「婚約破棄ありがとうございます! 慰謝料で伝説のスコップと四百年の盆栽を買いますわ!」
「エレノア・フォン・ヴァルハイト! 貴様のような無愛想で色気のない女との婚約など、今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
王宮の大夜会、シャンデリアの眩い光が降り注ぐ広間の中央で、第二王子エドワードが高らかに宣言した。その隣には、彼の手を上目遣いで握りしめる男爵令嬢が寄り添っている。
周囲の貴族たちがざわめき、哀れみと好奇の視線が一斉にエレノアへと突き刺さった。常識的な令嬢であれば、羞恥に顔を染めて涙を流すか、憤慨して取り乱す場面である。
しかし、エレノアは扇を優雅に畳むと、極上の笑みを浮かべて深々とカーテシーを執った。
「謹んでお受けいたしますわ、エドワード殿下」
その声には震えの欠片もなく、むしろ長年の重税から解放された領民のような、突き抜けた晴れやかさがあった。
「なっ……なんだその態度は! 少しは悔しがったらどうだ!」
「まさか。王太子妃教育という名の不毛な残業と、殿下の浮気の後始末から解放していただけるのですもの。これほどの慶事、人生で滅多にございませんわ。ああ、それから——慰謝料および手切れ金の算定書は、明朝一番に我が公爵家の筆頭法務官より届けさせますので、どうぞ速やかなご決済をお願い申し上げます」
唖然とする元婚約者を置き去りにし、エレノアは背筋を凛と伸ばしたまま、舞踏会場を颯爽と後にした。
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翌週。ヴァルハイト公爵家の広大なる中庭の一角に、作業用エプロンを身に纏ったエレノアの姿があった。
「お嬢様、ご注文の品が届きました!」
息を切らして駆け寄ってきた侍女のエマが、恭しく掲げたのは二つの木箱だった。
ひとつは、頑丈なベルベット張りの長方形の箱。
もうひとつは、湿度が保たれるよう特殊な魔導木で作られた大きな箱である。
「まあ……! ついに届いたのね!」
社交界では氷の彫刻と恐れられたエレノアの瞳が、爛々と輝いた。
彼女がまず開けたのは、長方形の箱。中から現れたのは、光の反射すら吸い込むような漆黒の刃先を持つ逸品——ドワーフの至宝、ミスリル鉱と神代鋼を折り重ねて鍛造された特注のスコップであった。
「見て、エマ。この完璧な刃の反り。土離れの良さを追求した三連スリット。柄には最高級のホワイトアッシュ材が使われていて、重心の位置が私の手のひらに完全に吸い付くようだわ」
エレノアはスコップを軽やかに構え、すっと中空を薙いだ。風を切る鋭い音が響く。
「す、素晴らしい業物ですが……お嬢様、殿下から毟り取った……失礼、正当に請求された天文学的慰謝料の使い道が、本当にこれでよろしかったのですか?」
「何を言っているのエマ。道具を妥協する園芸家など三流よ。そして、真の主役はこちらよ」
次に開かれた大箱の覆いが外されると、芳醇な土と清冽な松の香りがふわりと広がった。
そこに鎮座していたのは、東方の島国より海を越えて運ばれてきた、樹齢四百年を超える黒松の盆栽。
岩肌を模した浅鉢の上で、幹は幾度もの落雷と風雪を耐え抜いたかのように凄まじい「舎利」を刻み、力強い曲線を描きながら天へと伸びている。緑深き葉の密集は、まるで山頂に漂う瑞雲のようだった。
エレノアはその前に正座し、吸い込まれるように見惚れた。
「……息を呑むほど美しいわ」
「確かに、圧倒される迫力がございますね……」
「ええ。厳しい試練を乗り越え、無駄な枝をそぎ落とし、ただ己の命の美しさだけを凝縮させたこの佇まい。……どこぞの、着飾るだけで中身の伴わない男の顔の、数億倍は美しいですわ」
一切の躊躇なく言い切ったエレノアは、愛おしそうにミスリルのスコップを手に取った。
「さあ、植え替えの準備をいたしましょう。これからあの幹に最高の針金掛けを施すの。誰の顔色を窺う必要もなく、私の庭で、私の美学のためだけに生きる……ああ、独身ってなんて贅沢なのかしら!」
スコップを力強く中庭の黒土へ突き立てたエレノアの横顔は、王宮のどの令嬢よりも瑞々しく、太陽の光を受けて輝いていた。
数ヶ月後、元婚約者が側近を引き連れて「お前がいないと執務が回らない、復縁してやってもいい」と屋敷へ押しかけてきた際、彼女がスコップ片手に土煙を上げながら「今いいところですのでお引き取りあそばせ!」と門前払いした話は、社交界の新たな伝説となるのだが——それはまた別のお話である。




