第一章 記録に残らない違和感
最初に消えたのは、
報告書ではなかった。
時間だった。
午前九時十二分。
通報から現場到着まで、四分。
初動対応、適切。
指揮系統、問題なし。
書類に残る時刻は、すべて整っている。
だが、
その間にあったはずの、
誰かが一瞬だけ立ち止まった時間だけが、
どこにも記されていなかった。
地方都市の交差点。
事故でも事件でもない。
ただの職務質問。
若い警察官が一人、
相手の動きに、わずかな違和感を覚えた。
理由は説明できない。
声の調子でも、手の位置でもない。
もっと曖昧な、
「何かがおかしい」という感覚。
その感覚は、
記録に書くには弱すぎた。
彼は、
一瞬だけ考え、
そして、何も言わなかった。
結果として、
何も起きなかった。
それが、この件のすべてだった。
⸻
数日後、
桐山のもとに、一本の連絡が入る。
「確認しておいた方がいい案件がある」
声は、落ち着いていた。
緊急性も、切迫感もない。
それが、かえって気になった。
桐山が渡されたのは、
処理済みのファイルだった。
事件性なし。
問題なし。
対応は適切。
前作で見慣れた文言が、
何度も繰り返されている。
だが、
桐山は、その中の一行に目を留める。
――「現場対応において、
特筆すべき判断は確認されず」
特筆すべき判断がない、
という判断。
桐山は、ページを閉じる。
この案件には、
語られた正義すら存在しない。
違和感はあった。
だが、語られなかった。
だから、
正義として扱われることもなかった。
⸻
桐山は、思い出す。
前作で語られた正義は、
社会に組み込まれ、
前例として残った。
だが、
語られなかったものは、
どこにも行かない。
評価もされず、
検討もされず、
ただ、消える。
それは、
選ばれなかった正義だ。
⸻
現場の若い警察官は、
その後も勤務を続けている。
処分はない。
表彰もない。
同僚との関係も、変わらない。
彼自身も、
あの瞬間を、
大きな出来事だとは思っていない。
「何も起きなかった」
それが、
彼の中での結論だ。
だが、
桐山は知っている。
この社会では、
何も起きなかった、という出来事ほど、
後から形を変えて戻ってくる。
しかも、
より説明しやすい形で。
⸻
桐山は、
新しいノートを開く。
表紙には、
タイトルも日付も書かない。
そこに書くのは、
事実ではない。
判断でもない。
ただ、
語られなかった違和感だけだ。
それらは、
公式には存在しない。
だが、
存在しないからこそ、
次の出来事の土台になる。
桐山は、ペンを置き、
ふと思う。
語られた正義が、
社会を守るのだとすれば。
語られなかった正義は、
いったい、何を守っているのか。
その答えは、
まだ、どこにも書かれていない。




