二番目の兄
よく晴れたある日。
アニェスは、気分よく庭の四阿で紅茶を飲んでいた。今朝は朝日とともに自然に起き、小鳥のさえずりを聴きながら身支度をした。体もすっきりと軽い。今日は一日、とても良い日を過ごせそうな気がする。
ところが、災難とはいつも突然降ってくるものだ。アダンの使用人が焦ったように走って来て、執事のジェレミーに小声で何事かを耳打ちする。
厄介ごとの予感がする。アニェスはすました顔で紅茶を飲みながら、内心ものすごく冷や汗をかいていた。何も起こってくれるな、と頭の中で何度も念じる。しかし、その願いも虚しく、ジェレミーは素早くアニェスのそばに近寄り、軽く屈んだ。
「アニェスお嬢様、アダン様がお呼びです」
ジェレミーは静かに声をかけた。ほら、やっぱりね。アニェスは大きなため息をついた。
「分かったわ。すぐ行く」
腰が重かったが、仕方なくアニェスは席を立った。
「失礼します」
アダンの書斎の扉をノックし、そっと声をかける。
「入れ」
アダンのぶっきらぼうな声が聞こえて、思わずため息をつく。アニェスは静かに扉を開けて中に入った。
部屋の奥には、豪華な書斎机があり、その奥の柔らかそうな椅子にアダンはゆったりと座っていた。そして、その近くには来客用の丸テーブルがあり、セットのカウチソファには、次兄のティエリーがちょこんと座って紅茶を飲んでいた。
ティエリーは五人兄妹の四番目で、今は王宮で財務官として働いている。そのため、普段は王都で暮らしており、こちらには滅多に帰ってこなかった。
アニェスと違って、三人の兄姉から蝶よ花よと甘やかされて育ってきた彼は、三歳になってアニェスが産まれてから、兄姉が彼女をいじめる様子を間近で見てきた。そのせいか、ずいぶん嗜虐的な性格に育ってしまった。
そしてその嗜虐性は、彼が結婚して妻を娶って以降、その妻に対しても発揮された。たまに夫婦連れ立って帰ってくるティエリーの部屋からは、時折、妻の悲鳴が聞こえてくる。もちろん、何をしているのか確かめたことはない。
「遅いぞ」
アダンは苛立たしげに声を荒げた。
「申し訳ございません」
呼ばれてから真っ直ぐに向かったのだが、アダンにとっては遅かったようだ。瞬間移動を覚えた方がよろしいでしょうか? と返したかったが、そこはぐっと我慢して謝ると、カップを置く音が部屋中に響いた。ティエリーだ。
「まあまあ、アダンお兄様。アニェスは急いで来てくれたよ?」
「……ああ、そうだなティエリー! お前は優しいな」
さきほどまで苛立っていたのが嘘のように、アダンはティエリーに微笑みかけた。ちらりとティエリーを見ると、彼はアニェスに向かってこっそりとウインクした。
ティエリーは昔からアニェスに優しい。ただし、それは妹として愛しているからではない。ペットを気まぐれに甘やかすのと同じことだった。アダンたちがティエリーを甘やかすのも同じ理由。だから、彼もアニェスにそうするのだ。
うんざりする。早く部屋に戻ってベッドに沈みたい。
「ティエリーお兄様、お久しぶりでございます」
アニェスは、曖昧な笑みを浮かべて礼を執った。
「久しぶり、アニェス。相変わらず元気そうだね」
ティエリーはにこりと微笑んだ。「お兄様もお元気そうで何よりです」と返すと、アニェスはアダンに向き直った。
「それで、アダンお兄様。なんのご用でございますか?」
早く帰りたい一心で、アダンの先を促す。すると、あからさまに嫌そうな顔をされた。
「お前に言われずとも今言うところだ! よいか、本日は高等法院の長官、ギヨーム・ロッテンバーグ公爵がいらっしゃる。いつも懇意にさせていただいているお方だ。お前も接待しろ」
予想外の用件に、アニェスは目が点になった。
――高等法院。
それは王都にある立法を司る場だ。地方の法律は領主である貴族が定めているが、王都や全国的な法律は、ここに申請して許可を貰う必要がある。その長官ということは、立法に関して絶大な影響力をもっている人物ということだ。いつも横柄なアダンが接待したがるのも、それが理由だろう。
それに以前、ヴィスコンティ家の帳簿を整理した時、アダンとティエリーがロッテンバーグへの支払いがどうのと話していたような気がする。おそらくヴィスコンティ家のような貴族から金品を受け取って、見返りに貴族に有利な法を整備しているのだろう。
「えっと……高等法院の長官? 私が接待するのですか?」
「グズめ。そう言っているだろう」
アダンは嫌味ったらしく鼻を鳴らした。
「そのようなことはいつもティエリーお兄様が対応なさっているのでは?」
なぜアニェスまで駆り出されなくていけないのか。状況がうまく飲み込めず、アニェスは説明を求めてティエリーを見た。
「うーん。それがね、僕はちょっと野暮用があって相手できないんだ」
ティエリーは紅茶を持ちながら首を傾げた。
「そうなのですか?」
「うん」
ティエリーはおかしそうにくすくすと笑った。
「クララがね、散歩をしたいって言うんだ」
「クララ様が?」
クララはティエリーの妻だ。気弱な性格で、ティエリーのご機嫌をいつも窺っている。よくティエリーの後ろをびくびくしながら歩いているが、虐められながらも彼を好いているらしく、一度アニェスが心配して声をかけてみたら、思い切り睨まれてしまったことがあった。
予想外の答えに「はあ」と気の抜けた返事をしてしまうと、アダンが机を叩いて「なんだその返事は! ふざけてるのか!」と顔を真っ赤にさせて怒鳴ってきた。
しかし、それをティエリーが制した。
「まあまあ、お兄様。それでね? アニェス。これで散歩してあげようと思って」
アニェスは口をぽかんと開けた。ティエリーが手に持って掲げたのは、鉄の首輪と革でできたリードだった。
「ティエリーお兄様、それは……」
「素敵でしょう? ロッテンバーグ公爵のお邪魔をするなんてお仕置が必要だと思ってね」
ティエリーは楽しそうにけらけらと笑った。アニェスは呆れてちらりとアダンを窺ったが、彼はにこにこと笑って鷹揚に頷いていた。それを見て、何とも言えない気持ちになる。
「ティエリーお兄様、それは今日でなくてはいけないのですか? なにもわざわざ……」
言いながらティエリーを見ると、彼は無表情でこちらを見返してきた。アニェスは思わず言葉を止めた。
「は? 僕のやることに指図する気なの?」
「いえ、そういう訳では。ただ……」
「ふーん? またあれをやられたいみたいだね?」
ティエリーが残忍な笑みを浮かべた。その途端、昔の記憶が一気に蘇り、恐怖に肩が震えた。
「……大変申し訳ございませんでした。私が対応いたします」
「うん。それでいいんだよ。じゃあ決まりね!」
ティエリーは何事も無かったかのように明るい口調で言った。アダンは「やれやれ。最初からそうしていれば良いものを」と言って肩を竦めた。