第三章 説明に使われた沈黙
その出来事は、
ニュースになるほどのものではなかった。
地方署で起きた、
軽微な職務上のトラブル。
通報。
臨場。
対応。
結果。
手順は、過去と何ひとつ変わらない。
違っていたのは、
その後に書かれた「補足説明」だった。
桐山は、
その文面を読んだ瞬間、
視線を止める。
――「現場では、
当該対応以外の選択肢も検討されたが、
結果として、適切な措置が選ばれた」
検討された、という一文。
だが、
誰が検討したのかは書かれていない。
どの選択肢があったのかも、
明示されていない。
桐山は、
その言い回しを知っている。
それは、
実際に語られた異議ではない。
語られなかった違和感を、
後から「検討」として回収する書き方だ。
⸻
桐山は、
第二章の投書案件を思い出す。
語られなかった疑問。
判断されなかった迷い。
それらは、
正式な記録には残らない。
だが、
「存在した可能性」としてなら、
後から使える。
説明の厚みを増すために。
判断を強固に見せるために。
桐山は、
背中に冷たいものを感じる。
選ばれなかった正義は、
消えるのではなかった。
再利用される。
⸻
桐山は、
報告書の作成者を確認する。
若い係長。
実務に長け、
文章も整っている。
悪意はない。
むしろ、
組織を守るための最適解を選んでいる。
桐山は、
軽く声をかける。
「この“検討された”という部分だけど」
係長は、
少し考えてから答える。
「過去の事例を踏まえた表現です。
実際、現場で問題提起がなかったわけではないので」
問題提起。
だが、
その場で語られたわけではない。
記録もない。
それでも、
言葉としては成立してしまう。
桐山は、
それ以上、何も言わない。
言えば、
この文章は修正されるだろう。
だが、
修正されたところで、
別の言い回しが用意されるだけだ。
⸻
夜、桐山は、
自分のノートを開く。
そこには、
語られなかった違和感が、
断片的に書かれている。
だが、
そのどれもが、
証拠にならない。
証拠にならないから、
守られない。
守られないから、
説明に転用される。
桐山は、
初めて理解する。
語られなかった正義は、
無害ではない。
扱いやすい。
語られていないからこそ、
誰のものでもなく、
どんな結論にも合わせられる。
⸻
数日後、
内部監査の資料が回ってくる。
例のトラブルについて、
外部から問い合わせがあったという。
記者ではない。
市民団体でもない。
「過去の類似事例との整合性」を
確認したいという、
ごく事務的な照会だ。
桐山は、
その回答案に目を通す。
そこには、
第二章で扱った案件が、
「類似事例」として引用されていた。
語られなかった違和感が、
ここで初めて、
公式な文脈に組み込まれている。
桐山は、
ゆっくりと椅子にもたれる。
異議は、
語られなくても、
役に立つ。
役に立つ形で、
後から意味を与えられる。
それは、
前作で描かれた
「語られた正義」よりも、
さらに扱いやすい。
⸻
桐山は、
その回答案に、
一切手を加えなかった。
加えれば、
自分が関与した痕跡が残る。
残れば、
それは新たな「語り」になる。
彼は、
沈黙を選んだ。
だが、
それが中立ではないことを、
もう知っている。
沈黙は、
空白ではない。
素材だ。
⸻
帰り道、
桐山は、ふと考える。
この構造は、
どこまで進むのか。
語られた正義は、
前例になる。
語られなかった正義は、
説明になる。
どちらも、
判断を止めない。
むしろ、
判断を加速させる。
桐山は、
歩きながら、
足音を数える。
一歩。
一歩。
誰も立ち止まらない。




