使役と精神操作
気がつくと、アニェスは何か柔らかいものに包まれていた。
身体中がチリチリと昂り、頭の天辺から指先まで今までにない新しい何かが駆け巡り、そのまま外に迸りそうな感覚に苛まれた。
思わず手をピクリと動かすと、生暖かいチクチクとした毛に覆われた何かに触れた。
その瞬間、それはキャンッと鳴いて勢いよく離れていった。
「うっ……!?」
アニェスは驚いて目を開けると、最近見たばかりの天井が視界いっぱいに広がった。恐らくここは、攫われた直後にいた地下の部屋だろう。
起き上がろうとすると、その途端に体がずしりと重く、頭に靄がかかったように全く思考が働かなくなった。あまりのだるさに、アニェスは起き上がることを諦める。
「気がついたみたいだね」
「……っ!?」
アニェスは驚いて飛び起きようとしたが、体が重すぎてできなかった。
いつの間に近くにいたのか、幼い頃に嫌というほど聞いた声がすぐそばから聞こえてきた。
無理やり体を横にして声のした方を見ると、予想通りティエリーがベッドのそばに立っていた。
「久しぶりだね。と言っても、伯父上がうちの領地に視察に来られた時に一度会っているけどね」
ティエリーはその愛らしい顔で、にこりと微笑んだ。
伯父上、と言われて、アニェスはすぐには誰のことだか分からなかった。だが、ティエリーが「ギヨーム様のことだよ」と補足したことでやっと理解する。
ロッテンバーグの話が正しければ、彼はアニェスとティエリーにとって、伯父に当たるのだ。
「ど、して……?」
どうしてここにいらっしゃるのですか? そう聞こうとして、上手く喋れないことに気づく。
ティエリーはうっすらと微笑みを浮かべたまま言った。
「へえ、その状態でよく喋れるね」
「えっ……?」
その状態とは、どんな状態だろう? たしか、意識が途切れる直前は、ロッテンバーグと会話していたはず。魔法がどうとか言われた気がするが――
思考が鈍っているせいで、それ以上は何も考えられなかった。
「状況を説明してあげる。君は今、魔法神経を解放されているんだ。でも、そのままだと危ないだろう? こちらを攻撃されても困るし。だからお人形になってもらうことにしたんだ」
「おに……?」
そこまで言われ、思い出した。ロッテンバーグに最後に言われた言葉を。人形になっている、と言われたのだ。
何がおかしいのか、ティエリーは声を立てて笑った。
「そうそう。伯父上は君に首輪を用意したんだよ。だから本当は今頃、全く思考回路が働かないはずなんだけど……さすが、魔法神経抜群。自我をかろうじて保っているなんてね。でもだんだん効いてくるよ」
「な……ティエ、に……様。な、んて……?」
今しがた語られたことは、アニェスにとってにわかには信じ難かった。
魔法神経――つまり、魔法を使う才能がアニェスにはあるということなのだろう。それも抜群らしい。だが、せっかく魔法を使えるようになったのに、アニェスの自我はなくなってしまうのだとティエリーは言う。
絶望を感じて、つい目の前の兄に縋るような視線を向ける。
「ん、僕? 僕に聞かれても、何にもできないよ。僕は昔から、伯父上によくしてもらっていたから、そのご恩があるし」
「ご恩……?」
頭がボーっとするが、必死で抵抗する。少しでも抵抗をやめてしまえば、たちまち夢の世界へ旅立ってしまう。そんな浮遊感に包まれていた。
しかし抵抗するアニェスを後目に、ティエリーは静かに続けた。
「子どもの頃、なぜか動物たちが僕の言うことを聞くって気がついてね。それで、気に入らない友達にけしかけてみたのさ。そうしたら怪我をさせちゃったんだよね。で、みんなに気味悪がられて……でも伯父上は、それが僕の強みだ、って言ってくれたんだ。それで僕に吸血蜘蛛のブラッチュラをくれたんだ。それ以来、僕は伯父上のことが大好きなんだよ」
それを聞いた瞬間、アニェスは過去を思い出して吐き気を覚えた。ロッテンバーグが余計なことを言わなければ、蜘蛛を贈らなければ、あの身の毛のよだつような思いをしなくて済んだのに。ティエリーに何も気づかせなければ――
頬を赤く染めながら語るティエリーの横では、大きなウィローが頭を彼の足にこすりつけていた。ティエリーが「よしよし」と言いながらその頭を撫でると、クゥーンと甘えた声を上げる。その様子は、どう見ても使役しているようには見えず、心から懐いているようだ。
アニェスのウィローを見る懐疑的な視線に気づいたのか、ティエリーはかがみ込んでウィローを抱きしめて言った。
「このウィローは、僕が赤ちゃんの頃から育てているから、使役じゃなくて信頼関係が成り立っているんだ」
ティエリーはそこで言葉を切り、ニタリと笑った。
「ただし、コイツの母親は使役して自死させたけどね」
「は……?」
ティエリーはいやらしい笑みを浮かべた。
「信頼関係を構築するためにはドラマがなくっちゃ。だから母親を殺して、僕がコイツを拾ってあげたんだ。ねー?」
「なっ……!」
体を突き抜けるような怒りを感じる。だが、それも一瞬でたちまち霧散した。感情が揺さぶられる度に、頭の靄が濃くなって何も考えないようにさせられるのだ。
ティエリーが愛おしげにウィローを撫でると、彼はそれに応えるように、元気よくワフッと吠えた。
しばらくそのやり取りをぼんやりと眺めていると、ティエリーはふと顔を上げた。
「そろそろ効いてきたんじゃない?」
「……っ!」
アニェスはもう喋ることができなくなっていた。それどころか視界が滲み、ティエリーの顔に霞がかかって見える。
だんだんと思考が奪われていく。
「じゃあ、そろそろ行こうか。人間を消しに、ね」
ティエリーがそう言って指を鳴らすと、不思議と行かなければいけない気持ちになる。人間を消すことが、とても自然な営みのように思えた。
だるく重かったはずの体は、今度は勝手に起き上がり、追い風を受けたように歩き出した。
「うんうん、いい感じ。一緒に行こう。おいで」
ティエリーはにっこり微笑んで扉へ向かって歩き出し、その後ろをウィローが続いた。すると、その後を追いかけなければいけない気持ちになって、自ずと脚が前へと進んだ。
身体中をチリチリとした焦燥感が駆け巡り、脳が警鐘を鳴らしている気がしたが、全てが霞に隠されて一つのことしか考えられなくなっていた。
――人間を消さなければいけない。




