また、ラーメンな
企業戦士となってから一年ほどで、仕事は生活の一部では飽き足らず、生活そのものが仕事の一部になっていった。
朝は目覚ましより先に胃が重い。
電車の中では、誰とも目を合わせず、頭の中で今日やるべきことを反芻する。
帰宅はいつも遅く、コンビニの明かりだけが一日の終わりを教えてくれる。
僅かに残る体力を振り絞って帰宅後に設けていた、趣味の漫画を読む時間も、三十歳を過ぎてからは満足に取れなくなった。家には、最新刊の数巻前で止まった単行本が、ビニールの巻かれたまま置かれている。
「……なんで、こんな生活してんだっけな」
独り言は、部屋の中ですぐに消えた。
シャワーを浴びたあと、ベッドに倒れ込みながらスマートフォンを開く。
意味もなく連絡先をスクロールする癖が、最近ついていた。
そこで、指が止まった。
学生時代の親友の名前。
「……懐かし」
最後に話したのは、卒業してすぐだった気がする。
そのあと、就職して、忙しくなって、「また今度な」と言い合ったまま、今日まで来てしまった。
連絡してみようか、と思い立つ。
でも、画面はタップできない。
今の自分を、見せるのが怖かった。
昔は、何でも笑って、何も考えずに夜中まで喋っていたのに。
今は、仕事の愚痴と疲れしか出てこない気がする。
「向こうは……どうなんだろうな」
もし、あいつが昔のままだったら。
もし、あいつも、全然違う人間になっていたら。
どちらにしても、踏み出す理由が見つからなかった。
その週末、特に目的もなく外に出た。
気づけば、電車は学生時代によく使っていた路線を走っていた。
降りたのは、母校の最寄駅だった。
「……変わってねぇな」
駅前の風景は、少しだけ整備されていたが、根本は何も変わっていない。
自販機の位置、改札の音、踏切の警報。
胸の奥が、じんわりと疼いた。
改札を出たところで、見覚えのある背中が目に入った。
黒いリュック。
少し猫背の立ち姿。
「……まさか」
心臓が、一拍遅れて鳴る。
声をかけるか、迷う。
今さら何を話すんだ、と自分に言い聞かせる。
でも、気づけば口が動いていた。
「……おい」
その背中が、ゆっくり振り返る。
一瞬の沈黙のあと、目が見開かれた。
「え……?」
次の瞬間、あいつは笑った。
「……お前じゃん」
「久しぶり」
「久しぶりすぎだろ。何年ぶりだよ」
「さあ……数えたら怖いな」
笑い方も、声の調子も、ほとんど変わっていなかった。
「なんで、ここに?」
「あー……なんとなく、な」
「なんだそれ」
「そっちこそ」
あいつは、少しだけ視線を逸らした。
「俺も、なんとなく」
含みを持った言い回し。
でも、そう言ったあいつの顔は、とても晴れやかに見えた。
駅前を歩きながら、ぎこちなく話す。
最初は間が空くけれど、少しずつ、言葉が戻ってくる。
「仕事どう?」
「まぁ……生きてるって感じ」
「それ、元気なやつの答えじゃないだろ」
「お前は?」
「似たようなもん」
短く笑い合う。
沈黙が落ちても、居心地は悪くなかった。
「……なあ」
あいつが、急に言った。
「連絡、しようと思ったことなかった?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……ある」
「だよな」
「でもさ」
「うん」
「今さら何話すんだって、思って」
あいつは、少しだけ苦笑した。
「それ、俺も同じ」
「マジで?」
「マジで。お前、変わってたらどうしようって思ってた」
「それ、こっちの台詞なんだけど」
二人で笑った。
気づけば、学生時代によく行っていたラーメン屋の前に立っていた。
「……行くか」
「あー、行くしかないだろ」
店に入ると、油とスープの匂いが鼻を突く。
カウンターに並んで座る。
「まだ、この店あったんだな」
「潰れる気配ないな」
「注文、いつもの?」
「もちろん。てか、メニュー全然変わってないな」
「さすがに、多少値上げはしてるみたいだけどな」
顔を見合わせて苦笑し、店員を呼ぶ。
厨房から顔を覗かせた店長も、少し白髪が増えたくらいで、何も変わっていなかった。
ラーメンが運ばれてくるまでの間、他愛もない話をする。
昔の失敗談。どうでもいい授業の話。
「覚えてるか? あの時――」
「覚えてる覚えてる」
笑っているうちに、不思議な感覚がした。
胸の奥に溜まっていた重たいものが、少しずつ溶けていく。
「……最近さ」
不意に、あいつが言った。
「昔のこと、よく思い出すんだよ」
「俺も」
「今が嫌ってわけじゃないけど」
「うん」
「戻りたいって思う日、あるよな」
ラーメンをすする音が、やけに大きく聞こえた。
「……今日、ここに来てよかった」
そう言うと、あいつは少し照れたように頷いた。
「俺も」
食べ終えて、店を出る。
外の空気は、来た時より少し軽く感じた。
駅へ向かう途中、あいつが言った。
「今度はさ」
「うん」
「ちゃんと連絡しようぜ」
「……ああ」
今回は、迷わなかった。
改札で別れる直前、あいつが振り返って言う。
「また、ラーメンな」
「当たり前だろ」
電車に乗り込んで、座席に腰を下ろす。
仕事は、きっと明日も大変だ。
生活が急に変わるわけでもない。
それでも、胸の奥に、確かなものが残っていた。
変わってしまったと思っていた自分も、
ちゃんと、まだここにいた。




