し込むと、これまた自動で扉が閉まる。
車は常に静かで、本当にエンジンをかけているのか疑うほどである。耳を澄ませて初めて微かな機械音が聞こえる、程度の小ささだ。
しばらくすると、一瞬だけ浮遊感があり、浮かび上がった車はアリサの操作に従って進んでいく。
屋上の離陸点にたどり着き、車のナビゲーションに従って一定の高度まで上昇していく。すると、ほかの車も"定間隔"で走っているのがハッキリと見え始める。
アリサの車はスルリとその列の中に入る。するとアリサはハンドルから手を離してしまう。
持続性空中体勢制御機能、及び浮遊機能、また自動目的地演算機能を搭載した車、のみを扱うこの国ではぶっちゃけた話、免許の必要性が低い。
規定の交通ラインに入り、目的地さえ入力してしまえば、完全に統制された交通システムにより、離陸時を除き操縦は必要としなくないからだ。
よって、免許をとることもそう難しくはない。
このシステムは例えるのなら、地上の国に存在する、ダイアに沿って動く"電車"と呼ばれる乗り物を空に飛ばして、自家用にしたようなものだ。
そういう訳でフリーになったアリサが顔をこちらに向けて話しかけてくる。
「そういえば、ルド先生って免許取らないんですか?」
アリサの言うように、ルドは車の免許を持っていない。前述したように、とること自体はそんなに難しいことではないのだが……
「いやぁ、面倒だって言うのもあるんですが…なにぶん機械音痴なもので、……流石にデバイス弄ったりスイッチ入れるくらいはできるんですがね。操縦となると…自信は無いです」
ルドは重度…とまでは言わないが、機械音痴である。
まあ、それはセンスがないとか、そういう事では無かったりもする(と、思っている)のだが、機械を使えないということに違いはない。
「さっきも似たようなこと言いましたけど…ルド先生でも苦手なことあるんですね」
「そりゃありますよ、50年生きようが、100年生きようが500年生きたって、"何でもできる"ようになんてなりませんって」
「でも、ルド先生って基本的に何でも自分でやってるイメージなんですよね。初めて挨拶された時なんて、何故か凄い圧倒されたような気がしましたよ。なんででしょうね?」
誇張いるような気がしないでもないが、確かにアリサと初めて話した時、アリサは話し方が妙に硬かった気がしないでもない。
「…いま、思い返してみれば、なんか固かったかも知れませんね。いや、でも俺は万能からは程遠いですよ。あと、圧倒ってなんですか…俺は仙人かなんかですか」
「ふふ、かも知れませんね?」
そんなたわいもない話をしながら、彼らの乗った車は『海底第一学校』へと空を駆ける。
十五分もした頃、学校上空に到着すると、車は自然と車列から抜け、少しずつ高度を下げ始め、少しすると一定の高度で静止する。このまま放っておいても事故ったりはしないが、いつまでたっても目的地には着かない。
今までお話に興じていたアリサも、流石に話を切り上げてハンドルを握る。アリサの操作に従って次第に高度を下げ始めた車は、学校の駐車場となる屋上へと進路を修正する。
こういうところは、練習が必要となる。
危なげなく駐車を果たし、ルド達二人はドアを開け、足を地面に下ろす。
「ありがとうございました」
最低限の礼儀として、アリサにお礼を言ってから、身体を捻ってコキコキと背中や肩をほぐす。
時刻は七時半ごろ、ルド達の他に人影はなく、駐車場は閑散としている。これはまあ、いつものことである。いろいろと面倒なことにならないように少し早めに来ているのだが、その効果があったか?と聞かれると、正直、微妙なところなのである。
「どういたしまして、ですね。……やっぱりこの時間は人いないですね」
どうやらアリサも同じことを考えていたようで、少し周りを見渡して呟くように言った。
「まあ、応急措置みたいなものですけどね…」
これは、あくまで傷口を塞いだに過ぎず、根本的な解決にはならない。
「いっそ、ホントに付き合っちゃいます?」
ニコニコしながらいう彼女の冗談はいつもの事なので今更(元から)驚かないが、他の人にもこういう事を言うのか、と考えると「この人に泣かされた男は多いんだろうな。」と思わずにはいられない。
「そんな事したら尚更ややこしい事になるじゃないですか……ほら、リクアク先生とか」
一番厄介な人を思い浮かべて、名前を挙げる。
「………そうですよね。あの人は」
珍しくため息などついてるアリサに、愚痴りたい雰囲気を感じ取り、さり気なく訊いてみる。勿論歩きながら。
「また何かあったんですか?」
「いや、またというか…いつもというか……」
「まあ、ああいう人ですしね」
まず、何があったのか?という話の前にルドもアリサも顔立ちがいい事を留意しておく必要がある。
ルドはそこまで(あくまでそこまで)自分の顔立ちが良いとは思った事は無いが、少なくともアリサの顔立ちは良い部類に入る事は分かる。
そして、半年ほど前の事なのだが、アリサがこの学校に配属された初めての年で、まだ学校に慣れていない頃。ある噂が校内に流れることになった。
『ルド先生とアリサ先生はできてるんじゃないか?』と。
勿論、火事には火種があるもので、その頃からアリサに車で送り迎えをしてもらうことになっていたのだから、ある程度はしかたがないだろう。
問題はルドの予想をはるかに上回る勢いで、それは主に生徒間で大きな旋風として学校中に広まったという事だった。
「お前、顔美形だもんなぁ、仕方ねぇよ。あぁ、妬ましい」
というのが事件がある程度収まった頃に聞いた、ガリグの後日談である。
本当に妬んでいるのか疑わしいほど態とらしい言い方なのが彼らしいといえば彼らしい。そもそも彼は妻子持ちで、既に子供は立派に自立している。
つまりあれは、完全に人の不幸を楽しんでいるとしか思えない。
とにかく、それは大変なものだったのだが、事態はそれだけでは終息しなかった。噂が広がる程度ならまだマシだったのだが……。
まあ、これも後から思った感想なのだが。
「しっつこいんですよ、今晩空いてる?とか、何度も何度も……空いてないって言ってるのに」
考え事をしていたルドの耳に、声を抑えたアリサの、忌々しそうな声が届く。
そう、問題はリクアクなのだ。
あの時、ルドが疲れ果てた原因の八割はその『リクアク・シルユ』のせいだったのを覚えている。
「ははは、下心…いや、下心ではないか…まあ、それがバリバリですね。とばっちりが俺まで来なきゃいいんですが…」
少なくとも、彼は本気でこのアリサという女性に本気で惚れているのは確かだ。
「…そう言えば、前の時は先生が一番の被害者と言っても良かったですね」
「まさかわざわざ俺に会いに来てまで、文句を言い始めるとは思いませんでしたよ…」
当時からアリサに好意を抱いていたであろうリクアクは、ルドからすればペーペーの新米教師ではあるが、見た目同年代くらいに見えるというのもあってか、歳でいっても、勤めている年で言っても、年下のリクアクに上から目線で、「アリサさんはどうのこうの…」だの、「お前は相応しくない」だの言われたわけだから傑作である。
なんというか、大きなお世話だ。
さて、リクアクは今もアリサを狙っているようなのだが、その結果はアリサの態度を見るに想像に難くない。
ある意味では、アリサの最大の犠牲者と言えなくもないが、これについては同情の余地はない。他の人に危害を加えている時点で、同情は品切れだ。
「まあ、アリサ先生には悪いんですが…俺がなんか言ったところで油を注ぐ行為にしかならなそうですし…頑張ってください」
薄情に感じるかもしれないが、詰まるところ、ルドにはこれしか取る手段がない。それに愚痴というのは聴いてもらうことに意味がある、少なくともルドはそう考えている。
「確かに…先生とは相性悪そうですね。あ、それじゃあ」
「はい、また」
丁度たどり着いた第一教務室前でアリサと別れ、そのまま廊下を渡り、突き当たりの階段を登っていく。エレベーターもない事は無いのだが、運動は必要だ。
別になんてことのない当然な事を思って、独りごちに頷く。
「おはようございます!」
不意に、元気な挨拶が頭上から飛んでくる。目をやると、女子生徒が階段の踊り場に一人立っている。
肩口に揃えたおさげのその姿には見覚えがあるような気がする。
「おはよう」
挨拶を返してやると、嬉しそうに階段を下っていく。すれ違いざま、制服であるブレザーのポケットがやけに膨らんでいるのを見、今までの態度と統合してどこで見たのか思い出す。
昨日の一限の授業を受けてた生徒だ。
授業中ずっと飴玉を舐めていたような気がする。それにしては熱心に授業を受けていたもので印象的だった一人だ。
恐らく、あのポケットにはいくつものお菓子が入っているのであろう。どういう理由でかは知らないが。
「ただの甘いもの好きだろうかね…?」
何となしに呟いて小さく笑い、二階にあるいつもの部屋へと向かう。多分、飯田はもういつものように部屋にいることだろう。
彼はいつも出勤がやけに早いのだ。
ーー
「いや、流石にこれは無いですわ」
ルドの声が朝の社会科準備室に響く。
「そんな理由あるかよ、結構高かったんだぞ」
「これが現実です、諦めましょう」
尚も負けを認めようとしない、往生際の悪い男、ガリグに無情な判決を下す。
「くっそ、今回こそは行けると思ったんだが…」
「毎回毎回、何でわざわざ変なもの買ってくるんですか?ちゃんと評価とかも見といてくださいよ。いや、これはマジで酷いです。過去最凶じゃないですかね?」
手元には黒い液体の注がれたコップ。
湯気が立ち上るそれは、一見するとただの珈琲。しかし、その実体は…
「香りは無いわ、味も……コレ何ですかね?……まあ、とにかく酷い。オマケに少し粘り気ありますよ?一体全体、何を買ったんですか」
「いやぁ、誰も飲まないだろう豆を開拓しようと思ってな?なんの評価もついてないヤツ買ったんだわ。そしたら不味い不味い」
ガリグはいつも通り、絶好調であった。
放課後。授業を全て終え、雑務も大体済ませたので帰宅するために駐車場のある屋上に登る。外へ出ると途端に冷たい外気に肌寒さを感じ、アリサは軽く腕を手で擦り合わせる。
擬似天候な故の弊害なのか、この国では夏でも日によっては、肌寒く感じる時がある、今は春の設定なのだから尚更だ。
特に雨の日は気温が下がる。"外"のように、大きな空気の流れが無いのだから仕方ないだろうが、そこら辺も調整できるようにして欲しい今日このごろである。
隣を歩くルドは、表情がほとんど読めないが、外に出てすぐ、少し心地よさそうに目を細めたように見えた。
「……どうしたんですか?」
アリサが見ていたのに気付いたのか、ルドが不思議そうに訊いてくる。
気付かれないようにしていたつもりだったのだけど。
「あ、いえ、ルド先生って暑がりなのかな〜?と、思いまして」
突然こんなことを言われれば普通は戸惑うところだろう。だが、ルドは少し首を傾げただけで、少しして「あぁ」とだけ呟いて返答をくれる。
「少なくとも寒がりではないですけど…今は少し肌寒いですかね。ただ、冷たい風が身を引き締める気がして、嫌いではないです」
いつものように、訊きたかったこと、だが実際に訊いた以上の回答が返ってくる。
相変わらず、ルドの洞察力と観察力には驚かされる。
「言われてみれば、確かにスッキリする気がしますね」
改めて、外気に身を委ねてみて、ルドの言わんとしていることが分かり、少し寒さへの評価を変えたところで、ルドに促される。
「さ、あまり冷たい風に当たっていても良くありませんよ」
車に乗り込むと、先ほどまでの寒さが嘘のように、温かく、心地よい空気で身体が包まれる。ムシムシしているわけではなく、かといって乾燥しているわけでもない。丁度いい湿度と温度に保たれている。
「…そう言えば、ショッピングモールによるんでしたっけ?」
しばらくそのまま今日一日の仕事の疲労に浸っていたのだが、ふと思い出して、隣に座るルドに訊ねた。
学校から出る時にそんな事を言っていたのだ。
「お疲れのようですし、別に帰ってからでも俺は構いませんよ。バスかなんかでも行けますし、最悪歩いて行けますし」
「いえ、大した手間ではないです…それに、買い物から見た方が勉強になるのでは?」
「そう…かも知れませんね」
アリサの操作に従った車は、屋上を出て、暮れの空を駆けていく。
ルドが行くというショッピングモールは自宅からそう遠くは無いのだが、それなりの大型店なだけあって、歩いて行くには少し気疲れする場所である。
そう言えば、ルドと初めてまともに話したのも、丁度このくらいの時期の、あのショッピングモールだったような気がする。
ーー
ーーーー
ーーーーーー
夕日が目を焼き、涙がにじむ。瞬きして目を慣らし、アリサは夕日に背を向けてショッピングモールの自動ドアに足を向ける。
時刻は5時過ぎ、7キュウ(日曜日のこと。この国では曜日を1ドゥ、2ドゥ…と数え、休日には、数字は順番のまま、ドゥをキュウに言い換える。)の終わりが近づく、憂鬱な時間帯だ。
休日なだけあって、車が多く、駐車するのも一苦労である。普段はショッピングモールなんて来ないのだが、今日はどうしても要るものがあった。
「…まさか、ペンを全部切らしてるなんて」
こんな事にも気づけなかった自分への不甲斐なさや、そもそもなんで一緒のタイミング…初めて授業がある前日で全部無くなるのだ、という苛立ちから、吐息とともにボヤキを漏らす。通る人の視線を一瞬集めたのを感じたが、視線には慣れている。無視だ。
エレベーターの前に立ち下降のボタンを押す、確か、文具コーナーはこの下の階、四階にあったはず。
ボタンを押して10秒ほどで登ってきた硬い箱に身体を押し込み、他にも入ってくる客を待つ。
今日は7キュウにしたってやけに他の客が多い。最終的に、ギュウギュウ詰めの棺桶状態のまま、ボタンを押し損ねたばかりか、押されるがままに目的階とは程遠い一階に排出された。
「あ〜……、どうしよ」
何となく首を巡らせてみると、天井の近くの広告画面に、"特大セールス!新学期応援セール!"の言葉が目に入った。
道理で混んでいるわけだ。
1階には食品売り場を主として、様々な店が広がっている。子連れの家族、手など握ったりしているカップル、ご高齢の方々、高校生と思しき少年達…様々な人間が行き交う中、通行の邪魔にならぬように、道の端に移動する。
人に当てられたのか、この一瞬だけでどっと疲労を感じた。人目を憚らず、思い切りため息をつく。
人気の少ない壁際にもたれ掛かると少し気分が和らいだ。
元々、アリサはこういう人が多い場所は得意ではないのだ。まして、休日でセールで…人が増えてるとあれば尚更である。
エレベーターを待つにも、もう既に大量の人間が待機していて気が進まない。望むところではないが、階段を探索するしかないようだ。
「………よしっ!と」
軽く膝を叱咤して身体を壁から引き剥がす。
「…あ、ネーチャン、ヒマしてんの?一緒にお茶しない?」
丁度、歩きだそうとしたところでコレである。
随分と古典的ではないか、もしかして今はこれが流行っているのだろうか。
脇目で見やると、派手な髪型に派手な服装、ジャラジャラとなんか、鎖みたいなのを体中にくっつけている。ファッションのつもりなんだろうが、それがダサく見えることに本人は気づいていないのだろうか。
「………」
自分に話しかけているという事は分かっていたが、気付かない振りをして歩き始める。
だが、こういうナンパ男はしつこいものと相場は決まっている。
「おーい、君だよ君〜無視しないで欲しいな〜」
「……ハァ。何でしょう か?」
流石に横に並ばれて話しかけられれば、無視する訳にも行かず、(というか、無視したらずっと付いてきそうだ)聞こえよがしにため息をついて、なるべく冷たく聞こえるように言葉を選ぶ。
「いやいや、さっきも言ったじゃん、お茶行かなーい?って」
「行きません。それでは」
「待ってって!」
鬱陶しい事この上ない。どうにかこの場を切り抜ける手は無いだろうか。
挙動不審にならない程度にあたりを見渡すも、特に目星いモノは見当たらない。
しばらく歩いて振り切ろうにも、相手の方が歩幅が広く、なかなか振り切れない。
「しつこいですね」
「そんなこと言わずにさぁ〜」
なおも詰め寄る男に、今度こそ怒鳴りつけてやろう。と思った、その時。
「……おーい」
唐突にチャラ男達とはまた違った、親しげな声をかけられ、思わず振り向く。
背の高い痩身の男が立っている。顔立ちも整っていて、スーツが映えるその男に、アリサは見覚えがあった。
確か……
ーーーーーー
「本当に助かりました、ルド先生。ありがとうございます」
ナンパ男どもを「僕のつれに何か用かな?(ねっとりとした笑み)」というただ一言でナンパ男を追い払った同僚の男に、改めて礼を言う。普通そんな行動出来ないし、やったとしてもそんな事も出来ない。
「いえいえ、困った時は…って奴ですよ。それにしても、美人さんだと大変ですね。いつもあんな風に?」
その返事は、どこも気負った様子も無い口説きのような言葉で、思わず照れ隠しのように
美形なのはあなたもでしょう?
言いたくなったのをぐっと堪え、絶対に赤くなったであろう顔で、質問に答える。
不思議と不快に思わないのは、この人の放つ雰囲気からだろう。
「いえ、いつもと言う訳では…」
アリサはこう見えて、男性経験の少ない。内心ではかなり緊張していて、かなり歯切れの悪い返事となってしまっているのが自分でも分かった。
「そうなんですか、少し意外ですね。して、今日はどうしてここに?」
「えっと、明日から新学期始まるじゃないですか。その…準備というか、不注意で今日来ることになったと言うか…」
アリサとは対照的に、隣を歩くルドは相変わらずの様子で、こちらに質問を投げかけてくる。
質問をしつつも、彼は人混みを優雅にかわしていく。
というのも、彼はどこか"滑らかで洗練された美しい動きをするのである。
それでいて、アリサを突き放すような歩き方ではなく、彼は常に自分の一歩ほどの距離を歩いている。
付かず離れず。というのだろうか。
「あー、もう明日でしたね。正直、あんまり実感湧きませんね。毎日忙しいと」
「え、6、7は休みじゃなかったのですか?」
なんか自分は忘れていたのだろうか。
なんとなく不安になったアリサであったが、彼は頭を掻き、困ったような顔をした。自分は何か不味いことを聞いただろうかと思うとさらに不安になる。
やはり、自分は何かをすっぽかしたのだろうか。
「あ〜…いや、休みは休みなんですがね。ただ、少し知り合いに手伝いを頼まれまして、あまり休めなかったんですよ。今はその帰りの寄り道で…、今晩の食材の確保なんです」
仕事の内容が気になることは気になるのだが、他人のプライベートに踏み込むのは良くないと思い取り敢えず一言「そうなんですか。大変ですね。」とだけ返した。少し淡泊すぎたかもしれない。
そう思ってちらりと横目で様子を伺うも、彼は全く気にしている様子はない。「えぇ。」とだけ返事してゆったりと歩いている。
だが、実際はどう思っているかわからない。そう思うと、自然とこんな言葉が口をついた。
「そうだ、良かったらお買い物に付き合っていただけませんか?また、あんな事がないように」
ーー
ーーーー
ーーーーーー
あの時、たまたまペンを切らしていて、たまたま一階に出て、たまたまナンパされていなかったら、自分でもなぜ言ったのか今でも分からないような事を提案していなければ、それに家がたまたま近所でなければ、ルドとここまでの仲になれる事は無かったに違いない。
友達と呼べる存在が少ないアリサは"偶然"の巡り合わせに感謝しつつ、隣を歩く親しい同僚に質問を投げかけた。
「ちなみに、今日は何を作るご予定で?」
あの時も同じようなことを聞いたかと思うと、少し感慨深い。彼が自分で食事を作っていると知った時には驚いたものだ。
オバサン、オジサンがカートを引きながら歩き回る中、二人は食品売り場を並んで歩いており、ルドは時折食材をじっくりと吟味して選んでいる。
「…そうですね。適当に、汁物と…ハンバー…"ヘメーグ(牛肉をこねて焼いた物)"を作ろうと思ってますよ。あと"サーラド(生野菜の盛り合わせ)"ですかね。今はサラードにする野菜を選んでて……お、これなんかいいかな?」
ヘメーグって、家で作れる物なのか!
料理を全くしないアリサには驚きである。
まあだが、最近は料理なんてしない人の方がずっと多く、"料理を全くしないアリサには"、と言うより、"料理をしない世間一般の人には"の方が正しいか。
まだこういう素材コーナーがあるのを鑑みると趣味で作る人もそれなりにはいるのかも知れないが。
「なかなか良いのが判りませんね…」
二玉の"キャベート"を持ちながら唸っているルドに近寄り、その肩越しにそれを見てみる。
流石にいつも手作りとかしてるだけあって、どちらもなんか活き活きとしていて、鮮度は申し分無さそうに見える。
「右の方がいいと思いますよ」
だが、アリサはそんな気がして、軽く背伸びをしながら右手を伸ばし、ルドの右手のそれを指さす。昔からこういう勘には自信があるのだ。
「ほう……?ふむ…言われてみれば………。どうやって判断したんですか?コツとか?」
ルドはそれをカートにそれを無造作に放り込み、移動を始めながら訊ねてくる。
しかし、これは直感としか言いようが無いないのでコツとか?とか言われても返答に困る。
「いやぁ……その、ただのカンです」
小走り気味にルドの横に並んだところで、仕方が無いので正直に答える。
「……成程」
だが、何故かルドは非常に興味深そうに、浅く笑みを浮かべて顎を撫でた。
この人はたまにこういう不思議な仕草をする。同じくらいの年齢に見えるのに、やけに大人びて…というか年寄りじみて感じる事があるのだ。
早い話、おじいちゃんとか、そういう存在に思えてくることがある。
見た目は正真正銘、若者のそれなのだが。
(不思議な事ね)
ーーー
アリサとルドは買う物を色々悩みながら揃えて、疎らながらも、決して少なくはない人混みをすり抜けてレジへと向かう。
すれ違いざま、多くの人間がこちらを向くのが少し鬱陶しい。
そう言えば、今、私達はどういう風に見られてるんだろうか?
一瞬そんな思考が頭をよぎるが、直ぐにそれをかき消して先を行くルドについて行く。余計な事(特に"厄介な同僚"のこととか)は考えない。
支払いを済ませ、袋を分担して持って外へ出る(アリサはルドが一人で持っていこうとしたのを無理やり半分持っていった)。
陽光は傾き始めており、それに合わせて空色も薄赤くなってきている。
木から木へと野鳥が飛び回り、騒々しいほどに鳴き散らしている。
あれ?ーーー、気の所為か今、何か黒いものが混じって……。
「…珍しい」
ルドが呟いた。
「こんな所にまで出てくるとは」
アリサの「何がです?」という言葉は、バサバサとなにか布を振るような音に遮られる。慌ててそちらに振り向くと、また黒いものが視界の隅に入り、すぐに視界からいなくなった。
「何ですかね今……の?」
アリサの言葉は尻すぼみに消えていった。
何やら呟いていたルドなら何か知っていると思って振り返ってみたら、そこには肩に大きな(五十センチくらい)黒い鳥を泊らせた彼の姿があったからだ。
「……え?」
黒い鳥だ。少なくともこの国に、こんなに大きな黒い鳥がいるなんて、見たことはもちろん聞いたこともない。
たまに遺伝子のエラーやらで全身が白かったり、黒かったりする動物がいるとは聞くが…。
驚きに痺れる脳で色々考えていると、ルドの方から答えを提示してくれた。
「えっと…コイツは俺のペットでして、『クロウ』って言います。地上の鳥なんですけど、何か昔地上に行った時すごく懐かれてしまって…」
黒鳥…クロウはそれに応えるように短く澄んだ声で鳴いた。
「あ、そうなんですか…?って、それ大丈夫なんですか、法律的に……」
この国の特性上、あまり楽観視できるようなものではないと思うのだが……
「放し飼いこそしてますが、こいつには狩りはさせないようにしてますし、こいつの種は地上にしかいませんから大丈夫じゃないですかね?」
この同僚の黒い友は初めこそ少し恐く感じたが、見ていると少し可愛く見えてきた。
クチバシはそこまで長くない。目元は鋭いが、首をすくめているのか、顔の周りに羽毛がフカフカともし上がっているのはどこか可愛らしい。
「ですかね?って……まあ、確かに賢そうな子ですね。触っても?」
触りたくなって思わず訊いてしまった。
「…どうだ?」
友に話しかけるようにルドはクロウに語りかけると、驚いたことにクロウは軽く頷いたように見えた。
「いいみたいですね」
ルドはそう言って、腕を伸ばしてアリサの肩にクロウを宿らせた。
その時、ルドは珍しいものを見るかのように自分を見ていたのが少し気になったが、アリサは直ぐにクロウの頭を撫でることに意識は移った。
(うわ、フワフワしてる!温かい!)
クロウは頭を撫でると気持ちよさそうに目を細める。
しばらく撫でていると、フワッと飛び上がりルドの肩へと移った。どうやら、もう終わりだということらしい。
「本当に大人しいですね」
少しだけ名残惜しさを感じたが、切り替えてルドに話し掛ける。
「そうですね。躾した事も無いですけど、本当に立派なヤツですよ。服に爪を立てたことも無いですし、バランス感覚とんでもないですよコイツ」
ルドがそう言うと、彼の肩の上で今度は誇らしげに胸を張ったように見えた。
まるで人間の言葉をすべて理解しているかのような…
この世には到底理解できないこともある。大袈裟だが、アリサはそう思うのだった。 家に着いたのは、陽光が完全に沈んでしまった後であった。
クロウはそのままアリサの車にルドと一緒に乗り、彼のももの上ですまし顔で窓の外を眺めていた。
お前飛べるんだからいつもこんな景色見てるだろ。と思わないでもないが、案外コイツは車にぶつからないように低空飛行を心掛けているのかもしれない。
アリサは一度家に帰って車を置いてからここにまた来るとのことで、行ってしまった後、ルドは彼に話し掛けた。
「クロウ、お前珍しくあんな所まで来て何してたんだ?」
するとクロウは肩の上で片脚を上げてその脚に巻かれた紙切れをルドに示した。
「む?もしかして『アイツ』からか?」
クロウはコクリと頷き、ルドが紙を脚から外した途端に肩から飛び立ってそのまま闇夜に紛れ、見えなくなった。
「さて?」
ルドは早速、随分と古典的なやり方で送られてきた自分宛の手紙を開いてみた。
『一応、クロウに預けておいた。別に急ぎではないから。でも頭の隅には置いておいてくれる。少なくとも一人。私が取り逃したほどだから、注意なさいな。一応私も動いてるけど、夜だけだしね。夜行性というのも不便なものね以上、注意喚起』
ほとんど内容のない雑な手紙だが、残念なことにルドには大体の意味がわかってしまう。
急ぎではないようだし、何かあればマフニからも連絡が来るだろう。本人も言ってるがこれは単に注意喚起の意味合いが強い。
「このくらいならわざわざこっちでやるかね?まあいいけど」
ルドは手紙をクシャクシャに丸め、ポケットに突っ込み、戸を開けそのまま家の中に入る。
暗い部屋はルドが入ると自然に電灯が灯り、誰もいない玄関を照らした。靴を脱いで棚に片付け、そのまま買い物した荷物を持って台所へと向かう。
取り敢えず荷物だけ置いて、上着をそこら辺の椅子にかけて洗面所へ移る。手を洗ってから、台所に戻ると今日これから使う分の材料を袋から取り出し、不要な分を冷蔵庫の中に放り込んだ。
ある程度準備が終わったところで、朝と同じようにチャイムが鳴らされ、アリサが来たことを伝えた。
今日は何かだいぶ前からしていた約束をやっと果たす日だ。すなわち、アリサに料理を教える日である。
アリサが洗面所台所から台所に移ったところで、今度はあらぬ方向から声がかけられた。つまり背後から。
「ありゃ?今日はダメな日だったっけ?何してんの?お楽しみ?」
アリサが驚き顔をしているので首を巡らせてそこを見てみると、案の定。そこには真っ赤な髪で何故か白衣を着た少女の姿があった。
(…今日はまた、色々とタイミング悪い日だな)
漠然とそんな事を考えるが、起こってしまったことは仕方が無い。
「…んや、今さっき料理教えることにしただけだ、お前こそどうした?」
「いんや~、いい加減何か食べたくなったからさぁ?何か作ってもらおうかと」
彼女は見た目の通り少女らしくのんびりと話すが、どこかその話し方は整然と並び立てたかのような明確な意図が感じられる。
腹を満たすため、そういう意味ではタイミングがいい。丁度食材も多めに買ってきたところだ。
「いいタイミングだな。たまたま材料は多くあ」
半分ほど皮肉も交えて、彼女が参加することを認めた。
本当はあまりいい状況ではないが……
「あの…その子は?」
ルドたち二人の話についていけなかったであろうアリサは、話が一旦区切れたところで遠慮がちに訊ねてきた。
「あ…ーーー、親戚の子なんですが、何かと忙しいらしくて、預かってるんですよ。ほら、挨拶しな」
咄嗟に思いついたありきたりな言い訳ではあるが、否定できる材料がある訳でもなし、今はこれで通すことにした。
「……ふーん(そうなんだ)。初めまして。私はメメヤ・コルヤノ、気軽にメメヤって呼んでね〜。よろしく〜」
ルドは小声で皮肉を返された気がするが、聞こえなかったフリをする。取り敢えずアリサには聞こえていないことを願う。
「あ、こちらこそ…えっと、私はアリサ・ソヨヤユ。私もアリサでいいよ。……メメヤちゃん?」
「うむ、分かった。そんじゃあご飯できたら呼んでね〜」
メメヤは全く手伝う気がないようで、直ぐに台所のすぐ脇にあるリビングルームのソファーに飛び込んで行った。
そういう行為は見た目相応である。
「メメヤ…お前も少しは手伝え…」
思わず口をついて出た言葉であったが、耳ざとい彼女は素早く反応した。
バッと身体を起こし、首を45度に傾けてこちらを見る。満面の笑みだ。
「え〜?良いのか〜い?食べられなくなっても知らんよ〜?」
その顔から不穏な空気を感じとり、そこでやっと思い出す。
コイツは料理ができない。
「あー…そりゃ困るな。寝てろ」
「だろう?」
なんというか、ドヤ顔だ。
「何で誇らしげなの……」
アリサも突っ込まずにはいられなかったようで、小声でメメヤにツッコミを入れていた。
いや実際、このたった今思い出した事実は、非常に重要な事なのだ。何せメメヤは過去に一度、電子レンジを大爆発させた経歴がある。爆発ではない、大爆発だ。
それは彼女がなせる技なのか、将又、入れた食材に寄るものなのか…その真相は電子レンジと共に吹き飛んだ何者(物)かと一緒に、闇に葬られたままである。それ以来メメヤには台所の物をいじらせないようにしていたのは言うまでもない。
少し目を離しただけでアレだったもんな…危うく台所が吹き飛ぶところだった。
…いや、冗談でなく。
「…まあ、始めましょうか」
「あ、はい。お願いします」
メメヤが自分で自分の不得手を認識していたことに助けられて密かに吐息をついたルドは、アリサに料理を教えることに専念することにした。
ーーー
「メメヤちゃん!?パンツ見えてる!」
出来た晩飯をリビングルームに運ぶ最中、アリサの悲鳴というか、驚きの声をバックにルドは黙々と配膳を進める。
メメヤは相変わらずの様子で、白衣を羽織っている他、下には何パンツしか履いていないのにも関わらずソファーで逆さまになってテレビを見ていた。
ヨガでもしているのだろう。本人にそのつもりがあったかは甚だ疑問だが。
それを見てアリサは、自分に割り当てられた分の配膳を終えてから、一生懸命メメヤのパンツがまる見えなのを防ごうと頑張っていた。
「ほら、出来たんだからちゃんと座れ。居直れ」
しばらくそれを見ていたが、いい加減、せっかく温かいものが冷めると嫌なので、早く席につくことを促す。
「ほーい」
「分かりました〜」
食卓に並べられるは熱々に焼かれた挽肉の塊、青々とした新鮮な生野菜と赤い果物のような"トメート"。白く輝く米はひと粒ひと粒がしっかりと形を保ち、それぞれが存在感を放つ。ターネギーの溶け込んだ黄金色のスープは白い湯気を上げ続ける………
…長々とこんなことを言っておいてあれだが、詰まるところ普通のハンバーグ定食である。
「それじゃ、いただきますか」
全員が席につき、いつもの挨拶をして食べ始める。
相変わらずテレビから流れるのはニュース番組で、『銃を用いた強盗事件』についての話だ。
ただの強盗殺人事件程度ではこれ程取り上げられることはないだろう。だが、この国の場合は事情が違ってくる。
それはこの国が海底にあるから密輸がしずらいという理由、だけではなく他の国にはない特性が関係している。
『生物ゲノム保存機構』
学者や政治家間では便宜上このような呼び方で読んでいる。
本来の呼び名はよく分からないので覚えていないが、『生態環境うんたらかんたら保護保全及びうんぬんかんぬん保護機構』だかなんだかだ。
この当たりが余りに曖昧なのは、前述した呼び名の方が世間でも定着しているからだろう。閑話休題。
さて、その『機構』が銃を持てないのと、どう関係しているのか?だが、それは単純な話で、世界中の生物の遺伝子のサンプルが保存されており、この国には不可侵条約が締結されているからだ。
その条約の内容に、他国がこの国へと武力攻撃を行うことを禁じ、互いに抑止力として働くことで、この国の"貴重な財産"を守ろう。というものがある。"攻められない"のだから武器の保持は"必要が無い"のだ。
あくまで条約上での取り決めのため、どの国がいつ条約を破るか分かったものではないが、世界の勢力の均衡が保たれている現状ならば、あまり心配もいらないだろう。
つまり、今この国に"銃"などというものが存在するなど有り得ない事なのだ。
「…面白い事件だな」
「そうだね、珍しいって意味なら、面白い事件。とっても」
半ば以上言葉足りずのルドの言葉のフォローなのか、すかさずメメヤが応えた。アリサの顔がテレビに向いた途端にメメヤからトメートのヘタが飛んできた。
アリサは気にした様子はないが、確かに今のは不注意だったかもしれない。
「また被害者がでたんですね……」
アリサが言うように、ニュースでは被害者がまた増えたことを報道していた。これでもう三人目だ。
「まあ、警察も動いてるでしょうし、すぐに捕まりますよ」
トメートのヘタを指で摘んで皿の上に置きつつ、ルドは気休め程度の言葉を投げかける。
だが、ルドは事実ではそう出ないことを知っている。
それを知っているのは不自然な上、ここで話す意味もない、わざわざ話して不安を増長させても仕方がない。
「…そうですよね」
「そうだよ〜、こんな情報国家で犯罪者がいつまでも逃げ切れるわけないもの。時間の問題だよ」
メメヤは、如何にもどうでもいい、という口調ではあったが、被害がこれ以上広がる可能性は少ないという趣旨の事を論じた。これも気休めで根拠なんて全くないのだが。
そして、ルドは彼にしては珍しく、テレビのチャンネルを変えてバラエティー番組にした。
最近のものはなんか煎じ切られていてあまり美味しくないので、ニュースしか見ないのだが、別に観るために変えたわけでもなし。
「あ、美味しい」
コメディアンの笑い声が小さく部屋に響く中、アリサがヘメーグを口に運んで呟いた。
初めての自分で作った料理なわけだが、どうやら満足いったようだ。
事件の話をしていた事など無かったような賑やかな明るい食卓は何者の邪魔も入ることはなく、恙無く進行していった。
ーーー
「お前、タイミング悪い」
「アンタ、不注意すぎじゃない?」
座るや否や、ルドとメメヤは相互に相手を罵り、顔を見合わせて少し笑う。
場所は地下の隠し部屋、兼、実際はメメヤの隠れ家と化した研究所。
研究所と言っても、従業員はメメヤ一人のため、何方かと言えば作業場の方が表現としては当たってるかもしれない。まあ、それでも広さがたかが作業場と呼ぶには広すぎる場所だからやっぱり研究所だ。
そして二人はそこの机を挟んで座っている。
「それで、今日こっちに来た本当の理由はなんだ?」
「ん〜?本当も何も、ご飯食べにに行っただけ。次いでに少し話をしようとは思ってたけど」
メメヤは席を立ち、いくつもの書類が収められた棚から一冊の電子書籍を取り出して持ってきた。
「ほい」
何やらパネルを操作してからルドの目の前に軽く放る。
ルドは手に取ってそれを見る。
「……こりゃ、本当か?」
驚愕、程ではないが目が丸くなる、くらいには驚き、聞き返す。
「ま〜あ、長年の研究が功を奏したとでも言いますかねぇ〜。飽くまで補助具的な機能しかないけど。」
それでも十分すぎる成果だ。
「分かった、今度試してみよう」
「そうね、お願いしとく。分かったことは教えてね〜?」
「ん」ルドは頷く代わりにそれだけ言って立ち上がる。
「そんじゃ、もう寝るわ」
ルドは時計を見て、それを付け加える。
「はいよ〜、良く寝れるよう(おやすみ)」
「あぁ、良く寝れるよう」
ルドは部屋を出て薄暗い階段を上って、寝室へと向かった。