第17話
メイドの朝は早い。それが新米の見習いメイドともなれば、尚のことだ。日も昇らぬうちから起床し、家人が目を覚ます前に支度を済ませなければならない。
あたしに目下割り当てられている仕事は、厨房のかまど磨きだった。かまどという奴はとかく煤で汚れやすい。煤が溜まれば落ちて食材を台無しにするし、そこまでいかずとも目詰まりを起こして火付きが悪くなってしまう。
当然ながら火を落とした直後には手が出せないので、必然的に清掃は翌朝に行う。
まずは、かまど内の燃えかすや灰を火かき棒でかき出し、綺麗に掃き清める。それから冷たい井戸水で濡らした布巾を使い、煤を丁寧に拭っていく。煤を落とした後は、乾いた藁で水分を除いておくことも忘れてはならない。
幸か不幸か、あたしは小柄なこともあって狭い場所での作業に向いていた。この程度の仕事で疲れるほどヤワじゃないのだが、厨房内のかまどをすべて手入れし終えた頃には、流石に腰が痛くなってくる。
「……毎度のことながら、下手な鍛錬よりよっぽどキッツいわね」
仕事を終えると、服も顔も煤でドロドロになっている。あたし達の服には汚れ仕事用の午前服と、人前に出る時用の午後服とがあるのだが、ここまで汚れがひどいと午前服でも仕事に差し支える。いったん、寄宿舎まで戻って着替える必要があった。
井戸で顔と手を洗ってから更衣室へ向かうと、丁度他の使用人たちが朝の仕事へ向かうところだった。すれ違いざまに軽く会釈をしながら戻る途中、廊下の角から見知った姿がやってくるのが見える。
どちらかといえば地味で野暮ったいデザインのメイド服を、彼女は憎らしいほど完璧に着こなしていた。腰まで届く長い銀髪はきちんと結い上げられており、わずかに露出したうなじには後れ毛一本見当たらない。
「おはよう、レイン。今日も一日、頑張りましょうね」
「……ええ、わかってるわ。ロレッタ姉さん」
縁なしの丸眼鏡越しににっこりと微笑みかけてくる妙齢の女性――言うまでもないが、その中身はロミである――に、あたしは顔をひきつらせつつ挨拶を返すのだった。
◆
時間は少しばかり遡る。羅刹刀をこの国の有力貴族であるヘルマン伯爵が持っていると突き止めたまではよかったが、問題はここからである。
何せ、相手は王位継承権持ちの大貴族。正面から乗り込んだところで、門前払いされてしまうのがオチだ。屋敷に忍び込むにも、警備体制が厳重すぎて話にならない。
実は、あの三人組があたしの刀を盗みだした盗賊に駄目元で頼み込んでくれたのだが、「いくら積まれたって、無理。冗談は休み休み言って」とすげなく一蹴されたらしい。
いよいよ万策尽きたあたしに解決策を示してくれたのは、受付のルイゼ嬢だった。
彼女はあたしに一週間待つように告げると、その間に使用人として必要最低限の知識と技術を徹底的に仕込んできた。
何を始めるのかと最初は訝しんだものの、どこからともなく偽の人物証明書を調達し、ヘルマン伯の直轄領にある屋敷で募集されていた、使用人試験に潜り込む手筈まで整えてくれたのだ。ちなみにレインとロレッタというのは、証明書に記されていたあたし達の偽名である。
あまりの手際のよさに舌を巻き、どこでこんな物を用意してきたのかと訊ねてみたが、「蛇の道は蛇、ということです」とはぐらかされてしまった。常々思っていたが、やはりこの人は単なるギルド職員とは思えない。
「にしたって、冒険者ギルドもよくこんな無茶を認めてくれたわよね。あたしが言うのもなんだけど、貴族に睨まれでもしたらギルドだってヤバいでしょ?」
「それはそうでしょうね。この件にギルドは一切関知していませんし」
「……は?」
「これは、私個人のコネクションを活用した結果です。間違っても、ギルドに報告なんてしないでくださいね。最悪、私の首が飛びますから」
「いやいやいや、さらっととんでもないこと言ってんじゃないわよ!! ていうか、なんであたしのためにそこまでしてくれる訳?」
「あなた……というよりは、ロミのためでしょうか。実は彼女には、ちょっとした借りがあるものですから」
「借り?」
「もっとも、あの子は貸しと思っていないのでしょうけど。まあ、その話はまたいずれ。今はヘルマン邸へ潜入することに専念してください」
何はともあれ、あたし達は屋敷で行われていた採用試験に合格を果たし、晴れて屋敷の住み込みメイドとして働くことになったのである。
ちなみにレインとロレッタは平民階級の姉妹という設定になっているらしく、あたしの花嫁修業も兼ねているのだそうだ。
メイドの仕事は思った以上に過酷で、朝から晩まで目が回るような忙しさだ。家出して間もない頃、酒場の下働きや給仕見習いをやってたこともあるが、そんなものとは比較にならないくらい細かい決まりごとや作法がある。
そして貴族という奴は、とにかく使用人という存在が表に出てくるのを嫌がる。一部の例外を除き、使用人は屋敷の目立たない裏口からしか出入りが許されていない。
うっかり主人と鉢合わせなどしようものなら、その場で屋敷から放り出されることすらあるというのだから恐ろしい話だ。
最初の数日くらいは、屋敷内の暮らしに慣れるだけでも精一杯だった。仕事は早朝から夜遅くまであり、終わった頃には夜もすっかり更けてしまっている。使用人には外出する自由すら与えられていないので、街に繰り出してストレスを発散することも叶わない。
当然、武装を持ち込むことなんてできず、日課の素振りさえもままならない。うーむ、羅刹刀を取り戻すためとはいえ、どんどん剣の道から遠ざかってる気がするな。
屋敷の裏手にひっそり佇む、使用人用の宿舎へ戻ってきた。貴族の煌びやかな暮らしを下支えしてる割に、ここの食堂で出される食事はひどく質素だ。
石みたいに堅くなった黒パンと、野菜くずが浮かんだだけの塩スープ。これだったら、あたしが行きつけにしてる食堂のメニューの方がずっとマシだ。
屋敷で晩餐会が催された時に限り、気を利かせたコックが残飯を横流ししてくれるのが唯一の贅沢なのだとか。それすらも運がよければ、の話だ。
「お疲れ様。今日も遅かったわね」
「ええ、おかげ様でね。そっちは何か進展あった?」
「いいえ、特には何も」
「そっかぁ……。わかっちゃいたけど、やっぱ一筋縄ではいかないわね」
あたし達のあてがわれた部屋には、すでにロミの姿があった。
屋敷のメイドは役割ごとに班分けされており、日中は完全に別行動だ。あたしは屋敷の清掃を一手に請け負う家女中、ロミは来客の応対や取り次ぎが主な業務である客間女中を担当していた。
パーラーメイドは屋敷の外へ使いに出されることもあり、他のメイドと比べると自由も利く。そのため、情報収集はもっぱらロミに任せて、あたしは屋敷内の動向を探ることに専念していた。
羅刹刀の保管先と目される宝物庫の場所は、割とあっさり判った。ヘルマン伯の寝室の隣にある小部屋がそれで、室内には各地から集められたコレクションの数々が収められているのだという。
しかし、当然ながら警備は厳重。昼夜を問わず見張りの兵が目を光らせており、魔術を用いた監視機構まで完備されているらしい。
「とにかく、今は大人しく機会を待ちましょう。わかっているとは思うけれど……」
「迂闊な行動は慎めってんでしょ。ここに来て、耳にタコができるくらい聞いたわ」
「……本当にわかってるのかしらね、この子は」
きっちり釘を刺しつつ、床につくロミ。それに倣ってシーツを被ったあたしは、天井の木目をぼんやり眺めながら、留めおいていた言葉を口にする。
「……あのさ、ロミ」
「何? 明日も早いのだし、寝ないと辛いわよ」
「その……あんたには、色々と世話になったわね。一応、お礼言っとく」
ギルドの入会費を立て替えてもらったことから始まり、リーシャの依頼や行方知れずの羅刹刀の手がかり探しに至るまで。思えばこの国に来てからこっち、彼女には助けられてばっかりだ。
あたしは所詮、剣を振るうことしか能のない人間だ。これまで、自分の剣の腕を頼みにどうにかやってきたけれど、ロミの知識や機転に助けられる場面も多かった。自分ひとりだったら、とっくの昔に行き詰っていたことだろう。
「珍しく、殊勝なことを言うのね。明日は槍でも降るのではないかしら」
「ふん、言ってなさい。でもま、これでもあんたとルイゼには感謝してんのよ。まさか、屋敷の潜入にまで付き合ってくれると思わなかったし」
「あなただけを屋敷に送ったところで、どうにもならないでしょう。大人しく潜入捜査が務まるようには、到底思えないし」
「素直に認めるのも癪なんだけど、その通りだから何も言えないわ。しっかし、あんたも何だかんだで人がいいわよね。出会った時は、いかにも面倒ごとに関わりたくないーって顔してたくせにさ」
「……別に、誰でもそうしたという訳ではないのよ」
「へ……?」
予想だにしなかった呟きに、思わずどきりとしてしまう。月明かりに照らされたロミの横顔はどこか寂しげで、遠い彼方を見つめているように思えた。
彼女は、時おりこういう顔をする。物憂げで透徹として、達観したような表情。
それはただ年上というだけで説明のつかない、ある種の異質ささえも感じさせた。
どんな過去を経たら、こんな風になるのだろう。彼女のことを知ってるつもりでいて、その実何も知らないのだと実感させられる。
「ねえ、あんたってさ……」
「こちらからも、一つ聞いていいかしら?」
一体、何者なの。そう訊ねようとした言葉が遮られてしまう。
言外の拒絶。まるで、これ以上は聞いてくれるなと言わんばかりだった。
「……何なのよ。何が聞きたい訳?」
「羅刹刀を取り戻したら、冒険者は辞めるつもり?」
「…………」
流石はロミ。あたしの思惑なんて、とっくにお見通しだったらしい。柄にもなくお礼を言っておこうと思ったのも、この件が片付けばこれっきりと考えてのことだった。
「元々は、武者修行の旅だったからね。随分と回り道をしちゃったけど、これでようやく本来の目的に戻ることができる」
「レイリは何故、そうまでして強さを求めているの?」
「何でって、そりゃ……」
少し前にも、あの地下遺跡でリーシャから同じような質問をされたっけ。
自らの授かった力の理由を見出すため、教会に身を置くことを選んだというリーシャ。あれだけの強さを持っていながら、彼女の剣には動機だけが欠落している。
彼女は自分を空っぽだって言ったけど、ある意味ではあたしも同じだとあの時思った。それはあたし自身、クソ親父からずっと言われ続けてきたことでもあるからだ。
「……うちの実家が、古くから伝わる剣術道場って話を前にしたじゃない。道場主だったうちの親父は、それは厳しい人でね。あたしのことを、ついぞ認めてはくれなかった」
「そうだったの……」
「どれだけ腕を磨いて強くなっても、お前の剣は間違ってるの一点張りでさ。しまいには頭きちゃって、家を飛び出してそれっきり」
「お父様のことは、嫌いだったの?」
「さあ、どうだかね。とにかく、あたしは自分のやり方でどこまでも強くなってやるって決めた。強くなるため無茶を散々やって、今まで命を何度も落としかけたわ。そんなことばっかりやってるうち、流れ着いたのがこの大陸だったって訳」
誰かに自分の身の上話をしたのは、これが初めてのことだった。ロミであれば、こんな馬鹿げた話も笑い飛ばさずに聞いてくれると思ったから。
ともあれ彼女は、あたしの予想より真剣に話に耳を傾けてくれていた。
「あたしが強くなりたいって思ったのは、実家の親父や兄貴たちを見返したかったから。でも、それはあくまで理由であって目的じゃない。こないだリーシャから聞かれて、ふと思ったの。ああ、親父が言いたかったのは、こういうことだったのかって」
いくら剣の腕を磨いても、それを振るうに足るだけの動機がなければ意味がない。
まったく、親父殿も随分と回りくどい。それならそうと、最初からそう言ってくれればこんなに悩まなくて済んだものを。
「……それで、答えは出たのかしら?」
「ううん、今んとこはさっぱり。これまで強くなることしか考えてこなかったし、親父に反発して意識的に避けてきた気もする。ま、どっちにしてもまず羅刹刀を取り返さなきゃ始まらないわ。後のことは、旅の空でゆっくりと考えるってことで」
そう言って肩を竦めるあたしに対し、ロミはくすりと笑みをこぼした。
「大いに悩みなさいな。あなたはまだ若いのだし、時間はたっぷりとあるのだから」
「……あんたってば、たまーにすっごく年寄りじみたこと言うわよね」
「少なくとも、あなたよりは長生きしているもの。一つだけ助言をするならば、冒険者は続けた方がよくてよ。案外、あなたには向いていると思うわ」
「そう? あんまり気乗りはしないんだけど。ま、一応考えとく」
話し込んでるうちに、随分と時間が経過していたようだ。ここ数日の疲れも手伝って、だんだんと眠たくなってくる。
「話はそれだけよ。そろそろ寝るわ、おやすみ」
「ええ。おやすみなさい、レイリ」
瞼を閉じると、すぐに睡魔が襲いかかってくる。眠りに落ちるあたしのことを、ロミがずっと見守ってくれているような、そんな気がした。