男子禁制バレンタイン
二月十四日。日曜日。
友チョコの会をやるなどという、はまちーの思いつきにつき合わされて、わたしは今、彼女の家のキッチンに立っている。
流しに捨て置かれているのは、まっくろいどろどろのこびりついた鍋に、ボウル、ゴムべらにバット。作業台と化しているダイニングテーブルは粉だらけ。映画デートに出かけたという、おじさんとおばさんが帰ってきたら、目をむいてひっくり返っちゃうだろう。
「はまちー。ひょっとして、チョコ、直接火にかけた?」
まさかねと思いつつ、そう聞くと、はまちーは
「そうだけど?」
と、まるい目をぱちりとしばたく。わたしは大きく息をついた。
「チョコは焦げやすいから湯せんで溶かさないと。温度も高くしすぎたら分離しちゃうから気をつけなきゃいけないんだよ?」
「へー。知らなかった」
はまちーは澄んだ瞳でわたしを見上げると、やっぱ菜摘は物知りだね、と笑った。くせの強い、みじかい栗毛がふわりと揺れる。
「普通さ。作る前にレシピ調べるとかするよね?」
「そーいうの苦手でさ。溶かして固めるだけだし? レシピとか必要なくない? って思ってー」
にかあっと大きな口を開けて笑う。
浜島千絵、愛称はまちー。小2のとき、ウチが彼女の家のとなりに家を建てて以来の、腐れ縁。溶かして固めるだけなのに、なぜにテーブルが粉まみれになるのか。謎すぎる。
ピンポン、とチャイムが鳴る。
「来た来た。みかげだー」
ブルーのギンガムチェックのスリッパをぺたぺた鳴らしながら、はまちーは玄関へ向かった。わたしは持参したエプロンを装着し、腕まくりをした。蛇口をひねり熱いお湯を流し、焦げたチョコで汚れたキッチングッズを綺麗に洗っていく。
「うーっす」
スーパーの袋をぶら下げた森田みかげが、はまちーと一緒にキッチンへ来た。粉だらけのテーブルに袋をどさりと置く。
「お菓子買ってきた」
一七三センチのみかげと、一四八センチのはまちーが並ぶと、まるで親子だ。みかげとは二年生になってから仲良くなった。学校では、みかげとはまちーとわたしの三人で行動している。
はまちーがみかげの差し入れの入った袋をごそごそ探っている。
「友チョコ会だっつってんのに! なんで辛いのばっかり買ってくるかなあ!」
「わたし辛党だもん」
「今日はバレンタインだよ? そこは合わせようよー」
「やだ。甘いの苦手。来てやっただけましって思ってくれない?」
ふたりがやいやい騒いでるうちに、洗いものが終わり、ちょっとゴメンよと、みかげの巨体を押しのけてテーブルを拭く。
「片付いてる! すっごい! さすが菜摘!」
「はいはい」
キャンキャン吠える小動物みたいな幼なじみにつめたい一瞥を投げ、
「教えてあげるから。一緒につくろうか」
と、救いの手を差し伸べてやった。
小動物のまるい目が、きらんと光った。
バレンタインデーに友チョコを贈るなどというめんどくさい習慣がいつ広まったのかはわからない。
小学校時代から女子たちはおのおのキュートなお菓子をつくり、キュートなラッピングをほどこし、学校ではお菓子のやりとりはもちろん禁止だから、公園に持ち寄って配り合っていた。こっそりと男子に渡している子もいたのかもしれないけど、わたしの仲の良い子たちの間にはいなかった。だからわたしはガチの本命チョコなどというものを目にしたことがない。
はまちーは昔から不器用だ。どれぐらい不器用かというと、ヨーグルトに缶詰のフルーツを混ぜるだけの簡単デザートですら失敗してしまうほどなのだ。なぜか「手作り」という縛りができていた友チョコ交換イベントだったけど、いつも彼女は母親につくってもらっていた。
ま、はまちーだけじゃなくて、みんな、だれかに手伝ってもらって可愛いチョコをつくりあげてたんだと思うけど。自分ひとりでつくったのすごいでしょ、ってカオしてたよね、みんな。
中学生になってからは、もうそういうの疲れるし、ホントに仲良い子たちで、買ってきたお菓子を囲んでパーティするほうが楽しくない? って流れになって。去年もはまちー宅で「友チョコ会」を開催した。なぜかチョコじゃなくてたこ焼きパーティになっちゃったけど。楽しかったな。
今年もたこパで良かったのに。まさかはまちーが、ガチでチョコをつくろうとしていたとは。驚きだった。
「ただ固めるやつじゃなくてさ。トリュフがよくない?」
わたしの提案に、はまちーは怪訝そうに眉を寄せた。
「豚が探す高級なキノコ?」
「いや、そっちのトリュフじゃなくって」
わたしはため息をついた。
「生クリームにチョコを溶かして混ぜて固めて、ココアパウダーにまぶしたやつ。ちょっとぐらい見た目がいびつでも、それも味って感じだし、溶かして固めるチョコより失敗少ないし、おいしいよ」
「そうする!」
はまちーはぴんと尻尾をたてた。いや、もちろん尻尾なんてないんだけど。
「みかげっ! 生クリーム買ってきてっ!」
はまちーが喜々として叫ぶ。自分が買ってきたわさび味の柿ピーを食べていたみかげは、はあー? と眉間にしわを寄せた。
わたしはスマホでトリュフのレシピを検索した。いつもいつも、計画性のないはまちーにつき合わされて、挙句面倒をみてあげている。なんてお人よしな自分。
銀色のボウルの中に温めた生クリームを入れた。刻んだチョコを入れれば、ゆるゆると融けていく。ただようスウィートな香りにむせかえりそう。
みかげは、買い出しから戻ってくるなりダイニングテーブルにお菓子を広げて、ぼりぼり食べている。カラムーチョにやわらかイカフライ。絶対将来酒飲みになると思う。
はまちーはボウルをがしがしと泡だて器でかき混ぜはじめた。
「そんな力まかせに混ぜたらダメだよ」
「だって」
わたしを上目使いでにらむはまちーの頬に、チョコがついている。子どもが絵筆でさあっと塗ったみたいに。手をのばして、その茶色いひと掃きを、掬い取った。
「…………」
「どしたの? 菜摘」
はまちーは小さく首をかしげた。
「……あ。あれだ、大福。大福みたい」
「なにがー?」
「はまちーの、ほっぺた!」
「なにそれ! ひどくない?」
ぶうたれた幼なじみの、ふくれたほっぺた。
思わず触れたそれは、思いのほかやわらかくて。わたしは戸惑ってしまった。
指に残るその感触と、チョコレート。
「菜摘! 菜摘!」
呼ばれて、われに返った。
「ここから、どうするの?」
「え、えっと。とりあえず冷やす」
どうしてわたしはこんなにどぎまぎしているんだろう。
オーブンシートを敷いたバットのうえに、チョコをひと匙ずつすくって落とす。
「冷蔵庫でさらに冷やして、ころころ丸めて、ココアパウダーをまぶしてできあがり」
スマホに表示されたレシピをそのまま読み上げた。
はまちーは、そうっと、そうっと、壊れ物に触れるみたいに、チョコののったバットを冷蔵庫に入れた。
冷蔵庫の扉を閉めて、そのまま、はまちーは大きく息をつく。扉に額をこつんとぶつけて、もたれかかって。いきなり、おとなしくなってしまった。
「はまちー、さあ」
ふいに、みかげが呼びかけた。はまちーはまだ、扉にもたれかかったまま。
「ひょっとしてそれ、男子にあげるつもりじゃ、……ないよね?」
はまちーの頬が、みるみるうちに桃色に染まっていく。冷蔵庫にぺたりとくっついて、わたしたちのほうは振り返らない。
「つ、ついでだから。友チョコ会のついでに、あまりを、その……」
もごもごと切れ味の悪い、かぼそいつぶやき。
みかげは立ち上がって、冷蔵庫に歩み寄った。はまちーの耳横をかすめて、とんっ、と、冷蔵庫の扉に手をつく。
「白状しな? だ・れ・だー?」
「…………レオ……」
怜央。岡本怜央。野球部のポンコツピッチャー。ちっちゃくて目がくりっとしてて気が強そうな顔してて、マネージャーのはまちーとはしょっちゅう口ゲンカしている。傍から見てると、まるでハムスターが二匹じゃれ合ってるみたいだ。
「まじか。好きなのか」
みかげの、低めのハスキーボイス。岡本よりみかげのほうがよっぽどイケメンだ。
はまちーは身をよじって、みかげをまっすぐに見上げた。
そして、ふるふるふるふる、首を振る。
「か、賭けに負けたのっ! 練習試合で、いっこでも三振とれたら、チョコくれよって……言うから……」
「三振いっこ……。せめて試合に勝ったら、とかじゃないの。そういうのって」
あきれ声のみかげと、真っ赤になったはまちー。
はまちーが、すがるような目で、わたしを見る。
浜島千絵、愛称はまちー。小2のとき、ウチが彼女の家のとなりに家を建てて以来の、腐れ縁。
はじめて見た。こんなに、「女の子」してる、彼女。
「今のうちに、洗いもの済ませとかないと」
わたしは目をそらした。袖をまくり、蛇口をひねって熱いお湯を出す。
自分の家の台所と同じぐらい、自分のからだに馴染んでいる。何度もこの家に遊びに来て、ときにはお泊りもして、おじさんの特製チキンカレーをごちそうになったり、浜島家のみんなと人生ゲームをしたり。はまちーの部屋に布団を敷いて、ふたりで横になって。電灯のひもが薄闇のなかでゆらゆら揺れるのを見ながら、いろんな話をした。
いろんな話をしたけど……、「好きなひと」の話は、聞いたことがなかった。
片づけを終え、冷蔵庫からチョコを取り出す。
三人で、ひたすらに、ころころと丸めていく。ココアパウダーの中を転がして、小さなアルミカップに入れる。
「ひどいよ、はまちー。わたしたちのこと、ダシにつかって」
ぽつりと、つぶやく。
友チョコの会だなんて言ってさ、「ついで」は、わたしたちのほうじゃん?
「ほんとに友チョコ会がメインなんだよ。だ、だって。あんな賭け、冗談かもしれないし。ほんとに渡したら、はあ? って顔されるかもしれないじゃん」
なんで泣きそうになってんの。はまちーの、バカ。
「岡本に電話しなよ」
そっけなく、言った。
「呼び出して、渡しなさい」
「……恥ずかしい」
「なにを今さら」
「受け取って、くれなかったら」
どうしてこんなに、おびえた子犬みたいになってしまうんだろう。
わたしにはわからない。いつも尻尾を振ってキャンキャンじゃれついて、にっかり笑顔で、元気と、要領と愛嬌のよさしか取り柄のない、だけど誰からも愛される、そんな彼女が。
しおれて、戸惑って、うじうじして。
なんでこんなに可愛くなってんの。
「スマホ貸して。わたしがかける」
「えっ」
はまちーは大きな瞳をさらに大きく見開いた。
そして、ゆっくり首を横に振った。
「ごめんね、菜摘。自分で、かけるよ」
はまちーの頭を撫でてやりたかったけど、チョコを丸めていたから。できなかった。
ほんとにほんとに、世話のやける幼なじみ。
小学校近くの児童公園。ぞうのかたちのすべり台のそばに、ふたつの影。
はまちーも岡本も、ふたりしてうつむいている。
わたしとみかげは、植込みの影にかくれて、息をのんでふたりの様子を見守っていた。
「寒い。帰りたい。早く渡せや」
みかげががちがち震えている。空は厚い雲に覆われて、風が吹くたびに氷で撫でられているみたいだ。
はまちーのやわらかいくせっ毛も、風になぶられて揺れている。
「あっ」
みかげがまぬけな声をもらす。
はまちーが、えいっとばかりに、チョコの小箱を差し出したのだ。
岡本が手をのばして箱を受け取る。瞬間、ふたりの手が触れた。
「……帰ろう、みかげ」
みかげのコートの袖をひいた。もう、帰ろう。
マフラーにあごをうずめて、背中をまるめて歩く。寒いときはどうしても猫背になってしまう。
昔。この公園で、クラスの女子同士で友チョコを交換していた。ガチの本命チョコを渡す子なんて、見たことがなかった。少なくとも、わたしは。
白いものが目の前をちらちらと通り過ぎる。
白い、粉砂糖のような。雪。
風にあおられて、くるくる舞いながら。たくさん、たくさん、降りてくる。
「どうりで寒いと思った」
みかげが言った。みかげの長い髪にも、白い雪。
吐く息が綿菓子のように白くふくらんで消えていく。
わたしは、コートのポケットに入れたこぶしに、ぎゅっと力をこめた。
「……あのふたり、つき合うのかなあ」
「つき合うんじゃないの」
そっけなく答えるみかげ。
「あーあ」
「何が『あーあ』なわけ」
みかげが少し笑った。わたしもつられて、少し、笑った。何が「あーあ」なんだろうね、ほんとに。
結局、「友チョコ会」はできなかった。はまちーの家で山分けしたトリュフを、わたしはこれから家に帰ってひとりで食べる。はまちーのためにつくったのにな。あーあ。
「岡本なんか嫌い」
「言うねえ、菜摘」
「だいっ嫌い」
あっはは、と、みかげが笑う。
「だって。ずっとずっと男子なんてカンケーないって、興味ないって感じで来たのに。なのにさ、いきなり……」
鼻の奥がつんと痛かった。みかげと別れてひとりになったら、きっとわたしは泣くだろう。
くるくると、無数の雪が躍って、視界が白い。こんなに風が強いのなら、どんなに降ってもきっと積もらない。
ずっとずっと隣にいた、世話の焼ける幼馴染は。冷たい風になぶられても、雪が髪に頬に貼りついても。きっとぜんぜん寒くないんだろう。アイツと一緒だから。
もう、戻ってこないんだな。去年までのわたしたちも。女子だけのバレンタインも。
空を見上げた。もう一度、「あーあ」とつぶやいたら、口の中に雪が入った。一瞬で溶けて消えたから、冷たさすらも残っていないけど。けど、なんでだろう。少し、苦かった。