第六章 選ばれなかった声
それは、
「事故」として処理される予定だった。
未明の住宅街。
職務質問。
不審な動き。
制止。
転倒。
報告書に並ぶ言葉は、
これまでと何一つ変わらない。
違ったのは、
倒れた相手が、
そのまま起き上がらなかったことだ。
⸻
桐山が呼ばれたのは、
事後だった。
現場検証はすでに終わり、
映像も、
証言も、
整理されている。
整理されすぎていた。
監視カメラの死角。
目撃者の証言の一致。
現場警察官の供述の簡潔さ。
どれも、
教科書通りだ。
桐山は、
資料を追いながら、
ある違和感に行き当たる。
供述の中に、
「間」がない。
恐怖も、
焦りも、
判断の揺れも、
一切、言語化されていない。
誰一人として、
「迷った」と言っていない。
⸻
被害者は、
一般市民だった。
前科もない。
特別な背景もない。
ただ、
夜道を歩いていただけだ。
報道は、
慎重だった。
「詳細は調査中」
「警察は適切な対応だったと説明」
世論は、
すぐには動かない。
だが、
桐山は知っている。
こういう案件ほど、
後から膨らむ。
そして、
膨らんだときに、
最初に問われるのは――
「誰が、何を語ったか」だ。
⸻
内部の聞き取りで、
若い警察官が一人、
口を開きかけた。
桐山は、
その瞬間を見逃さなかった。
視線が揺れ、
言葉を探す間。
だが、
上司が、
ごく自然に言う。
「事実だけでいい」
その一言で、
若い警察官は、
口を閉じた。
桐山は、
何も言わなかった。
言えなかったのではない。
言わなかった。
⸻
会議は、
速やかに結論へ向かう。
「違法性は認められない」
異論は出ない。
出しようがない。
なぜなら、
語られていないことは、
検討の対象にならないからだ。
桐山は、
判を押す。
その指先が、
わずかに震えたことに、
誰も気づかない。
⸻
数日後、
遺族の会見が流れる。
言葉は、
整っていない。
感情も、
論理も、
混ざり合っている。
だが、
一つだけ、
繰り返される。
「本当のことを知りたい」
桐山は、
その映像を、
最後まで見なかった。
見れば、
思い出してしまう。
あの若い警察官の、
一瞬の沈黙を。
⸻
内部文書の片隅に、
小さなメモが残っていた。
「対応に際し、
一部職員に動揺あり」
それだけだ。
誰が。
どの程度。
なぜ。
何も書かれていない。
だが、
桐山には分かる。
これが、
最後に残った「声」だ。
選ばれなかった正義。
語られなかった判断。
記録にすらなれなかった迷い。
⸻
その夜、
桐山は一人で、
資料を読み返す。
すべては、
自分が望んだ形で
進んでいる。
秩序は守られ、
組織は揺れず、
誰も責任を負わない。
それなのに、
胸の奥が、
静かに、
しかし確実に崩れていく。
気づいてしまったからだ。
沈黙は、
誰かを守るための選択ではなかった。
沈黙は、
次の沈黙を生むための
仕組みだった。
⸻
桐山は、
机の引き出しから、
古いノートを取り出す。
そこには、
かつて書かなかった言葉が、
白紙のまま残っている。
今なら、
書ける。
だが、
書いた瞬間、
すべてが変わる。
自分の立場も、
過去の判断も、
この事件の行方も。
桐山は、
ペンを握る。
震えは、
もうない。
ここまで来て、
ようやく理解する。
次に選ぶのは、
語るか、沈黙するか、ではない。
誰の沈黙を、引き受けるか。




