第四章 戻ってきたもの
その連絡は、
桐山にとって、予想外ではなかった。
ただ、
想像よりも早かった。
地方署で起きた一件の事故。
詳細は、簡潔にまとめられている。
通報。
追跡。
制止。
転倒。
負傷。
いずれも、
どこにでもある言葉だ。
だが、
桐山は、その流れの中に、
一つの欠落を見つける。
「制止」の前に、
「躊躇」が存在しない。
記録上、
判断は一切迷っていない。
桐山は、
その場にいなかった。
だが、
分かってしまう。
現場にいた警察官は、
迷ったはずだ。
数秒。
あるいは、
一瞬。
だが、その迷いは、
記録に書かれなかった。
なぜなら、
迷いは、
後から説明する材料にならない。
⸻
負傷したのは、
逃走者だった。
大きな怪我ではない。
命に別状もない。
それでも、
問い合わせは入る。
対応は適切だったのか。
他に選択肢はなかったのか。
桐山は、
その言葉を聞いた瞬間、
第三章の報告書を思い出す。
――「他の選択肢も検討された」
今回は、
その一文すら書かれていない。
必要がないからだ。
迷いがなかったことにすれば、
検討も不要になる。
⸻
内部での聞き取りは、
短時間で終わった。
現場の警察官は、
淡々と状況を説明する。
声は落ち着いている。
言葉に詰まることもない。
桐山は、
その様子を見て、
違和感を覚える。
うまくなっている。
語らないことに、
慣れている。
それは、
教育の成果でもあり、
前例の成果でもあった。
桐山は、
質問を一つだけ投げる。
「一瞬でも、
別の対応が頭をよぎらなかったか」
警察官は、
ほんのわずか、
間を置いた。
それだけだ。
「ありません」
桐山は、
それ以上、追及しなかった。
追及すれば、
語らせることになる。
語らせれば、
それは「選ばれる正義」になる。
⸻
事故は、
大きな問題にはならなかった。
報道は小さく、
世論も動かない。
結論は、
いつも通りだ。
「対応に問題はなかった」
桐山は、
その文言を確認しながら、
胸の奥に残る感覚を無視できなかった。
もし、
あの現場で、
警察官が一瞬迷い、
その迷いを口にしていたら。
結果は、
変わらなかったかもしれない。
だが、
記録の形は、
違っていたはずだ。
⸻
桐山は、
あの若い職員の顔を思い出す。
第二章で、
「当時は特に」と言った、
あの言葉。
彼は、
今回の案件には関わっていない。
だが、
空気は、
確実につながっている。
語らない方が、
安全だ。
語らない方が、
面倒がない。
その学習は、
誰かが教えなくても、
自然に共有される。
⸻
夜、
桐山は自分のノートを開く。
そこに、
今日の案件を書くかどうか、
少し迷う。
書けば、
それは「記録」になる。
だが、
書いたところで、
何も変わらない。
変わらないどころか、
後から誰かが、
別の意味を与えるかもしれない。
桐山は、
結局、
何も書かなかった。
ノートを閉じた瞬間、
はっきりと理解する。
沈黙は、
中立ではない。
沈黙は、
次の判断を、
より速くする。
⸻
数日後、
例の警察官が、
表彰候補に挙がったという話を聞く。
理由は、
「冷静な初動対応」。
桐山は、
その言葉を否定できない。
確かに、
冷静だった。
迷いを見せなかった。
記録にも残さなかった。
それは、
組織が最も評価する行動だ。
桐山は、
静かに思う。
語られなかった正義は、
誰も守らなかった。
だが、
誰も困らなかった。
それが、
最も危険な点だ。




