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26話 生きてこそ、

 昼か夕方かもわからない曇天の街に絶叫が響く。その衝撃にさしもの魔界の住人たちもビクリと体を震わせ、動きが鈍る。空を飛んでいるものですら翼を動かすのをやめて地に落ちる。若い騎士グラッドの「大声の魔法」が耳を持つ魔族たちを足止めしていた。


「負傷者を後方に庇いながら戦え!」

 新しい装備を身にまとい空を駆け、魔法であちこちに散った部隊を支援する領主の声に、騎士たちはオウ!と答えて得物を振るい、アドラフェルの氷の魔法で足止めを食らったところを一斉に攻撃する。


「すげぇ、閣下も飛んでるぜ!」

「こりゃあヒサールは敵なしだな!」

「綺麗だなぁ、あの戦闘服。ああいう綺麗なモンは見てると元気が出る」

 兵士たちは軽口をたたく。だがそれは優勢だからではない。むしろ逆だった。


 ギュオォォォン、と人の身の丈の3倍あるような大きさの魔界の異形が鳴いて身をよじれば氷の拘束がほどけて鱗のついた尾を暴れさせる。ドゴン、と地面をえぐりながら戦士たちを横なぎに吹き飛ばす。

「氷よ!」

 すかさずアドラフェルは氷柱を落として尾を地面に縫い留めると、騎士たちが切りかかる。


「北西街区の第8部隊、後退、後退せよ! 中央広場へ後退!」

 空からであれば各部隊の様子がよく見える。アドラフェルの指示が出ると、すぐにグラッドが自身の魔法でそれを伝える。

「閣下、申し訳ございません! 南東街区も限界が近く!」

「こちらは魔獣を倒しましたがみな限界が近く!」


 そうしている間にも各方面に散らばっていた部隊が少しずつ撤退し、本隊に集まって来る。みな鎧が半壊し、曲がらなくなった腕をぶら下げ、あるいは腹から血を流し、それでも武器を片手に闘志をみなぎらせている。

「北西部隊、落ち着け、撤退を支援する!」


 ミスリルの大戦斧がほの青く光り、巨大な氷が出現し、北西部隊を襲う魔獣を貫く。

 その瞬間、兵士たちが絶叫した。アドラフェルの目が大きく見開かれる。彼のすぐそばに魔族の触手が迫っていた。

「閣下!」

「こっちに戻って!」

「坊ちゃま!」

 ザマンが声を上げ、騎馬の上に映し出されたアドラフェルの影を掴んでグイと引いた。つられるように宙のアドラフェル本人もザマンの傍に引き寄せられ、触手は空振りする。その勢いでブォンと鋭い風が吹き、騎士たちは歯を食いしばった。


「……は、すまん。さすがヒサール騎士団ザマン団長。影の魔法の使い手」

「元、でございます。それもたった1週間の」

 老秘書官は恭しく頭を下げる。

「それにしても無限に出てくるな」


 アドラフェルは焦りを滲ませる。視界の端の空には、真っ黒い人型の何かを相手に炎をまとって飛翔する赤い光が見えている。彼女が悪魔と戦うことだけに集中できる環境を作ってやりたかった。

「皆、まだ動けるか!」

 騎馬にまたがり態勢を立て直したアドラフェルは疲れを滲ませ始めた顔に笑みを浮かべて声を上げる。オウ、と再び返事があった。


「閣下、密集しちまったんですから空からの支援は不要です! 後方で支援と指示を!」

「こっからは地上で一緒に戦ってください!」

「あなたと駆けるのならば死地さえ共に」

「ヒサールの極星は我らと共に!」

「怪我人は後方へ!」

「生きて帰るぞ、骨の英雄なんてゴメンだぜ!」


 陣形を整えよ、と最前のバンダックが号令をかけると素早く隊列が整理される。眼前から向かってくる3体の巨大な魔族を相手に、領主の氷の魔法と秘書官の影の魔法が足止めをする。突撃、と騎士団長が号令をかければ高くヒサールの旗が掲げられ、一斉に騎馬が前進する。だが次の瞬間、彼らの目の前にいた魔族の上半身がそろって綺麗に吹き飛んだ。


 部隊に動揺が広がる。何が起きたか分からなかったのだ。

「……今、何が」

「おい……上、見てみろ」

「上、て、なんだアレ」

「白い、手?」

 フニフニとした白い手が騎士団の頭上に迫っている。街区一つ分を覆うほどの大きさの、6本指の手のようなものが、空の魔法陣から伸びてきているのだ。


(――万事休す、か?)

 自分たちに押し迫るものに、さしものヒサール公爵も自らの終わりを思わずにはいられなかった。

 しかし、その場にいる誰もが彼に諦めることを許さない。

「お前ら、呆けてる場合じゃねぇぞ!」

「武器でも魔法でもいい、押しとどめる!」

「ああ、嬉しいですねぇ! 閣下と一緒に戦える日が来るなんて!」

「我らヒサールを守る者、自らにそうあれかしと定めた者!」

「ならば守って、見せようぞ! 我らの力、我らの決意を我ら自身に!」


 魔界由来の常識外れの質量を前に人間の魔法や武器による抵抗はいかにも心もとない。けれど、魔法陣から伸びる巨大な白い手が周囲の尖塔や建物の屋根を破壊しながらゆっくりと自分たちに押し迫るのを目前にしながら、なおも彼らは武器を構えて笑ってみせる。

 自分が戦えることを、自分自身に証明するために。  


 アドラフェルは歯を食いしばった。

(……そうだ、俺は領主として彼らを生きて帰さねばならん。アウリーとナーヒャの前に立って恥ずかしくない領主である、その誓いを今こそ果たせ、アドラフェル・ヒサール・ユリスナよ!)

 大戦斧を飾る魔法石と一緒に彼のアイスブルーの瞳と白銀の髪が星のようにきらめいた。


「氷よ」

 周囲の温度が下がり、今にも崩れ落ちそうな建物たちが地面から凍り付いた。

「クローケルの剣ッ!」

 アドラフェルが続けて詠唱するとその頭上に巨大な氷の剣が現れた。それが突き刺さり、白い手は黒い体液を吹き出しながら剣を中心に凍り付く。間髪入れず、騎士団たちが氷の剣を目印に一点集中、一斉に攻撃を仕掛けた。

 凍り付いた腕にヒビが入り、そこから白い腕が崩壊していく。オォ!と歓声が上がり、それはさらに高揚した響きになった。


「見ろ、あそこ!」

「ネリネさんだ!」

「と、いうことは!」

 部隊の者たちが指さす先、破壊を免れた建物の屋根の上に『魔王城大全』を携えた魔獣調査班長が立っている。傍には副班長リィスを筆頭に、巨大な機材を携えた班員たちが控えている。


「班長、瘴気の穴からの高濃度魔力の充填完了してます!」

「見やがれ魔族ども、これが俺たち人間の300年間の研鑽だ!」

「アンチ魔法術式、発動! 対象を古代魔法、異界召喚術に固定。第1シークエンスにより発生した魔法陣、閉鎖!」

 ネリネの指示を班員たちが復唱し、携えた機材を操作し始める。高濃度の魔力を充填した機材から新しい魔法陣が現れ、それは異界との門になっている空の陣に重なった。


「さらに、『魔王城大全』から変身魔法、その反転課程術式を抽出して発動! 古代召喚術を反転!」 

 ネリネの持つ魔導書が光を発する。それに呼応するかのように上空の魔法陣が強い光を発した。空を飛んでいた魔族たちがその光に吸い込まれ、最後にはじけるように魔法陣が消え去った。


「魔法陣が……消えた」

「じゃあこれ以上敵が増えるってことは無いのか」

「……よしッ、なんかやる気出てきたぜ!」

 しかし、わぁっと盛り上がる人間たちを魔族たちが待つ由はない。地上に残っていた魔族たちが強襲を仕掛けた。騎士団が迎撃しようとするが、それを制するように声が響いた。


「針の魔法!」

「糸繰の魔法!」

「合体!」


 彼らの間を勢いよく槍が飛んだ。その石突にはロープがくくりりつけられている。

 声と共に飛んできた槍は空にいる魔族たちを次々に貫き、括りつけられたロープは布の上を走る糸のように波を描いて魔族たちを縫い留めた。

「……す、すげぇ。地上にいたやつらがまとめて」

「針の魔法と糸繰の魔法であんな……?」

「助けられた、ありが……とう?」


 ヒサール領主を筆頭に、騎士団たちは思いがけない援軍の姿に唖然とした。現れたのがただのヒサール市民たちだったからだ。先頭にいるのはナーヒヤールで、百人近くの市民を守るように騎馬部隊が並んでいる。


「何をしている、ヒサールから逃げるどころかこんな戦場の真ん中に!」

 焦ったような声を出したのは領主だった。およそ、ヒサール領主が人前で初めて見せるあからさまな動揺だった。けれど、市民たちの先頭にいたあの老齢の仕立て職人が言った。


「私らだって守るさ、この街を」

「そうだ、こんな魔獣がポンポン出てきて、王都とは仲が悪くて」

「それに冬は死ぬほど寒くて夏は死ぬほど熱くて、ヒサールってほんとめんどくさいけど」

「それでもここで生きるって決めたのは俺たちだ!」

「嫌ならこんなことになるよりもっと前に逃げてるわよ!」

「俺らだって戦うぞ、常在戦場のヒサール領民の覚悟、見せてやろうじゃねぇか!」 

 わっと市民たちが声を上げる。仕立屋の老婆は自分の隣に立つ弟子に言った。


「な? アタシのいう通り魔法ってのは解釈と使い方次第、だろ?」

 はい、と返事したのはあの王都の仕立屋だった。ヒサールの窮状を聞き、師匠の心配をして数日前にヒサールに到着していたらしい。糸繰の魔法だって戦えるんだ、とはしゃぐ様子を見守りながら、とナーヒヤールは微笑んでヒサール領主に言った。


「良い場所ですね、ヒサールは」

「……ああ、俺の自慢の所領だ」

 晴れ晴れとした声で言い、号令をかけた。

「今のうちにけが人をヒサール城へ! 市民を後方に置き、敵は一体ずつ倒す!」

 街中に響き渡るほどの声で「オォ!」と返事が響いた。


***


「盛り上がってます、ねェ」

 その光景を見下ろしながら、アウレーシャの目の前の者は言った。

「魔界に帰る門も封じられたようだが、まあ、良い。あの城を拠点にして人間界で遊びつくせば、良い」


 しわがれたような甲高いような唸るような声で、目の前の生き物はしゃべる。

 アウレーシャが見たことない生き物だった。当り前だ、悪魔と相まみえているこの状況が異常なのだ。


 悪魔は人間のような形をしていた。黒い翼を生やし、ひょろ長く真っ黒い四肢を備え、けれど胴体は真っ白だった。人間のような顔は髪の毛もなく真っ白で、目玉は黒い。しかし唯一、喋るときに真っ黒い口から覗く長い舌は毒々しいほどの赤色をしていた。始終笑みを浮かべるものの、それは相手を小馬鹿にするためのものだというのは想像に難くない。


毒ノ腕(どくのうで)

 悪魔は赤い舌を蠢かせるのと同時に翼をはためかせ、腕を振り上げて黒く鋭い爪でアウレーシャの杖を持つ左腕を切り裂いた。

「ッぐ、あァッ!」


 反射的に苦悶の声が出た。皮膚に血が滲むのと同時にビリビリと痛み、それが尋常でないことを悟るとアウレーシャはとっさに右手のひらに炎を灯して傷口にあてがった。

「ぎぃ、あッう、ふぅぅッ!」

 痛みをこらえるように己の右手を噛み、フゥフゥと肩で息をして顔いっぱいに汗を滴らせながらも傷口を炎で燃やすことをやめない。


「凄まじい胆力です、ねェ」

 悪魔はせせら笑う。

「ワタシが毒だと言ったから、すぐに炎で解毒した。エエ、エエ、正しい」

 ひび割れた様な悪魔の黒いくちびるが歪んだ。

「正しい対応、です」


 アウレーシャは顔をしかめて態勢を立て直し、燭台を模したような杖の先端に炎を灯して大きく踏み込む。身体強化に合わせて、新しい戦闘服は彼女の意志に応えるように魔力の流れの上に彼女を乗せて、一気に悪魔との間合いを詰めさせた。


「岩ノ壁」

 しかし、悪魔の舌がべろんと垂れ下がったかと思うと、彼女の前に岩壁が現れて体がはじきとばされる。

「炎よ!」

 今度は詠唱コールして右手の杖から螺旋の紅炎を吹き上げ、左手で宙をなぞって上空に赤い魔法陣を連ねて出現させた。


「狂瀾怒濤ノ水」

 しかし正面から押し迫る紅炎に対して悪魔は水を差し向け、するりと翼をはばたかせて逃げ出した。アウレーシャはすかさず上方に用意していた魔法陣から小さな燃え盛る鳥たちを呼び出すが、悪魔は鬼ごっこでもしているかのようにそれを避けるばかりで攻撃すらしようとしない。


 術者はジクジクと痛む左腕を振って、鳥たちと自身で悪魔を挟み撃ちするように空を滑ると、悪魔はわざとらしく立ち止まった。

(罠! ……でも、逃す手はない!)

 アウレーシャは羽衣を繰って魔力に乗り、さらに身体強化を合わせることで弾丸のように悪魔の懐に飛び込んで詠唱コールした。


不死鳥の抱擁カレス・オブ・フェニクス!」

 小鳥たちが集まり、長い尾を引く巨大な炎の鳥になって悪魔を包み込んだ。

「ギィエァァァ!」

 ゴウゴウと燃え立つ炎に勝るとも劣らぬ勢いで、悪魔は絶叫を上げた。だがそれだけでは終わらなかった。赤々と燃える不死鳥の胴体を割いて黒い触手のようなものが幾本も伸びた。


「毒ノ鞭」

 しわがれた様な声で、黒いそれはアウレーシャの全身をしたたかに打ち付けた。その勢いに吹っ飛ばされ、彼女は下方へと落ちていく。けれどその途中で羽衣を繰ってバランスを整え再び宙を踏みしめて、身体強化を使って悪魔の頭上を目指して跳び上がった。

「炎よ、燃え上がれ! 燃え落ちる流星メテオ・アフターグロウ!」


 悪魔は真っ白い顔で真上を見上げ、あんぐりと口を開けた。今ばかりはてらてらと光る赤い舌もうまく回らないようだった。

 アウレーシャの全身を炎が包む。炎の鎧ではない、相手を倒すために使う焼き尽くす炎で全身を包む。あちこちの傷に塗りこめられた毒を焼くために炎で自身を包み、そのまま悪魔に向かってそのまま真っすぐに落ちていく。ミスリル鉱の杖の石突が鋭く光る。


 しかし。

「狂瀾怒濤ノ水」

 水が吹き上げ、続けざまに。

「綿ノ椅子」

 ふんわりとした大量の綿が現れて、重力に従って落ちようとする彼女の体をふわんと包み込んでしまう。悪魔はケタケタと笑っている。おちょくられているのだ。


「ッ、ああ、もう!」

 アウレーシャは近場の建物の屋根の上に転がって、苛立ちをあらわにしながら肩で息をする。解毒はできたらしいが、悪魔にはほとんど傷がついていない。


 悪魔を見上げるアウレーシャの頬にはぼたぼたと汗が流れ、髪は額に張り付き、不快で仕方ない。毒を打ち消すために炎で燃やした部分も痛くて仕方ない。やけどになっていないのはこの新しい戦闘服のおかげだろう。


(それにしてもこの悪魔、どうなってる? 人間も悪魔も、使える魔法は一個体につき一種類。それなのにこいつは水も炎も岩も扱う。毒も扱う。どんなインチキやってるんだ……)


 それでもアウレーシャは悪魔を観察する。修道院長の教えだった。不死鳥の抱擁カレス・オブ・フェニクス事態は効果があるらしい、悪魔の肌の白い部分が焼け焦げている。あの時の絶叫も本物だった。

(魔法自体は通じる……そりゃあそうだよね、魔法は元々悪魔が使ってた技術を人間が盗んだんだから)

 アウレーシャは身体強化を使いながら大きく跳び上がった。

(通じるはずのものが、あまり通じてない)

 ミスリルの杖を振りかぶって殴りかかろうとすると、巨大な岩壁が現れる。


(何かが足りてないんだ。じゃあ、何が足りない?)

 すかさず杖を握られて奪われそうになり、アウレーシャは杖全体に炎をまとわせた。悪魔はギャ、と悲鳴を上げて手を離したものの、顔はどこかニヤニヤと笑っている。

「素敵な炎です、ねェ」


 その表情で魔女は悟り、舌打ちした。

(単純な火力不足!)


 悪魔は首をすくめる。

「人間にしては相当やります、ねェ。すばらしいこと、です。けれど悪魔を倒すには」

 不十分、としわがれた様な声が低く唸って、悪魔は人間の首根っこをひっつかむとそのまま地面に向かって手加減なしに放り投げた。


 羽衣を繰って空中で態勢を整えながら、アウレーシャは目の前の悪魔を撃滅する方法を考える。この悪魔は倒さねばならない、それは決定事項だ。

(魔王時代の、あの200年間の苦労を繰り返すわけにはいかない! それにナーヒャとアディが生きる場所もなくなってしまう) 


 地面に落ちた勢いのままミスリル鉱のヒールでガリガリと石畳を破壊しながら大きく後退し、悪魔の言葉を反芻して考えるのは、悪魔と人間の間にある圧倒的な火力差を埋める方法だ。

(使う技術は一緒なのに火力が違う。それはどこから生まれる差? 悪魔と人間の差は……体内の魔力濃度の差!)

 上空の悪魔がくちびるを動かして言葉を発すると、彼女を狙うように短剣が出現して降りかかった。魔女は杖の先に炎を灯してそれを払い、顔をしかめる。

(逆に言えば、この体内の魔力を瘴気になるまで練り上げれば、あの悪魔にも敵うのでは? ただし、人間の体では瘴気に耐えられない……)

 瘴気を取り込めば最悪死ぬ可能性もある。けれど、アウレーシャはほんのわずかな逡巡の後に、いつものように胸に触れ、掲げた誓いをなぞって呟いた。


「アディとナーヒャの力になる。そのためなら私はなにも惜しくはない」

 空を飛びながら赤い舌をのぞかせながらニタニタ笑う悪魔を見据え、アウレーシャは体内の魔力を練り始める。

「あの修道院の10年間、死のうとしていた私を生かして、いつも怖がって生きていた私を支えてくれたことに報いる。別にそれを、あの2人が望んでなくたっていい」


 私のわがままだから。


 自分に言い聞かせるように呟いて、トン、と地面を蹴って悪魔の方へと急上昇する。魔女の杖を縮め、その先に炎をちらつかせれば悪魔は黒いくちびるの端を吊り上げて攻撃をしかける。魔女は炎を鳥の形に整えて飛ばし、応戦する。体内の魔力を練ってその濃度を極限まで高めるために、大きな魔法は使えなかった。


「急に静かになりました、ねェ! ご自慢の杖まで短くしてしまって、ねェ、お嬢さん!」

 自信が無くなりましたか、と悪魔はせせら笑いながら一気に距離を詰めてアウレーシャの腕を取った。体の内側がずきずきと痛み始めるのを無視して、彼女は魔女の杖を悪魔の脇腹に近づけ、そのまま元の長さに戻した。


「ハ……?」

 悪魔の目が点になった。白い胴体を仄赤いミスリルの杖が貫通している。


 アウレーシャはすかさず悪魔の体からミスリルの杖を勢いよく引き抜いた。白い胴に空いた穴からどす黒い体液がビシャビシャと勢いよく噴き出す。

 あのニタニタ笑うばかりの悪魔が狼狽し、魔女はくちびるの端を上げて獰猛に歯を見せた。


「ぐ、ぅぅぅぅぅッ! 痛いです、ねェ……ッ!」

 耳の後ろ、首、どこもかしこも熱くなるのを感じながら、アウレーシャは鼻で笑っている。

(これでいい。体内の魔力を練って、濃度を底上げして瘴気に変換する。これはその最後の一押し!)

 びしゃびしゃと吹き出す悪魔の体液が瘴気を含んでいるのを確認すると、彼女は杖にべったりと付いた黒い血を自身の手でぬぐう。手のひらがビリビリと痺れる感覚がある。

(人間の血液が魔力を多く含むように、悪魔の血も瘴気を含む。予想通りだ)

 アウレーシャは悪魔の血を舐め上げた。


「ハ、何たる愚か者、か! 人間が瘴気を呑む、だと?」

 悪魔が息も絶え絶えに嗤うのを聞きながら、アウレーシャもまた笑う。

 心臓のあたりがズクズクと嫌な痛みを抱えている。体中が熱い。指先が震えているが、目指すべきものだけは明確に見えていた。


(これで良い。私は、私に立てた誓いを果たすことができる。一片たりとも悔いはない)


 トン、と宙を蹴ってアウレーシャは態勢を整える。彼女の深紅の髪の先は、瘴気を取り込んだことで藍色に変化していた。

 いま彼女が放てる最高火力を振るう、その準備が整ったのだ。


(……今、分かる)

 18年前の出会いと約束。あまりに重い家名と貴族の地位。修道院に送られた時の喪失と絶望。そこからの心休まらない10年間の、修行の日々。魔女という称号を帯びたこと。かつては使いこなせなかったこの大きすぎる魔力も。兄姉と慕った人々と戦ったことでさえ。


(全て。全ては今、この瞬間のためにあった。……命を懸けてこの悪魔を滅することができる私になるために)

 深呼吸し、ゆっくりとまばたきする。

(貴族として、魔女として、盟友として、あの2人がこれからも生きていく場所を守るために、すべてを賭ける)


 高くまっすぐに掲げた杖が光る。


(生まれながらに超高濃度魔力、すなはち瘴気を体内に宿す悪魔には、私たち人間の魔力では勝てない。それならこの練り上げた魔力で!)


 今、アウレーシャの体内の魔力は瘴気と呼ぶべき濃度に達している。身体に毒を流しているに等しいその状態で、彼女は心臓の痛みを無視し、震える手を叱咤し、もつれる舌を回す。

 深紅と藍のグラデーションになった髪が熱気になびく。

「……炎よ、焼尽しょうじんせよ。火勢をここに。至れ、魔界第4階層! 炎獄、フレーゲトーナ!」

 魔女が吠えた。その体内で瘴気が燃え盛る。


 応えて、燭台のような杖の先端で炎が燃え盛った。

 根元は黒く、先端は藍色の、術者の髪のような深紅の炎。瘴気に満ちる魔界の第4階層にて燃え盛るという火炎河の炎を再現し、魔界の住人にけしかける。


「こ、これは……ッ!」

 目を見開いた悪魔が後退するよりも早く炎はその黒い体を飲み込む。

「ぐあ、あぁぁぁぁッ!」

 悪魔の黒い体が悶え叫びながらジュウジュウと音を立てている。勇者一行の戦いの記録『魔界旅行記』にあった通り、魔界の炎が悪魔に効いているのだ。


(まだ、まだッ! 油断するな、全ての魔力をここで出し尽くす)

 それでもアウレーシャが手を緩めることなどない。ただひたすらに、一心に、杖に意識を向け、散った炎を集めて体内の瘴気で炎をつぎ足し、目の前の敵を焼き続ける。


(余力などみじんも残すな、帰れるなどと思うな。あの2人がこれからも生きる世界がある、それだけで私がここで命を使い果たす意味はある! 私はそれができるんだ!)


 もう一撃、と魔女が杖をかざした。

 その瞬間。


「川よ、ここに遡上そじょうせよ」

 悪魔の冷え冷えとした声がした。

「魔界第1階層、アケローン」


 青いような黒いような赤いような炎が割り裂かれた。大量の水が流れ出す。ドウドウと音を立てながら押し寄せるその水勢に、アウレーシャは頭も体もその一瞬、動きを止めてしまう。


「魔界の住人であるこのワタシを相手に魔界の魔法、それも四大元素魔法など、図が高い」

 高くしわがれ唸るような悪魔の声を聞きながら、アウレーシャは驚くほど冷静に思う。


(――あ、ダメだ)


 逃げる間もなく水流が彼女の身体にぶち当たり、その勢いに押されていく。空を切るヒュウヒュウという音を耳元で聞きながら、アウレーシャの体は地面に向かって落ちていく。


(死ぬ)

 逃げ場はない。瘴気を体内に宿すという無理で身体が言うことを聞かない。

(まだ魔力……というか瘴気はある、反撃したいのに)

 ゼィゼィと息しながら、しかしふと思考が切り替わる。

(……魔力は、ある? まだあるの? 魔力が? どうして、出し惜しみなんてしたつもりはないのに)


 じわり、とその目に涙が浮かぶ、

(嘘だ、この私が自分の命を惜しんだって言うの?!)

 悔しさからくる涙だった。

(ダメ、それじゃダメ、そんなのじゃ意味なんてない。あいつにだって勝てない。もう二度と戻らないつもりで自分のすべてを燃やしたつもりだったのに……まだ、私、生きたいなんて思ってたの?)


 もうずっと覚悟していた。身命を賭して、と言い続けてきたことに偽りはなかった。自らに立てた誓いを果たすためなら命を賭けてもかまわなかった。10年間自分の命と心を救いつづけたものに対する報いとして命を懸けることは、アウレーシャの中で何の矛盾もないことなのだ。


 実際、彼女はそうしてきた。腕の一本だって捧げるつもりだったし、もうずっとどこかの戦いで死ぬのだろうと思っていた。いつ死んだっていいように未練の一つもないように全力でやってきた。


 そのつもりだった。


 けれど今、アウレーシャは。

(……ああ、そうだ。アデイ、ナーヒャ)

 懐かしい盟友たちの名を読んでしまう。


(そう、またあなた達に会いたい。名前を呼んで、そしてまた一緒に朝焼けを見たい)

 懐かしい盟友たちに会いたがってしまう。


 紅玉の目に滲んだ涙が宙に散る。滲んだ視界で悪魔が笑いながら手をかざしている。

(……ここまで、か) 

 第2波が来る。魔界の第1階層にて波打つ濁流、凍えるほどに冷たい水の群れ、アケローン川の水が。

(さすがに本物の悪魔と4大元素魔法で勝負はキツイ、かなぁ。火と水じゃ相性も悪い。……こんなとこで負けちゃう、理想の自分にもなれないかっこわるい盟友でごめんね、アディ、ナーヒャ)

 体が地面に打ち付けられ、もう一撃と襲い掛かる水に貫かれる。


 その寸前。

「アウリー、間に合った!」

「遅くなってすまん、助けに来た!」


 懐かしい声が割って入った。彼女の体はふわりと浮き、同時に、殺到する水が凍てついた。


 ナーヒヤールはアウレーシャを抱えて黒髪を風になびかせながら金色の隻眼でほほ笑み、その傍でアドラフェルはアイスブルーの目で悪魔をにらみながら飛んでくる水鉄砲を凍らして打ち返している。


「……来て、くれたんだ」

 朗々と言葉を紡ぐはずのアウレーシャの唇が今は震えて、呟きはぎこちない響きだった。

「当り前です。18年も前から約束してるじゃないですか、アウリー」

「お前が困っていたら必ず助けに行く。……ああ、今度こそ間に合った」


 アウレーシャはゆっくりと体を起こし、盟友たちの首に両腕を回した。触れた皮膚は燃えるように熱い。

「ありがと……ずっと会いたかった」

 滲む涙が頬を転がっていく。


(ああ、かっこわるい。無力だからって抗うのをやめて諦めて、敵の攻撃を避けることさえしませんでした、なんてかっこわるい!)

 腕に力を込めて強く抱き寄せ、そこにある熱を確かめる。

(そうだ、自ら死に飛び込むんじゃない。無力さに、不安に、恐怖に抗って、生にしがみつくべきだ。だって私はあの10年間そうやって生きて、その果てにまた彼らに出会えたのだから)

 アウレーシャは杖を握りなおした。 


「魔力は残っていますか?」

「残ってるけど心もとない、かも」

 ナーヒヤールの問いに彼女が答えると、その傍にアドラフェルが屈みこんで視線を合わせた。

「魔女殿、ヒサール領主から2つ報告がある」

 どうやらあの悪魔がひきつれていた魔族たちはその多くが既に倒されたようだ。魔女の苦戦を知った防衛局大臣がヒサール領主に代わって騎士団や市民たちを指揮して掃討戦をしているらしい。さらに、イダ家兄妹が既に防衛大臣の兵士たちに拘束されていると聞き、その妹分だった女は寂しそうに笑った。


 さて、とアドラフェルはナーヒヤールの手の中にある大きな魔法石を示して言った。

「魔力のことだがな。少々荒っぽいが方法だが魔法石がある。魔力、というか瘴気の補給にはなるだろう」

 差し出されたのはナーヒヤールの目に埋め込まれていた魔法石だった。僕の目に入っていたもので恐縮ですが、と隣で眼帯の青年がはにかんだ。


「体に負担はかかりますが、間違いなく僕らの力になってくれます。すったもんだでちょうど3つに割れていますし1つずつ食べちゃいましょう」

 そう言って、ナーヒヤールは欠けた魔法石をあっさりと口の中に放り込んで飲み込んでしまう。医療量眼帯を付けた顔は何でもないことのように笑っていた。アドラフェルもその横であっさりと彼に倣ったので、アウレーシャも同じようにした。


「あいつ、すごく強い。色んな魔法を使うみたい」

 魔法石の欠片を飲み下し、アウレーシャは自分たちを見下ろして品定めするように嘲笑している悪魔を睨みつける。


「厄介だな。魔王が倒されて300年、そこから人間側の魔界にまつわる情報は更新されていない。悪魔、というより魔界の魔法が俺たちの知らない風に発展している可能性がある」

「まあでも、ミスリルの武器が効くなら良いです」

 ナーヒヤールは癖のある黒髪の合間からのぞかせた目でにやりと笑った。肩で息をしているのは瘴気の塊を飲み込んだからだろう。

「……ああ、瘴気を内臓に入れるってこんなにキツいんですね」

 義眼とは比べ物にならないや、と彼は自嘲気味に笑った。その背をアドラフェルが大きな手のひらで優しくなでる。それで落ち着きを取り戻したようで、ナーヒヤールは盟友の紅玉の瞳をのぞき込んで落ち着いた声で言った。


「アウリー、ここからは僕らも一緒に戦いますから。命を捨てるような真似はよして下さい」

「俺たちはこれからも君に助けてもらいたいし、これから何度だって君を助けたい」

「多分、僕らは互いの命がある限り、どれだけ離れていても引き合うんだ」

「だから、何度だって出会ってくれ」

 アドラフェルが盟友たちを抱き寄せて、囁くような声で言った。ナーヒヤールもまた盟友たちの手を握る己の指に力を込める。

「……うん」

 アウレーシャは一言力強く返事する。それを合図に、3人はまっすぐに悪魔に向かって飛び立った。

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