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明治爾今帖  作者:
1/6

千紗 ―薄暮―

 まだ慣れない台所で、千紗はしゃがみこむと首を傾げた。

 しゃがみ込むのは土間だ。金田の屋敷があるような、元は外国人居留地などであれば生活環境はまだ整っているのだろう。それでも桐野は、住む場所を用意するという金田の申し出を固辞した。畳のない生活は耐えられないのだという。頑固な桐野に結局、美しい西洋風の家に心が傾きかけた千紗も折れた。確かに洋装の桐野は少し違和感がある。

 電灯が普及し始めているとはいえ、IHヒーターや炊飯器に辿りつくのは遠い未来のことだ。

 那美子に教えて貰っているとはいえ、お湯を沸かすだけで四苦八苦だった。盆の上に乗せた湯呑をふたつ、書斎に持って行く頃には既に日は暮れ始めていた。小さな借家の縁側で立ち止まり、千紗はまだ手の回っていない庭を見遣る。

 明治の夕暮れは現代よりも濃い気がする。橙色に染まった板壁の手前には、鬱蒼とした雑草が見えた。

 いつの間にか、桜は散っていた。

 明治の地を再び踏んで二か月、季節は夏に移り変わろうとしている。寂しげな枝を剥き出しにしていた木々も気付くとたくさんの葉を茂らせ、何かの実を付ける木だったらしくよく見ると丸く膨らんだ蕾も見えた。

 移り変わる景色の中で、千紗は敢えて現代の高校生活に想いを過らす。

(……少しずつ消えていく)

 制服は霞みがかったように見え、千紗の名前を呼ぶ友人の名前を思い出せなかった。絆や生活様式はまだ残っているほうだ。一番、記憶の低下で著しいのは歴史だった。

 桐野と別れ、貪る様に読んだ本で蓄えた知識は明治の地を踏んだ数日の内に失われてしまった。この先の未来に一体何が起きるのかは、未来に生きていた千紗ですらもう分からない。明治の人々と共に心を揺らし、見守ることだけだ。

「……それで、いいんだよね」

 千紗は微かな不安を掻き消し、呟いた。

 知っていたとしてどうなるのだろうか。未来にいいことが有れ、哀しいことが有れ、それは一歩一歩進んでいくのに必死であればいいと思う。現代に生きていても、きっとそれは変わらないのだから。

 遠くで遊ぶ子供を呼ぶ母親の怒鳴り声が聞こえてきた。

 路地で遊んでいた子供は、手伝いなどせずに家から逃げ出したのだろう。直ぐ前の門前を駆けて行った子供達は鼻を擽る出汁の匂いに歓声を上げた。夕飯の時間が近い。

 桐野の収入が安定しているお蔭で、比較的落ち着いた場所に借家を持つことが出来た。この辺りの子供たちは下谷の子供達と違い、夕暮れ町を遊ぶ余裕を持てる。裸足で土を駆けることもなく、毎日の暮らしに困ることもない。

 小石川の桂木の屋敷は勿論、本郷千駄木町の先生の家よりももっと小さなふたりの借家の和室に、不相応な箪笥が二棹鎮座している。金田から送られた結婚箪笥は、元々物持ちの少ない桐野は勿論のこと現代から何も持たずにやってきた千紗にも何も入れるものが無く、殆どが空のままになっている。

 引き出しの奥に作られた隠し扉にはもう、桐野の手紙が仕舞われていた。

 伊沙子の日記は金田の手にある。表情なく、千紗の手から日記を受け取った金田は理由を聞かず「預かって居よう」と言った。きっといつしか伊沙子の連ねた日記の後に、金田はずっと先に生まれる千紗への手紙を綴るのだろう。

 千紗の子供のまた先のその先の時代の千紗に、それは受け継がれる。

(そしてまた、桐野さんに逢いに来る)

 ずっと続いて行くループ。延々と千紗は巡り巡り、此の三つの時代を回り続けるのだ。

 怖くないと言えば嘘になる。つい先月まで覚えていた筈の、自分の命の限度も千紗の脳裏から掻き消えていた。それでも金田にだけは打ち明けた命の期限を、千紗はもう聞く気はなかった。桐野と生き、子供を産み、そしていつか迎えるその時を静かに穏やかに迎えたいと思う。

「また……逢えるから」

「誰にだよ」

 不機嫌な声が耳に触れ、桐野がのっそりと奥の書斎の障子から顔を出した。

 そのまま廊下に頭を置き、寝転んでしまう。長い髪を後ろに括るのは何も変わらない。千紗を見詰める目だけが、柔らかくなっただけで身の回りのことに全くの無頓着なことも変わっていない。

 千紗は、盆を持ったまま小さくため息をついた。

 持って来る筈のお茶が遅いせいで心配させてしまったのだ。あの日、上野精養軒の一件から桐野にはまだ不安が色濃く残っているらしく、千紗の姿が見えないと探しに来ることもしばしばだった。

「また、桐野さんったら机を使わないで書いているんですか?」

 呆れの混じった言葉に返事はない。言いたいことは分かっているのだ。

(まだ慣れない)

 一緒に住むようになって既に二か月。桐野の望むがままに頷いては見たものの、やっぱり少し気恥ずかしい。千紗は見据えてくる桐野の視線に負けて、小さな声で呟いた。

「……参商さん」

「遅いから心配した。別に其れだけだよ。机は使って居る」

 名前を呼んだことと千紗が戻ってきたことに満足したのか、桐野は書斎向こうに引っ込んでしまった。

 新聞社から依頼された小説は好評のうちに幕を下ろした。今、書いているものを千紗が目を通すことはなかった。特に仕事中の桐野は集中力を欠くことを嫌う。千紗がどうこう言っても、桐野にとっては何の助けにもならない。ただ傍に存在するだけで、桐野には十分なのだ。

 足を前に踏み出すと、廊下がきしりと鳴った。

 庭に紛れ込んだ猫が、それに驚いたのか千紗の方を向いて小さく鳴いた。

 見慣れた猫は最近、先生の家よりもこの家に居付くようになった。最近は誰も来なくて寂しい、というのが先生の談。伊沙子を失った先生は、下谷に定期的に通うようになりまた子供達に小難しいことを教えているのだという。其れよりも仮名を教えて欲しいのだがね、と金田が嘆息するのを見て先生は英文学の講義を始めて仕舞うのだ。

 困惑する顔を作って見せる割に、金田が嬉しそうなのが印象に残った。

 四月のある日、突然史郎がこの家を訪れた。陸軍の軍服で門前に立つ姿はどこか寂しげで、箒を持ったまま門を潜った千紗はその姿を見て胸が締め付けられた。声を出すこともなく向けられた敬礼に、先日桐野が言った通りに出征することを知る。ただ無事であることを祈り、千紗は深く頭を下げた。

 幾つもの別れと、これからの出会いを越えて千紗は生きて往くのだろう。

「参商さん? お待たせしました」

 背中を向ける桐野は返事もせずに筆を走らせている。机に向かっているだけまだいい方だ。この家に入ったばかりのこと、桐野の執筆する姿を見て千紗は我慢していた声を張り上げた。

 片膝を立て、まるで紙に額を付けるように書きつける姿はどう見ても物書きの姿ではない。

 何かと目に毒な無造作な着流しを、せめて前が肌蹴ないようにと千紗がいうだけで桐野は不貞腐れた。食事にしてもそうだ。三日に二度ほど集中的に食べるのは体にはどんな悪影響を及ぼすのか、口煩く言ったからこそ少しは人間的な生活に近付いたものの、未だに睡眠は通常の人間の半分以下だ。

 生活破綻者、一緒に暮らし始めた千紗の脳裏に過った言葉は、大袈裟なわけではない。

(偉そうなこと言ってる癖に、まるで子供なんだもん)

 夫婦という肩書を得てもまだ、桐野は千紗に触れようとはしない。触れると壊れるとでも思っているのか、たまに横を歩くときに千紗が指先を握っても咎めないくらいでそれ以下にもそれ以上を求めようとはしなかった。

 情熱的な海外の翻訳小説を読みながら、千紗は向けられた背中を見詰める。

 部屋中に散らばった原稿用紙は、何が書いてあるのか全く読めない。仮名遣いに慣れない千紗は、旧漢字にも困惑し勉強用に本を一冊買って貰ったのだ。床に盆を下ろし、桐野の筆の切りがいいところまでと、千紗は本のページを捲る。

 読んでいた途中の一行目から直ぐに物語に飲み込まれ、湯呑の中身が少しずつ冷えていくことも夕飯の準備のことを頭からすっかり消えていった。

 風の冷たさに顔を上げると、外は随分と日が暮れ机には影が出来ていた。外には鈴虫が夏の到来を知らせ、早くも吹いてきた夜風が風鈴を鳴らす。

 千紗は本を閉じ、立ち上がると部屋の電気を付けた。聞こえる筆の音を途切らせない様に冷えた湯呑の乗った盆を持ち、廊下に出る。窓を閉めようとして、千紗はふと思いついて盆を廊下に置くと庭に足を踏み出した。

 まだ完全に闇には染まっていない庭の真ん中に、水仙が咲いている。

「こんなところに」

 しゃがみ込むと、千紗は周りを見渡した。水仙らしき花はそのたった一輪だけで、夜風に葉先を小さく動かしている。先生の家の庭にもたくさんの水仙が咲いていた。八月のあの日、初めて千紗が本郷の家を訪れた日から総ての輪が動き始めたのだ。

「……あと少しで、一年」

 この水仙は切らないで置こうと思った。いつしか先生の家の様にたくさんの水仙が咲く庭になればいい。千紗がここから去る時に満開で、残される人を癒してくれたらいい。

「千紗」

 激しい物音が聞こえ、振り返った千紗は桐野が廊下に置いてあった湯呑を蹴飛ばしてしまったのを知る。いつものことだ。集中したせいで千紗の居場所を把握出来なくなったのだろう。足に被った冷たい茶を拭うことなく、桐野は庭で立ち上がった千紗の前に歩み寄ってくる。

 剥き出しの足を躊躇せずに土に押し付けた桐野を見て、これからの仕事をが増えると思った。小石だらけの足で頓着せずに家に踏み込むのだ。足の土を払う芸当が出来るとも思えない。

「水仙が咲いてますよ」

 言いかけた千紗の腕を、桐野は何も言わずに引いた。存在を確かめるように、桐野の手の平は千紗の首筋から背中を辿りやっと安堵したのか、そのままゆっくりと離れていった。

 頬が熱い。初めてされた抱擁に、動悸が止まらなかった。手はまだ余韻を楽しむように、千紗の指先だけを掴む。

 いつか、この不安は桐野の中から消え去ってくれるのだろうか。それともずっと、千紗がその命を終えるまで桐野はずっとこの不安を抱き続けるのだろうか。年老い共に果てることだけは出来ないという、自分の未来だけになって仕舞った記憶が僅かに胸を締め付けた。

(幸せになって欲しい)

 桐野がずっと今よりも幸せに思える時が来たらいい。

 千紗は桐野の胸にゆっくりと顔を預けた。

「ずっと……一緒にいましょうね」

 奇しくも弥千子が言った言葉と同じ言葉を千紗は呟いて、あの時の幼い弥千子の想いを知った。遠くない未来に失われるものに、希望に満ちた未来を呟き乍ら哀しい願いを籠める。

 未来は変わるのだろうか。

 それとも、あの日のままなのだろうか。

 いつか、ずっと先の千紗がそれを知るのだろう。――――――今は。 

「嗚呼、然うだな」

 優しく触れる指が千紗の顎を優しく持ち上げるのに気付いて、千紗はゆっくりと瞼を閉じた。

 恐る恐る触れた唇が次第に熱を帯びていくにつれ、戸惑う千紗の腰にやんわりと桐野の腕が回る。決して逃がさないとでもいう風に腕は強張る体を囲い込み、観念した千紗は全身から力を抜いた。

 熱い頬に、夜風が気持ち良い。 

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