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また、ラーメンな

作者: 澄希由志
掲載日:2026/01/16

 企業戦士となってから一年ほどで、仕事は生活の一部では飽き足らず、生活そのものが仕事の一部になっていった。


 朝は目覚ましより先に胃が重い。

 電車の中では、誰とも目を合わせず、頭の中で今日やるべきことを反芻する。

 帰宅はいつも遅く、コンビニの明かりだけが一日の終わりを教えてくれる。

 僅かに残る体力を振り絞って帰宅後に設けていた、趣味の漫画を読む時間も、三十歳を過ぎてからは満足に取れなくなった。家には、最新刊の数巻前で止まった単行本が、ビニールの巻かれたまま置かれている。


「……なんで、こんな生活してんだっけな」


 独り言は、部屋の中ですぐに消えた。

挿絵(By みてみん)

 シャワーを浴びたあと、ベッドに倒れ込みながらスマートフォンを開く。

 意味もなく連絡先をスクロールする癖が、最近ついていた。


 そこで、指が止まった。


 学生時代の親友の名前。


「……懐かし」


 最後に話したのは、卒業してすぐだった気がする。

 そのあと、就職して、忙しくなって、「また今度な」と言い合ったまま、今日まで来てしまった。


 連絡してみようか、と思い立つ。

 でも、画面はタップできない。


 今の自分を、見せるのが怖かった。


 昔は、何でも笑って、何も考えずに夜中まで喋っていたのに。

 今は、仕事の愚痴と疲れしか出てこない気がする。


「向こうは……どうなんだろうな」


 もし、あいつが昔のままだったら。

 もし、あいつも、全然違う人間になっていたら。


 どちらにしても、踏み出す理由が見つからなかった。


 その週末、特に目的もなく外に出た。

 気づけば、電車は学生時代によく使っていた路線を走っていた。


 降りたのは、母校の最寄駅だった。


「……変わってねぇな」


 駅前の風景は、少しだけ整備されていたが、根本は何も変わっていない。

 自販機の位置、改札の音、踏切の警報。


 胸の奥が、じんわりと疼いた。


 改札を出たところで、見覚えのある背中が目に入った。


 黒いリュック。

 少し猫背の立ち姿。


「……まさか」


 心臓が、一拍遅れて鳴る。


 声をかけるか、迷う。

 今さら何を話すんだ、と自分に言い聞かせる。


 でも、気づけば口が動いていた。


「……おい」


 その背中が、ゆっくり振り返る。


 一瞬の沈黙のあと、目が見開かれた。


「え……?」


 次の瞬間、あいつは笑った。


「……お前じゃん」


「久しぶり」


「久しぶりすぎだろ。何年ぶりだよ」


「さあ……数えたら怖いな」


 笑い方も、声の調子も、ほとんど変わっていなかった。

挿絵(By みてみん)

「なんで、ここに?」


「あー……なんとなく、な」


「なんだそれ」


「そっちこそ」


 あいつは、少しだけ視線を逸らした。


「俺も、なんとなく」


 含みを持った言い回し。

 でも、そう言ったあいつの顔は、とても晴れやかに見えた。


 駅前を歩きながら、ぎこちなく話す。

 最初は間が空くけれど、少しずつ、言葉が戻ってくる。


「仕事どう?」


「まぁ……生きてるって感じ」


「それ、元気なやつの答えじゃないだろ」


「お前は?」


「似たようなもん」


 短く笑い合う。


 沈黙が落ちても、居心地は悪くなかった。


「……なあ」


 あいつが、急に言った。


「連絡、しようと思ったことなかった?」


 一瞬、言葉に詰まる。


「……ある」


「だよな」


「でもさ」


「うん」


「今さら何話すんだって、思って」


 あいつは、少しだけ苦笑した。


「それ、俺も同じ」


「マジで?」


「マジで。お前、変わってたらどうしようって思ってた」


「それ、こっちの台詞なんだけど」


 二人で笑った。


 気づけば、学生時代によく行っていたラーメン屋の前に立っていた。


「……行くか」


「あー、行くしかないだろ」


 店に入ると、油とスープの匂いが鼻を突く。

 カウンターに並んで座る。


「まだ、この店あったんだな」


「潰れる気配ないな」


「注文、いつもの?」


「もちろん。てか、メニュー全然変わってないな」


「さすがに、多少値上げはしてるみたいだけどな」


 顔を見合わせて苦笑し、店員を呼ぶ。

 厨房から顔を覗かせた店長も、少し白髪が増えたくらいで、何も変わっていなかった。


 ラーメンが運ばれてくるまでの間、他愛もない話をする。

 昔の失敗談。どうでもいい授業の話。


「覚えてるか? あの時――」


「覚えてる覚えてる」


 笑っているうちに、不思議な感覚がした。


 胸の奥に溜まっていた重たいものが、少しずつ溶けていく。


「……最近さ」


 不意に、あいつが言った。


「昔のこと、よく思い出すんだよ」


「俺も」


「今が嫌ってわけじゃないけど」


「うん」


「戻りたいって思う日、あるよな」


 ラーメンをすする音が、やけに大きく聞こえた。


「……今日、ここに来てよかった」


 そう言うと、あいつは少し照れたように頷いた。


「俺も」


 食べ終えて、店を出る。

 外の空気は、来た時より少し軽く感じた。


 駅へ向かう途中、あいつが言った。


「今度はさ」


「うん」


「ちゃんと連絡しようぜ」


「……ああ」


 今回は、迷わなかった。


 改札で別れる直前、あいつが振り返って言う。


「また、ラーメンな」


「当たり前だろ」


 電車に乗り込んで、座席に腰を下ろす。


 仕事は、きっと明日も大変だ。

 生活が急に変わるわけでもない。


 それでも、胸の奥に、確かなものが残っていた。


 変わってしまったと思っていた自分も、

 ちゃんと、まだここにいた。

挿絵(By みてみん)

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