クウ
クウは、いい奴だった。
懐っこくて、僕が家に帰ると、いつもあのフサフサで柔らかい茶色の尻尾を振りながら、嬉しそうに「お帰りなさい」をしに来てくれた。僕はそんなクウが可愛くて愛しくて、どこに行く時も、何をする時も一緒に連れて行きたかった。学校に行く時も、友達とサッカーをしに行く時も、ちょっとおつかいに行く時も。
けれど両親は、それらを一切、許してくれなかった。
「犬を飼うなら絶対必須」と僕が信じて疑わなかった散歩さえ、両親は絶対にさせてくれなかった。友達が遊びに来ると、「吠えたり噛みついたりして驚かしちゃうといけないから」なんて言って、クウを階上の窓のない、薄暗い部屋に入れて鍵をかけた。クウが声を出すなんて、甘えてきたり構って欲しい時くらいで、吠えるなんてことは一度もしたことがないのに。ましてや人を傷付けるなんてことは、絶対に、絶対にしなかったのに。両親も、それを知っているはずだったのに。
この時点で、僕は何かを怪しんでしかるべきだったのだ。
でも、僕はそれをしなかった。
クウといる時間がとてつもなく楽しくて、クウのことが大好きで、クウの何かを疑うなんていう裏切りでしかない行為なんて、絶対にしたくなかったから。
そして──
怖かった、から。
クウは僕が5歳の時、唐突に僕の人生の大事なひとたちの中に、仲間入りをした。
どういう経緯だったかは覚えていないのだけれど、気付いたら僕のベッドで、僕の隣で眠っていたのだ。目が覚めてクウを見つけた僕を、クウは嬉しそうに、ペロン、と舐めた。
それから僕とクウは、心友になった。心の、友達。
そんなにロマンチックに言うつもりはないのだけれど、お互いになくてはならない存在だったと言っても過言ではないと思う。
いつだったか、僕が合宿で三日間家を空けなければならなくなった時、クウは僕が通常帰ってくる時間に玄関に行って、座って僕の帰りを待っていたらしい。もちろん帰ってこないのだけれど、クウはそこを絶対に動かず、ご飯を食べるのも玄関に座って済ましたそうだ。いつもだったら、お気に入りのカーペットの上 じゃなきゃ、絶対に食べないのに。僕が合宿から帰ってきた時、クウは玄関で待っていた。三日間一度も、そこを動かず。
そんなことがあってから僕は、毎日走って学校から帰るようになった。
家で、クウが待っているから。
待たせちゃいけない気がした。それに僕だって、一秒でも早くクウに会いたかったのだ。
休日、僕はものすごい集中力でもって超特急で宿題を終わらせた。大抵は数時間で終わる。早い時は一時間で終わってしまった。
宿題が終わるまで、僕は鉛筆を一度もおろさなかった。その代わり、終わって一度鉛筆を下ろしたら、二度と持ち上げなかった。終わるとクウのところへダッシュし て、「お待たせお待たせサービス」をした。わっしゃわっしゃと撫でてやり、一緒に庭へ走って行って、フリスビーをするのだ。
クウはフリスビーが大好きだった。
うちの庭はとても広くて、なぜか壁まであったから(その理由は後で知ることになるのだけれど)、フリスビーが外に飛んで行ってしまう心配もなく伸び伸びと遊べた。
僕が勉強を始めると、クウは僕の邪魔をしないように遊び道具が置いてある部屋に行く。フリスビーが置いてあるからだ。
でも、僕の身長より上にある棚の段ボールに入っているフリスビーを、犬のクウが取ろうとするのには、ちょっと無理があった。
それでもクウは毎週決して諦めず、椅子を引きずってくるとか、時には母を無理やり引きずってくるとかの工夫をして、結局、僕が宿題を終える頃には毎回必ず、あのお気に入りの赤いフリスビーをゲットしていた。
一時間でも、二時間でも、三時間でも、四時間でも。
何時間でも、僕たちは休みなく遊んでいた。母が「お昼よー」と呼んでも、あと五分、あと五分と伸ばして行って、結局お昼を食べるのは数時間ほど後になることも多かった。
楽しい日々、だった。
僕のその日々は、一秒一秒がクウと共にあり、クウの人生は僕の時間の中に織り込まれていた。
そして。
この、僕らの輝く日々は、唐突に、悲壮な変化を迎えた。
「クウ! クウ! クウったら! ねえ!」
僕はクウに覆い被さり、クウを揺すりながら泣き叫んでいた。
「お母さん、クウが! クウが……クウがっ!」
クウは動かなくなっていた。
眠っている時のようにぐったりしていたのではない。
固まっていたのだ。
飛び上がってフリスビーを口で見事にキャッチした、そのままの形で。
ジャンプした時の足の形も。
風になびいていたクウの毛、一本一本も。
飛び上がった衝撃で宙に浮いた、あの柔らかくてフサフサだった尻尾も。
固まって、動かない。
毛はみんな針のようで、尻尾は鉄のバッドみたいで。
あの健康でバネのある前足を少し上げ、後脚を二本足で立っているような格好にしたまま、今にも動きそうな形で、氷のようになっていた。
僕の悲鳴を聞きつけて、母はパタパタと走ってやってきた。
ベランダに立って、固まったクウと、泣きながらクウの名を叫び続ける僕を見ると、なんとも言えない顔をして、ゆっくりとクウに近づいた。
そして、僕がクウと初めて会った時からずっとつけたままにしている青い首輪の下に手を入れると、何かをした。
カチッという、音がした。
すると、クウは元に戻り始めたのだ。
毛は毛並みのいいスベスベのものに、尻尾もフサフサの毛に包まれた柔らかいクウのそれになった。足はどれもいつもの体制に戻った。
クウは最後に瞬きを二つ、三つすると、すぐに起き上がった。
何も起こらなかったみたいに。
気がつくと、母はもういなかった。
クウの不思議な現象に夢中になっている間にいなくなってしまったのだろうけど、なんとなく不自然なのは否定できない。
でも、僕はクウがその時なおったことが嬉しくてホッとして、母の不自然な行動など、頭に留めておかなかった。
ところが、ホッとしたのも束の間だった。
一度ああなってから、クウは頻繁に固まってしまうようになった。
その度に母はクウの首輪の下に何かをしてなおしてくれたけれど、僕には絶対に触らせなかった。
そんなことがあっても、僕はクウの存在を疑うことをしなかった。怖かったけれど、固まること以外は、クウはいつも通りの、優しくて利口で、僕の大好きなクウだったから。
そして、悲劇はクウが固まるようになった3ヶ月ほど後に起こった。
「うわあああああああっ!!!」
「た、たすけてぇ!」
「玄関っ、玄関に逃げろ!」
目の前で繰り広げられる惨劇。
飛び交うノート、鉛筆、おもちゃ、お皿、コップ。
恐怖だけを顔に貼り付けて、逃げることだけを頭に走り回る友達。
目を血走らせ、強靭な足を、体を、物と人を壊すためだけに動かし続けるもの。
あまりにも突然で、怖くて仕方がなくて、僕はその場で何が起こったのかを頭の中で整理することしか出来なかった。
その日、僕は友達を二人、家に呼んでいた。
みんなで勉強を済ませてから、ビデオゲームをして遊ぼうと計画していたのだ。
クウがいたから、僕は友達がいる時しかビデオゲームなんかしなかったけれど、今回新しく出た、一生懸命お願いして買ってもらったゲームはとても面白そうだったから、楽しみにしていた。みんなで早めに宿題を終わらせて、急いでゲームを始めようと、みんな張り切っていた。
その分、友達が帰ったらクウと思いっきり遊ぼう───。
そう思っていたのに。
勉強がもうすぐ終わる、そんな、ふわふわと楽しい雰囲気で宿題に専念していた時。
母の悲鳴と何かが壊れる音が、悲しすぎるエンディングの劇の、始まりのBGMのように、僕の家に響き渡った。
ぎょっとした友達が好奇心と恐怖の混ざった顔で音のした方を振り返るのと、茶色の大きなものが信じられないほどの速さで、何もかもをも壊すためだけに動いているものだけが出せるような、10キロ前からでも感じられるような殺気をまとって突進してきたのは、ほぼ同時だった。
僕の目に最初に入ってきたのは、後者の方だったけれど。
その後のことはあまり覚えていない。
その茶色い何かが、おそらく全ての家具をなぎ倒し、目につくもの全てを蹴り飛ばして噛みついて破壊していったのであろうことだけは、今の目の前の光景を見れば察しがつく。
何が起こっているのか、僕以上に全く分からない友達は、逃げ惑い、悲鳴をあげながら玄関の方へと疾走していく。
ただそれを目で追っていた僕は、見たくなかったものを、見てはならなかったものを、見てしまった。
暴走する茶色の何かあが、つんのめりながらも玄関のドアノブに手を接させることのできた友達に、まるで弾丸のようにぶつかっていくのを。
その友達が、ドアに叩きつけられ、ドアノブを掴んだ手首が、あり得ない、あり得てはいけない方向に折れるのを。
もう一人の、恐れに動くこともできなくなってしまった友達が、もう今は正体を、知りたくはなかったけれど知ってしまったあの茶色いものに睨まれてすくみ上がり、目を閉じた途端に、先ほどと同じ方法で無残に潰される瞬間を。
あぁ……。
あの茶色の怪物としか見えなかったものは、僕の大事なクウだった。
何が起こったのかは分からなかったけれど、ものすごい殺気をまとってはいるけれど、間違いなく、僕のクウだった。
「クウ……」
呼びかけようと思った。
僕を見れば、正気に戻ってくれると、信じてはいなかったけれど、心のそこから祈っていた。
でも出てきたのはかすれ声もいいところの、ささやきにさえならなかった物だった。
それでもクウは、僕を振り向いた。
それが、僕の呼びかけが聞こえたからだったのか、僕が順番的に次のターゲットだったからなのかは分からないけれど。
「おいで……クウ、ほら……っ」
座り込んでいる体勢のまま、僕はクウの方に手を伸ばした。
クウは僕の方へ一歩、踏み出した。
目は相変わらず血走り、肢体は緊張して筋肉が盛り上がったままだけれど、少なくとも先ほどのような殺気は感じられない。
「おいで、クウ。もう終わりだ、ね?」
今度はちゃんと、声が出た。
まだ立ち上がれないけれど、それでも腕は降ろさない。クウが来るまで。クウに触れられるまで、降ろさない。
クウはまた、もう一歩を踏み出した。
大丈夫だ。
そう思った。
このまま、僕がいつも見たいに抱きしめてやれば、クウは元に戻る。
確信していた。
その時だった。
予期せぬ、最悪の事態が起こったのは。
「智……?」
僕の名前を呼ぶ、不安げな声。母だった。
駄目だよ、お母さん。
イマキテハイケナイ。
「智、大丈夫……?」
階段を降りてくるのが聞こえる。
見えないけれど、分かる。僕を心配して、降りてきたんだろう。
来ちゃ駄目だ、戻ってお母さん!
そう叫ぼうとした時には、もう遅かった。
クウはゾッとするような唸り声を上げると、やっと僕の視界に入ってきた、血の出ている頭を押さえてよろめくように僕を探す母に、突進していっていた。
「やめろおおおおおおおおおお!」
怯えて声も出せない母にあと十センチで届きそうだったクウは、僕が悲鳴に近い叫び声を放つと同時に、ピタリと動かなくなった。
正気に戻ってくれたのか、と思った。
もう誰も傷付けない、僕の知っている優しいクウに戻ってくれたのか、と。
そうじゃ、なかった。
前足を片方あげたままの形で、クウはバランスを崩してパタン、と倒れた。
また、固まったのだ。
それだけ。
最近では、一日に一度くらいの頻度で固まるようになっていたから、今固まっても別段不思議ではない。ちょっとシチュエーションが違うだけで。ちょっと、意味が違うだけで。
いつもは固まってしまうたびにあんなに悲しくて不安だったのに、今は安堵しか感じないことに、僕は自己嫌悪を覚えた。
自分の意思で止まってくれた訳ではないことが、とてつもなく悲しかった。
母と僕はそのあとしばらく座り込んで放心していたけれど、母の方が先に立ち上がって、フラフラと電話を探しに行った。
奇跡的に、電話は今は粉々になっている台から落ちただけで、破損してはいなかった。母は抜けてしまったコンセントを入れようとしていたけれど、恐怖で手の震えがひどかったばかりか、頭を怪我していたため、力が入らなくて苦戦していた。
僕は悲しく、狂気のように笑う膝をなだめて立ち上がり、母のためにコンセントを入れた。
母は「ありがとう」と囁くように言って受話器を取り、警察に電話をした。
警察と救急車は急いで来てくれたけれど、玄関からは入れず、窓をこじ開けて入ってきた。
クウに体当たりをされた友達は怪我をして気を失ってはいたけれどまだ息があったので、救急隊員の人たちが母と一緒に連れて行った。
警察の人たちは、固まったクウを囲んで険しい顔をしていた。
「ちょっと僕……智くん、だったかな?」
年配の人が、邪魔にならないように家の端で小さくなっていた僕を呼んだ。
「はい、そうです」
「ちょっとこっち来てくれるかい?」
ジェスチャーでクウを指すその人は、声は優しかったけれど目と口元がものすごく怒っているみたいに見えた。
僕は言われた通りに、固まってしまったクウを取り囲む刑事さんたちのところへ歩いて行った。僕が近づくと、刑事さんたちは僕のために場所を空けてくれた。
クウはやっぱり固まっていた。
足をあげたまま、目を血走らせたまま。
やっぱり、母をも壊すつもりだったのか。
そうであって欲しくなかった。
ただ単に、何かの誤作動でまた固まっただけ、という結論でないことも、祈っていた。自分の意思で止まってくれたのだと思いたかったけれど、結局はいつもみたいに、固まってしまっただけだったのだ。
でも、これで暴走が止まったのだから。
そう思おうと思ったけれど、どうしても悲しくて苦しくて怖くて、僕は泣き出してしまった。
僕を呼んだ刑事さんは、僕が泣き出すのを見ても慌てた様子は見せず、ただ肩に手を置いて、僕が泣き止むのを待っていてくれた。
やっと泣き止むと、肩に手を置いたまま、屈みこんで僕と同じ目線になると、聞いた。
「これは、なんだい?」
僕はポカン、としてしまった。
「犬です」と、答えたかった。
でも、これは犬じゃない。
今なら、それをちゃんと理解できた。
だって犬だったら、固まったりしない。
暴走したりなんか、しない。
両親だって、散歩に行かせてくれたはずだ。
クウは、犬なんかじゃ、ない。
なんと言ったらいいか分からなくなってしまった僕は、僕の大好きなクウだったものを見て、黙ってしまった。
刑事さんの優しかった目が、少しだけ怖くなった。
「君は、これがなんであるかを知っているね?」
これにはびっくりした。
けれど、僕は知らない。
ブンブンと風が耳元で唸るほど大きくかぶりを振った。
それを見ると、刑事さんは「ふうっ」と大きくため息をついて、
「じゃあ、見せてやろう」
と言うと、携帯を取り出してある画面を開いて僕に見せた。
「極秘に作られ配布されていた最高級犬型アンドロイド、全て暴走」
という大きなヘッドラインの下に、クウとしか思えない茶色い犬のフリスビーをしている写真が貼ってあった。
隣にはクウと同じように固まったそのモノたちの写真が複数載っており、その下には車を突き破って飛び出していく、狂った、燃える赤い目をしたモノの写真が激写されている。
目を逸らしてしまう。
「これが、どうかしたんですか」
認めたくなかった。
その一心で、僕は刑事さんに聞いた。
「まだ、信じたくないのか」
刑事さんは目を厳しくして、僕を見据えていた。目を上げるのが怖い。
「君の家にいたコレは、アンドロイドだ。精密すぎるほど精巧に作られた実験品だ。だが、完璧じゃなかった。だから、暴走の危険があったにも関わらず、『成功品』として幾つもの家に配布されたんだ、実験として」
刑事さんはクウをチラッと見て、続ける。
「そして、数ヶ月前から故障があるというクレームがあったにも関わらず対処されず、結果、今日、午後2時16分に、どの家のアンドロイドも暴走した。これにより、23人が殺され、50人を超える人々が負傷している」
嘘だ、と叫びたかった。
「これの暴走に居合わせた中で怪我をしなかったのは、君一人だ」
顔が上がった。
「……本当ですか?」
「ああ。奇跡だろうね」
「……もうひとつ、質問があるんですけど」
「なんだ」
「クウには、感情があったんですか。好きという気持ちとか、ちゃんとあったんですか」
刑事さんは、首を捻ってから立ち上がった。
「どうだろうな。プログラムでは───」
「プログラムとかじゃなくてっ」
思ったよりも大きい声が出てしまって、刑事さんたちが不快そうに僕を振り返った。
「なんだい?」
「その……クウを作った人に、会わせてくれませんか」
実際にクウの親という立場の人に会えたのは、何ヶ月も後だった。
忙しいのだという。
僕も、大変だった。
責任者、という人が家を直す費用を出してくれたので家のことは心配しなくても良かったけれど、母はまだ病院だったから自分でなんでもしないといけなかった し、通学路では取材したいとか言う人たちが詰めかけてきたし、学校に行ったら行ったで後ろ指をさされ、誰も僕を相手になんかしなくなった。だって、友達に 大怪我を負わせた怪物を飼っていた奴だ。責められたってしょうがない。
僕は辛抱強く待った。
そしてとうとうあの刑事さんが家に迎えに来てくれたとき、僕は食べていたパンを放り投げ、学校なんかうっちゃって車に乗り込んだ。
刑事さんは何も言わなかった。
僕も、何も言わなかった。
家から一枚だけ持ってきた写真を握りしめて、僕はただ、車の振動に揺られていたかったのだ。
刑事さんが連れて来てくれたところは、大きな研究所とかを想像していたのだけれど、案外普通の住宅街にある普通の家の前だった。
「着いたぞ」
僕はドアを開けて外にでると、その家を見上げた。
モダンな造りだけど、ペンキは色あせていたり剥げていたりでどう見ても古いものだった。
表札もポストもなくて、門は壊れている。
インターフォンだけが真っ白で、真新しい感じだ。
刑事さんが追いついて、僕の代わりにインターフォンを押した。
しばらく待つと、キイ、という音を立ててドアが開き、中から普通のおじさんが出てきた。
これもまた、期待違い。僕は、気難しい研究職のおじいさんをイメージしていたのだけれど。
おじさんは、ニカっと笑うと、
「どうぞ」
とだけ言って、家の中に入って行ってしまった。
僕と刑事さんは急いでドアの内側へ入り、靴を脱いで上がらせてもらった。
リビングらしきところに入ると、おじさんがテーブルの前であぐらをかいて、ニコニコしながら僕を見上げていた。
僕は困ってしまった。どうしたらいいのか分からなくて、オロオロと目線を動かしてしまう。あんなに会いたかった人なのに、思っていたことと違いすぎてどうしたらいいのか分からない。
刑事さんはというと、僕を護衛するためだけに来ましたとでも言うように、僕の後ろでただ堂々と立っている。
「君、いくつだ?」
おじさんは唐突に僕に尋ねた。
「えっと……14、です」
「そうか……」
おじさんはしみじみとして何度も頷くと、独り言のように呟いた。
「おじさんはね、君くらいの時にはもう、あの犬型アンドロイドの製作を夢見ていたんだ」
「………………」
何も、言えなかった。
おじさんはお構いなしに続ける。
「毎日のように設計図を書いてね、研究者に何度も送りつけた。一度、オーケーをもらったことがあったけど、それは会社が独自に研究を進め、あのアンドロイドを完成させる、という条件付きだった。だから、おじさんは断ったんだ。何があっても、俺は自分で完成させたかったんだよ、あれを」
一人称が「おじさん」から「俺」に変わったことなんて、とっくに気付いていた。
それに合わせて、口調が強くなっていく。
「成人すると同時に、俺は研究者へ乗り込んでいった。なんでかは知らないが、成人した時と言うのが何かの節目のような気がして、今行けばなんとかなる、という自信に押されて行ったんだ」
そして、俺は正しかった───。
そういって、おじさんは首を振った。
「全てが上手く行ったんだ。その時持って行った、今までで最高の設計図が認められた。自分で自信を持って世界に誇ることが出来ると自負していた、本当に素 晴らしい設計図だったんだよ。でも、俺にしか分からない点も多かったこともあって、俺が一人でまとめ役をし、あれを造ることが許された。
「数ヶ月ほどで、俺はもう第一号を造り上げていた。完璧だと思った。他の研究者にも認められて、俺たちはいくつも、いくつもコピーを造った。その時点で、気付くべきだったのだがな、問題点に」
「問題点?」
おじさんは初めて僕の目を直視して、一句一句を区切るようにして、言った。
「感情と動作のプログラムに、誤算があったんだ」
「感情……」
おじさんは目を離さず、うん、と頷いた。
ならばやはり、クウには感情があったのだ。
「その時直ぐにどうという話ではなかったんだ。だけど、長い期間のうちに突然、異変が起こる可能性があった。でも、あのアンドロイドはどこまでも優しくて……とても美しい眼をしていた。みんなで可愛がりたくなるような、そんなアンドロイドだった。失敗作だなんて絶対に思いたくなかったんだ。だから───」
ここでおじさんは、とても辛そうな顔をして、目を逸らしてしまった。
「だから、無料で配布したんだ。失敗作の可能性のことは、誰も、誰一人、一言も言わなかった。ただ、ちゃんとこれがアンドロイドであることを説明して、プレゼントとしてあげた。絶対に口外しないこと、家族のメンバー以外には誰にも見せないことを条件に。実験のつもりなんて、微塵もなかった。あれの可愛さ を、あれと一緒にいることの楽しさを、他の人たちにも分けてあげたかった」
見ているこっちが切なくなってしまうようだった。
クウが可愛くて愛しいのは、僕が一番よく知っているのだから。
僕は、このおじさんの「あれ」を聞くたびに、なんだかとても暖かい気持になる。
警察の人たちがクウのことを「あれ」と呼ぶのは気に障ったけれど、このおじさんの言う「あれ」は、とても柔らかくて優しくて、暖かいのだ。
そう、限りない深さの愛を息子に抱いている父親が、息子の成功を他人に自慢する時のような。
「8年。8年ずっと、問題なく、動いていた。生きていた。そして、9年目。私たちが恐れていたことが起こった。初めのクレームが届いた時、私た ちは震え上がったよ。固まってしまう、というのが、動作プログラムの問題であることは、ちゃんと分かっていたんだ。でも、もう今更どうしようもなくて……とりあえずの応急処置として、首輪の下のリセットボタンを押すことで治ります、だけ、家族の人たちに伝えた。そして──私たちは、解散した。 怖くて、お互い、これに関わっていたことは誰にも言わないことを約束して、バラバラになった。何事もなかったかのように、自分たちの人生を歩んで行こうとしたんだ」
おじさんは、頭を前にガクッと倒して、泣き崩れてしまった。
すまない、すまない、と繰り返しながら。
僕と刑事さんは、おじさんをある程度宥めてから、おじさんの家をあとにした。
最後におじさんは、僕の手を握りしめ、僕の目をしっかりと見つめて、言った。
「壊れてしまったのは事実だけれど、君と一緒にいたあれは、本当に君を愛していたんだよ。それだけは、確かなことなんだ。感情があるのだから。僕たちがあ れを生んだのだから、これだけは間違いないんだ、はっきり言える。あいつは、自分が愛されていることをきちんと理解し、愛するという感情をちゃんと持って いたんだよ」
僕はにっこりと笑って、おじさんの手を握り返した。
「クウです。僕がつけた名前。甘える時に、クウって、なくから」
おじさんは、また目尻に涙をためた。
「そうか……ありがとうな。いい名前だよ」
おじさんはそう言うと、最後に僕の手をもう一度強く握ってから離して、ドアを閉めた。
〜12年後〜
「クウ!!!!」
クウは家に帰ってきた。
あのおじさんは責任を感じて、クウを、世界じゅうのクウをすべて一度回収し、研究員を再度すべて集め、プログラムを直し、完璧にして、それぞれのうちに帰したのだ。再生と治療に3年かかり、テストに残りの9年を費やしたそうで、もう完璧であることに間違いはないらしい。
クウは、12年前と変わらない可愛さで僕の腕に飛び込んできた。
僕は育っていたけれど、ちゃんと僕だと分かっていた。
もう誰も、最高級犬型アンドロイドの故障のことなんて覚えていない。人々が知っているのは、「新しい」犬型アンドロイドが、特別に選ばれた家族に送られた、ということだけ。
僕は初めて、クウと散歩をした。
もう堂々として、クウと一緒に外を歩けるのだ。
僕はクウを愛していて、クウは僕を愛している。
可愛い、懐かしい、優しい僕のクウは、僕の隣で嬉しそうに歩いている。
そして、これからも。
ずっと隣で、歩いていくのだ。