高等法院の長
高等法院の長官、ギヨーム・ロッテンバーグ公爵が屋敷に到着するまでの間、侍女に手伝ってもらいつつ、アニェスは急いで身支度をした。いつもは侍女に完全に任せっきりだが、自分でも準備を進めた方が圧倒的に早い。準備の最中、ジェレミーとグレーゲルには部屋の扉の前に控えてもらった。
アダンの書斎から出てすぐにアニェスはグレーゲルに、ロッテンバーグの接客をすることになった、と告げた。それを聞いて彼は神妙な面持ちで頷き、それきり何も言わなくなった。何も聞いてこないということは、彼はギヨーム・ロッテンバーグという人物を知っているのだろうか。少し気がかりだったが、それ以降、グレーゲルとは何も話をしなかった。
慌ただしい準備がやっと終わり、あとは待機するだけになった時、アニェスはソファに沈み込み大きなため息をついた。せっかく髪をまとめたので頭まで凭れることはできないが、髪やドレスが乱れない程度に、つかの間の自由を満喫する。
「アニェス様」
突然、グレーゲルの声が室内に響いた。アニェスは驚いて肩を揺らした。いつの間に部屋に入ったのだろう。足音が全く聞こえなかった。
「グレーゲル!? な、なに?」
「接待の最中、後ろに控えていてもよろしいでしょうか」
グレーゲルは素早くアニェスに一歩近づき、屈むと、耳元で囁くように言った。あまりの近さに顔が熱くなる。
「え、ええ……かまわない、わ」
「ありがとうございます」
そう言うと、グレーゲルは音もなく壁際に下がった。
いまだ暴れる心臓を服の上から押さえつける。涼しい季節だというのに額からは嫌な汗が流れた。
やはりグレーゲルは、相当な手練れではないだろうか。こんなふうに音もなく歩いたり、先日のように魔法を使ったりできるのだから、ワーゼル王国において重要なポストの軍人としか考えられない。それともワーゼル王国の兵士は、皆このレベルの手練れなのか。しかし、そうだとしたらドレグニア王国などに支配されることにはならないような。
気づかれないように、グレーゲルをちらりと見た。そうしたらすぐに目が合って、彼は微かに口角を上げ、甘い笑みを見せてきた。気づかれてしまった。アニェスは勢いよく顔を伏せた。
先ほど不意に近づいてきたことといい、あの男はすぐに女をからかうようなことをするからいけない。そういった意味でもグレーゲルは底知れない男だった。
「アニェス、何をやってるんだ愚か者! 早く来い!」
考え事をしていると、部屋の外からアダンの怒鳴り声が聞こえてきた。グレーゲルについて思案しているうちに、ロッテンバーグはもう到着したようだ。アニェスは無理やり思考を打ち切って、急いで玄関広間へと向かった。
階段を駆け下りてアダンのそばへ寄ると、ちょうど屋敷の執事長が玄関扉を開けるところだった。どうやら間に合ったらしい。
「ロッテンバーグ公爵! ようこそおいでくださいました」
アダンが礼を執ったので、アニェスも慌ててそれに習う。目の前には、眼光の鋭い初老の男性が堂々たる居住まいで佇んでいた。どうやら、この老獪そうな見た目の男がギヨーム・ロッテンバーグ公爵、その人らしい。
「ヴィスコンティ侯爵、この度は領地を視察する機会をいただき、誠にありがとうございます」
ロッテンバーグも帽子をとって礼を述べた。
視察なんて聞いていない。アダンを睨んだが、彼は何処吹く風でにこやかにロッテンバーグを見つめていた。
「ロッテンバーグ公爵、こちら末の妹のアニェスでございます」
「お初にお目にかかります、ロッテンバーグ公爵」
アダンがアニェスを紹介したので、慌てて居住まいを正す。ロッテンバーグは値踏みするように、上から下までアニェスを具に観察した。
「どうもはじめまして、アニェス・ヴィスコンティ嬢」
「本日は、よろしくお願い申し上げます」
ロッテンバーグは、つまらなさそうに「ああ、よろしく」とだけ言って、アニェスの背後を見た。
「そちらは?」
後ろを振り向くと、そこには、いつの間にかグレーゲルが控えていた。そこで初めて、アニェスは彼がすぐ後ろにいたことを知った。
「あ、こちらは護衛の……」
「グレーゲル」と言いかけて咄嗟に口をつぐむ。グレーゲルが本名だった場合、調べられて彼の祖国が知られてしまうと、面倒なことになると危惧したからだ。しかし、それは杞憂だった。
グレーゲルは前に進み出ると、礼を執って「グレーゲルと申します」とそのまま名乗った。
「ほう……グレーゲル、か。この辺では見かけぬ顔立ちだ。ドレグニア王国の民は、皆上品な顔立ちでね?」
ロッテンバーグは、グレーゲルがドレグニア王国出身ではないと瞬時に看破し、持って回った言い方で彼を嘲笑った。老獪そうな見た目通り、知識がある上に頭の回転も早いらしい。 ただしその頭の回転の早さは、嫌味に使われることが多いようだが。
ところが、グレーゲルも負けてはいなかった。
「父がオーウェンタリア出身でございます」
「ほう、ここから北東にある国か。して、なぜこの国へ来るに至った?」
ロッテンバーグは顎に手を当て、わざとらしく尋ねた。
「父が行商人を営んでおりまして、たまたまこちらに来たところを今の母と出会って結婚したそうです」
グレーゲルは紳士的な笑みを浮かべた。
「なるほど。で、お前はなぜここの護衛に?」
「小さい頃から剣の道に憧れておりまして、腕を磨くため、各地で依頼をこなすうちに、負傷して動けなくなったところをアニェス様に拾っていただきました」
グレーゲルはアニェスににっこりと笑いかけた。よくもまあ、こんな嘘をつらつらと思いつくものだと感心する。しかし、今はアニェスもロッテンバーグの追求を避けたいので、その嘘に乗ることにした。
「ええ。彼は経験豊富で腕が立つそうなので、お願いいたしました」
にこりと一つ笑ってみせる。
「なるほど、しかし今どき剣とは。封建貴族は銃も買えないのかね?」
「なっ……!」
ロッテンバーグはまたぞろ嫌味を放った。これにはアダンが反応した。
貴族は、封建貴族と宮廷貴族の二種類に大別される。封建貴族は領地をもつ昔ながらの貴族のことで、領地を治め、民から税を徴収することで生計を立てている。一方で、宮廷貴族は、領地を国王に返納し、王宮で官僚として働くことで生計を立てている貴族のことだ。
ヴィスコンティ家は圧政を敷いてはいるものの、今のところ金に不自由はしていないはず。しかし、ロッテンバーグの言い草からして、どうやら近頃、封建貴族の立場は弱いらしい。
アニェスはアダンが怒り出さないか肝を冷やした。しかし、さすがに高等法院の長官相手に怒鳴ったりはしなかった。
「ロッテンバーグ公爵、我が兵士たちには充分な数の銃を与えております。もちろん訓練も怠っておりません。ご安心ください。あー、この者はアニェスが個人的に雇っている者でして」
アダンは引きつった笑みを浮かべながら、早口でまくし立てた。ロッテンバーグは顎に手を当てたまま「なるほど。面白い」と呟いた。
「ロッテンバーグ公爵。立ち話もなんですから、客間にご案内いたします」
これ以上、詮索されたら堪ったものではない。話の切れ目を狙って、アニェスは笑顔で客間の方を指した。
「ああ、お願いしよう」
ロッテンバーグは横柄な態度で頷いた。