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朝_富

 平民街にセラという娘がいた。父のパン屋を母と一緒に手伝い、小さな弟の面倒をみる、よく働くいい娘だと近所では評判の娘だった。

 器量もよく、燃えるような赤毛をいつも三つ編みにしていた。優しい緑の瞳は太陽の下でエメラルドのように輝いた。花が開くような明るい笑顔を向けられると、だれしも彼女から目が離せなくなってしまうような娘。それがセラだった。

 


 ある日の午前中。フォンティーヌ男爵夫妻がお忍びで平民街に足を向けた。

 彼らは大通りの街角で笑顔を振り撒きパンを売るセラの姿を、通りの反対側からたまたま目に止めた。

 二人とも目を見開き立ち止まった。夫人は男爵の上等な服に皺が入るぐらい、エスコートしている腕に力をこめた。そうしていないとこの場で崩れ落ちてしまいそうだった。


「なんてこと!」

「セラヴィアじゃないか……!」


 セラの美しい顔立ちは、5年前にたった齢十年で短い生涯を閉じた彼らの娘、セラヴィア・フォンティーヌと瓜二つだった。

 男爵夫妻の目から涙があふれて止まらなかった。

 セラヴィアが今も生きていたらこのぐらいの年になっていただろうと思うと男爵夫人は胸が痛んだ。

 病が非情にも連れ去ってしまった幸せな幻影が今目の前にある。あの子が我が家に戻ってきてくれたらーーすぐに彼らはそう考えた。


 ーーあの子もセラヴィアと同じ、桃色が好きかしら。ベッドから動けなかったセラヴィアのために買った蔵書をあの子も読んでくれるかしらーー

 男爵夫人はこう思った。


 ーーそうだ。今からマナーを勉強すれば、中等部から貴族学園に通えるのではないか。タウンハウスで制服を着た娘の姿を見るのが楽しみだったんだ。そしていつか、ウェディングドレスを着た娘を抱きしめ、いつかバージンロードを歩くのが夢だったーー

 男爵はこう思った。


 様々な想いが男爵夫妻の胸へ去来し、大通りの端で立ち尽くすことどれぐらいたったことか。パンを売るセラの姿はいつの間にか消えており、セラの父親である店主が代わりに番頭に立っていた。

 男爵夫妻は目と目を合わせて一つの決断をした。手持ちの金貨で彼は納得してくれるだろうか?


 2人が足を進めようとしたその瞬間、パン屋の裏手から幼児と手を繋いだセラが出てきた。

 昼時の混雑にぐずりはじめた子どもが抱っこをせがみ、セラは困ったように微笑むと、抱き上げてその額にキスを落とし、屋台が並ぶ市場の方に消えていった。

 その母のような慈愛に満ちた表情に、男爵夫妻の進みかけた足は固まってしまった。

 あの子どもはなんだ?弟だろうか?妹だろうか?いや、そんなことよりも、夢にまでみた光景に彼らの目から涙が溢れて止まらなかった。

 彼らには今年で5歳になる長男アンバーがいた。彼らの娘は、弟の誕生を夢見ながら神の元へと旅立ったのである。


『弟が生まれたら、私一緒に遠駆けしたいの!あのオレンジの丘まで競走できたら楽しいでしょうね』


 自身も病で遠駆けなどできぬ身でありながら、にっこりと夢を話すセラヴィア。そんな娘を抱きしめた、今日みたいな春の日を思い出し、夫妻はしばらくの間泣き続けたのであった。




 仕事ができる男爵家の従者が馬車を回し、目元を赤くした夫妻はそれに乗り込んだ。

 男爵家へと向かう道すがら、パン屋へ帰宅するセラと弟を見かけたが、彼らは自身の配偶者にそっと寄り添うのみであった。


「せっかく彼らは姉弟として楽しく暮らしているのに、私たちの都合で離れ離れになんてとてもできないな」

「ええそうね。アンバーにお土産を買って帰って、思う存分抱きしめてあげたいわ」


 男爵夫妻の走る馬車は静かに大通りを駆けていく。

 それを見た平民のパン屋の娘は「お貴族様の馬車に、一度でいいから乗ってみたいなあ」などと思いながら、先月よりも重くなった弟を抱き上げ、家へと帰っていた。

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