最終章 選ばれぬ正義
桐山は、
ペンを置いた。
ノートは、
最後まで白いままだった。
語らなかった。
だが、
黙ったわけでもない。
その違いを、
誰も理解しない。
理解される必要もない。
⸻
翌朝、
内部通達が回る。
今回の事案について、
追加調査は行わない。
関係者の処分もなし。
理由は、
「総合的判断」。
いつも通りの結論だ。
桐山は、
それを確認し、
端末を閉じる。
ここまでは、
想定内だった。
⸻
想定外だったのは、
午後に起きた。
匿名の投書。
送り先は、
検察でも、
警察庁でもない。
新聞社だった。
内容は、
具体的だった。
現場の配置。
警察官の動き。
制止の直前の躊躇。
声にならなかった指示。
書かれていたのは、
「事実」ではない。
迷いの存在だ。
誰が書いたか、
すぐに分かる。
あの若い警察官だ。
⸻
記事は、
一気に拡散した。
断定はしていない。
違法とも書いていない。
ただ、
「判断の前に、
一瞬の逡巡があった可能性」
それだけだ。
だが、
それだけで十分だった。
世論は、
正義を見つけたがる。
そして、
見つけた瞬間、
それを振り回す。
⸻
内部は、
騒然とした。
裏切り者。
軽率。
組織を理解していない。
若い警察官は、
即座に隔離される。
事情聴取。
配置転換。
将来の白紙化。
彼は、
何も弁明しない。
ただ、
一言だけ言った。
「書かない方が、
もっと怖かった」
⸻
桐山は、
呼び出される。
今度は、
逃げ道のない場だ。
「あなたは、
事前に知っていたのか」
桐山は、
首を振る。
嘘ではない。
「だが、
予見できたはずだ」
その通りだ。
沈黙は、
いつか破られる。
それが、
内部からか、
外部からかの違いでしかない。
⸻
処分は、
軽かった。
桐山は、
表向きは無傷だ。
なぜなら、
彼は語っていないから。
だが、
何も失っていないわけではない。
桐山は、
理解されなくなった。
上からも、
下からも。
語らず、
止めず、
だが、
知っていた人間。
最も扱いづらい存在だ。
⸻
数週間後、
事件は収束する。
違法性なし。
責任の所在不明。
再発防止策検討。
若い警察官は、
現場を離れた。
誰も、
彼を英雄とは呼ばない。
誰も、
完全な加害者とも呼ばない。
ただ、
「空気を乱した者」として
記憶される。
⸻
桐山は、
彼と最後に話す。
短い会話だ。
「後悔は?」
若い警察官は、
少し考えてから答える。
「あります。
でも、
あのままだったら、
もっと後悔してました」
桐山は、
何も言えない。
その答えは、
自分が一度も
選ばなかったものだからだ。
⸻
夜、
桐山は一人で歩く。
街は、
いつも通りだ。
警察官が立ち、
人は行き交い、
何事もなかったように
日常が流れる。
正義は、
今日も選ばれている。
だが、
選ばれなかった正義も、
確実に積み上がっている。
見えないだけで。
⸻
桐山は、
ふと立ち止まる。
もし、
あの日、
自分が語っていたら。
世界は、
少し良くなっただろうか。
答えは、
出ない。
だが、
一つだけ、
確かなことがある。
語られた正義は、
消費される。
沈黙した正義は、
連鎖する。
そのどちらも、
人を救わない。
⸻
桐山は、
再び歩き出す。
もう、
答えを探すのを
やめることはない。
それが、
罰なのか、
役割なのか、
自分でも分からない。
ただ、
知ってしまった者として
生き続ける。
誰かが、
また迷ったとき。
語る前にも、
沈黙する前にも、
存在してしまう
その「間」を。
⸻
正義は、
選ばれなかった。
だが、
消えたわけでもない。
それは、
今日もどこかで、
判断の直前に、
静かに息をしている。




