第一話:二周目
中古のマンションを買った。二千四百八十万円。頭金五百万円。独身でマンションという人生設計は、三十七歳あたりから現実味を帯び、晴れて五年後にそれは揺るぎない事実となった。つまり私は四十二歳で独身で、マンションがあり、ローンがある。三十五年ローン。払い終わりが七十七歳、喜寿だ。喜寿のお祝いにローンが終了となる。
如何ともしがたい年齢だが、何とかなるだろう。私が七十七歳なら両親は百七歳。流石にこの世にはいないだろう。となると、遺産でなんとか支払い終わることを念頭に置けばいい。もしくはパートナーを見つけるか。なにかと仕事がネックでもある。忙しいのだ。私の仕事はグラフィックデザイナーだ。
面倒なので人に仕事を訊かれるとデザイナーと言う。グラフィックデザイナーと言っても伝わらないからだ。だからと言って、デザイナーと言えば額面通り伝わるわけでもない。私は人に自分のことを正確に伝えるということを諦めている、放棄している。
だから、デザイナーなんてぶっきらぼうに自分の仕事を言い放つと、「どんな服を作ってるんですか?」なんて素っ頓狂なことを言われる。相手は素っ頓狂なんて思っていない。いたってマジメに会話のキャッチボールを試みている。なんなら、顔色をうかがいながらボールを投げ返している。新入生と万年補欠の三年生部員のイジワルなキャッチボールみたいだ。もちろん、私が三年生部員だ。
このマンションを買ったとき、銀行の融資担当にも同じことを言われた。若い男性だった。服を作る、いや設計するのはファッションデザイナーだ。私はグラフィックデザイナーだ。主に紙まわりのデザインを仕事としている。ポスターや雑誌、本の表紙も、決められた紙面のサイズに文字・絵・写真・色・線を使って不特定多数の人にクライアントが思い描いていそうなことを伝える仕事だ。パッケージのデザインもする。ウェブデザインは最近勉強し始めたが、どうも頭に入らない。ちなみにグラフィックデザイナーというと、絵も達者と思われるが絵は下手だ。美大でもデッサンは苦手だった。見たものを見たままに描けない。伝えるのがこれほど下手でも、グラフィックデザイナーとして二十年近く生きていけている、世の中が緩いのか私が勤勉なのか。世の中が緩いのだろう。
三十を越えたあたりからめっきりと出会いが減った。マチアプにも登録してみたが、ヤリモクの既婚者ばかりで辟易とする。私にはマンションもあるし、仕事もあるし、ローンもある。老後に向けてのパートナーがいないだけだ。知佳も愛子も結婚して早々に離婚してるし。結婚への憧れなんてものはとうにゴミ箱に向かって丸めて投げた。ゴミ箱に入っているかなんて知らない。私は、捨てたのだ。
ということで、守備的に時に攻めるみたいな将棋で言うところの銀よりも金のスタイルで生きて行こうと決めた矢先だった。攻撃の銀よりも守備の金。そんな手堅い女にあの男に出会ってしまった。雨の日だった。
神保町、営業帯同で打合せした蕎麦屋のロゴデザイン。打合せという名の雑談が終わり、営業はもう一回り、私は直帰することにした。ひとり駅に向かって歩いていると、強めの雨が降って来た。玉のような雨だ。傘を忘れたことに気づいた。晴雨兼用の日傘兼雨傘、折り畳み傘。忘れてしまった。日曜の夜、通販で迷いに迷って買った新しいリュックが届いた。嬉しくって、今日の打ち合わせにリュックを変えて出勤したのだ。バッグの中身の入れ替えに失敗するあるあるだが。コンビニでビニール傘を買うのは癪だ。もったいないからじゃなくて、捨てられる運命だからだ。前から気になっていた古書店で雨宿りをすることにした。
本のかび臭いニオイにまみれた昔ながらの古書店ではなく、どちらかというと街の本屋といった雰囲気で、新古本がずらりと並んでいる。出版されたての新刊がどういうわけか目論見が外れて返本され、新古本として店頭に並ぶ。新古本ビジネスは店主の目利きが肝で、仕入れたら返本はできない。敗者復活戦のような本たち。どこか私に境遇が似ているのかもしれない。いや違う。私はまだ誰にも選ばれていないのだ。一度も書店に並んですらいない。
雨宿りのつもりが、狭い路地に雨があふれて始めていた。アスファルトが雨に濡れて、土埃を押さえつけたような降り始めの匂いはすでに消えていた。本屋の道路ぞいの窓から覗き見ると道路の窪みには水たまりができていた。店内は狭く、本はラッピングか紐で縛られている。立ち読みはできず、二連に並んだ通路を行ったり来たりしていた。小説から漫画、ファッション誌から男性誌、絵本に料理本。最近本屋では取り扱わなくなった地図も少しあった。
寒い。同じところに立ち止まっているとクーラーで冷える。濡れた髪が冷えてきた。ショートカットの濡れた髪が首筋ぐらいには当たって、擦れて痛い。風邪を引く前に帰りたいところだった。そこで佐橋正角と出会ったのだ。彼は開口一番こう言った。
「ここにいると思ったわ」
初対面である。何を言っているのだこの男は。背は私より少し高い。百七十はあるかな。細身。黒縁眼鏡。眼鏡の奥の目はおそらく一重。半袖のワイシャツにチノパン、メーカーのわからないスニーカー。学生みたいな出で立ちで、リュックは私と同じX-FAMSの色違いだった。私は無難に黒だが、彼は赤。センスが悪いというより、彼のファッションに合っていない。正角は続けた。
「どうしたの、ジロジロ見て」
「いえ、そちらこそなんですか。《ここにいると思ったわ》って何ですか?」
私の言葉を気持ちがいいほどにスカーンと聞き流した正角はリュックからタオルを取り出して、私に渡した。「洗い立てだから」とひと言添えられたが気味が悪い。他人のタオルは箸と同じぐらい気持ち悪いものだ。でも、髪は冷えているし、シャツの肩あたりが濡れて冷たいし、ペタッと皮膚に張り付いてなんとも気持ち悪いし、チクチクして痛い。店主が監視カメラのようにジロリとこちらを見る。知り合いにでも見えたのだろうか。店主はコードで絡まったイヤホンを片耳だけはめて、レジから死角にいるキョロキョロ挙動不審な男子高校生を目で追いかけていた。
「全部覚えてるわけじゃぁないから、なんだけども。前もここで会ったからな。えっと、僕は佐橋正角と言います」
「はぁ」
突然の自己紹介に、これは体のいいナンパだとわかった。古書店でナンパ、隣の角には万引きしそうな高校生がいるのに。ヤレそうに思ったのか。私の気のない返事に正角は、
「奈良橋咲良さんだよね」
え、なんで、気持ち悪い。
「どうして、私の名前を知ってるんですか?」
仕方なく髪だけは拭いた。薄手の吸水性のいいタオルだった。私はタオルを押し付けるようにして、正角に渡した。半ば投げつけるようでもあった。店主が何かに反応したのか、ジロリとこっちを見るのがわかった。店主も男子高校生みたいに何だか挙動がおかしい。
「信じるかどうかわからないけど、できれば信じて欲しいけども、僕は咲良の夫になる人です」
熱帯夜が続いている。クーラーをつけずに寝る派の私は、毎夜瀕死で朝を迎える。喉が弱い私はクーラーをつけっぱなしで寝られない。この人も同じなのか?頭がもう熱中症なのではないか。夏の気温昼間で四十度、今日は雨で幾分か涼しくなっていたが、頭が熱でヤラレタヤバいヤツがここにいる。
「タオルありがとうございました」
そう言って小雨になった店先に向かった。正角は小走りに私を追いかけてきて、こう言った。
「僕は、二度目の人生。えっと、比喩的な意味じゃなくて。世界が二周目に入っているところにもう一度記憶だけ持ってやり直してます」
説明が説明になっていない。何を言っているのだ、この男は。だが、目は真剣だ。眼鏡の奥の一重の目が物語っている。僕はマジですと。
「何を言ってるんですか?」
「この現象を人に説明するのは、親以外いなくって。練習不足ですね。うまくいかなくてすみません。クリアしたゲームの能力そのままに、二周目をプレイするみたいな」
その例えはわかる。私はゲーム好きだから。RPGはゲームソフトが擦り切れるんじゃないかってぐらいやり込む。物語は未進行のまま、自分だけその世界を知り尽くしている。かつ、特定の能力や装備品、レベルなんてものは維持しているってやつだ。
「じゃぁ、私も二周目ってことですね」
「厳密には二周目とわかっているのは僕だけで。詳しいことは後で話しますが、前回、僕は咲良と結婚したんです。ここで知り合って」
「はい、そうですか」
雲の隙間から陽が差してきた。ここにいる理由はない、もう出ようと思ったそのとき、正角が言った。それは予言だった。
「このあと店主、倒れます。心臓発作です。あの角にいる人が心臓マッサージして助けます。僕に救急車を呼ぶように言って、咲良には店の前の自転車をどかしておくように頼みます」
「なんで私が自転車をどかすのよ。どかすなら男のあなたでしょ」
正角は腕時計を見ながら、カウントダウンを始めた。三十秒前、十五秒前、時計をじっと見ている。私の好きなSWATCブランドの時計だ。正角が続ける、三、二、一、ほら。時間はきっかり六時五分だった。
正角の予言どおり、店主が苦しそうに心臓を抑え、キャンプのスタッキングスツールのような簡易な椅子から転げ落ちた。死角で万引きを試みていたであろう男子高校生が慌てて、走って来た。ずっと店主の様子を見ていたから、反応が早い。逃げる気だ。
男子高校生は店を出なかった。入口付近で倒れた店主に近づき、心臓マッサージをし正角に救急車を依頼し、私に不法駐輪していた店先の自転車をどかすように指示した。
男子高校生のあざやかにして賢明で手際のいい判断と動きによって、店主は一命をとりとめ、正角が呼んだ救急車で運ばれていった。
慌てて駆けだしていく男子高校生を見て、正角は奇妙な顔をしていた。店を出て路地を駆けていく男子高校生の背中はまぶしい光に包まれ消えていったように見えた。
店主不在の店の前であたふたしていた私に隣の喫茶店のマスターがやってきた。エプロンに喫茶G・ガイルとプリントされていた。なんともダサいデザインだ。マスターが「俺が店閉めとくから」と言ってくれたので、私はなぜか「すみません」と言ってそのまま店を出た。なんで謝ったのだろうか、こういうのは決まって寝入る前に悶々とするのに。
半蔵門線・神保町駅の位置をスマホで確かめ、歩き始めた私に正角が言った。
「せっかくなんで、その隣の喫茶店行きません?もう少しお話聞いてもらってもいいかなと思うんだけど」
敬語とタメ口が混ざり合う、微妙な語り口の佐橋正角がどうにも気になった。直帰で時間もある、帰っても韓流ドラマの続きを見るぐらいだ。「少しだけなら」と私は喫茶G・ガイルに入った。ヒマつぶしだ。隣の本屋よりも冷房は弱く、むしろ蒸し暑いくらいだった。