狼のような男
帰り道。
アニェスは、イヴォンが最後に言った言葉の意味を考えていた。
『あなたにもプレゼントがありますよ』
プレゼントって、何のことだろう。
アニェスにプレゼントをくれるような親しい人間は一人もいない。両親は、もはやアニェスたちを切り捨てて、安全な他国の別荘に移っているし、兄姉はアニェスを、ヴィスコンティ家の格を落とす、みすぼらしいおもちゃとしか考えていない。そもそも二人の姉は嫁いでいるから、会うことも稀だ。
それに、口ぶりからしてイヴォン本人ではなさそうだ。
もしかして、孤児院の子どもたちかもしれない。
その線が一番ありえそうだ。子どもたちの顔を思い出して、口の端だけで思い出し笑いをする。
その時、馬車が急停止した。
ガタンと大きく車体が揺れて、その衝撃で身体が浮き、アニェスは座席にお尻をしたたかに打ちつけた。
「痛っ……!」
「アニェスお嬢様! お怪我はございませんか?」
馬車の扉が勢いよく開いて執事のジェレミーが顔を覗かせた。その顔はとても焦っていた。
「ジェレミー! ええ、私は何も。どうかしたの?」
「それが、道をふさいでいる者がおりまして……」
ジェレミーは困惑した様子で、馬車の前方をちらりと見た。気になって馬車から降り、視線の先を確認した。
すると、たしかに蹲っている人影があった。アニェスはその人影に静かに近づいた。
「お嬢様! 危険にございます!」
急いでジェレミーが止めに入るが「問題ないわ」とだけ呟き、アニェスは制止を振りきって歩みを進めた。
近づいてみると異国の兵士のようだった。
筋骨隆々の大きな体躯と、彫りが深く男臭い顔が狼を思わせた。髪はくすんだ金色で、歳は二十後半から三十前半か、全身泥だらけで酷い有様だ。
「どうしましたか?」
声をかけると、男は反応して顔を上げ、こちらを見た。その瞳は、凍えるようなアイスブルーだった。
一瞬目を奪われるが、よく見ると男は腹部に怪我をしているようだった。
「怪我をしているの?」
男の怪我に気づいてさらに近づくと、「それ以上はなりません!」とジェレミーが叫んだ。「いいから」と適当に返事をして、アニェスは男の前にしゃがみ込んだ。
それを見た男は、野性味のある精悍な顔を、無表情でアニェスへと向けた。
「どこのお方?」
問いかけると、男はゆっくりと大きな口を開いた。まるで食べられてしまいそうだ。
「ワーゼル」
男はアニェスにだけ聞こえるような小さな声で、一言だけ声を発した。
ワーゼル王国。
イェボニスク朝の支配する北方の国だ。イェボニスク家は我が国ドレグニアの王族とは異なり、善政を施している。そのため、この一族が治めている間は、太平が続くだろうとまで言われているが、この手負いの狼は、どうして太平の国からこの腐った国に迷い込んだのだろうか。それも酷い怪我で。
「名はなんと言うのですか?」
「グレーゲル」
アニェスは目の前の男、グレーゲルを見つめた。
「――グレーゲル」
男の名を確かめるように舌にのせる。彼は僅かにそれに反応し、アニェスを見た。二人はしばらくの間、静かに見つめ合った。
そうして実際には数十秒だが、何時間にも思える時が経ち、グレーゲルはおもむろにアニェスに向かって節くれだった大きな手をかざした。
殺される。
急に、手負いの獣に牙を剥かれるような、肌をチリチリと焼かれるような危機感を覚え、咄嗟にその手を掴んでしまった。
大きくて堅い手だ。だが、とても冷えている。
手を掴まれたグレーゲルは凛々しい眉を寄せ、無言でアニェスを見た。
「あの……」
思わず口篭る。
怖くなって咄嗟に手を掴んだが、特に何かしたかったわけではない。このまま身を任せていると、なにか良くないことが起こるような気がしたからだ。
グレーゲルを懐柔するため、アニェスはとりあえず控えめな笑みをつくった。
「治療しましょう。うちに来てくれるかしら」
グレーゲルはわずかに目を瞠った。ジェレミーは「なっ……!?」と大きく口を開け、これでもかというほど顔を顰めた。
それぞれの反応に、内心、冷や汗をかきながら答えを待つ。
「……ああ、感謝する」
グレーゲルは微妙な顔をしながら返した。
こうしてアニェスは、ジェレミーの猛反対に合いながら、グレーゲルを屋敷に連れて帰った。
屋敷に戻ると、長兄アダンと鉢合わせしてしまった。アダンはアニェスを見るなり、顔をしかめた。
「相変わらずみすぼらしい格好だな、このクズが。髪も伸ばしっぱなしだし、ドレスも……ん?」
またいつもの嫌味が始まるのか、と心構えをしていたが、今日に限っては、アダンはアニェスの背後にいるグレーゲルに目を止め、嫌味は続かなかった。
「なんだ、こいつは?」
アニェスは焦った。何も考えずに連れ帰ったはいいが、それらしい言い訳を用意していない。
「こ、この者は……」
グレーゲルをちらりと見る。彼は片眉を上げて見返してきた。しばらく逡巡した後、アニェスは心を決めた。
「護衛です、お兄様」
「護衛だと?」
「ええ、以前仰っていたではありませんか。『護衛なら自分で雇え』と」
目が泳いでしまうのを必死で我慢した。明らかに不自然だが仕方ない。咄嗟にしては、上出来だろう。
グレーゲルを盗み見ると、彼は無表情でアニェスを見つめていて、思いきり目が合ってしまった。慌てて目線を外して、アダンに向き直る。
「へぇ」
アダンは小馬鹿にした様子で、口の端を吊りあげ、せせら笑った。嘘が分かったのだろうか。緊張のあまり、心臓が激しく鼓動するのを感じる。
「まあ、よいのではないか? みすぼらしいお前にぴったりの汚らしい護衛のようだ。無骨で品がない。好きにしろ」
アニェスは一気に脱力した。嘘には気づかなかったらしい。言われたことには納得できないが、とりあえずはこの大男を屋敷に置いておける。
「寛大なご配慮、誠にありがとうございます」
「ああ、今日の私は心が広い。なんと言っても宴だからな」
「宴……でございますか」
たしかに今日のアダンは妙に上機嫌だ。宴には全く興味はないが、彼の機嫌を損ねるのは怖いので、適当に相槌をうつ。
「ああ、今日は歴史的戦勝記念日なのだよ」
アダンは得意げに言った。
眉をひそめたくなるのを我慢して、アニェスはうっすらと笑みを浮かべた。
「どこと戦をしたのですか?」
アニェスは、最近の国際情勢を全く知らなかった。
屋敷と孤児院の往復ばかりで、全く情報が入ってこないからだ。その上、友人をつくることも、定期刊行物の類を読むことも、禁じられている。歴史や地理に関しては、古い書物を読んで勉強しているが、現代の政治についてはさっぱりだった。
これは兄たちが、アニェスを愚かな妹だと笑いものにするためでもあるし、おもちゃであるアニェスに反抗させないためでもあるのだろう。
唯一分かるのは、ヴィスコンティ家に関わる金の巡りだけだ。
この国の貴族は、悪知恵がよく回る。
アニェスが質問した途端、予想通りアダンは蔑みの表情で口元を歪めた。
「お前は相変わらずの馬鹿だな。ワーゼル王国に決まっているではないか」
「ワーゼル……?」
アニェスはわずかに目を見開き、グレーゲルを横目で見た。
『どこのお方?』
『ワーゼル』
たしかに、グレーゲルはそう言っていた。そうだとすると、なぜわざわざあのような所で傷つき、蹲っていたのか。彼も戦に加わっていたのだろうか。
疑問がいくつも浮かんだが、今はアダンを相手にしている。余計なことは、言わないに越したことはない。
「ワーゼル王国は我が国ドレグニアの属国となったのだ」
アダンは誇らしげに胸を張った。
「左様でございますか。それは素晴らしいことですね」
「ああ、だから今宵は宴だ。まあ、お前には関係ないがな」
アダンは高笑いしながら食事の間へと去っていった。宴はいつものことでは? と内心呆れたが、さすがに口に出すほどアニェスも馬鹿ではなかった。