桐野 ―空盃―
ちちち、と夕暮れも間近な庭へ遊びに来た雀が暢気な声で啼いた。
片膝を立て書棚に背を預けた桐野は、湯呑の中身に頑固として閉ざした唇を浸す。
(珍しいことも在るものだ)
先生の家に足繁く通っていた猫が、この家に顔を見せるようになってから雀は猫を怖がって庭に下りて来ないようになった。いつもなら板壁の上にずらと並び、雑草の生い茂る前の芽吹いた庭を恨めしそうに見詰め、姦しい啼き声を聞かせるだけだ。
然し、今日の天敵はどうやら留守をしているらしい。既に雀の高さをすっかり越えてしまった草も意に介せず、久し振りの庭を雀の一団は満喫しているようだった。
「……文字通り羽を伸ばす、か」
意図せずに今この家にいない人間のことを愚痴ったようになって、桐野は間髪入れず開くつもりのなかった口を継いで開いた。飛び出した言葉は思ったよりも言い訳染みていた。
「猫も居なければ、雀も気楽だろうに」
「居ないなら居ないで気になるものだよ、桐野君」
何を勘違いしたのか、金田は独り言ちた桐野を慰めるような言葉を吐き「何、今に帰って来るさ」と頷きながら笑った。卓ではなく盆に置かれたぐい呑みの中身を飲み干し、銚子ではなく酒瓶から危なげに注いでいる。
桐野は憮然とした顔を金田に向けた。
「何も僕は、彼女のことを云って居る訳では在りませんよ」
金田はそんなことかと笑う。
「僕も君のことを云って居る訳ではないよ、桐野君だって猫だと言っただろうに。まあ、君が千紗君の帰宅を待って居ることは今の返答で十分に理解はしたがね」
一枚も二枚の上手の相手に云い籠められて、桐野は何を云っても恥の上塗りだと黙り込んだ。
「何、君への土産でも買って早く帰って来るだろう。君が思う程に、彼女も羽は伸ばせないだろうからね」
諸悪の根源が余裕のない桐野を見て呵々と笑う。
家の中にいつもいる人の姿は無かった。気の置けない友人同士で飲みたいのだと昼ドン聞こえて早々やって来た金田に気を使い、千紗は那美子と共に銀座へと行ってしまったのだ。
千紗を居ても然程構わずに視界に入れたまま机に向かっているだけだというのに、居なくなったら居ないでつい気になってしまうのが身勝手な男の性か。珍しく着飾った千紗が家を出てからというもの、桐野は尻の座りが悪く、どうにもこうにも落ち着かないのだ。
千紗は、新しく出来た洋菓子店に行くのだと久し振りに楽しそうだった。三越もふら付いてくるのだと言っていたから流石に桐野にも千紗の帰りは見当もつかない。
(楽しそうで有れば良いか)
そう言い聞かせても腹の底では僅かな不服と―――過るのは不安。桐野は手にした本の頁を乱暴に捲ると、膝横に置いてあった湯呑の中身を一気に飲み干した。
「筆と本としか馬鍬って居なかった男が、今や細君を得たとは」
少々芝居じみた口調で、金田はぐい呑みに愚痴っている。何が面白くないのか、家に来るなりずっとこの調子なのだ。一々構っているのも面倒なので、桐野は敢えて放って置いている。実害さえなければ、戯言など風の音とでも思っていたらいい。
雨の多い時期を終え、庭は濃い緑で覆われている。時たま強く吹く風は生温く、早くも夏の到来を告げていた。しっとりと水分を含む風は、剥き出しの腕を汗ばませる。滑りの悪い着流しの袖を引き、桐野は開いたままの本で軽く顔を仰いだ。
傍に居ないことがなかったこの四カ月ほど。以前までではなくなったとはいえ、未だ不安は消えない。恐らく存在が曖昧なのだろう、繋いだ手を離した瞬間にも夢が現に戻る様な気がしてしまうのだ。
原稿に感けて夜も更けた中、眠る千紗の顔を眺めながら酒を飲むこともある。眠る顔を一晩中見て、布団に入らずに眠るのだ。起きた端から目に入るのは、しかめっ面の千紗の顔だった。上手い言い訳が出来ずに、結局黙り込むと火に油を注ぐ羽目になった。
(我ながら器が小さいな)
桐野は本の頁を無造作に捲ると、膝横に置いてあった湯呑の中身を一気に飲み干した。咽喉に焼け付く感覚が走り嘆息する。
わざわざ訪問した癖に障らぬ神にはなんとやらなのか金田は少し離れた場所で酒を飲んでいる。流石に器の大きさに不条理なものを感じたらしく、金田は据わった目を桐野に向けてきた。ずいと手にしたぐい呑みを押し出してくる。
「客にぐい呑みを持たせておいて、自分は湯呑とは如何云うことなのだろうか」
「呼んでもいないのに、勝手に人の家に来た人が言う言葉ではないだろうに。厭なら台所にあるから、勝手に取って来て下さいよ」
「此処の主人は、客に用意をさせるのか。全く訪問し甲斐の無い家だね」
「…………」
桐野は面倒な自称客人に思わず舌打ちを返した。
自分の使っていた湯呑を手渡し、金田の持っていたぐい呑みを受け取った。受け取ってから成程、確かに小さいと思った。
「機嫌が悪いな。愛妻との時間を邪魔するな、と云うことかね」
呵々と嘲笑う。
「余りしつこい男は嫌われるぞ、桐野君」
金田はぐい呑みにも酒を注ぎ込む桐野を、自棄酒と判断したようだ。
からかい交じりの金田の声に、とうとう相槌も面倒になってきた桐野は黙りこくった。片膝を上げると離れた場所に置いてある酒瓶を引き寄せ、そのまま酒が飛び散るのも構わず注ぎ込む。呆れ声が金田の口から洩れてくる。
「細君の掃除の手間を考え給え。君のような生活破綻者に付き添って呉れて居るのだ、大切にせねば」
「……言わずとも分かって居ますよ」
桐野は着物の袖で畳に跳ねた酒を拭き取ると、そう吐き捨てた。
「分かって、居るとは到底思えないんだがなあ」
苦笑交じりの金田の声が耳に障る。気分直しとぐい呑みを傾け、桐野は本の一行を指で辿った。
千紗と暮らすようになって、桐野の生活水準は見違えるように向上した。蝋燭のさもしい部屋に比べ、電灯を引いた部屋は部屋の端の塵すら見えるほどに眩しい。手当たり次第のものを口に入れるだけだった人間は、温かい汁物が出されるとそれだけで満足してしまうのだ。
慣れていない台所に四苦八苦して時間が遅くなることは有れど、千紗の作る食事に文句はなかった。
「何故故、此の様な面倒な男に望む細君が居て、僕には現れないのだ」
自分のことを棚に上げて、金田が嘆息した。
「又、父上に縁談を勧められたのですか」
それで突然の訪問か。桐野は嘆息交じりの声で、向かいに腰掛ける金田の顔を見遣る。顔は悪くないと友人の目から見ても思うのだ。
(然し、恐らく性格か)
極端に人を怖がる金田の性質は元々あったものではない。欧羅巴の留学時に何が起きたのか、余程の心的外傷があるのだろう。金田は深く語ろうとはしない。欧羅巴留学を終え日本に戻ってきたときにはもうこのような状態だったのだから性質が悪い。
語るを得ずの相手にはもう如何してやることも出来ないのだ。
金田の嫡子と言う肩書は重かろうと思う。桐野が一族の期待を一身に背負い、帝國大学を目指していた頃とは及びもつかない。商才を見せる金田は父親の跡を継ぐことを熱望されていて、その為に選んで進んだ英語講師の肩書をいつしか捨てることになるのだ。
自ら選んだ道を捨てる苦しみは如何程か。
「勝手に見繕って仕舞えば良いでは無いですか。金田君ならお手の物でしょうに」
どうでも良さそうに言い捨てた桐野に、金田は「君は僕を如何云う人間だと思って居るのかね」と不服そうに言った。湯呑の酒を飲み干すと誰も居ない廊下を見遣り、金田は空になった湯呑に酒を注ぎ入れる。ぼそりと言った。
「千紗君ならば、と思ったのだがなあ」
「あれは駄目ですよ」
言い終わるや否や、切り捨てた桐野のに金田は苦笑を返す。
「知って居るよ。僕は其んな無粋な男ではない」
笑いながら金田は酒を飲み干した。すいと視線は庭へと辿った。細めた目で遠くを見遣る。
「然し、せねばならないこともある。当分は其の気は無いよ」
庭木を見遣る金田に倣い、桐野も少しずつ整い始めている庭を見遣った。土くれに奮闘していた千紗は、最近庭を整えることに喜びを見出したらしい。あまり広くはない庭に、次は野菜を植えるのだと張り切っている。
夏の夕暮れは時刻の割に日が高い。全く橙色に染まろうとしない空は、昼よりも少し雲が増えてきたようで、僅かに雲の端だけを橙色に見せている。
空も染まれば夕暮れに気付き、そろそろ帰って来るだろうか、そう思った。
「……戻って来ないなあ」
まるで桐野の内心を代弁したかのように、金田が呟いた。
同じことを考えていたと釈明するのも、何となく納得いかずに桐野はぐい呑みの底に残った滴を意味なく唇に付けた。本に目を落とす。
「まだでしょうよ。其んな良く行く訳でもないのだから、ゆっくりして来たら良いんだ」
片手で持っていた本で顔を隠した桐野に、金田は「心にないことを」と身もふたもないことを言って笑った。
玄関の戸はまだ開く気配はない。
(どんな顔をして迎えようか)
わざと臍でも曲げて偶には困らせて見せようか、と桐野は戻らない妻のことを想う。