視察
笑顔を顔に張りつけ、内心では冷や汗をかきながら、ロッテンバーグを客間に案内した。とはいっても先導したのはジェレミーで、アニェスは最後尾を歩くだけだったが。
客間にはローテーブルと、それを挟んで革張りの二人掛けソファが一対ある。ロッテンバーグが先に奥のソファへと座り、アニェスとアダンは手前に座った。そして、アダンとロッテンバーグは、すぐに視察する場所や道順の確認に取りかかった。
そのやり取りによると、流石に領地を端から端まで見に行くのは時間的に厳しいということで、近辺の産業や街の商業を見て回るだけの予定らしい。アニェスはアダンの隣に腰掛け、しばらく手持ち無沙汰だった。
確認作業が終わると、早速、三人で馬車に乗って各地を見て回った。グレーゲルは馬に乗って、その後ろをついて来ていた。
初めに近場の養蚕業を視察し、その後、製糸工場、そして最後に服飾店の視察を行った。民たちは、アダンに気づくと憎しみの篭った眼差しで彼を睨みつけたが、隣に立ついかにも高貴そうな出で立ちのロッテンバーグを認めると、さっと目を伏せた。誰も彼もが、面倒ごとは御免だと考えているようだった。
「最後にあの店を見て回りましょう」
一通りの視察を終えて、馬車の小窓からロッテンバーグが指さしたのは、比較的裕福な者向けの服飾店だった。看板には『ファッション・オモロ』と書かれていた。たしか、その店は事前に確認した視察リストにはなかったはずだ。
「ああ、あそこですか?」
アダンはにっこりと微笑んだ。リストにはなかったのに随分と余裕だ。アニェスは少し不安になって、なんとはなしに外で馬に乗っているグレーゲルをちらりと見た。しかし、彼には車内の会話が聞こえていないようで、アニェスの視線に首を傾げるだけだった。
「ええ、比較的上等そうな店構えなので興味が湧きました。連れて行ってくださいますか?」
ロッテンバーグは鋭い眼光のまま口の端を吊り上げた。
「はい、もちろん。喜んで!」
アダンは笑顔で答え、そのまま不気味にも表情を崩さず、御者に「おい! この辺に停めろ!」と叫んだ。
「アダンお兄様、ご予定はよろしいのでしょうか?」
アニェスは困惑したまま問いかける。それに対して、アダンはフンと鼻を鳴らした。
「この後、特に予定はない。別に視察が一件増えたとて、支障はないだろう」
アダンは片方の口端を意地悪く吊り上げて答えた。いつもなら嫌味の一つや二つくらい言われているところだが、アダンは上機嫌なままだ。わけが分からずアニェスは首を傾げたが、怒鳴られても面倒なので特に何も言わないことにした。
馬車を停めて、ロッテンバーグが指し示した店の中に入ってみると、内装は何の変哲もなく、裕福な平民向けの簡素でゆったりとしたドレスが展示されているだけだった。
「おい、店主はいるか?」
アダンは横柄な態度で店内を見回すと、大声で女性の店員に話しかけた。店員は、明らかに貴族の装いをしているアダンたちを見ると、ただ事ではないと瞬時に悟ったのか、「はい、只今!」と叫んで慌てて店の奥へ引っ込んでいった。
しばらくすると、恰幅のいい五十代くらいの男性が焦ったように出てきて、引きつった笑みを浮かべた。
「店主のオモロでございます! ほ、本日はお越しくださり……誠にありがとうございます!」
「ああ、少し店を見て回る。もう下がっていいぞ」
店主の挨拶には露ほども興味がないのか、アダンは要件だけを簡単に告げると、目も合わせずに、手を挙げてオモロを下がらせた。オモロは「は、はい! では、失礼いたします。どうかごゆっくり」と怯えたように言って、早足で店の奥に下がった。
それからしばらくの間、ロッテンバーグは店内を物色し、アダンは上機嫌にその後をついて回っていた。アニェスは、さらにその後に続きながら、店内の服をきょろきょろと見回した。ここには、公爵家当主たるロッテンバーグが気に入るような服は一着もないだろう。だから、目的は服ではない。しかしながら、視察のリストにもなかったのだから、視察が目的でもなさそうだ。
もしや、逢い引きでもするつもりだろうか。そういう理由なら目の前の男二人が上機嫌な理由も分かる。
アニェスは呆れた目で前方にいるロッテンバーグを見た。
その時、店の扉が突然ものすごい音を立てて開いた。びくりと肩を震わせ、反射的に入口を振り返る。すると、黒装束で大剣をかまえた異様な男が佇んでいた。
「何者だ!」
ロッテンバーグが叫んだ。
男は声に反応してロッテンバーグに顔を向けた。その時、聞こえるか聞こえないかの大きさで「ヨーラン……?」とグレーゲルが呟いた。
ヨーランと呼ばれた男はロッテンバーグを睨みつけた。目を凝らしてよく見ると、その男は目を見開き、口は半開きで涎を垂らしており、とても正気とは思えなかった。男は大きく口を開けて息を吸い込むと、「ワーゼル王国の恨みだ! 死ね!」と絶叫し、こちらに向かって駆け出した。
男がものすごい速さで向かった先は、よりにもよってロッテンバーグだった。男は剣を振り上げ、ロッテンバーグを斬り殺そうとした。それに反応して、ロッテンバーグの護衛が、彼を庇うように前に出て、立ちはだかった。両者は相対し、次の瞬間にも剣戟が始まろうとしていた。しかし、それより早く甲高い金属音が鳴り、男の剣が弾かれた。グレーゲルだ。彼が素早く飛び出して、男と斬り結んだのだ。
「邪魔だ! 退け!」
男は口角泡を飛ばしながら絶叫し、上段から剣を振り下ろす。グレーはそれに呼応して剣を横に構え、男の剣を受けた。二人は何度か剣を斬り結び、膠着状態に陥った。男は正気を失っているわりに、太刀筋には全く迷いがなかった。
両者の激しい斬り合いに、思わず息を呑む。産まれて初めて本気の殺し合いを目の当たりにして、アニェスは気が動転していた。助けを求めて周りを見回すと、先ほどまで品物のドレスを整えていた女性店員がいた。彼女は腰を抜かして動けないでいる。不意に後ろを振り返ると、ロッテンバーグとアダンがいつの間にか護衛に守られ、フロアの奥に隠れていた。
どこにいるべきかすら分からず、途方に暮れて剣戟を繰り広げる二人を見た。すると、男と目が合ってしまった。一人で無防備に立ち尽くしているアニェスに気づいた男は、にやりといやらしい笑みを浮かべた。
男は大げさに剣を振り上げ、すかさずグレーゲルが剣を横に薙ぎ払った。しかし、剣を振り上げたのは、おとりだった。男は狙い済ましたように、自身の脇腹を狙った一太刀を受け流し、グレーゲルの脇をすり抜けた。そして、アニェスに向かって駆け出した。
アニェスは自分に向かって走る男を呆然と見ることしかできなかった。男が剣を振りかぶり、その後ろでグレーゲルが手を伸ばす様子がスローモーションに見えた。後ろから、「アニェス!」と叫ぶアダンの声が聞こえた。意地悪で傲慢なアダンでも、おもちゃが死ぬ時は心配するだな、とぼんやりと考えた。
しかし、アニェスが斬り捨てられることはなかった。何故か男が「うっ!」と唸って躓いたのだ。その隙にグレーゲルは、後ろから剣の腹を男の脇腹に叩き込んだ。男は衝撃で倒れ、床に頭を打ちつけて気絶した。
アニェスは最初、何が起きたのか分からなかった。男が視界から消え、後ろからグレーゲルが現れたのだ。そして一拍遅れて、彼が助けてくれたのだと理解した。
グレーゲルは珍しく息を乱し、アニェスを見つめた。アニェスは激しく脈打つ心臓を抑え、口を開いた。
「グレーゲル……ありが」
しかし、言い終わらないうちに、ロッテンバーグが叫んだ。
「その者を捕らえよ!」