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5話 言葉にするより早く証明せよ、その心

「ほう、見ただけでわかるとはさすが卿は目利きであるな」

 最前列に立っていたその男はどうやら宝石商だったらしい。国王は彼の発言をとがめずにこりと笑って話を続ける。


「いかにも、これは魔女の杖だ。魔力を伝導するミスリルこうをベースとし“瘴気しょうきの穴”の近くでしか採れない最高純度の魔法石をあしらった魔女の杖」

 一つ呼吸をして王はその場の皆を見まわして喋る。


「今朝の官報ですでに告知をしているが、今日この場をもってヒサール領から撤退する王国府騎士団の代わりに新たに王国府から派遣する戦力として魔女を選ぶこととなった」

 すなはち!

 王が声を張り上げる。

「魔女とはただ1人で騎士団1つに匹敵する、まさに一騎当千の猛者! 我こそはという者は我が前に出てこの杖を握ってみよ。この杖を握れた者こそ魔女にふさわしい!」


 一拍おいてもちろん、と王はわずかに声を潜めて話を続ける。

「この場にはいない者もいるが、魔女は戦場に立つ必要がある。ならば仮初めの戦場とはいえ狩猟会に出る気概のある者から選ぶのは的外れなことではないだろう」


 宰相が国王の言葉を継いだ。

「“魔女”の称号を帯びた者は王国府魔術戦闘特別顧問の役職を負い、ヒサール領に派遣されます。派遣期間は原則3年間。魔界に最も近い西方辺境領ヒサールを守護し、かの地におけるシャマル王国の権威を示す名誉ある役職です。称号はあくまで称号、男子でも構いません、誰ぞ我こそはというものは?」


 しかし誰もが互いに顔を見合わせ、戸惑ったようにする。その群衆を割って、失礼、と低い声がした。人々の視線がそちらに集まり、同時に声の主から距離を取るように人の波が割れた。

 西方辺境領領主たるアドラフェル・ヒサール・ユリスナ公爵が立っていた。彼は国王の前まで来ると、地面に膝をついた。


「そうだな、なんといってもヒサール公よ、けいの領地である。皆もヒサール領主から直接言葉が欲しいだろう」

 国王の許可を得て立ち上がったヒサール領主が一同を見渡す。僅かに眉間にしわを寄せて瞳から鋭く眼差しを放つその顔に、皆が肩を強張らせた。それに気づいているのかいないのか、ヒサール領主アドラフェル卿は口を開いた。


「我がヒサール領は知っての通りこの大陸で魔界に最も近く、こと魔王城を改装した我が領首府で過ごすのは並の者では苦労する。ゆえに我が領はほかの土地とは気風も異なる。苦労もあろうが……」


 呼吸をする、その一拍。アドラフェルの顔が僅かに歪み、眉尻が下がった。


「それでもなおこのアドラフェル・ヒサール・ユリスナに力を貸してくれる者は、誰ぞおらんか」

 絞り出すような声だった。


 アウレーシャはかすかに苦笑した。

(それじゃあまるで、泣き出す前の子供じゃない)


 考えるよりも早く彼女の足は動き出す。耳はイダ家姉弟の声を拾うことを拒否していた。

(約束したもの)


 握られた手をすり抜け、何も言わずただまっすぐに前を目指すアウレーシャの姿に、人々はぎょっとしたような顔になる。

(アディ、あなたやナーヒャが困っていたら必ず助けるって。それに、私が魔女になってこの名を轟かせれば、今はどこにいるとも知れないナーヒャも私に気づいてくれるかもしれない)


 これから自らに降りかかる厄介な言葉への懸念は、あの日の約束の前に霧散していた。ただ己に課した誓いを果たすことができる、その喜びは何にも勝りアウレーシャの体を突き動かす。情動の炎がその心臓で燃え盛っている。

(別に、彼らとあの時みたいに親しくしたいなんてわがままは言わない。ただ、いつでもアディとナーヒャを助けられる私でありたい。それが叶うのなら私はこの命を捨てたって良い)


 国王と宰相、そしてヒサール領主の前に迷わず歩み出て、野蛮令嬢バーバリアーナは深く腰を折った。

「バルワ伯爵家アウレーシャ、“魔女”に立候補いたします」

 凛然とあたりに響くその声。

 

 しかし真っ先にその宣言に応えたのは国王でも宰相でもましてやヒサール領主でもなかった。

「お待ち下さい、そちらの令嬢はかの旧き家系の者! それに本来ならば生涯を修道院で過ごすはずだった……いえ、いえ、それ以前に王家の宝物塔を壊した張本人です! それが国王府の権威を知らしめる役職など!」

 抗議の声を上げながら群衆をかき分けて出てきたのは防衛局大臣だった。群衆もそれに同調し、一斉に声を上げた。

「そうよ、王家の所有物に傷をつけた小娘が王国府の権威を象徴するなど矛盾しています!」

「それに、先ほども傷心のご婦人をなじるような乱暴なふるまいを!」

「そもそも王国府に仇なした旧き家系の娘!」

「第一、ろくに魔力のコントロールもできなかった者に魔女の称号など不相応!」


 全て、アウレーシャが承知していた反応であった。故に、彼女は己の胸元に手を当てて、あたりに響き渡る声でそれらを蹴散らした。

「ご批判は承知の上!」

 びりびりと空気を震わせるような、腹の底から発せられる声である。

「確かに私の過去の素行は決して褒められたものではございません。さらに陛下からの温情を賜った身でこのような申し出、厚かましいことも理解しております」

 けれど、と野蛮令嬢は続ける。

「私が10年間、修道院にて防衛局大臣閣下の妹君のもと魔法訓練を受けていたことは皆ご承知おきのことと存じます。その成果を確かめるためにも、どうか」 


 私に機会を、とアウレーシャが国王に深く頭を下げる。国王が返答しようと口を開いたのと、上空から笛のような音が響いたのは同時だった。

 誰もが空を仰ぎ見る。


 向こうに見える森の上に黒雲が広がっている。否、黒雲ではない。大鳥の群れ。それもただの鳥ではない。

「鳥型魔獣か」

 魔王城の主がつぶやく。しかしそれをかき消すようにヒュ、と耳元を風が吹き抜けたかと思うと、次の瞬間襲い来る強風。犬たちが盛んに吠えだし、人間たちも負けじと声を上げる。


「陛下、お下がりを!」

「あれは狩猟用の魔獣です!」

「逃げ出したのか? 狩猟場の管理人たちはどうした!」

「防御魔法展開! 王家の方々をお守りしろ!」

 砂と草が舞い上がり、誰もが顔を覆い、戸惑いながらも防衛局大臣らは国王を守ろうとする。


 その中で。

「失礼!」

 アウレーシャは女宰相の手にある台から魔女の杖をひっつかんだ。


 瞬間、杖の先端に取り付けられた魔法石がピカリと赤い光を放つ。彼女の手の中でミスリル鉱の杖本体も仄赤い光をまとって伸び、魔法石を抱きこみ複雑に変化していく。


 出来上がったその形はさながら高足の巨大な燭台。

 アウレーシャのために、彼女の魔力で作り替わった魔女の杖である。


 己の身長よりも長くなった杖の石突で地を叩き、魔女は空をにらんで叫んだ。

「炎よ!」

 彼女の足元に赤い魔方陣が光ったかと思うと、杖の先端で鳥の形をした巨大な炎が現れ、そのまま真っすぐ寄せ来る敵に向かって飛んでいく。燃え盛る鳥が接敵する間に魔女は燭台のような杖の上下を逆さにした。

(修道院長に教わったこと。空を飛ぶのは身体強化の延長線上の技術、高純度の魔法石をあしらった杖があれば飛行を補助してくれる)


 アウレーシャは全身に魔力を巡らせながら燭台の腕に足をかけて背後を振り返って叫んだ。

「ヒサール公、地上の守りはお願いいたします!」

 言い終わるや否や、燭台がボッと炎を吹いて地面を焦がしながら浮き上がる。右手で杖を握って空へ駆け上がり、国王たちのいる本陣を背後に空の敵を目指して飛んでいく。

(飛べたッ! いや、浮かれるな。集中しろ。目指すはあの鳥型魔獣の群れの下)

 アウレーシャは魔獣たちに意識を向ける。鳥型の魔獣は翼を広げれば2メートルほどの大きさ、それらが100を越そうかという数集まって群れを形作っている。雲霞のごときそれを下から睨み上げ、アウレーシャは修道院でのことを思い出す。


(修道院長に教わったこと。まずは敵を観察……さっきの攻撃がぶつかった魔獣は後退してる、つまり魔法は効いてる。ならそのままッ)

 空いた左手を頭上にかざして指先から炎を打ち出す。ギィッ!と群れの一点から声が上がった。そこを起点に混乱の広がる群れを、アウレーシャは続けざまに下から撃ち抜く。雲霞が千切れ、魔獣の中でも勇猛な個体が直下の敵に鉤づめを向けた。

 しかしアウレーシャは杖から炎を噴きながらするりと上昇して攻撃をかわし、群れの正面に立ちふさがる。指先に炎を灯すと先陣を切っていた魔獣にけしかけ、散った炎をもう一度集め、炎を足し、横に逃げ出そうをする個体にまたぶつけて後退させる。


 野蛮令嬢バーバリアーナが魔女の杖を頼りに空に浮きながら炎を指揮して魔獣たちを翻弄する姿を見上げ、人々は唖然と呟く。

「……飛んでる。魔力による身体強化の極致を、あの小娘が」

「凄まじい戦いぶりだ、あれが野蛮令嬢……」

「防衛局大臣の妹御であるあの修道院長から魔法訓練を受けたと聞いたが……」

「魔力はあるがコントロールはてんでダメであんなことになった小娘が」

「そもそも最高性能の杖の補助があるとはいえああして自在に空を飛べる程の使い手がこの国に何人いる?」

「まあ見て、魔獣が一か所に集められて……」


 空の中、アウレーシャは肩で息をしながらも充足感を覚えていた。空を飛ぶのは初めてなうえそれによる魔力消費は激しく、実戦という状況でありながらも彼女の口元は笑みを描いている。


(修道院長の訓練に比べればこの程度なんてことは無い! 修道院長に教わったこと、背後で人を守る場合は敵を弱らせたうえで一か所に集めて……)

 左手の人差し指と中指をそろえてそこに意識を集中させる。2本の指先で生まれた炎は火花を散らしながらゴウゴウと音を立てて次第に大きくなっていく。その火勢で狩猟服のシャツがジリジリと音を立てて焦げ始めて、傷跡の残る胸元がわずかに覗いた。


(大火力で……)

 炎は次第に巨大な蛇のような姿になり、悠々と鎌首をもたげた。髪をまとめていたリボンが焼き切れて、アウレーシャの深紅の髪が青空に広がる。

「一掃せよ、アイトヴァラスの尾!」


 炎は術者の声に応え、ガパリ、と口を開いてそのまま鳥型魔獣の群れを吞みつくした。翼たちは羽ばたきをやめてボトリボトリと力尽きて地に落ちていく。アウレーシャはそれを確認しながらもすぐに魔法を打ち出せるように警戒をゆるめず地上を見渡す。


 その地上を、泣きわめきながら駆ける者たちがいた。

「わーッ、死にたくない!」

「鳥型魔獣どころか牛型まで逃げ出した! 誰か、誰か助けてくれーッ!」

 森を抜けて草地を走る彼らはこの狩場の管理人たちらしい。事情を聞こうと足元の杖を操ったその時、森の中に木々の影と一体になり地を踏み鳴らしながら押し寄せる四つ足たちの群れが見えた。


「牛型魔獣だー!」

 鋭い蹄、重量のある体、頭の角。あの群れに追いつかれれば管理人たちはひとたまりもないだろう。彼らも魔法を使って土を盛り上げ、あるいは木々を操って足止めしようとしているが、魔獣たちは自身のパワーを生かしてそれを押しのけ角を振り上げている。


 そしてついに、群れの先頭が森を抜けた。その数、約50頭。

「もうだめだぁッ!」

 管理人たちは死を覚悟して頭を抱えその場にうずくまる。


 しかし。


「炎よ!」


 ゴウと音を立てて現れた巨大な炎の壁が、彼らと魔獣の間を隔てた。牛のような魔獣たちが混乱した声を上げ、視界いっぱいを埋め尽くす赤と迫りくる熱気におろおろと前進と後退を繰り返している。


「今のうちに本陣に後退!」

 アウレーシャは空から降り立ち、壁を拡大して魔獣を囲い込みながら管理人たちに声をかける。けれど、彼女の足元にうずくまる人々はガチガチと歯を鳴らしながら「腰が抜けて」と言葉をこぼす。


 瞬間、アウレーシャは目を見開いた。こめかみから一筋汗が流れる。

(だめだ、今の私にはこの2人を杖に乗せて飛ぶだけの魔力がない)


 大規模な魔法ばかり展開し魔力消費が激しい。それでもアウレーシャは次の一手のために魔力を体内で練る。彼女のそばでは肩で息をする森の管理人たちが顔面蒼白になりながらもぎゅっと手を握って祈るようなポーズをしている。応えるように炎の壁の手前の土が盛り上がって足止めを作り、つる植物が伸びてそれを補強する。

 炎の壁を隔てたそのすぐ向こうでは牛型魔獣たちが隊列を整え始めているのが見える。


 アウレーシャ・バルワはキッと正面を睨んだ。深紅の髪と紅玉の瞳が輝きを上げる。

(ここで完全に撃滅する! 腕の1本、脚の1本、臓器の2,3個なぞくれてやる。貴族を、魔女を名乗るのなら民を守って、それでこそアディにもナーヒャにも顔向けができる!)


 炎の壁を維持しながら上空から攻撃を仕掛けようと再び魔女の杖を逆さにしたその瞬間、背後から馬蹄の音が響いた。


「レディアウレーシャ、そのまま魔法を維持! ザマン、あの2人を回収!」


 白銀の髪をなびかせたアドラフェル・ヒサール・ユリスナの大音声であった。轟くその声は、さながら冬の終わりを告げる春雷。それに打たれて、魔女は杖を構えなおして体内で練った魔力を目の前の炎の壁に惜しみなく注ぐ。


 公爵は魔女の杖の元にたどり着くと、自身の青毛の馬と森の管理人たちを老秘書官に託して大戦斧を構える。有能な秘書官は主人をかえりみることなく託されたものを連れて素早く本陣に後退していく。


「……なぜ」

 ここに来たのか、という彼女の問いの続きは音にならなかった。先頭にいた最も血気盛んな魔獣が単身、炎の壁から飛び出したのだ。


「なぜ?」

 しかし、白銀の髪の美丈夫は悠々とした声で問いを復唱し、悠々と振り上げた斧を向かって来る魔獣の顔面に叩き込んだ。

「地上を私に頼んだのはそちらだろう」

 刃がめり込んだところから鮮血が散るのも構わず、血濡れの氷冷公は涼しい声で喋る。


「それに、そちら()困っているようだったのでな」


 言うや否や、ツタの絡まる足止めによろめいて姿勢を崩した魔獣の太い首を大戦斧を食い込ませた。そのまま刃は肉を貫通し、牛のような巨体が地に倒れ伏す。無残な傷から血が流れて、青々とした草をまだらに染める。


 途端に漂う鉄臭いにおいではなく、アドラフェル・ヒサール・ユリスナ公爵の言葉に僅かに眉根を寄せて、アウレーシャは言葉を探す。


「……そ、れは」

「レディ、今から俺が3つ数えるからゼロカウントで目の前の魔法を解け」


 しかし中途半端に会話は打ち切られる。状況も状況、アドラフェルの端的な指示に短く返事したアウレーシャはカウントに集中する。


「さん、に」

 眼前を睨みつける。アドラフェルが大戦斧を握る手に力を籠める。

「いち」

 ミスリル鉱の刃が大地を叩き、そこに飾られた空色の魔法石が光って術者の足元にアイスブルーに輝く魔方陣が展開する。 


「今ッ!」

「氷よ、貫け!」

 声が重なる。


 燭台のような杖が大きく振られて瞬時に壁となっていた炎が搔き消える。

 サッとあたりの気温が下がったかと思うと、炎の壁に囲われていた魔獣たちの頭上に無数の氷の刃が現れた。そのまま魔獣たちが飛び出すよりも早く、巨大な氷柱は重力に従って降りかかり、彼らを貫き地につなぎとめる。先ほどまでこの場を支配していた炎の熱気にも零れる血の温度にも溶けることのない氷が続けて2打、3打と撃ち込まれ、身動きのできない魔獣たちが絶命していく。全てが動かなくなるのを確認するころには、あたりの草も大地も流れた血でどす黒く変色していた。


 凄まじいその光景に、アウレーシャはふとレパーサ・イダの言葉を思い出す。

 なるほどこの戦いぶりなら“血濡れの氷冷公”という二つ名もしっくりくる。魔獣と戦うこともめっきり減った今の時代、寝物語に聞く魔王時代そのままの荒々しい戦いぶりに恐怖を抱く者たちがいるのも無理ないことだった。


 畏怖と侮蔑の込められた二つ名を頂く若い男女は返り血で汚れた頬を首元のスカーフで拭い、くるりと踵を返して本陣に向かって黙って戻っていく。

 先に喋ったのはアウレーシャだった。重くため息をつき、魔女の杖を握りしめ眉間にしわを刻む。


「……情けないです。魔女に立候補してこの程度とは」

「なぜ」

「牛型魔獣を相手にうまく戦えた気がしません。魔力配分も間違えた気がします」

「そうか? 俺は充分だと思ったが。それよりもレディアウレーシャ、傷跡が覗いているがこれを羽織るか」

 意外にも口数も多く答え、挙句の果てに羽織っていたマントを寄越そうとするヒサール領主を仰ぎ見て、アウレーシャは「へ」と間の抜けた返事をした。

「気にしないのなら良いのだが、貴族にはあれこれ好き勝手に噂を立てる連中もいる」

 それでようやくヒサール公の意図を理解し、野蛮令嬢は誇らしげに笑って胸の傷を撫でた。

「お気持ちだけありがたく。これは修道院長との最後の模擬試合でできた傷ですが、同時に初めて彼女に勝った時にできた傷で、私の誇りなんです」

 だから気にしません、と元修道女はさっぱりと笑って言い切った。途端に血濡れの氷冷公は目を丸くし、しかし次第に泣きそうな顔になって呟いた。

「お強いな。俺には到底真似できそうもない」

 公爵のアイスブルーの目が揺らいでいる。何か慰めを口にしようとしたアウレーシャだったが、向こうから防衛局大臣に先導された国王と王妃が歩いてきていた。貴人たちは護衛役を追い越して足早に歩んでおり、それを見た若い公爵は凛々しい声で走るぞ、とアウレーシャに声をかけた。

「両陛下をここまで歩かせるわけにはいかん」


 はい、と返事して走り出すも、連戦で疲弊ひへいした魔女の身体はよろめく。とっさにアドラフェルは彼女の手を引いて駆けだす。その懐かしい温度に僅かにほほ笑み、アウレーシャたちは貴人たちの前まで駆けて膝をついた。


 ぬぐい切れなかった血や泥や草で汚れ焦げ付いた衣服のまま己の前に現れた臣下たちに、国王はいつものように柔和な顔でほほ笑み声をかけた。

けいら、怪我はないか?」

「陛下の御心をわずわせるようなことは何ひとつ」

「陛下、お借りしていた杖をお返しいたします。緊急事態とは言え無断で手に取った挙句形も変わってしまいましたが……」


 アウレーシャは立ち上がり、手にしていた魔女の杖を差し出す。シンプルな形をしていたはずの杖は、もうすっかり別の姿になっていた。


「……ふむ、ひとまず陣の方に戻ろうか。それから話をしよう」

 従者や護衛というより国王と王妃に先導されてアドラフェルとアウレーシャが陣に戻るとすかさず老秘書官ザマンが駆け寄って主人の大戦斧を預かって後方に下がる。


 魔獣を相手に大立ち回りをした2人組は王家を前にして膝をついた。陣の人々は洋服や武器を血で汚した2人の背中と向こうに見える死屍累々の光景を見比べながら黙って国王の言葉を待った。


 ゴウ、と一陣強く風が吹く。血の匂いが混じった風に人々は顔をしかめ、それに猟犬も反応した。バウ、と鋭い声がする。黒っぽい塊はそのままバウバウと吠えながら、人々の足元を駆け抜ける。


「やだわ、ペロ、止まって!」

 後方から泣き叫ぶような婦人の声。けれど犬がそれで止まる道理はない。優秀な猟犬はそのまま真っすぐに走り、顔色を変えた護衛の兵士たちがとっさに国王の前に並んで壁となる。


 アウレーシャとアドラフェルが振り返ったのと、中型の猟犬が跳び上がって血の匂いをさせた彼らに襲い掛かったのは同時だった。


「ザマン、来るな!」

 アドラフェルが後方に叫ぶのと同時に、アウレーシャはとっさに彼の名を呼んで隣で膝をつく人を押し倒す。

「アディ!」 

「おい、アウリー?!」

 戸惑ったような声を無視してバランスを崩した彼にアウレーシャは体重をかけて覆いかぶさり、ぎゅっと目をつぶって次に来るであろう痛みに備える。


 しかし。

「ギャンッ!」

 次に彼女が知覚したのは悲鳴のような声だった。鈍い音がして、猟犬が地面に打ち付けられるのが視界の端に映った。


 その傍にナイフを携えた1人の青年が立っていた。くすんだような金髪の青年はナイフの鞘から抜いて猟犬を脅すようにして叱る。

「ダメだよ、おイタしちゃ。そこにいる人たちを誰だと思ってるの」


 よろよろと立ち上がろうとする猟犬に抵抗する気はないらしい。それを見て取った青年はナイフを仕舞い、向こうから駆けてくる婦人を確認すると国王の傍に立つ救護係に声をかけた。

「すみません、とっさのことで柄で強く打ち付けてしまったのでてやってください。あのご婦人の犬らしいです」


 そのまま青年は猟犬の標的になっていた2人の傍に屈みこむ。

「お2人とも、おケガはありませんか?」


 青年は眼帯で覆われた顔の中、金色の左目を細めて優しく微笑む。見知らぬ、けれどどこか懐かしさを感じる青年にアウレーシャは体を起こしてゆっくりとうなずく。その隣でアドラフェルも起き上がって戸惑ったように「ああ」と返事した。


 それはよかった、と少年の名残を感じさせる顔でまたほほ笑んだ青年はそのまま彼らに並んで国王の前で膝を突いた。

「お騒がせして申し訳ございません、陛下。御身に何かあってはと荒っぽい手段になってしまいました」

「……いや、いや、構わぬ。とっさの判断見事であった。けいは……」

「わたくし、ナーヒヤール・ボーカードと申します」


 簡潔にそう述べて、金髪のナーヒヤール青年はヒサール領主に向き直ってにこりと笑い言った。

「ヒサール公、イダ家からの推薦状があったかと存じます。私が秘書官候補のナーヒヤール・ボーカードです」


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